こんがりと焦げ目のついたおいしそうなステーキが端っこの方からゆっくりと切り分けられていく。湯気が立ち、おいしそう
な匂いが玉城の鼻孔をくすぐった。できたてホヤホヤ。食卓にのぼって間もない小判型のステーキ皿の上でじゅわじゅわ
溶けるバター。黄色く透き通ったジャガイモの破片。青々としたパセリ。普段なら食欲を掻き立てるそれらを前に玉城は
ただ欝蒼とした表情を浮かべていた。
「どうしたの光ちゃん?」
ステーキ──病的なまでの均等さで切り分けたうちの1つ──を笑顔で口に放り込んだ青空はにこやかに聞き返した。
悪寒が走る。身が竦む。息を呑んだ口がもごもごと不明瞭な言語ばかりを呑みこんでいく。姉の手からこぼれ落ちた銀
の刃が黒皿と打ち合って凄まじい音を立てた。全身がさざめく。恐怖。覚えるのはそれしかなかった。姉がこっちを見てい
る。見つめている。笑顔のままで微動だにせず、じっと見つめている。
震える唇で言葉を紡ぐ。詰まれば何が起こるか分からない。沈黙もまた何事かを爆発させる起爆剤。姉の笑顔は会話
の空白時間に比例して妖気を高めていくようだった。黙り続ければ何が起こるか分からない。
「私の体……どげしたんぞ」
震える声で右手を挙げる。人間らしいあらゆる造詣が失われている右手を。直線的な羽根がびっしりと生えた腕を。鳥。
玉城の体の中でそこだけが鳥の物と化している。
鏡面塗装を施されたような翼の中で青白い顔が歪んだ。ヒビが入り、それもやがて轟音の中で無残に割れ砕けた。
「伊予弁はやめていわれなきゃ分からないのお義母さん思い出して不愉快不愉快やめなさい私がそれでどれだけ嫌な思
いをしたか分かってるの光ちゃん分からないなら分かるまで伝えさせてねえお願い」
抑揚のないふらふらとした声を聞きながら玉城は歯を喰いしばっていた。羽根を貫通した空気の奔流は腹部や胸部に
突き刺さりそれ相応の痛みをもたらしていた。全身から脂汗が滲む。吐き気に似た呼吸欲求が肺腑の奥から込み上げる。
噛みしばった乳歯たちをほどいて必死に息を吐く。頂点に達した痛みは息を吐くコトでしか紛らわせない。それが錯覚に
過ぎないとしても、いまこの世で自分を救ってくれるのは錯覚のもたらす僅かな鎮痛しかなかった。
「お姉ちゃん……どうして……」
痛みに歪む頬に手が当てられた。見上げると図上ではいつものようににこやかにほほ笑む姉がいた。手は優しく動く。涙
が伝い涎の飛沫さえ乗った頬からあらゆる不浄をぬぐい去るようにゆっくり、ゆっくりと優しく撫でる。拡がっていく朗らかな
ぬくもりはあらゆる激痛を沈めていくようだった。
『ロボット好きだったからロボットぽい体になれたのはいいでしょ』
笑顔の姉がサブマシンガンで床に描いた文字。それを眺めた玉城は引き攣ったような声を漏らした。ロボットっぽい体?
姉は何を話している? ……少なくても自分の体はもう人間とかけ離れているのだけは分かった。でもそれは──…
すがるような思いで姉を見上げ、言葉を紡ぎかけた時、空気の炸裂が再び襲来した。おぞましい揺らぎが視界をどこか
に消し飛ばした。失明。両目を撃たれたのだと気付いたのはそれが癒えた時だった。
「ロボット好きだったからロボットぽい体になれたのはいいでしょ私はただ光ちゃんにいろいろ伝えたいだけなの一緒に仲
良く暮らしたいだけなの殺したりしたくないのだからホムンクルスにしただけなの」
髪が掴まれる感触。腹部に当たる冷たい手応え。何が起こるかすぐ理解できたのは不幸でしかなかった。悲鳴のような
泣き声を上げて体を捩る。解決にはならない。やや金属質を帯びた髪が何本もちぎれたのを契機に、姉は頭を掴む手に
ますます一層の力を込めたようだった。そうして固定された体に向けて引き金が引かれた。激痛。絶叫。潰れた目から涙
が散った。突き出す桃色の舌の根元から轢死中のネコのような苦鳴が絞り出された。体には無数の風穴が開き、しかも
それらは全て文字列の構成要素らしかった。
な匂いが玉城の鼻孔をくすぐった。できたてホヤホヤ。食卓にのぼって間もない小判型のステーキ皿の上でじゅわじゅわ
溶けるバター。黄色く透き通ったジャガイモの破片。青々としたパセリ。普段なら食欲を掻き立てるそれらを前に玉城は
ただ欝蒼とした表情を浮かべていた。
「どうしたの光ちゃん?」
ステーキ──病的なまでの均等さで切り分けたうちの1つ──を笑顔で口に放り込んだ青空はにこやかに聞き返した。
悪寒が走る。身が竦む。息を呑んだ口がもごもごと不明瞭な言語ばかりを呑みこんでいく。姉の手からこぼれ落ちた銀
の刃が黒皿と打ち合って凄まじい音を立てた。全身がさざめく。恐怖。覚えるのはそれしかなかった。姉がこっちを見てい
る。見つめている。笑顔のままで微動だにせず、じっと見つめている。
震える唇で言葉を紡ぐ。詰まれば何が起こるか分からない。沈黙もまた何事かを爆発させる起爆剤。姉の笑顔は会話
の空白時間に比例して妖気を高めていくようだった。黙り続ければ何が起こるか分からない。
「私の体……どげしたんぞ」
震える声で右手を挙げる。人間らしいあらゆる造詣が失われている右手を。直線的な羽根がびっしりと生えた腕を。鳥。
玉城の体の中でそこだけが鳥の物と化している。
鏡面塗装を施されたような翼の中で青白い顔が歪んだ。ヒビが入り、それもやがて轟音の中で無残に割れ砕けた。
「伊予弁はやめていわれなきゃ分からないのお義母さん思い出して不愉快不愉快やめなさい私がそれでどれだけ嫌な思
いをしたか分かってるの光ちゃん分からないなら分かるまで伝えさせてねえお願い」
抑揚のないふらふらとした声を聞きながら玉城は歯を喰いしばっていた。羽根を貫通した空気の奔流は腹部や胸部に
突き刺さりそれ相応の痛みをもたらしていた。全身から脂汗が滲む。吐き気に似た呼吸欲求が肺腑の奥から込み上げる。
噛みしばった乳歯たちをほどいて必死に息を吐く。頂点に達した痛みは息を吐くコトでしか紛らわせない。それが錯覚に
過ぎないとしても、いまこの世で自分を救ってくれるのは錯覚のもたらす僅かな鎮痛しかなかった。
「お姉ちゃん……どうして……」
痛みに歪む頬に手が当てられた。見上げると図上ではいつものようににこやかにほほ笑む姉がいた。手は優しく動く。涙
が伝い涎の飛沫さえ乗った頬からあらゆる不浄をぬぐい去るようにゆっくり、ゆっくりと優しく撫でる。拡がっていく朗らかな
ぬくもりはあらゆる激痛を沈めていくようだった。
『ロボット好きだったからロボットぽい体になれたのはいいでしょ』
笑顔の姉がサブマシンガンで床に描いた文字。それを眺めた玉城は引き攣ったような声を漏らした。ロボットっぽい体?
姉は何を話している? ……少なくても自分の体はもう人間とかけ離れているのだけは分かった。でもそれは──…
すがるような思いで姉を見上げ、言葉を紡ぎかけた時、空気の炸裂が再び襲来した。おぞましい揺らぎが視界をどこか
に消し飛ばした。失明。両目を撃たれたのだと気付いたのはそれが癒えた時だった。
「ロボット好きだったからロボットぽい体になれたのはいいでしょ私はただ光ちゃんにいろいろ伝えたいだけなの一緒に仲
良く暮らしたいだけなの殺したりしたくないのだからホムンクルスにしただけなの」
髪が掴まれる感触。腹部に当たる冷たい手応え。何が起こるかすぐ理解できたのは不幸でしかなかった。悲鳴のような
泣き声を上げて体を捩る。解決にはならない。やや金属質を帯びた髪が何本もちぎれたのを契機に、姉は頭を掴む手に
ますます一層の力を込めたようだった。そうして固定された体に向けて引き金が引かれた。激痛。絶叫。潰れた目から涙
が散った。突き出す桃色の舌の根元から轢死中のネコのような苦鳴が絞り出された。体には無数の風穴が開き、しかも
それらは全て文字列の構成要素らしかった。
『インフルエンザの時、私はお父さんたちに放置されたの』
『でも光ちゃんだって死にかかっていたもの。恨んではないわよ』
『肺炎になったのは私にも責任があるし、家庭に馴染めなかったの壁を作ったせい』」
『でも光ちゃんだって死にかかっていたもの。恨んではないわよ』
『肺炎になったのは私にも責任があるし、家庭に馴染めなかったの壁を作ったせい』」
崩れ落ち、くの字に曲がった体を指でなぞる。一種の点字が刻まれていると分かったのは、姉に敵意を感じなかったせい
だろう
だろう
『一度家庭から離れたのは結果として良かったわね』
『私が不遇だったのは本当にお父さんたちだけのせいかってじっくり考えることができたもの』
『私が不遇だったのは本当にお父さんたちだけのせいかってじっくり考えることができたもの』
敵意がないのに撃つのは伝えるため。それは両親が死ぬ少し前に『伝わっている』。
『けど結果はアレよアレ。私3日ぐらいヘコんだわ』
『まだ残ってる怒りをつい、ちょっとだけ伝えただけでああだもの。ホムンクルスの私が人間と暮らすのは難しいわね』
『だから……考えたの』
『まだ残ってる怒りをつい、ちょっとだけ伝えただけでああだもの。ホムンクルスの私が人間と暮らすのは難しいわね』
『だから……考えたの』
体をなぞって文字を読む。
『光ちゃんをとびきり強くすれば何伝えても大丈夫だって』
『でもただの人型じゃ弱いでしょ? 動植物型だと光ちゃんの精神が基盤の生物に食べられちゃう』
『私たちの組織は調整体作るの上手よ。複数の生物同居させつつ光ちゃんの自我を残すぐらいはできちゃう』
『でも万が一ってコトもあるでしょ? 24時間365日ずっと肉体を乗っ取りに来る生物相手にしてたら』
『でもただの人型じゃ弱いでしょ? 動植物型だと光ちゃんの精神が基盤の生物に食べられちゃう』
『私たちの組織は調整体作るの上手よ。複数の生物同居させつつ光ちゃんの自我を残すぐらいはできちゃう』
『でも万が一ってコトもあるでしょ? 24時間365日ずっと肉体を乗っ取りに来る生物相手にしてたら』
『光ちゃんが精神崩壊しちゃう。そういう殺し方はしたくないの。私は光ちゃんを殺したくはないの』
『伊予弁と大声と声真似をやめて欲しいだけなの』
『ただ伝えて、ただ仲良くしたいだけなの』
震えが沸くのは体の痛みのせいだけではない。
後に青空はこの辺りを詳しく語った。
だから考えた。義妹の自我を保ちつつ、無数の生物の能力を付与する方法を。夙夜まんじりともせず考え抜いた。連日
連夜壁に弾丸をブチ込んで思考を書き、考えに考え抜いた。
そして行きついたのが──…
連夜壁に弾丸をブチ込んで思考を書き、考えに考え抜いた。
そして行きついたのが──…
無数の鳥への変形能力。
動植物型ホムンクルスには「人型」と「原型」、2種類の姿がある。それらを切り替える際には幾何学的な変形作用が全身
を覆う。青空はそこに目をつけた。その変形作用を意図的に操作し、任意の姿に組み替えられないかと。
声質上入った研究班でこの1年めきめきと頭角を現していた青空である。実験はすぐに成功した。繁華街で爆竹を鳴らして
いた若者どもや暴走族、おじいさんをひき逃げして「やっちまったよ」と車内で爆笑しているカップル。青空が笑顔でテイクア
ウトした総勢60名ばかりが実験台になって廃棄されたがそれは彼女にとって試薬の容器を捨てるぐらいどうでもいい出来
事だった。大事な義妹を少しでも死から遠ざける、そんな命題に比べれば社会規範を乱す連中の末路など些細すぎる問題
だった。
を覆う。青空はそこに目をつけた。その変形作用を意図的に操作し、任意の姿に組み替えられないかと。
声質上入った研究班でこの1年めきめきと頭角を現していた青空である。実験はすぐに成功した。繁華街で爆竹を鳴らして
いた若者どもや暴走族、おじいさんをひき逃げして「やっちまったよ」と車内で爆笑しているカップル。青空が笑顔でテイクア
ウトした総勢60名ばかりが実験台になって廃棄されたがそれは彼女にとって試薬の容器を捨てるぐらいどうでもいい出来
事だった。大事な義妹を少しでも死から遠ざける、そんな命題に比べれば社会規範を乱す連中の末路など些細すぎる問題
だった。
と。
そして青空はもう一度、近くの床に文字を書いたようだった。読め。音はそう物語っている。痛む体を引きずって翼じゃない
方の指をまた這わす。
『ロボット好きだったからロボットぽい体になれたのはいいでしょ』
限りない笑みの気配が頭上から降り注ぐのが分かった。肯定しなければどうなるかも。
玉城はその場にへたり込み、ゆっくりと息を吐き、……そして答えた。
「はい……嬉しい……です」
涙が零れた。呼吸するたび「ひっ、ひっ」という引き攣れが気管支を犯しているようだった。
「それからそこのステーキは人の肉よちゃんと食べてね食べなきゃダメよホムンクルスはそうしないとダメなのよ」
人の肉? 誰 の ?
「まさかそれは──…」
方の指をまた這わす。
『ロボット好きだったからロボットぽい体になれたのはいいでしょ』
限りない笑みの気配が頭上から降り注ぐのが分かった。肯定しなければどうなるかも。
玉城はその場にへたり込み、ゆっくりと息を吐き、……そして答えた。
「はい……嬉しい……です」
涙が零れた。呼吸するたび「ひっ、ひっ」という引き攣れが気管支を犯しているようだった。
「それからそこのステーキは人の肉よちゃんと食べてね食べなきゃダメよホムンクルスはそうしないとダメなのよ」
人の肉? 誰 の ?
「まさかそれは──…」
顔を上げたのと、
それが自分に齎す被害を鑑みて首を竦めたのと、
唇に生暖かい感触が接触したのは
それが自分に齎す被害を鑑みて首を竦めたのと、
唇に生暖かい感触が接触したのは
同時だった。
生暖かい感触は唇をついばみながらホカホカとした肉片を口中に送り込んでいるようだった。
その生臭さに玉城がむせるのにも構わず、執拗に。
奇妙なコトに肉が送り込まれるたび姉のくぐもった声が近くで響いてもいる。
「ん。んんん」
…………玉城は、何をされているか気付いた。
鼻先で甘い息が漂っている。唇を塞いでいるのは口中の肉よりさらに柔らかく溶けそうな器官のようだった。
そこから熱く湿った肉の尖りが拙い乳歯を割り開き、肉片を奥へ奥へと押し込める。そしてひと通り作業を終えると生暖か
さごとパっと離れ、息継ぎをするのだ。
「んむっ。はぁ、はぁ……んむ」
姉の気配が遠ざかり、ステーキ皿の辺りで生々しい咀嚼の音が鳴り響く。それがひと段落した時、姉の息の芳しい匂いが
眼前に充満し、生暖かい感触が唇をついばむ。いつしか玉城の赤い髪は梳るように抱きしめられ、生暖かさは蛭のように
ねっとりと密着し、小さな唇を愛しげにねぶりさえした。
行為は何度も繰り返された。その数だけ玉城は小さな喉を必死に鳴らし人肉を飲み干す。
もし『送り返したら』姉は激昂する。位置関係はそうだった。
視力が回復した。目を開く。
「…………」
姉はちょうど自分の顔から離れるところだった。
唇からは唾液と肉汁の混じったまだらの糸が引いていて、それは玉城自身の唇にも引いていた。
『キスは初めて? 私はそうよ』
姉はほんのり赤い笑顔を軽く傾けると、そのまま照れ臭そうに走り去っていった。
生暖かい感触は唇をついばみながらホカホカとした肉片を口中に送り込んでいるようだった。
その生臭さに玉城がむせるのにも構わず、執拗に。
奇妙なコトに肉が送り込まれるたび姉のくぐもった声が近くで響いてもいる。
「ん。んんん」
…………玉城は、何をされているか気付いた。
鼻先で甘い息が漂っている。唇を塞いでいるのは口中の肉よりさらに柔らかく溶けそうな器官のようだった。
そこから熱く湿った肉の尖りが拙い乳歯を割り開き、肉片を奥へ奥へと押し込める。そしてひと通り作業を終えると生暖か
さごとパっと離れ、息継ぎをするのだ。
「んむっ。はぁ、はぁ……んむ」
姉の気配が遠ざかり、ステーキ皿の辺りで生々しい咀嚼の音が鳴り響く。それがひと段落した時、姉の息の芳しい匂いが
眼前に充満し、生暖かい感触が唇をついばむ。いつしか玉城の赤い髪は梳るように抱きしめられ、生暖かさは蛭のように
ねっとりと密着し、小さな唇を愛しげにねぶりさえした。
行為は何度も繰り返された。その数だけ玉城は小さな喉を必死に鳴らし人肉を飲み干す。
もし『送り返したら』姉は激昂する。位置関係はそうだった。
視力が回復した。目を開く。
「…………」
姉はちょうど自分の顔から離れるところだった。
唇からは唾液と肉汁の混じったまだらの糸が引いていて、それは玉城自身の唇にも引いていた。
『キスは初めて? 私はそうよ』
姉はほんのり赤い笑顔を軽く傾けると、そのまま照れ臭そうに走り去っていった。
姉妹2人きりの共同生活が始まった。
「いい光ちゃん仲良くしましょうねたった2人の家族なんだから私はもっと光ちゃんと仲良くなりたいの」
凄まじい空気の奔流が体を切り裂いた。
「だから伊予弁はやめて大きな声もやめて私の声真似なんてもっての他」
うっかり方言を漏らすたび、声のボリュームダイヤルを過大にするたび。
「うるさいやめてうるさい耳障り」
光は青空に何度も撃たれた。頭に投げつけられたステーキ皿のせいで昏倒するのは一度や二度に収まらなかった。
「ふふふあはははは私の言いたいことちゃんと理解してね体に刻んだその文字よく読んで頂戴ねあはははは」
1週間もすると玉城は伊予弁を喋るコトに本能的な恐怖を覚え始めた。喋ろうとするたび言語中枢は不慣れだが安全な
標準語を選択するようだった。しかし生まれてからほとんどの会話を伊予弁に依存していた玉城である。単純な言葉なら
ともかく意思の複雑なニュアンスを標準語で表すには凄まじい労力を要した。そもそもつまるところ玉城は大いなる否定の
中にいた。それでどうして意思を率直に伝えられよう。どうして不慣れな標準語で伝えられよう。
安全さだけをいえば小声でただボソリボソリと呟く方が遥かに良かったし姉もそれを歓迎している。
大好きな姉はそれを歓迎している。
だから、いい。
いつしか玉城は自身の変質も、何もかもを受け入れるようになっていた。
標準語を選択するようだった。しかし生まれてからほとんどの会話を伊予弁に依存していた玉城である。単純な言葉なら
ともかく意思の複雑なニュアンスを標準語で表すには凄まじい労力を要した。そもそもつまるところ玉城は大いなる否定の
中にいた。それでどうして意思を率直に伝えられよう。どうして不慣れな標準語で伝えられよう。
安全さだけをいえば小声でただボソリボソリと呟く方が遥かに良かったし姉もそれを歓迎している。
大好きな姉はそれを歓迎している。
だから、いい。
いつしか玉城は自身の変質も、何もかもを受け入れるようになっていた。
「光ちゃん。一緒にお風呂入りましょ」
「…………はい」
「…………はい」
洗いっこ。姉の白い手が体に伸びる。全身に振りかけられたボディーソープは艶めかしい動きの素手に泡だてられる。
風呂場に横たえられた自分の体の上に姉が乗って来ても、豊かな膨らみが汚れを落としにきても。
風呂場に横たえられた自分の体の上に姉が乗って来ても、豊かな膨らみが汚れを落としにきても。
「エログロ女医には渡せないのよだってたった一人の可愛い妹なのよ私は守りたいの私の手の中で綺麗なままにしておきたいの」
荒い息遣いの姉が喉元に噛みついても。
玉城はただ虚ろな瞳で天井を眺めていた。
喋るのはよっぽどキレている時だけ……と義母に伝えた青空はしかしこの時初めて、怒りのない精神状態で喋った。
喋るのはよっぽどキレている時だけ……と義母に伝えた青空はしかしこの時初めて、怒りのない精神状態で喋った。
「いいコよ光ちゃん。それから、私の声真似だけは絶対にしちゃダメだよ」
「……はい」
「分かってくれればいいの。私の声真似なんかしたら、本当に大変なんだからね。光ちゃんがヒドい目に遭っちゃうから……」
「……はい」
「分かってくれればいいの。私の声真似なんかしたら、本当に大変なんだからね。光ちゃんがヒドい目に遭っちゃうから……」
「だから」
「声真似だけはやめてね?」
「そして貴様の姉はその体の性能を試すべく、共同体潰しを命じたという訳か」
「はい……。チワワさんたちを襲ったのは…………40件目のターゲットを殲滅したから……その代わりに……です。お姉ち
ゃんからの伝達事項その一。テスト対象を殲滅した相手を殲滅しろ……です」
「というがなぜ我らが殲滅したと分かった?」
「状況証拠と……気配…………です。近くを歩いていましたし…………威圧感が……違います」
何度目かの成程なを呟き肉片を投げる。ビーフジャーキーから毟り取ったそれはしばらく宙を舞い、やがて口中に没した。
舌から脳髄に伝播するとろけそうな旨味をくちゃくちゃと堪能しながら、鳩尾無銘はじろりと玉城を眺めた。
「なに……か」
「我と戦え」
虚ろな瞳をもつ少女は不思議そうに首を傾げた。
そのテンションと裏腹に拳(前足)固めて力説するチワワ一匹。
「左様な事情があるというなら我たちと貴様の激突は避けられぬ! かといってこのまま師父の到着を待つ訳にはいかぬ!
使命も果たさず見逃すなどは元より論外! 故に貴様は我と戦え!」
「はァ」
ビシぃっと指差された玉城はしかし気のない返事を漏らしたきり焦点がどこにあるか分からない瞳でぼーっと無銘を眺め
回した。「こんな小さいチワワさんが私の相手できますか」的なニュアンスが滲んでいる。気づいた無銘は激昂した。
「はァではない! 戦うのだ! 戦わねば我の使命が果たせんし立場という物がないのだ!」
「あの…………使命を果たしたいなら……私と話してる間に…………不意打ちすれば…………よかったのでは?」
「それを云うな! 云わんでくれ!!!!!!」
無銘は頭を抱えた。玉城の文言は至極もっとも。会話中、例の兵馬俑の手首でこっそり攻撃すれば3分後に敵対特性が
発動して任務は完了したのだ。白状すれば会話中何度も何度もそれは考えた。だが人としてはどうなのか。私利私欲で勝
手にホムンクルスになった外道なればいざ知らず、相手は姉の理不尽な怒りによって両親を奪われホムンクルスにされた
少女。悪夢の中で涙さえ流すいたいけな少女。それを騙し、不意打ちのような手段で任務を完了するのはどうなのか。さり
とて忍びとしては最悪でもあろう。悪夢で忘我しひた走る玉城。敵に身の上話をするのに夢中で隙だらけの玉城。総角の言
いつけ、敵対特性を見舞う機会などいくらでもあった。だがそれを訳の分らぬ感傷で見逃してしまっている。
(我の阿呆!! 我の迂闊!! 敵の涙など黙殺すれば良かったのだ! 身の上も何もかも無きものとしてただ任務一つ
果たせば良かったというのに……何を正面切って戦いを申し込んでいるのか! 忍びの我が正々堂々だと! 笑わせるな!
ビーフジャーキー喰っとる場合か! 場合なのかアアアアアアアア~~~~~!!!)
「あの……チワワさん?」
うずくまって耳の下を丸っこい手でぎゅうぎゅう押し出した無銘をしばらく心配そうに眺めていた玉城は一瞬黙るとゆっくり
息を呑み込んだ。
「分かりました……戦いましょう……」
「おおわかってくれた……ではない! やっとその気になったか!」
輝く面頬を上げた無銘が「げえ」と絶望的な声を漏らしたのは──…
「はい」
岩よりも硬そうな蹄が喉首にめり込んでいたせいである。
転瞬彼は弓なりになった体から吐瀉物と唾液を撒き散らしつつ宙を飛んだ。20メートルほどカッ飛んだだろうか。広場
の中央からうねりを上げて滑空した無銘は山林との境目にある大木に背中をしこたま打ちつけた。
幹が軋んで木の葉が舞う。無銘はなめくじよろしく木肌をズリズリ滑落した。秋らしくそろそろ色素が薄み始めた緑茶色の
破片をのっそりくぐり抜け、玉城が来る。その姿は巨大な絶望の魔人に見えた。
「全力で……終わらせます」
まだだ、といったつもりだが掠れた音声が漏れるばかりで話にならない。
(ええい、だが元より戦うつもりの我だ! 手首を以て攻撃し敵対特性を発動すれば済む話!)
唯一の武器にして切り札。敵対特性を以て玉城を弱体化させる……その目的に必要不可欠な存在。
兵馬俑の手首。
それを持つべく手を動かす。
手を、動かした。
「…………」
嫌な手応えがした。自分は何も持っていないのだという青春期に思い悩む少年のような手応えがした。前脚を見る。何も
持っていない。背中がぞわりとさざめいた。わずかな期待を込め辺りを見回す。ない。致命的失敗。大事な何かを忘れてい
る。考える。記憶を辿る。
「あ」
玉城がいよいよ目前に迫ったころ、ようやく無銘は自らの失策に気付いた。
兵馬俑の手首は。
玉城の遥か後ろ、広場の片隅に転がっている。
(ぎゃあああああああああああああああああああ!)
無銘は内心で絶叫した。零れる涙は窒息のせいだけではないだろう。しまった。しまった。せめて戦闘態勢を整えてから
挑むべきだった。後悔が過ぎる。自らの失策を気に病み勝負を急ぐあまり、すっかり忘れていた! 武器を持つのを、切り
札を手にしておくのを……忘れていた! そういえばあれやこれやで置きっぱなしだったのを失念していた!
だが無銘は必死に動揺を鎮静すべく努めた。敵に知られている事と知られていない事。それをとにかく必死に分析する。
(落ちつけ! 我の武装錬金の特性が敵対特性とはこやつは知らぬ! ましてあの手首がなければ我が無力という事も!
ならばこの体で戦えるフリをしつつ時間を稼ぎ、あの手首を何とか手にするのだ! 生き残る策はそれしか、それしか──…)
「あの手首は……武器ですね? あれがないと……無力、ですね?」
両腕を欠損している玉城が足の爪でチワワの頭を掴んだ。景色が上昇する中、無銘はただただ青ざめた。
「手首だけを持ってきたというコトは…………あの自動人形の特性は……五体満足じゃなくても…………発動できる筈、です」
脂汗が全身を伝い落ちる。アポクリン大汗腺が精神性の嫌な汗を垂れ流している。
「そして……その特性は…………恐らく一撃必殺……です。当たりさえすれば……小さなチワワさんでも私に勝てるタイプの
……………一撃必殺……です。放っておけば…………私が……倒され、ます」
(バレてる!!!)
何こやつヌボーっとしている癖にどうして鋭いのと内心毒づきはしたが、そうすべき時でもなく。
玉城は片膝を上げた姿勢のままきょろきょろと辺りを見回して、コクリと頷いた。万力のような力で挟まれ今にも破裂しそう
な頭部の中で唯一自由な目を動かして視線を追う。角度の問題、眼球の可動範囲の問題で見えない。代わりに生白い曲線
を描く太ももの付け根とか露もなくまくれ上がるミニスカートのその先へ視線が動きかけたが「いや何をしている我は」的な
自制心で辛うじて耐える。玉城が動いた。角度が変わったので本当に確認すべき物が見えた。そこには。
尖った岩があった。
高さは小学校低学年の女児ぐらいある。つまり玉城と同じぐらいだ。高さのわりにずんぐりとした石なのにどういう訳か尖端だ
けが鋭く尖っている。手を置くだけで貫通しそうなそれが天を仰いでいる。
無銘は思い出した。昨晩ここを通りかかったときそれを見つけ、一瞬「道行く者がここで転んでケガしたら危ない。始末して
おくべきか」と考えたコトを。だが共同体の殲滅が迫っていたし、まさかこんな山奥に来る者もそうはいないだろうから放置して
も大丈夫だと思って、見逃したコトを。
無銘は泣きたい気分になった。
どうしてあの時始末しなかった。せめて横倒しにしておくべきだったとすっかり粘液まみれの鼻を鳴らした。
嫌だ。
悪夢だ。
戦わなければ良かった。
本当もう、そう叫んで降服したくなった。
玉城は薄暗い茂みの中にあるその岩をいたく気に入ったようだった。(被害妄想) 心なしかのっそりとした足取りに喜び
を嗅ぎつけ(被害妄想)無銘はつくづくこの少女を呪った。(逆恨み)
そして次の瞬間、うねりを挙げる全身の中で右わき腹だけが灼熱の痛みを帯びた。
海老反ってもがきながら状況判断。岩の切っ先が貫通している。つまり、叩きつけられた。
「すみません……要するに、手首と合流させなければ…………いい、です。私の勝ち、です」
「待──…」
抗議の声を無視して玉城は無銘を岩から引き抜いた。さすがに岩が錬金術の産物で、ホムンクルスの無銘に消えない傷を
与えるという馬鹿げた悲劇までは起こらなかったらしく、脇腹は徐々に修復を始めている。だが痛い。すごく痛い。牙を噛み縛
りたいが痛苦特有の激しい息のせいでどうしようもない。そもそも基本的に錬金術の産物以外で傷つけられないホムンクル
スの体を力と速度だけで岩にブッ刺す玉城の恐ろしさ。チワワの頼りなげな体が血しぶきの中でしなる。今度は腰だった。
腰が岩の横肌に叩きつけられた。走るヒビはゆで卵の殻をスプーンで叩いたみたいな奴で、そこに伝わり損ねた衝撃が右
後ろ脚を吹っ飛ばした。
(何という馬鹿力! 何という戦力差!)
茂みに落ちる自分の脚──直接もがれたのではなく、攻撃の余波で、副次的に──に愕然としながら身を揺する。外れる
気配は今のところない。外れたところで状況を打破できる望みもない。手首に向かって駆けた所で、どうせダチョウの速度で
瞬く間に追いつかれるのが関の山……無銘は暗澹たる思いになった。衝撃で首がもげないのが唯一の救いか。
「がっ!」
さらに一撃。さらに一撃。横なぐりの衝撃が立て続けに顔面を襲う。さらにそのまま白い足を高々と上げた玉城はかかと
落としの要領で再度無銘を岩の尖りに叩きつけた。それは第3腰椎を粉々に粉砕した。
絞り出すような絶叫が山あいに響いた。そしてしばらく鈍い音が木霊し──…
「はい……。チワワさんたちを襲ったのは…………40件目のターゲットを殲滅したから……その代わりに……です。お姉ち
ゃんからの伝達事項その一。テスト対象を殲滅した相手を殲滅しろ……です」
「というがなぜ我らが殲滅したと分かった?」
「状況証拠と……気配…………です。近くを歩いていましたし…………威圧感が……違います」
何度目かの成程なを呟き肉片を投げる。ビーフジャーキーから毟り取ったそれはしばらく宙を舞い、やがて口中に没した。
舌から脳髄に伝播するとろけそうな旨味をくちゃくちゃと堪能しながら、鳩尾無銘はじろりと玉城を眺めた。
「なに……か」
「我と戦え」
虚ろな瞳をもつ少女は不思議そうに首を傾げた。
そのテンションと裏腹に拳(前足)固めて力説するチワワ一匹。
「左様な事情があるというなら我たちと貴様の激突は避けられぬ! かといってこのまま師父の到着を待つ訳にはいかぬ!
使命も果たさず見逃すなどは元より論外! 故に貴様は我と戦え!」
「はァ」
ビシぃっと指差された玉城はしかし気のない返事を漏らしたきり焦点がどこにあるか分からない瞳でぼーっと無銘を眺め
回した。「こんな小さいチワワさんが私の相手できますか」的なニュアンスが滲んでいる。気づいた無銘は激昂した。
「はァではない! 戦うのだ! 戦わねば我の使命が果たせんし立場という物がないのだ!」
「あの…………使命を果たしたいなら……私と話してる間に…………不意打ちすれば…………よかったのでは?」
「それを云うな! 云わんでくれ!!!!!!」
無銘は頭を抱えた。玉城の文言は至極もっとも。会話中、例の兵馬俑の手首でこっそり攻撃すれば3分後に敵対特性が
発動して任務は完了したのだ。白状すれば会話中何度も何度もそれは考えた。だが人としてはどうなのか。私利私欲で勝
手にホムンクルスになった外道なればいざ知らず、相手は姉の理不尽な怒りによって両親を奪われホムンクルスにされた
少女。悪夢の中で涙さえ流すいたいけな少女。それを騙し、不意打ちのような手段で任務を完了するのはどうなのか。さり
とて忍びとしては最悪でもあろう。悪夢で忘我しひた走る玉城。敵に身の上話をするのに夢中で隙だらけの玉城。総角の言
いつけ、敵対特性を見舞う機会などいくらでもあった。だがそれを訳の分らぬ感傷で見逃してしまっている。
(我の阿呆!! 我の迂闊!! 敵の涙など黙殺すれば良かったのだ! 身の上も何もかも無きものとしてただ任務一つ
果たせば良かったというのに……何を正面切って戦いを申し込んでいるのか! 忍びの我が正々堂々だと! 笑わせるな!
ビーフジャーキー喰っとる場合か! 場合なのかアアアアアアアア~~~~~!!!)
「あの……チワワさん?」
うずくまって耳の下を丸っこい手でぎゅうぎゅう押し出した無銘をしばらく心配そうに眺めていた玉城は一瞬黙るとゆっくり
息を呑み込んだ。
「分かりました……戦いましょう……」
「おおわかってくれた……ではない! やっとその気になったか!」
輝く面頬を上げた無銘が「げえ」と絶望的な声を漏らしたのは──…
「はい」
岩よりも硬そうな蹄が喉首にめり込んでいたせいである。
転瞬彼は弓なりになった体から吐瀉物と唾液を撒き散らしつつ宙を飛んだ。20メートルほどカッ飛んだだろうか。広場
の中央からうねりを上げて滑空した無銘は山林との境目にある大木に背中をしこたま打ちつけた。
幹が軋んで木の葉が舞う。無銘はなめくじよろしく木肌をズリズリ滑落した。秋らしくそろそろ色素が薄み始めた緑茶色の
破片をのっそりくぐり抜け、玉城が来る。その姿は巨大な絶望の魔人に見えた。
「全力で……終わらせます」
まだだ、といったつもりだが掠れた音声が漏れるばかりで話にならない。
(ええい、だが元より戦うつもりの我だ! 手首を以て攻撃し敵対特性を発動すれば済む話!)
唯一の武器にして切り札。敵対特性を以て玉城を弱体化させる……その目的に必要不可欠な存在。
兵馬俑の手首。
それを持つべく手を動かす。
手を、動かした。
「…………」
嫌な手応えがした。自分は何も持っていないのだという青春期に思い悩む少年のような手応えがした。前脚を見る。何も
持っていない。背中がぞわりとさざめいた。わずかな期待を込め辺りを見回す。ない。致命的失敗。大事な何かを忘れてい
る。考える。記憶を辿る。
「あ」
玉城がいよいよ目前に迫ったころ、ようやく無銘は自らの失策に気付いた。
兵馬俑の手首は。
玉城の遥か後ろ、広場の片隅に転がっている。
(ぎゃあああああああああああああああああああ!)
無銘は内心で絶叫した。零れる涙は窒息のせいだけではないだろう。しまった。しまった。せめて戦闘態勢を整えてから
挑むべきだった。後悔が過ぎる。自らの失策を気に病み勝負を急ぐあまり、すっかり忘れていた! 武器を持つのを、切り
札を手にしておくのを……忘れていた! そういえばあれやこれやで置きっぱなしだったのを失念していた!
だが無銘は必死に動揺を鎮静すべく努めた。敵に知られている事と知られていない事。それをとにかく必死に分析する。
(落ちつけ! 我の武装錬金の特性が敵対特性とはこやつは知らぬ! ましてあの手首がなければ我が無力という事も!
ならばこの体で戦えるフリをしつつ時間を稼ぎ、あの手首を何とか手にするのだ! 生き残る策はそれしか、それしか──…)
「あの手首は……武器ですね? あれがないと……無力、ですね?」
両腕を欠損している玉城が足の爪でチワワの頭を掴んだ。景色が上昇する中、無銘はただただ青ざめた。
「手首だけを持ってきたというコトは…………あの自動人形の特性は……五体満足じゃなくても…………発動できる筈、です」
脂汗が全身を伝い落ちる。アポクリン大汗腺が精神性の嫌な汗を垂れ流している。
「そして……その特性は…………恐らく一撃必殺……です。当たりさえすれば……小さなチワワさんでも私に勝てるタイプの
……………一撃必殺……です。放っておけば…………私が……倒され、ます」
(バレてる!!!)
何こやつヌボーっとしている癖にどうして鋭いのと内心毒づきはしたが、そうすべき時でもなく。
玉城は片膝を上げた姿勢のままきょろきょろと辺りを見回して、コクリと頷いた。万力のような力で挟まれ今にも破裂しそう
な頭部の中で唯一自由な目を動かして視線を追う。角度の問題、眼球の可動範囲の問題で見えない。代わりに生白い曲線
を描く太ももの付け根とか露もなくまくれ上がるミニスカートのその先へ視線が動きかけたが「いや何をしている我は」的な
自制心で辛うじて耐える。玉城が動いた。角度が変わったので本当に確認すべき物が見えた。そこには。
尖った岩があった。
高さは小学校低学年の女児ぐらいある。つまり玉城と同じぐらいだ。高さのわりにずんぐりとした石なのにどういう訳か尖端だ
けが鋭く尖っている。手を置くだけで貫通しそうなそれが天を仰いでいる。
無銘は思い出した。昨晩ここを通りかかったときそれを見つけ、一瞬「道行く者がここで転んでケガしたら危ない。始末して
おくべきか」と考えたコトを。だが共同体の殲滅が迫っていたし、まさかこんな山奥に来る者もそうはいないだろうから放置して
も大丈夫だと思って、見逃したコトを。
無銘は泣きたい気分になった。
どうしてあの時始末しなかった。せめて横倒しにしておくべきだったとすっかり粘液まみれの鼻を鳴らした。
嫌だ。
悪夢だ。
戦わなければ良かった。
本当もう、そう叫んで降服したくなった。
玉城は薄暗い茂みの中にあるその岩をいたく気に入ったようだった。(被害妄想) 心なしかのっそりとした足取りに喜び
を嗅ぎつけ(被害妄想)無銘はつくづくこの少女を呪った。(逆恨み)
そして次の瞬間、うねりを挙げる全身の中で右わき腹だけが灼熱の痛みを帯びた。
海老反ってもがきながら状況判断。岩の切っ先が貫通している。つまり、叩きつけられた。
「すみません……要するに、手首と合流させなければ…………いい、です。私の勝ち、です」
「待──…」
抗議の声を無視して玉城は無銘を岩から引き抜いた。さすがに岩が錬金術の産物で、ホムンクルスの無銘に消えない傷を
与えるという馬鹿げた悲劇までは起こらなかったらしく、脇腹は徐々に修復を始めている。だが痛い。すごく痛い。牙を噛み縛
りたいが痛苦特有の激しい息のせいでどうしようもない。そもそも基本的に錬金術の産物以外で傷つけられないホムンクル
スの体を力と速度だけで岩にブッ刺す玉城の恐ろしさ。チワワの頼りなげな体が血しぶきの中でしなる。今度は腰だった。
腰が岩の横肌に叩きつけられた。走るヒビはゆで卵の殻をスプーンで叩いたみたいな奴で、そこに伝わり損ねた衝撃が右
後ろ脚を吹っ飛ばした。
(何という馬鹿力! 何という戦力差!)
茂みに落ちる自分の脚──直接もがれたのではなく、攻撃の余波で、副次的に──に愕然としながら身を揺する。外れる
気配は今のところない。外れたところで状況を打破できる望みもない。手首に向かって駆けた所で、どうせダチョウの速度で
瞬く間に追いつかれるのが関の山……無銘は暗澹たる思いになった。衝撃で首がもげないのが唯一の救いか。
「がっ!」
さらに一撃。さらに一撃。横なぐりの衝撃が立て続けに顔面を襲う。さらにそのまま白い足を高々と上げた玉城はかかと
落としの要領で再度無銘を岩の尖りに叩きつけた。それは第3腰椎を粉々に粉砕した。
絞り出すような絶叫が山あいに響いた。そしてしばらく鈍い音が木霊し──…
数分が過ぎた。