『宋史紀事本末』翻訳wiki

契丹盟好2

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(51)仁宗の天聖二年(1024)十二月、契丹は兵の検閲を行い、幽州で狩りをすると言いふらした。朝廷はこれを問題視し、帝は二府(宰相府と枢密院)に諮問した。二府の大臣らは精鋭を配置して不測の事態に備えるよう申し出た。しかし張知白はこう言った。――「契丹と和平したのは最近のこと。今日この挙に出たのは、陛下が即位されたばかりとて、朝廷の動向を試しているだけでしょう。我が方から諍いを起こす必要などありません。もし疑念を拭えぬとあらば、今次の江河の決壊に託けるのが一番よろしい。江河の氾濫を防ぐためだといって兵を出せば、彼等も驚きますまい。」しばらくして、案の定、契丹は本国へ帰った。


(52)七年(1029)八月、契丹の詳穏の大延琳が遼陽で叛乱を起こした。

神冊以来、遼東は契丹に付属していたが塩麺の税はなかった。馮延休と韓紹勲が戸部侍郎になってからというもの、燕の法を用いたため、民は徴税に苦しめられた。折しも燕が飢饉に襲われたので、戸部副使の王嘉は造船を建築して、この地の民に粟を運ばせ燕を救済させる計画を立てた。しかし水路は道が険しく、多くの舟が転覆した。嘉は民を鞭打ち、拷問を加えた。民は憎悪のあまり暴動を企てた。東京舎利軍の詳穏の大延琳はこれを利用して叛乱を起こした。留守の蕭孝先を捕らえ、韓紹勲や王嘉らを殺し、人々の怨みを晴らし、国号を興遼と僭称した。契丹の君主は叛乱の勃発を知ると、諸道の兵を集め、南京留守の蕭孝穆に平定させた。


(53)九年(1031)夏六月、契丹の君主隆緒が死に、子の宗真が後を嗣いだ。

宗真は、宮人の蕭耨斤が生んだ子供である。斉天后の蕭氏には子がなかったので、宮人の子を自分の子として育て、我が子のように愛した。かくして宗真が即位した。耨斤は皇太后になると、みずから政務を執った。宗真は景福に改元し、隆緒の廟号を聖宗とした。

隆緒は母の喪にあって、悲しみのあまり痩せ細った。また群臣が改元するよう申し出ても、「改元は吉礼にあたる。喪にありながら吉礼を行うなど、不孝者のすることだ」と言った。群臣が〔服喪に必要な〕月数を日に置きかえ、古来の仕来りに従うよう申し出ても、「私は契丹の皇帝だ。不孝者になるくらいなら、古来の仕来りに反した方がましだ」と言った。ここに至り、危篤に陥ると、子の宗真にこう言いのこした。――「皇后は我に仕えること四十年。子がなかったのでお前を世継ぎにした。私が死んでも、お前たち母子は決して皇后を殺してはならぬ。」そして「宋朝は誠実に盟約を守っている。お前も盟約を守り、違えてはならぬ」と。

隆緒が死ぬと、近臣らは耨斤に迎合し、謀叛を計画していると言って斉天后の弟を誣告した。耨斤はこれを訊問させ、斉天后にまで罪を及ぼさせた。

宗真はこれを知ると、「皇后は先帝に仕えること四十年、朕の身を養育され、本来ならば太后となさねばならぬお人。今それも果たせず、かえって罪科に陥れるなどとんでもない。」

耨斤、「この人が生きておれば、後々邪魔になりましょう。」

真宗、「皇后には子供もなく、お歳もめされている。生きておられてもどうすることもできまい。」

しかし耨斤は従わず、皇后を上京に移し、後日とうとう殺してしまった。


(54)秋七月丙午朔、契丹の使者が喪を告げてきた。帝は龍図閣待制の孔道輔と王随らを賀冊使と弔祭使に任命し、契丹に派遣した。

道輔が契丹に派遣されたとき、契丹では使者をもてなすべく、芸人が文宣王(孔子のこと)に化けて戯れてみせた。道輔は怒気を露わにして、すぐ出て行ってしまった。契丹は接待役に命じ、道輔を座席に連れ戻させ、謝罪を要求した。しかし道輔は色を正してこう言った。――「中国と北朝は礼義によって好みを通じるものです。いま芸人風情が先聖を侮辱したのに、それを禁ぜられぬとあっては、これは北朝の過失です。なぜ謝罪など致しましょう。」このため道輔はますます尊敬された。


(55)景祐元年(1034)五月、契丹の太后耨斤は弟らと陰謀を画策し、年若い重元を皇帝につけようとした。重元は謀略を契丹の君主宗真に訴え出た。宗真はついに太后の玉璽を取り上げ、慶州の七括宮に移送すると、始めて国政をみずから執り、重元を皇太弟とした。


(56)慶暦二年(1042)三月己巳(二十六日)、契丹の使者が関南の地を要求してきた。

当時、契丹の君主は成長すると、国内も治まり、人口も殖えたこととて、南方侵略の志を強くもつようになった。折しも李元昊が叛乱を起こし、中国は大慌だった。その隙を衝いて瓦橋関以南の十県の地を奪おうとしたのである。そこで群臣を集めて相談した。

南院枢密使の蕭恵、「両国の強弱は陛下の知悉されしところ。まして宋は連年西夏と戦い、軍民ともに疲弊しております。陛下みずから軍を統べられたなら、勝利は確実にございます。」

北院枢密使の蕭孝穆、「わが先朝(聖宗)は宋と和議を結ばれました。罪なくして宋を伐つとなると、我等に名分が立ちません。まして戦いの勝敗は計り知れぬもの。なにとぞ熟慮されますように。」

契丹の君主は恵の発言に賛同し、南院宣徽使の蕭特末と翰林学士の劉六符を宋に派遣し、書状を送って、関南の故地の返却を要請した。また宋が西夏を討伐した件、および縁辺に水路を設け、守備兵を増加させた件について釈明を求めた。

特末が〔宋に〕到着すると、呂夷簡は富弼を接伴使とし、中使(皇帝の使者)とともに使者を労わせた。特末は病気を理由に拝礼を拒否した。すると弼は、「むかし私は使者として北朝に出向きました。そのとき病のため車中で臥せっておりましたが、契丹の使者の来訪があれば起きて拝礼しました。ところがいま我が国の中使が訪ねても貴君は拝礼しようとしない。これはどうしたことでしょう。」特末らはこの発言に驚き、すぐに立ち上がって拝礼した。

弼は胸襟を開いて接したため、特末もこれに感服し、契丹の実情を隠さず、ひそかに契丹君主の望みを伝え、「認められるなら認めなされ。さもなくば別のことで取り繕われるとよろしい」と言った。弼はつぶさに事情を上奏した。

帝は歳幣の増額を許し、また宗室の娘を契丹君主の子に嫁がせることにし、夷簡に報告の使者を選ばせた。夷簡は弼を嫌っていたので、弼を推薦した。集賢校理の欧陽脩は顔真卿が李希烈の使者となっ〔て殺され〕たことを引きあいに出し、弼を朝廷に留めようとしたが、聞き入れられなかった。

弼は命令を受けると、すぐさま上前に進み、頭を垂れてこう申し上げた。――「君主の憂患は臣の恥辱。わが命とも惜しむものではありません。」帝はこれに心を動かされ、弼を枢密直学士に昇進させようとした。しかし弼は辞退し、「国家に急患あれば、労を憚らぬのは当然のこと。官爵など与える必要などございません」と言った。


(57)夏四月、富弼は契丹に向かった。


(58)五月、契丹は幽州・薊州に兵を集め、盛んに南下を言いふらした。このため河北・京東に防備を固めさせた。〔宋の〕朝廷では洛陽に城塞を作れと訴えるものも出現した。しかし呂夷簡は「それは子嚢が郢に城を築いたのと同じだ。契丹に河を渉らせたら、どれほど城壁を高くし、堀を深くしても、何の役にも立つまい。契丹は勇気あるものを畏れ、臆病なるものを侮ると聞いている。景徳の時代、もし先帝が河をお渡りにならねば、彼等を服属させるのは難しかった。むしろ大名に都城を設け、親征の意向を示すことで、契丹の画策を絶つべきだ。」帝は夷簡の意見に従った。


(59)戊午(16日)、大名府を設けて、これを北京とした。大名府は真宗が軍を留めた場所である。


(60)六月、王徳用を定州判事とし、三路の都部署を兼任させた。

徳用は士卒の訓練に力をいれたため、士卒はすぐに戦争に堪えるようになった。

契丹が密偵を放った。徳用に捕らえるよう進言するものがいた。しかし徳用は「我が軍は規律がとれている。むしろ間者に我が軍の実態を知らせて帰国させたがよい。これこそ戦わずして敵兵を屈するやり方だ」と言った。明日、都城近郊で軍の検閲を行った。徳用は「兵粮を備え、陣太鼓を聞き、我が旗の指すところを見よ」と命令した。間者は契丹に帰国すると、漢の将兵は大挙してこちらに向かうようだと報告した。このため契丹は始めて恐れを抱くようになった。


(61)富弼は契丹に到着し、契丹の君主宗真に謁見した。

富弼、「両朝の君主は、父と子の如く、四十年のあいだ好みを通じて参りました。それを、にわかに土地の割譲を求められるとは何事でしょうか。」

契丹君主、「南朝は和約を違えておる。雁門を閉ざし、塘河の水を増し、城郭を修め、民兵を集めたそうではないか。これはどうしたことか。わが臣下らは兵を南に向けよと言ってきた。しかし私は使者を派遣して土地を求めた方がよい、求めて得られず、それから挙兵しても遅くはあるまいと言ったのだ。」

弼、「北朝は章聖皇帝の大徳をお忘れか。澶淵の役にて、もし諸将の言葉に従えば、北朝の兵に逃げ帰ることのできたものはおりませんでした。また北朝と中国とが好みを通じておればこそ、君主は利益を専らにし、臣下に得るところがなくなるのです。もし兵を用いるとあらば、利益は臣下に帰して、君主はその禍のみを受けることになりましょう。つまり進軍を勧めるものは、みな自身の利益のために申しておるだけなのです。」

契丹君は驚き、「どういうことか」とたずねた。

弼、「晉の高祖は天を欺いた裏切りもの、末帝は気の狂った人間、またその領土は狭く、君臣は不和を起こしておりました。ですから契丹は全軍でもって中国に勝つことができたのです。しかし契丹が手に入れたはずの金幣は臣下の家に満ち溢れ、かえって壮士健馬の大半を失いました。いま中国は万里を束ね、百万の精鋭をもち、法令は整備され、君臣は心を一つにしております。北朝が兵を用いても、必勝は保証できますまい。もし勝てたところで、士卒や健馬の損失はどうなさるのです。群臣が補填するのでしょうか、それとも人主がするのでしょうか。もし我が国と和平を保つなら、歳幣はすべて人主の手に入るのです。群臣にどのような利益がありましょう。」

契丹君主は大いに心を動かされ、しばしば頷いてみせた。

そこで弼は「雁門を閉ざしたのは元昊に備えるため。塘水については何承矩が始めたもの。両朝が好みを通じる前のことです。城郭は修復にすぎず、民兵は欠員を補ったにすぎません。両国の和議を違えたわけではありません。」

契丹君主、「貴君の言葉がなければ、なにも知らないでいたところだ。しかし我が祖宗の故地は返還されるべきではないか。」

弼、「晉は盧龍を契丹に贈ったこと、周の世宗が関南の地を取られたこと、みな我が朝とは関わりなきこと。もし両朝が各々故地を求めるなら、北朝の利にはなりますまい。」

弼が退くと、劉六符は「我が主君が金幣の受領を恥じ、十県を強く求めたらどうなさいます」と言ってきた。弼は「我が朝の皇帝は『祖宗のために国を守るのだ。妄りに人に土地を与えてはならぬ。北朝の要求が金帛ていどなら、朕は両朝の多くの人命を奪うに忍びない、己を屈して歳幣の額を増やそう。どうしても土地を求めるというなら、それは盟約を破ることが目的だとしか思えず、今度のことは単なる言いがかりに過ぎまい。しかし澶淵の盟約は両国が天地鬼神に誓ったもの。北朝から戦端を開くというなら、〔盟約破棄の〕過失は我にあらず。天地鬼神を欺くことができようか』と宣うた」と答えた。六符は仲立の者にこう言った。――「南朝の皇帝がその心づもりなら大いに結構。ともに上奏して両主君の意を通じさせねばなるまい。」

明日、契丹の君主は弼を狩りに招いた。弼の馬を引いて自身に近づけると、「地を得られれば、両国の好みも久しかろう。」弼は繰り返し拒否し、さらに「北朝は関南の獲得を栄誉とし、南朝はその喪失を恥辱としております。兄弟の国でありながら、一方が栄誉を得、一方が恥辱を得てよいものでしょうか。」

狩りが終わると、六符は「我が主君は公の栄辱の発言をお聞きになり、至って感服なされた。以後は婚姻について話し合うだけです」と言ってきた。弼、「婚姻は隙間を作りやすうございます。本朝の長公主が婚姻に出向かれても、十万緡を持参するにすぎません。とうてい歳幣の利益には及びますまい。」

契丹の君主は弼を帰国させると、「貴君が今度やって来れば、〔婚姻か歳幣〕どちらか一つを受けることにしよう。次こそ貴君は誓書をもって来られよ」と言付けた。弼は帰国し、帝にすべてを報告した。


(62)〔七月〕癸亥(二十二日)、帝はふたたび富弼を契丹に向かわせ、和親と増幣の二議および誓書を持たせた。また宰相府に出向き、〔口頭で誓約内容を説明するための〕口伝の言葉を受け取らせた。

弼は楽壽県(高陽関附近)に到着すると、副使の張茂実に「我が国の使者にはなったが国書を見ていない。書状の言葉と口伝の言葉に違っておれば、今度の件は失敗しよう。」弼は国書を開くと、やはり言葉が違っていた。そこで急ぎ都にもどり、日暮れには帝に謁見した。

弼、「宰相は私の失態を狙ったのです。私の死などは惜しむに足りませんが、国のことはどうするおつもりです。」

帝は晏殊に問うと、殊は「夷簡は断じてしておりません。単なる過失にございます。」

弼、「晏殊は邪悪な男。夷簡の肩を持ち、陛下を欺いておるのです。」

結局は書状を変えて出発した。


(63)九月、富弼は契丹に到着した。

もはや婚姻については議論されず、ただ歳幣の増加を要求した。また「南朝は歳幣を増やすのだから、贈与の書状には『献じる』という文字を用いるべきだ」と主張した。

弼、「南朝は兄です。兄が弟に献じるなどあり得ません。」

契丹君主、「ならば『納める』といってはどうか。」

弼、「それもなりません。」

契丹君主、「南朝が歳幣を贈るのは、私を懼れてのことであろう。わずか一字のこと、大したことではあるまい。私が兵を率いて南下してから悔いても遅いのだぞ。」

弼、「我が国は南北の民を愛すればこそ、己を屈して歳幣を増やしたのです。なにを懼れるものがありましょう。やむを得ず兵を用いるというのなら、曲直を以て勝負をなすだけのこと。使臣たる私の知るところではありません。」

契丹君主、「固執するな。昔からあったことではないか。」

弼、「むかし唐の高祖は突厥に兵を借りましたが、そのときには『献納』と言ったといいます。しかし頡利が太宗に捕らえられて以後、献納の礼などあったためしはありません。」

弼の態度はつねに毅然としていた。契丹君主はこれでは埒があかぬと思い、「我が方から人を派遣して決めよう」と言うと、歳幣増加の誓書を留め置き、北院枢密副使の耶律仁先と劉六符に誓書を持たせ、弼とともに宋に向かわせた。そして「献」と「納」の二字についても論じさせた。

弼は到着すると帝に謁見し、「二字について、臣は死を賭して拒みました。敵の気迫は折れております。許してはなりません」と報告した。しかし帝は晏殊の議論に賛同し、「納」の字を許可した。こうして歳幣増額の銀十万両と絹十万匹を白溝に運ばせた。また知制誥の梁適に誓書を持たせ、仁先とともに契丹に向かわせた。契丹もまた使者を派遣し、ふたたび誓書を送りとどけ、撤兵の報告をした。これ以後、両国の和平はもとどおりになった。

李燾の評語。この時、契丹の心は通好にあった。ただ虚勢を張って中国を威圧しただけであった。呂夷簡らは過ぎた歳幣を許し、ついに無窮の弊害を齎したのである。


(64)十一月、富弼を翰林学士としたが、弼は辞退した。

弼は一度目の使者となったとき一人の娘が死に、二度目の使者となったとき一人の男児が生まれたが、気にもかけなかった。家族からの私信があっても、封を切らずに焼き捨て、「心を惑わすだけだ」と言った。

ここに至り、帝はまた枢密直学士を授けようとしたが、弼は辞退した。翰林学士ではといっても、弼は丁重に辞退した。そしてこう言った。――「歳幣の増額は臣の本意ではございませんでした。ただ元昊討伐のこの時、戦端を開くわけにも参らず、死を賭して争わなかったまでのこと。それだのに褒美をいただくなど、とんでもありません。」


(65)四年(1044)五月、契丹は党項を伐った。西夏が救援に駆けつけたので、契丹は西夏も伐った。〔宋に〕使者を派遣し、戦争の日時を知らせた。


(66)冬十月、契丹の君主宗真はみずから騎兵十万を率いて金肅城から出撃し、弟の重元は騎兵七千を率いて南路から出撃し、枢密使の蕭恵は騎兵六万を率いて北路から出撃し、三路から河を越え、長駆して西夏国境四百里に入った。しかし敵が見当たず、徳勝寺の南壁で待機した。恵は元昊と賀蘭山の北で戦い、これを破った。

元昊は契丹兵の強勢を知ると、和平を求めて軍を十里ほど退け、反逆者を差し出し、さらに土地の産物をも献上した。契丹の君主は枢密副使の蕭革に出迎えさせると、河曲まで軍を進めた。元昊はみずから党項の三部族を率いて謝罪した。契丹は革に命じて元昊の叛徒受け入れを問責させたが、酒を授け、謝罪を許した。しかし恵は、大軍を結集させた以上、夏を討伐すべく、和平を認めてはならぬと言った。このため契丹の君主は決断を渋った。

元昊は交渉決裂を見て取り、さらに軍を三十里退けて返答を待った。およそ三度退くこと百里余り、しかし退却するごとに必ず草を刈っていった。そのため契丹の馬は食らうものがなくなり、和平を許すことにした。元昊は時間を伸ばして契丹兵を疲弊させ、契丹の兵馬が飢え、兵卒が疲弊したのを見計らい、兵を率いて恵の陣営を急襲し、これを破った。さらに勝利に乗じて南壁を攻撃した。契丹の君主は大敗し、主従数騎で逃げ帰るのがやっとだった。また元昊は枢密使の蕭孝友の砦を攻め、駙馬の蕭胡覩を捕らえた。しかしすぐに使者を派遣して捕虜を送り返したので、契丹も抑留していた西夏の使者を送り返した。こうして契丹の君主は兵を引き返すことになった。


(67)十一月、契丹は雲州を西京とした。雲州とは雲中のことである。契丹は西京に大同府を設けた。こうして契丹は五京・六府・百五十六州軍城・二百九県・五十二部族・六十の属国を抱えることになった。その領地は、東は海に至るまで、西は金山から砂漠まで、北は臚朐河まで、南は白溝まで、万里の広さを保有していた。


(68)皇祐元年(1049)三月己未(二十七日)、契丹は使者を派遣し、〔宋に〕西夏討伐を報告した。


(69)九月、契丹の北院枢密使の蕭恵が黄河南方から西夏を伐った。その戦艦や兵粮運搬船は数百里の長きに及んだ。

恵は敵の境内に進入したが、遠方まで密偵を出そうとせず、甲冑も車に乗せて運ばせ、将兵の乗馬を許さなかった。将軍らは不慮の事態に備えるよう訴えたが、恵は「諒祚は主君の下に向かうだろうから、我等にかまう暇もあるまい。無意味に防備を設けても疲れるだけだ。」契丹の君主が帰還した後も、恵はなおも軍を進めたが、そこでも陣営に柵を立てようとしなかった。そのため西夏の兵が恵の陣営を急襲すると、恵とその麾下の将兵たちは、甲冑をまとう暇もなく逃げ去った。追手の弓の中、恵は辛うじて脱出したが、数えきれぬほどの兵卒が死んだ。


(70)冬十月、契丹はまた西夏を伐ち、西夏の君主諒祚の母を賀蘭で捕らえ、これを連れて帰った。


(71)五年(1053)九月、契丹と西夏が和平を結んだ。


(72)至和二年(1055)夏四月癸亥(十一日)、契丹は使者を派遣し、乾元節(仁宗生辰)を慶賀させ、本国契丹の三代の君主の画像を献上し、〔代わりに宋朝の〕御容(皇帝画像)を要求した。


(73)八月、契丹の君主宗真が死んだ。廟号を興宗という。洪基が後を嗣ぎ、太弟重元を太叔とした。使者を派遣し、宋に喪を告げた。

宗真は天性軽薄で、夜中の宴会のときなど、みずから楽隊に加わることもあった。また服を変えて酒屋や寺観に入り浸っていた。浮屠の法を篤く信じ、僧侶でありながら三公や三師を授けられ、政事令を兼ねるものすらいた。臣下の馬保忠が功績がなくとも年功序列で官位を上げるように勧めたところ、宗真はむっとし、「そんなことをすれば、君主が権力を握れなくなる。それは我が国にとってよいことなのか」と言った。これ以後、抜擢したい人間が現れると、まず近臣を優遇して見せ、自分に対する批判を止めさせていた。


(74)知制誥の劉敞を派遣し、契丹の弔祭に向かわせた。

敞が契丹に入ると、契丹の案内人は、古北から柳河を進み、遠く千里ほど歩いていった。これによって自国の険難遠大を誇ろうとしたのである。しかし敞は通訳に、「松亭から柳河に進むのが最も楽なやり方だ。数日で中京に到着しよう。なぜこのような進み方をするのか」とたずねた。通訳はたがいに顔を見合わせて驚き恥じ入り、「たしかにその通りです。ただ宋との通好以来、このように駅亭を設けておりますので、あえて今回も従っただけです」と答えた。順州の山中に異獣がおり、馬のような形状でありながら、虎や豹を食らっていた。契丹ではこれが何であるか分らなかった。そこで敞にたずねると、敞は「それは駮というものです」と答え、声色や形状を説明し、さらに『山海経』や『管子』を暗唱してみせた。契丹の人は驚嘆するばかりだった。


(75)嘉祐二年(1057)九月、契丹が来聘した。翰林学士の胡宿を返礼として派遣した。

これ以前、契丹の君主宗真は〔宋帝の〕御容を求めていたが、たまたま宗真が死んだので取りやめとなっていた。ここに至り、洪基はまた使者を派遣し、〔宋帝の御容を〕求め、先帝の遺志を全うしようとした。帝は張昪を派遣し、まず契丹の新主の像を送るよう要請した。契丹はさきに〔宋帝の〕御容を手に入れようとしたが、昪は「いまは亡き文成(興宗)は〔我が皇帝の〕弟でした。兄に対しては、弟から面会に赴くのが道理というものです。ましてやいま南朝〔の我が皇帝〕は〔北朝の君主に対して〕伯父の身分にあたります。ならば当然ながら契丹からさきに恭順の意向を示さねばなりません」と。このためまた臣下の蕭扈を派遣し、洪基の像を〔宋に〕贈らせた。そこで宿は〔宋帝の〕御容を奉じて契丹に向かった。契丹の君主は儀仗を備えて御容を迎え入れた。御容を仰ぎ見ると、震え上がって再拝し、近臣にこう言った。――「私がもし中国に生まれていたら、この御方のための騎手となるのが関の山、せいぜい都虞候くらいにしかなれまい。」


(76)八年(1063)六月、契丹の太叔重元が反乱を起こしたが、戦いに負けて自殺した。


(77)英宗の治平二年(1065)六月、官僚を派遣し、契丹との国境を画定させた。


(78)三年(1066)春正月癸酉(十八日)、契丹がまた国号を遼に改めた。


(79)神宗の煕寧七年(1074)三月、遼の君主は〔宋が〕河東路周辺で防塁を増修し、宿駅を作り、〔契丹遼の〕蔚・応・朔三州の境内を侵していると抗議し、林牙の蕭禧を派遣し、それらを破壊もしくは撤去し、新たに国境を画定するよう要請した。

禧の帰国に際して、帝は「三州の境界については別に官僚を派遣するので、そのときに北朝の官僚と国境上で議論しよう」と直接伝言した。そこで太常少卿の劉忱らを遼に派遣した。遼は枢密副使の蕭素を派遣し、代州境界で忱らと落ち合った。

〔宋では〕詔を下して枢密院に討議させる一方、判相州の韓琦、司空の富弼、判河南府の文彦博、判永興軍の曾公亮に手詔を下し、代州北部の国境問題について意見を上奏させた。そこで琦は次の意見書を上奏した。

昨今の朝廷の政治を拝見いたしますと、遼ほどの大敵を軽んずる気配があります。遼は疑惑を感じ取れば、必ずや我等に燕南回復の心があると考え、機先を制すべく、戦端を開こうとしております。

彼等の疑惑を招いた理由は七つございます。高麗は北方に臣従し、我が方には久しく朝貢を絶っておりますのに、我が方は商船を利用して高麗を誘っております。契丹はこれを知り、きっと攻撃を画策していると思ったのです。これが一つ目の理由です。また強引に吐蕃の地を奪い、その地に煕河路を設けました。契丹はそれを聞き、きっと攻撃を画策していると思ったのです。これが二つ目の理由です。西山に楡や柳を植林し、それを成長させて契丹騎馬の備えにしようとしたこと。これが三つ目の理由です。保甲を創設したこと。これが四つ目の理由です。河北の諸州に城壁や溜池を設けたこと。これが五つ目の理由です。都作院を設け、弓や刀を新式にし、戦車を量産したこと。これが六つ目の理由です。河北に三十七の将軍を置いたこと。これが七つ目の理由です。契丹はもともと敵国ですから、状勢によって疑惑を生ずるのもやむを得ないことです。

私が考えますところによりますと、陛下のために献策するものは、必ず「祖宗以来、我が国は因循姑息を続けております。国を治める根本は、まず財物を蓄えること、そして農民から兵を集めることです。これが出来れば、四方の夷狄に鞭打ち、唐の故地を回復することができるのです」と申しております。ですから青苗銭をばらまき、免役法を設け、市易務を置き、銭を集め出したのです。新たな制度はつぎつぎ作られ、制度の改訂に暇がありません。また監司は督促に努め、無理に税を取り立てることが優れた官吏のすることだと思っております。いま田畑では農民が怨み、道路では商人が嘆いております。地方の官吏たちは職務に励むこともままなりません。恐らく陛下はこれらをご存じありますまい。四方の夷狄を退け、太平の世を望むといいながら、既に国の根幹が動揺し、人心が離れているのです。これが陛下のために献策した者の大なる過失です。

私は陛下のためこのように考えます。使者を派遣し、「境界付近のことはいつものこと、なんの他意もない。また境界はむかしから決まっている。もとの通りでよい。このようなことで長年の和平を損なうべきではない」と伝えるのです。疑念を生む者、例えば将軍の設置などは取りやめなされませ。

日頃から人民を養育し、優れた人材を選び、つまらぬ人間を退け、忠勤なる者を任用し、天下を悦服せしめ、辺境の備えを充実させるのです。もし契丹の方から盟約を破るというなら、その時こそ武威を振るい、故地を回復し、累代の宿憤を晴らされると宜しいでしょう。

弼、彦博、公亮らも各自意見書を上奏した。それらの多くは遼の対処に悩む主君の心を利用し、厳しく時政を批評したものだった。


(80)八年(1075)三月、遼の使者がまた来朝し、国境問題を議論した。

劉忱らは蕭素と大黄平で合流し、三度の会談をもったが、結論はでなかった。はじめ遼は蔚・朔・応三州の分水嶺にある土壟を国境にしようとした。しかし忱が遼の使者をともない検分に出向くと、そこに土壟はなかった。すると遼は「分水嶺を国境としよう」と言い出した。そもそも、すべての山には分水嶺がある。遼は隙をついて土地を奪うつもりだった。長らく議論は平行線をたどったが、ここに至り、遼の君主はまた蕭禧を派遣して地図を示すと、忱らは議論を引き延ばしていると指摘させた。そこで〔宋は〕忱らに代えて韓縝を派遣し、遼の使者と討論させた。

縝と禧はたがいに意見を譲らず、討論は夜分に至ることもあった。禧は分水嶺に固執して譲らず、長期の逗留もやむなしとの意見を表明し、「請求が認められねば帰国せぬ」とまで言い張った。そこで帝はやむを得ず、知制誥の沈括を〔蕭禧来朝の〕返礼に派遣した。

括は枢密院に出向くと古い書簡を調査し、そこで昨今紛争の国境図は古長城を境界とするが、現在論争しているのは黄嵬山であり、〔古長城から〕三十余里も隔たりがあることを発見した。帝は大喜びして括に言った。――「両府(宰相・枢密)はきちんと調査せず、もう少しで国事を誤るところであった。」境域図を禧に見せ、ようやく禧の口を止めることができた。そこで括に白金千両を授けて遼に向かわせた。

括が遼に到着すると、遼の宰相楊益戒が議論に応じたが、括を言いくるめることはできなかった。そこで「わずか数里の土地を惜しんで、軽々しく友好関係をこわすつもりか」と批判した。

括、「軍事は直を壮とし、曲を老とする。いま北朝は先君の大信を棄て、暴威を民に用いている。これでは我が朝に利あらずと言えまい。」

遼は都合六度の議論を行ったが、ついに括の意見を挫くことはできなかった。そこで黄嵬山はあきらめて天池の地を要求した。かくして括は帰国した。道すがら、遼国の地理、風俗の状態、人情の趣向などを『使契丹図』にまとめて献上した。


(81)帝は張方平に問うてみた、祖宗の夷狄防衛策の中、どの方策が優れていただろうか、と。方平は答えた。――

太祖は遠方制圧に消極的でした。夏州の李彝興、霊武の馮暉、河西の折御卿などは、いずれも在地の勢力家に委せ、世襲を許されておりました。ですから辺境に騒動が起こることはなかったのです。董遵誨は環州を防ぎ、郭進は西山を守り、李漢朝は関南を治めること十余年、俸禄を優遇し、法律を緩め、兵数を減らされました。諸将の財力は富み、威令は行われ、諜報は詳細を極め、官吏や兵卒は命令によく従いました。賊が侵入すればそれに先だって事態を把握し、力を合わせて防衛し、戦えば必ず勝利を収めました。そのため十五万兵で百万の兵を抑えることができたのです。太祖の世を終えるまで、辺境に不安はなく、天下は安泰でした。

太宗は并州の回復に乗じて遠く燕州・薊州の奪回を謀られました。これ以後、年々契丹侵入の危惧が生じ、曹彬、劉廷譲、傅潜らは数十回戦いましたが、そのいずれもで十余万の兵卒を失いました。また李彝興や馮暉の一族を中国に移住させたことで、継遷の変乱を引き起こしました。〔北方と西北の〕二方ともに争乱を生み、ここに朝廷はようやく辺境問題に苦慮するようになりました。

真宗の初年、趙得明は帰順し、澶淵では勝利して契丹と和約を堅めて以来、今日に至るまで、兵乱に苦しむ人々はなくなりました。盛徳の大業と申さねばなりません。

祖宗のことは概ね以上の通りですが、これらはみな施政の鑑とせねばならぬものです。いま辺境の官僚らは領地の拡大を主張しております。しかし彼等は危機に乗じて利を得ようと企むものばかり。一度の運で天下の安危を決めようとしているのです。成功すれば彼等の利益になりましょうが、失敗すればその責は陛下が負わねばなりません。決して許してはなりません。

このとき契丹から境界問題の特使として蕭禧が派遣されてきた。帝は契丹の目論見を方平にたずねた。

方平、「敵は中国と通好して以来、逸楽に安んじ、官吏や兵卒は怠惰に流れております。現実問題として兵を動かせる状態にはありません。むかし肅英と劉六符が来朝したとき、仁宗は二府に命じて宮中に酒宴を催しました。ために英は契丹の実情を洩らし、六符は驚いて目で注意を促したことがありました。英は、帰国の後、これが原因で処罰されました。このたびの禧はずる賢うございます。故事のごとく、大臣に協議させ、帝の尊貴を屈さぬよう、敵と交渉なさいませ。」

上、「慶暦の講和以後、中国はなんらの善後策も行わなかった。だから補修を加えて応戦させようと思ったのだ。」

方平、「応戦とは、禍が形となって現れた場合にすることです。禍そのものを消し去ることこそ、最善の方法です。」


(82)秋七月戊子(二十八日)、韓縝を河東に派遣し、土地を割いて遼に与えた。

遼は使者は長らく国境問題を主張していた。帝は王安石に意見をたずねると、安石は帝にこう勧めた。――「取ろうと思えばこそ、まずは与えてやるのです。」かくして分水嶺をもって境界とした。蕭禧はようやく帰国した。ここに至り、天章閣待制の韓縝を河東に派遣し、土地を割いて遼に与えた。およそ東西の失地は七百里。これが後日紛争の引き金になった。


(83)十二月、遼の君主洪基がその后蕭氏を殺した。

当時、北院枢密使の耶律乙辛は権力を握り、国を傾けるほどの権勢を握っていた。しかし后の聡明なことを厭い、后は伶官(楽官の一つ)の趙惟一と姦通したと誣告した。惟一の一族を誅殺し、さらに后を自殺させた。


(84)十年(1077)十一月、遼の主君主洪基が太子濬を殺した。

濬は蕭皇后の子である。乙辛は蕭后を謀殺すると、濬を罪に陥れようとした。ひそかに護衛の耶律査刺を唆し、都宮使の耶律撤刺と忽古などが洪基を廃して濬を帝にしようと画策していると誣告させた。遼の君主はこれを信じ、撤刺などを誅殺し、濬を庶人に廃し、上京に追放した。夜中、乙辛は力士に濬を殺させた。そして〔遼の君主には〕「お亡くなりになった」と報告した。


(85)元豊三年(1080)春正月、遼は耶律辛を興中府に追放した。

乙辛は太子濬の子の誕禧の殺害までももくろみ、宋魏王の和魯斡の子の淳を後継者とすべきだと言った。群臣は乙辛を畏れて何も言わなかった。北院宣徽使の蕭兀納と夷離畢の蕭陶隗が「嫡男を捨てて後嗣としないのは、国を人に与えるようなものです」と諫めたが、遼の君主はなおも躊躇していた。たまたま黒山に狩猟に出かけたとき、近臣らの多くが乙辛に付き従うさまを見て、ようやくその専権を痛うようになり、ついに乙辛を知南院大王事に改めた。乙辛が感謝に訪れると、遼の君主はその日のうちに乙辛を興中府に追放し、その徒党も退けた。そこで延禧を梁王に封じ、旗鼓拽刺六人を設けて王を護衛させた。このとき延禧は六歳だった。


(86)建中靖国元年(1101)、遼の君主洪基が死に、孫の延禧が後を嗣いだ。これが天祚帝である。以下は後述する。

〔注〕
(1)霊州の陥落は五年三月。『続資治通鑑長編』はこの条を五年四月に繋ける。
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