『宋史紀事本末』翻訳wiki
天書封祀2
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(22)乙酉(十一日)、帝は后土祭祀の儀の作法を習った。
(23)丙申(二十二日)、詔を下し、六月六日の天書再降の日を天貺節とした。
(24)丁酉(二十三日)、天書を奉じて京師を出発した。
(25)二月壬子(八日)、帝の車駕が潼関を出発し、渭河を渉った。近臣を派遣し、西嶽を祭らせた。
(26)癸丑(九日)、河中府に到着した。
(27)丁巳(十三日)、宝鼎県に到着した。
(28)辛酉(十七日)、后土地祇を祀った。
(29)壬戌(十八日)、大赦し、天下に三日間の宴を許した。『汾陰配饗銘』『河瀆四海賛』を作った。
地元の李瀆と劉巽を招いた。瀆は足の病を理由に辞退し、再拝した。帝は使者を派遣して慰問させると、世々儒家や墨家のごとく人里を離れ静かに暮らしているのだと答えた。(3)瀆は平素から酒を嗜んだ。人が止めると、「病を治すにはこれが一番だ。好きなことをして余生を終える。これほど楽しいことはない」と答えた。巽は招きに応じ、大理評事を授けられた。
(30)己巳(二十五日)(4)、華州に到着した。隠者の鄭隠と李寧を招き、茶果と粟帛を与えた。
(31)辛未(二十七日)、閿郷に到着した。道士の柴又玄を招き、無為の要諦をたずねた。
(32)三月甲戌(一日)、陝州に到着した。
陝州の長官王希に在地の魏野を招かせたが、病気を理由に断られた。上は「下賎のもののすることだ。世俗の掟で縛ればおかしくなろう。どうしても従えぬというなら、そのままにしてやれ。」そこで長吏に後事を委ね、大工に魏野の住居を図示させた。
野は陝州東郊の草堂に住み、景勝の地にあって、気の向くまま、琴を弾き、詩を作り、清廉困苦をもって知られていた。いつも寇準や王旦に詩を贈っては引退を勧めていた。このため帝は強いて会おうとしなかったのである。
(33)己卯(六日)、西京に到着した。
(34)丙申(二十三日)、太祖らの陵墓に拝謁した。
(35)夏四月甲辰朔、帝は汾陰から帰還した。宰相・親王以下は各々増俸された。
(36)九月辛卯(二十一日)、向敏中らを五嶽奉冊使とし、五嶽に帝号を加えた。帝は朝元殿に赴き、冊文を発布した。
(37)五年(1012)八月、会霊観を建て、五嶽を奉祀した。
(38)〔九月〕戊子(二十三日)、王欽若と陳堯叟を枢密副使とし、丁謂を参知政事とし、馬知節を枢密副使とした。
天下安泰の当時、王欽若や丁謂は帝に封禅や祭祀を勧め、日々寵愛の度を増していた。欽若は道教に造詣があり、帝に意見することが多かった。謂は欽若に附会し、陳彭年・劉承珪らと古代の遺物を蒐集し、多くの宮殿を造営した。林特が金勘定にめざといと言っては、三司使に任命し、財務を担当させた。五人は影ながら行動を同じくし、「五鬼」と呼ばれていた。王旦は諫言しようにも、自分も同じことをしていたし、去ろうとしても上が引き止めた。そこで李沆の先見の明を思い出し、「李文靖はほんとうの聖人だった」と嘆いた。
欽若は小柄な男で、うなじにコブがあったので、人々は「こぶ宰相」と呼んでいた。人に媚びるのがうまく、平気で嘘をつく人間だったが、知謀だけは人一倍あった。朝廷になにか事があれば、うまく調子をあわせ、いつも帝の望み通り振る舞っていた。知節は祥瑞献上の喧しいおりも、一切それを認めず、帝にはいつも「天下安泰だといっても、戦争を忘れてはなりません」と発言していた。
(39)冬十月戊午(二十四日)、帝は宰相らに言った。
夢に神人が現れ、玉皇の命令を伝えた。――「先だって汝の祖の趙玄朗に命じ、汝に天書を遣わせた。また汝に見えしめん。」明日、また夢に神人が現れ。聖祖の言葉を伝えた。――「私は西に座るので、斜めに六席を設けて待っておれ。」この日、延恩殿に礼拝所を設けると、初更(午後八時)ころ、異香が漂い始めた。しばらくすると黄色い光が御殿を満たし、聖祖がお出ましになった。朕は殿下に再拝すると、すぐに六人もおいでなされ、聖祖に会釈して座席に着かれた。聖祖は朕を前に呼ばれると、こうおっしゃった。――「私は人皇九人の中の一人であり、趙氏の始祖だ。二度目に地上に降りたときは軒轅皇帝となった。後唐のときにまた地上に降り、趙氏の族を治めることになった。それからもう百年にもなろうか。皇帝はよく人民を撫育し、前志を怠ってはならぬ。」こう仰ると、すぐに席から離れて雲に載って去ってしまわれた。
王旦らはみな再拝して慶賀した。天下に詔を下し、聖祖の諱を避けさせ、玄の字を元に改め、朗を明に改めさせた。諱を犯した書籍があれば、その点画を省かせた。ついで玄と元は音声が近いというので、玄を真に改め、玄武を真武に改めた。己未(二十五日)、大赦した。
(40)閏十月己巳(五日)、聖祖に尊号を奉り、聖祖上霊高道九天司命保生天尊大帝とした。聖母の懿号を元天大聖后とした。太廟の六室に尊号を加えた。群臣は帝に尊号を奉り、崇文広武感天尊道応真佑徳上聖欽明仁孝皇帝と言った。
(41)戊寅(十四日)、壽丘に景霊宮と太極観を建て、聖祖と聖母を奉じた。また天下の全ての天慶観に聖祖殿を増設させた。
(42)辛巳(十七日)、建康軍に玉皇・聖祖・太祖・太宗の尊像を鋳造させた。丁謂を奉迎使とし、これを玉清昭応宮に奉安させた。帝は百官を率いて郊外で奉迎した。また天書を宮に刻ませた。王旦を刻玉使とし、王欽若と丁謂をその副官とした。
(43)戊子(二十四日)、帝は配享の楽章および二舞の名を作った。文〔の楽章と舞〕を「発祥流慶」、武〔の楽章と舞〕を「隆真観徳」と言った。
(44)十一月丙申(三日)、帝は朝元殿に玉皇を祀った。
(45)甲辰(十一日)、王旦に門下侍郎を、向敏中に中書侍郎を加え、内外の官僚にも褒美を与えた。玉清昭応宮使を設け、王旦をこれに充てた。
(46)丁未(十四日)、『汴水発願文』を作った。
(47)十二月戊辰(五日)、京師に景霊宮を建て、聖祖を奉安した。
(48)六年(1013)春正月癸巳朔、司天監からの報告があり、五星が同じ色であると言ってきた。
(49)六月、亳州の官吏や長老三千三百人が宮城に訪れ、太清宮に拝謁したいと申し出た。
(50)八月庚申(一日)、詔を下した。――来春、みずから太清宮に拝謁する。庚午(十一日)、太上老君混元上徳皇帝の号を加えた。孫奭が意見書を提出した。
陛下は泰山で封禅をなされ、汾陰を祀られ、みずから諸陵に拝謁なさりながら、いままた太清宮を祭ろうとされておられます。宮廷の外ではしきりにこう囁かれております。――陛下は何事にもつけても唐の明皇を慕っておいでだ、と。
そもそも明皇を美徳の君主とお思いだとすれば、それはまったくの間違いです。明皇の遭遇した災害や戦乱の深く戒めとすべきことは、臣のみ知るところではありません。近臣でありながら諫言せぬ者は、悪を抱いて陛下に仕えているのです。明皇が無道をなしたときも、諫言するものは誰もおりませんでした。馬嵬に逃亡したおり、軍卒は楊国忠を殺して矯詔の罪(詔勅偽造の罪)を追求しましたが、このときようやく道理に暗かったこと、国を任せる者を間違えていたことを覚ったのです。しかしそのときになって己の罪を口にしても、事態を悟ること余りに遅うございました。もはやどうにもならなかったのです。
陛下におかれましては、事の次第を早くお悟りになり、虚美を抑え、邪悪な者を遠ざけ、土木工事を止め、危乱の迹を襲わず、明皇のごとき遅きに過ぎる後悔のないことを願って止みません。これこそ天下の幸、社稷の福にございます。
帝はこのように答えた。――「泰山に封禅を行い、汾陰を祀り、諸陵を礼拝し、老子を祀るのは、明皇に始まったことではない。〔明皇の作った〕『開元礼』はいまなお用いている。天宝の乱があったからとて、〔明皇のなしたこと〕すべてが間違っていたと言ってはならぬ。秦は甚だしき無道をなしたが、いまの官名・詔令・郡県などは未だに秦のものを踏襲している。人でもって言を廃してよかろうか。」かくして『解疑論』を作って群臣に示した。しかし奭の忠誠も分かっていたので、文字に急迫なものはあったが、退けるようなことはしなかった。
(51)七年(1014)春正月、帝は亳州で老子に拝謁するため、王旦を兼大礼使に命じ、丁謂を兼奉祀経度制置使とし、陳彭年を副官とした。
(52)壬寅(十五日)、天書を奉じて京師を出発した。
(53)丙午(十九日)、奉元宮に到着した。亳州判事の丁謂は、白鹿一匹と芝九万五千本を献上した。
(54)戊申(二十一日)、王旦は混元上徳皇帝に冊書と宝璽を奉じた。
(55)己酉(二十二日)、太清宮で老子に拝謁した。亳州を集慶軍節度に昇格し、歳賦の十分の三を減らした。太史から報告があり、〔瑞兆である〕含誉星が現れたと言ってきた。庚戌(二十三日)、三日間の宴を与えた。
(56)二月辛酉(五日)、帝は亳州から帰還した。
(57)壬申(十六日)、天地を祀り、大赦した。
(58)十一月乙酉(三日)、玉清昭応宮が完成した。
玉清昭応宮の造営計画では、竣工まで十五年はかかると言われていた。しかし修宮使の丁謂は昼夜を通して造営させ、一壁を描くごとに二本の蝋燭を与えた。このため七年で完成したのである。全二千六百一十の柱のある宏大壮麗な宮殿だった。建物に少しでも計画と違う部分があれば、たとえ金碧の装飾が施されていようと、劉承珪は必ず破壊して作り直させた。官僚のだれ一人としてこの費用を計算しようとしなかった。
(59)八年(1015)春正月壬午朔、玉清昭応宮に拝謁し、宝符閣に宝玉と天書を奉納し、帝の御容を側に立てた。帰還し、崇徳殿に赴いて慶賀を受けた。天下に恩赦を施し、十悪・枉法・収賄の罪を除き、すべて赦免した。帝は誓文を草して石に刻み、宝符殿に置いた。『欽承宝訓述』を作り、朝廷内外に示した(5)。
(60)九月、陳州知事の張詠が死んだ。その遺言にはこうあった。――「宮殿や寺観を造営せんがため、天下の財を搾り取り、人民の命を傷つけてはなりません。これはすべて賊臣丁謂が陛下を惑わせしこと。乞い願わくは、謂の首を斬って国門に置き、天下の罪を謝し、その後に詠の首を斬って丁氏の門に置き、謂に詫びられますことを。」帝は詠の忠誠に感嘆した。
(61)九年(1016)春正月丙辰(十一日)、会霊観使を設け、丁謂をそれに充てた。
(62)天禧元年(1017)春正月辛丑朔、元号を改めた。玉清昭応宮に詣で、供物を献上し、玉皇大天帝に宝玉と冊書、袞服(天子の礼服)を奉じた。壬寅(二日)、聖祖に宝玉と冊書を奉じた。己酉(九日)、太廟に詣で、諡と冊書を奉じた。辛亥(十一日)、南郊で天地を拝礼し、大赦した。天安殿に赴き、尊号を受けた。乙卯(十五日)、『欽承宝訓述』を作り、群臣に示した。
(63)三月、〔参知政事の〕王曾に会霊観使を兼任させたが、曾はこれを辞退した。
王欽若は祥瑞を利用して帝の寵愛を独占し、己に楯突く人間を陰ながら排除していた。たまたま曾を会霊観使とする辞令があった。曾は欽若を推薦した。帝は不機嫌そうに曾にこう言った。――「国務に励むべき貴方が、なぜ足並みを乱そうとするのだ。」曾は頭を下げて、「君主が諫言に従うこと、これを明と申します。臣下が忠誠を尽くすこと、これを義と申します。陛下におかれましては、臣を愚鈍であるとお見捨てにならず、責を宰府に任されました。ならば臣は義をもって陛下に仕えるだけのこと、足並みを乱そうというのではありません。」
(64)九月癸卯(八日)、王曾が〔参知政事を〕罷めた。
曾が会霊観使を辞退したというので、帝の心は穏やかでなかった。王欽若はしばしば曾を批判した。曾が賀皇后の旧宅を購入したときのこと、まだ賀氏が立ち退く前に、門前に土を運ばせたことがあった。賀氏がこれを朝廷に訴えたので、ついに曾の参知政事を罷めることになった。
王旦は療養中にこれを耳にし、「王君は立派なものだ。いつの日にか徳望功業ともに備わった大人物になろう。ただ私がそれを見ることはあるまいがな。」理由をたずねると、「王君は先だって会霊観使を辞退した。帝の御心に逆らったとはいえ、言葉は正しく、心は穏やかで、少しも懼れるところがなかった。参知政事になったばかりだというのに、もうこの調子だ。私などは二十年も宰相府におりながら、意見を申し上げて少しでも帝の意にそぐわないと、萎縮してしまって平静でいられない。だから王君は立派だと言うのだ。」
(65)己酉(十四日)、王旦が死んだ。
旦は、大中祥符以来、朝廷に大礼があれば、そのつど使者となって天書を奉じていたが、いつも鬱々と心楽しむことがなかった。その最期に臨み、子供に語らうには、「私にはこれといった過ちはなかった。ただ天書のことを諫言しなかったことだけは、贖うことのできぬ失敗だった。私が死ねば、髪を剃り、僧衣を着せ、棺桶に納めてくれ。」子供たちは遺言に従おうとしたが、楊億がとめたので止めにした。
評論。旦は人君の心を得、言を発すれば必ず聞き入れられ、計を画せば必ず従われた。しかるに正をもって命を終えられぬとは、これを馮道に比べられよう。
(66)二年(1018)夏、皇城司から報告があった。 ――「保聖営の西南の地で亀蛇を見たものがおり、そこに真武祠を建てました。近頃、その祠の側から泉が湧き、疾病者が水を飲むと病が癒えるとのことです。」その地に祥源観を建てさせた。任布は「神霊のことで愚民を惑わしてはなりません」と意見したが、聞き入れられなかった。
(67)三年(1019)六月甲午(九日)、王欽若を罷免し、杭州判事とした。寇準を同平章事、丁謂を参知政事とした。
これ以前、巡検の朱能は内侍都知の周懐政を抱き込み、天書を偽造して〔永興軍の〕乾祐山に降らせた。このとき寇準は永興軍判事だった。準の婿の王曙は朝廷におり、懐政と仲がよかった。そこで準に能と歩調を合わせるよう勧めた。こうして天書が報告された。天書が禁中に奉迎されると、内外のものはこれが偽造だと分かっていたが、帝だけは信じていた。諭徳の魯宗道は「奸臣が妄言をなし、陛下の聡明を惑わしている」と批判した。河陽知事の孫奭も意見書を提出した。
朱能は邪悪な小人で、祥瑞を妄言しておるのに、陛下はこれを尊崇され、至尊の身を遜って奉迎し、秘殿に奉納されました。上は朝廷高官から、下は庶民に至るまで、心を痛めぬものはありません。しかし彼等は口を閉ざして心で批判し、あえて発言しようとするものがおりません。
むかし漢の文成将軍は、帛書を牛に食らわせておき、牛の腹に霊妙な帛書が見つかったと訴えました。牛を殺して帛書を見つけると、天子はその筆跡から〔文成将軍のものだと〕察知しました。また五利将軍は方術を妄りに口にしておりましたが、その効験はあまりありませんでした。このため二人は誅殺されました。先帝の時代、侯莫陳利用というものがおり、方術のため俄に寵愛を受けたことがありました。しかしひとたび奸状が知られるや、鄭州に流されました。漢の武帝は雄材と言うべく、先帝は英断と言うべきものです。
唐の明皇は『霊宝符』『上清護国経』『宝券』を手に入れましたが、それらは全て王鉷や田同秀が作ったものでした。ところが明皇は彼等を処罰できず、邪説に溺れ、みずから「徳が実り天を動かしたのだ。神は必ずや我に福を賜おう」などと言っておりました。そもそも老君(老子)は聖人です。それがもし本当に明皇に言葉を授けたというなら、効験のないはずがありません。しかるに安史の乱以来、明皇は諸国を流浪し、長安と洛陽は覆滅し、天下は騒然となりました。これのどこが〔田同秀らのいう〕「天下太平」だというのでしょう。明皇はなんとか都に戻りはしたものの、またも李輔国に脅されて太極宮に移され、ついには無念の内に死にました。これのどこが〔田同秀らのいう〕「聖壽は無限、長生永久」だというのでしょう。
習が性となり、人は自分に及ばない、諫めなど聴くに足らないと心に思ったからに他なりません。心に安逸を貪り、耳は佞言に慣れ、内には寵愛に惑い、外には奸邪に任せ、曲げて鬼神を奉じ、妖妄を崇び、今日老君を宮城に見たかと思えば、明日には老君を山中に見る始末。大臣は利禄を守って迎合し、士君子は威を畏れて口を閉ざしておりました。左道に惑えば惑うほど、ますます政治は乱れ、民心は離れ、政変は倉卒の間に起こりました。このとき老君はいかに兵を禦いだというのでしょう。宝符にいかに難を排したというのでしょう。
明皇の英邁をもって、なお災禍の到来に気付かなかったのは、まことに在位久しく、驕慢いま朱能の所行はこれと同じです。陛下におかれましては、漢の武帝の雄材を思い、先帝の英断を手本とし、明皇の災禍に鑑みていただきとうございます。さすれば災害は生じず、禍乱も起こりますまい。
しかしいずれも聞き入れられなかった。
寇準はこうして中央で用いられるようになった。当時、王欽若の寵愛は衰えていた。商州から報告があり、道士の譙文易を捕らえたと言ってきた。文易は禁書を持っており、邪術を使って六丁六甲の神(道教の神)を操ることができた。欽若は文易とつきあいだあった。このため欽若は罷免され、これに代えて寇準を宰相にしたのである。
準が帝に呼ばれたときのこと、その門生にこう忠告したものがいた。――「貴方は河陽に出向かれたなら、病気を理由に地方官を求められよ。これが上策です。もし帝にお目通りなさるなら、すぐに乾祐山の天書の偽造を明らかにされよ。これが次善の策です。最下の策は、また宰相府にもどることです。何もかも失うことになりましょう。」準は喜ばなかった。
(68)乾興元年(1022)二月戊午(十九日)、帝が崩じた。
(69)冬十月、先帝を永定陵に葬り、天書もそこに奉納した。
史官の評語。真宗は英悟の主である。即位したてのころ、その聡明ゆえに、李沆は必ずや作為多からんと思い、しばしば災異を奏して驕りの心を閉ざした。考えるところがあったのでだろう。澶淵の盟を結ぶに及び、封禅のことが起こり、瑞祥はしきりに現れ、天書もしばしば降り、奉迎奉納は相継ぎ、一国の君臣は熱病に罹ったようであった。怪しむべきことである。他日、『遼史』を修めしとき、契丹の土俗を知り、その後に宋の史官の微言を探った。宋は太宗が幽州に敗れて以後、兵を好まなかった。契丹では君主を天といい、皇后を地といった。一年の間、天を祭ること、数え切れぬほどであった。狩りをしては手づから飛ぶ雁を捕らえ、鴇(鳥の名前。ガンの一種)のみずから地に投ずることがあれば、天の賜物だといい、祭りをしては得意げに見せ合った。宋の臣僚は契丹のこの習俗を知り、また主君に兵を厭う気持ちがあるのを見て、神霊なる教えを進め、封禅祭祀でもって敵人の耳を動かそうとしたのではないか、敵国が中国を狙う魂胆を静められるならばそれで充分であると。しかし根本を修めて敵を制さず、悪事を重ねるようでは、はかりごとの末である。仁宗が天書を山陵に葬ったことは、なんと賢きことではないか。
(70)仁宗の天聖七年(1029)六月、大雨雷鳴があり、玉清昭応宮が焼けた。守衛を御史台の獄に繋がせた。
太后は泣いて大臣らに語るには、「先帝は天道を遵奉なされ、力を尽くしてこの宮殿を造られた。なのに一夕にして焼けてしまった。ただ長生殿と崇壽殿の二つが残っているだけだ。どうやって先帝の遺言に従えばよいのだ。」
范雍は語気強く、「すべて焼いてしまうべきです。先朝はこれを建てるため、天下の力を注ぎ込まれたにも関わらず、にわかに焼け落ちました。人の業とは思えません。もし残った宮殿を用いて修復するようなことがあれば、民にその力は残っておらぬでしょうし、天の戒めに遵うことにもなりません。」
王曾と呂夷簡も雍を助けた。中丞の王曙も「玉清昭応宮は聖人の教えに従ったものではありません。天は災異を下して警告しているのです。願わくは、宮殿を除き、祭祀を罷め、天変に応えていただきたい。」
右司諫の范諷もまた「これはまことに天変と申せましょう。獄に繋いではなりません。」
太后と帝は事態を悟り、守衛の罪を減じた。詔を下し、宮殿の修復を停止し、焼け残った二殿を万寿観とし、諸種の宮観使を罷めた。
〔注〕
(4)底本は乙巳に作る。『続資治通鑑長編』に拠り改訂した。
(5)衍文。『欽承宝訓述』は下文の天禧元年正月に繋けるのが正しい。『宋史』本紀および同書礼七・天書九鼎などを参照。
(4)底本は乙巳に作る。『続資治通鑑長編』に拠り改訂した。
(5)衍文。『欽承宝訓述』は下文の天禧元年正月に繋けるのが正しい。『宋史』本紀および同書礼七・天書九鼎などを参照。