男だ。
 男がその空間に立っている。
 否、立っているのではない。浮いているのだ。

「―――開け」

 手に持ったその「白い棒」を地球の軸の方向に向かって下ろすと、たちまちの内に光が発生して、男の足もとに一隻の船が収まってしまいそうなほど巨大な光輝く幾何学模様を形成する。それは一般的に言う魔方陣にも似ているが、その幾何学模様はそれとは一線を画す構造をしている。
 男が居るのは地球の大気がほとんど存在しない、宇宙に果てしなく近い空間。
 上空100km付近。
 人間が存在することすら許されない絶対領域に、その男は苦痛の表情を見せることなく浮いている。否、幾何学模様の上に立っている。風が発生することはない。何せ空気が無いのだ。

 「――封印解除 ≪開け≫」

 男の口から発せられる言葉は、人が話すそれとはまた違う響きを帯びている。
 鼓膜を使わないでも聴こえるその独特な力を帯びた言語。それを使用できるのはごくごく一部の魔術師しか居ない。さらに言えば、使いこなせるのは一握りの中の一つまみしか存在しない。
 開け、と言うと同時に男の全身に入れ墨のような刻印が広がっていく。
 それは、まるで蛍の光のような美しさを持っていながら、空の色の様な色を合わせ持っている。男の顔にその刻印が――幾何学模様のそれが出現すると、男の風貌が明らかになる。
 ――一言で表現するなら、美しい。
 空と同じように、どこまでも澄んだ瞳は冷水のような緊張を湛え、計算されたかのようなその顔の輪郭はすらりと引き締まっている。鼻は凛としてそこにあり、その男の頭髪は漆黒の色。体を覆い隠せんとばかりに伸びている。
 中性的な外見の男が着こんでいる麻色のローブが、何かに揺られて動く。

 「――つッ……≪理よ、我に囁き給え≫」

 男が一言、腹の底から無理やり紡ぎだしたその文章がきっかけに術が開始される。
 多重詠唱。普通の魔術師だったら、とうの昔に発狂している。世界に直に干渉するその魔術は、男の魔力を次々に吸引して咀嚼していく。男の表情が苦痛に歪む。
 その「言語」が重ねられていく。
 男が言語を発するたびに、脈打つように足場の幾何学の図形を組み合わせた陣が点滅して、少し遅れて男の刻印が光の強弱を作る。
 男は、ただだらりと下げていた白く長い棒を天――つまり宇宙の果てに向かって上げた。同じように視線を上げると、その先には地球を脅かす異物がある。
 隕石。
 それは余りに大きい。
 男は詳しいことを知らないのだが、あの大きさの隕石が地球に落下すれば、間違いなく地上にいる生き物は死に絶える。逆に言うと、大きさが分からないから食い止めるためにここにいるのだ。
 魔術が科学の代わりになっている世界では、これ以外に方法がない。

 「≪その光を重ねよ その刃を重ねよ 顕現するは穿つ為に創造されし閃光≫」

 男が真上に――巨大な、チリの帯を引きながら迫る隕石に向ける。
 距離は果てしなく遠く、そして破壊すべきそれは果てしなく大きい。
 男の言葉で足元の幾何学魔方陣の所々が光に形を変えて、男の持っている白い棒の先端へと移動し始める。これが唯の棒なら既に砕けている。だが、あいにくこれは唯の棒ではない。幻獣種である巨大な龍の体から骨を削り取って杖のように仕立てた逸品。
 先ほ詠唱した呪文では隕石を食い止めるには力が足りない。
 だから「補強」する。男は続ける。

 「≪告げる 今ここに告げる 我は救いを齎す者≫」

 ある筈のない大気が動揺するのを感じる。
 男の額から汗が出てきて、そのまま宇宙へと四散していく。
 体を覆う刻印が暴れるように光を発し始めた。

 「≪我は此処にあり そして 汝らを救済せん≫」

 男の声が複数重なる。同じことを言っている声もあれば、まったく違うことを言っているのもある。それに応えるように幾何学魔方陣がさらに形を変えて杖の前へと集束していく。だが、それでも足りない。あの巨大な災厄を退けるにはまだ足りえない。
 だから、無理やり絞り出す。
 禁忌の術でも構わない。
 男が求めて、そして得たのはこの程度の結論。
 敵がいなくては力を発揮することができない、その程度の愚人。
 力ばかり求めて、全てを得た気でいた愚人。その自分が救いを齎すと宣言するなど、何ともおこがましい。おこがましいなどというものではない。言うことなど、決して許されぬことだというのに。
 人を救うのは力だけではない。
 ――でも、今この瞬間、力で救うことができる。
 ならば、この身果てようとも――。

 「≪代価を与える 我が身を生贄に力を――≫」

 同時、全身の到る所から血液が噴き出した。
 口からも生命を支えるのに必要な血液が流れだして、男は苦しそうにせき込んだ。
 血が、足元の幾何学魔方陣と体の刻印に集まって行き、紅に染まる。
 ただ重なり行く声は、教会で歌われるゴスペルのように響く。

  チャージ
 「集束、開始」

 永遠を思わせるその光は、宙を穿つ一つの光の塔として杖に建築される。

 「行け――!」

 爆発、閃光。
 一条の閃光が、暴虐な侵入者、隕石を貫いた。
最終更新:2009年01月25日 18:44