『液状と透明 ①』
私立ぶどうヶ丘学園に、放課を告げる鐘が鳴る。
その音の源泉たる時計塔の、『立禁止』というちょっと奇妙な看板が備え付けられた機関室の中央に『そいつ』はいた。
すぐ身近で大音声で鳴り響く鐘の音にも、『そいつ』はまるで反応らしい反応を見せない。
身じろぎ一つせずに、人が見たら死んでいるのではと思われそうな静謐さで、『そいつ』は床に横たわっていた。
だが──その騒音の中で機関室のドアが開けられたときだけは、『そいつ』の四肢がぴくりと動いた。
「やほー、優くん」
鐘が静まってからそう挨拶したのは、白いスーツの若い男だった。その傍らには、対照的に黒ずくめの大男が立っている。
『そいつ』は本格的に身を起こし、今入ってきたばかりの二人組みを見やった。
「──お前たちか」
『そいつ』は、なんの感情も篭っていなさそうな声音で呟いた。
「しかし、お前──よくこんなうるせー場所で寝てられるな」
黒ずくめの大男が言うのへ、『そいつ』は冷たい一言で切り捨てる。
「お前には関係のないことだ」
ぐ、と大男が苛立ちを見せると、それをとりなすようにさっきの優男が肩をぽんぽんと叩く。
「まーまー。いいじゃないの黒さま」
「お前は黙ってろ! 黒さまって言うな!」
「いやーん、怒らないでー。く・ろ・さ・ま」
「うがー!」
口論してるんだかじゃれ合ってるんだか今ひとつ良くわからない二人組みに、『そいつ』は呆れた素振りで息を吐く。
「それに──寝ていたというのは正確じゃない。いわば『待機状態』だ。
僕の身体は特殊なんでね。代謝機能を極度に低下させることで長期間の生命維持が可能なんだ。
動物の生態に当てはめるなら『冬眠』といったことろだな。
──いや、実際、ここは『隠れ家』としては都合がいい。この場所を教えてくれたことには感謝している」
と、『そいつ』はまるで感謝なんてしてない口ぶりで言う。
「どもどもー。お礼なんていいんだよー」
「それで、お前たちがここに来たということは……『目星』がついたということだな?」
「……ああ。テメーの言う『怪しいやつ』ってのに一番近いのが、こいつだ」
黒づくめの男が寄越した書類に目を落とし、『そいつ』は軽く頷いた。
その瞳はどこまでも乾いていた。
それは、これまで一度も涙を流したことのないような……
そして、その横顔は、まるで血の通っていないような、透き通った白さを保っていた。
顔の造形は良く整っているだけに、その冷え冷えとした雰囲気にはある種の『凄み』さえあった。
「分かった。それでは……この少女を鹵獲して尋問にかける。お前たちも協力しろ」
その大人しそうな風貌から、そんな過激な単語が飛び出すのに、大男はかすかに眉をひそめた。
だが『そいつ』はそんなことは意に介さず、書類を読み進める。
「静・ジョースター、か……。ニューヨークの不動産王の養女で、先週、この学園に短期留学を名目で編入……。
ふん、いわゆる『いいとこのお嬢様』がこんな地方都市の学校に留学だと? いよいよ怪しいな」
「ねー、優くん。ホントにやっちゃうの?」
「なんのことだ?」
「だから、さ。あんま手荒なことはやめといたほうがいいと思うんだけどなー」
優男のへらへらした笑みに、『そいつ』は軽蔑したような視線を返した。
「嫌なら手を引けばいいさ。僕は構いやしない。お前たちは『羽』を手に入れたいんだろう?
僕は『パンドラ』に予言された『羽を追うもの』を排除するために動いている。
そして、お前たちはどうやら僕が追っている者とは違うらしい。
その点で両者の目的は両立し得ると判断したから、こうして協調路線を採っているだけのことだ」
その声は、やはりどこまでも淡々としていた。まるでなにかのライン作業に従事しているかのような気のなさに聞こえる。
だが、黒づくめの男は、その印象とは逆のことを言った。
「──優。お前、なんでそんなに殺気立ってるんだ?」
その言葉に、『そいつ』は初めて感情らしいものを顔に浮かべた。
「……なにを言ってるんだ? 僕は冷静そのものだ。変な言いがかりはやめろ」
「ふん──」
その抗弁を取り合わずそっぽを向いた大男へ、『そいつ』はさらに言い募った。
「聞いているのか、黒わんこ」
「誰が黒わんこだぁっ!」
くるっとこっちを振り返って絶叫する大男を見て、『そいつ』はわずかに溜飲を下した。
「ったくよ──テメーはマジで性格悪ぃな。そこの魔術師といい勝負だぜ」
「そうかい。褒め言葉だと思っておく」
「テメーらはみんな『そう』なのか? ──『合成人間』とかいう野郎どもはよ。え? ユージンとやら」
『そいつ』──合成人間ユージンは、ちょっと考えてからそれに答えた。
「さあね。僕はあまり他の合成人間とは接触していなかったし──それに、僕は『裏切り者』の身だ。
正常な、普遍的な合成人間のメンタリティのことなど分かる訳がない」
その音の源泉たる時計塔の、『立禁止』というちょっと奇妙な看板が備え付けられた機関室の中央に『そいつ』はいた。
すぐ身近で大音声で鳴り響く鐘の音にも、『そいつ』はまるで反応らしい反応を見せない。
身じろぎ一つせずに、人が見たら死んでいるのではと思われそうな静謐さで、『そいつ』は床に横たわっていた。
だが──その騒音の中で機関室のドアが開けられたときだけは、『そいつ』の四肢がぴくりと動いた。
「やほー、優くん」
鐘が静まってからそう挨拶したのは、白いスーツの若い男だった。その傍らには、対照的に黒ずくめの大男が立っている。
『そいつ』は本格的に身を起こし、今入ってきたばかりの二人組みを見やった。
「──お前たちか」
『そいつ』は、なんの感情も篭っていなさそうな声音で呟いた。
「しかし、お前──よくこんなうるせー場所で寝てられるな」
黒ずくめの大男が言うのへ、『そいつ』は冷たい一言で切り捨てる。
「お前には関係のないことだ」
ぐ、と大男が苛立ちを見せると、それをとりなすようにさっきの優男が肩をぽんぽんと叩く。
「まーまー。いいじゃないの黒さま」
「お前は黙ってろ! 黒さまって言うな!」
「いやーん、怒らないでー。く・ろ・さ・ま」
「うがー!」
口論してるんだかじゃれ合ってるんだか今ひとつ良くわからない二人組みに、『そいつ』は呆れた素振りで息を吐く。
「それに──寝ていたというのは正確じゃない。いわば『待機状態』だ。
僕の身体は特殊なんでね。代謝機能を極度に低下させることで長期間の生命維持が可能なんだ。
動物の生態に当てはめるなら『冬眠』といったことろだな。
──いや、実際、ここは『隠れ家』としては都合がいい。この場所を教えてくれたことには感謝している」
と、『そいつ』はまるで感謝なんてしてない口ぶりで言う。
「どもどもー。お礼なんていいんだよー」
「それで、お前たちがここに来たということは……『目星』がついたということだな?」
「……ああ。テメーの言う『怪しいやつ』ってのに一番近いのが、こいつだ」
黒づくめの男が寄越した書類に目を落とし、『そいつ』は軽く頷いた。
その瞳はどこまでも乾いていた。
それは、これまで一度も涙を流したことのないような……
そして、その横顔は、まるで血の通っていないような、透き通った白さを保っていた。
顔の造形は良く整っているだけに、その冷え冷えとした雰囲気にはある種の『凄み』さえあった。
「分かった。それでは……この少女を鹵獲して尋問にかける。お前たちも協力しろ」
その大人しそうな風貌から、そんな過激な単語が飛び出すのに、大男はかすかに眉をひそめた。
だが『そいつ』はそんなことは意に介さず、書類を読み進める。
「静・ジョースター、か……。ニューヨークの不動産王の養女で、先週、この学園に短期留学を名目で編入……。
ふん、いわゆる『いいとこのお嬢様』がこんな地方都市の学校に留学だと? いよいよ怪しいな」
「ねー、優くん。ホントにやっちゃうの?」
「なんのことだ?」
「だから、さ。あんま手荒なことはやめといたほうがいいと思うんだけどなー」
優男のへらへらした笑みに、『そいつ』は軽蔑したような視線を返した。
「嫌なら手を引けばいいさ。僕は構いやしない。お前たちは『羽』を手に入れたいんだろう?
僕は『パンドラ』に予言された『羽を追うもの』を排除するために動いている。
そして、お前たちはどうやら僕が追っている者とは違うらしい。
その点で両者の目的は両立し得ると判断したから、こうして協調路線を採っているだけのことだ」
その声は、やはりどこまでも淡々としていた。まるでなにかのライン作業に従事しているかのような気のなさに聞こえる。
だが、黒づくめの男は、その印象とは逆のことを言った。
「──優。お前、なんでそんなに殺気立ってるんだ?」
その言葉に、『そいつ』は初めて感情らしいものを顔に浮かべた。
「……なにを言ってるんだ? 僕は冷静そのものだ。変な言いがかりはやめろ」
「ふん──」
その抗弁を取り合わずそっぽを向いた大男へ、『そいつ』はさらに言い募った。
「聞いているのか、黒わんこ」
「誰が黒わんこだぁっ!」
くるっとこっちを振り返って絶叫する大男を見て、『そいつ』はわずかに溜飲を下した。
「ったくよ──テメーはマジで性格悪ぃな。そこの魔術師といい勝負だぜ」
「そうかい。褒め言葉だと思っておく」
「テメーらはみんな『そう』なのか? ──『合成人間』とかいう野郎どもはよ。え? ユージンとやら」
『そいつ』──合成人間ユージンは、ちょっと考えてからそれに答えた。
「さあね。僕はあまり他の合成人間とは接触していなかったし──それに、僕は『裏切り者』の身だ。
正常な、普遍的な合成人間のメンタリティのことなど分かる訳がない」
「──世界を救うこと、それは君たちの仕事だ」
その声に、振り返って仰ぎ見ると、ブギーポップはもうそこにいなかった。
静はなんとなく不安な気持ちになり、きょろきょろと辺りに視線を彷徨わせる。
「……あれ? ブギーポップ?」
その呼びかけに応える声は無かった。
「あ、秋月くん?」
ブギーポップの『正体』である少年の名前を口にしても、やはり反応は出てこない。
えっちらおっちらと屋上の塔屋の給水タンクによじ登ってみたが、もはや人っ子ひとり見当たらなかった。
「ど、どこ行っちゃったの……?」
つい数秒前までは、確かにこの場所に、謎の怪人『ブギーポップ』がいて、静と会話を交わしていたというのに。
ふと、首筋に涼しい風を感じる。
「うわあ……」
眼下には、放課後の学園風景が大パノラマで広がっていた。
遮るものがなにも無い視界には、学園内にいる生徒たちの姿が驚くほどはっきりと見えていた。
校庭ではたくさんの運動部が思い思いの種目で汗を流していたし、
校門あたりでは何人かの女子生徒がたむろして井戸端会議に花を咲かせているようだった。
それらを見るともなく見渡しながら、静は感慨深げに溜息を漏らす。
「なんか……すごいな……」
ブギーポップの視点というものを実感して、なんとなく静は嬉しくなった。
これが彼(彼女?)の見てる世界なんだなあ、と、妙にこそばゆい気分になる。
視線を転じると、太陽がいつの間にか西へと転じていた。
さっきまでは直視できない眩しさを放っていたものが、うっすらと赤味を帯びて静の目に映る。
「……あ。こうしてる場合じゃなかったんだ」
我に返ってそろそろ降りようと思い立つが、さて、
「あ、あれ? どうやって登ったんだっけ?」
猫かよ、と自分に突っ込みつつも、降りれなくなったことに途方に暮れる。
給水タンクのほうは梯子がついてるから問題なかったが、塔屋の梯子は錆びて崩れかけており、しかも上半分で途切れていた。
下を覗いてみると、登るには適した足場がいくつもあったが、それを使って降りられるか、というのには自信が無かった。
「……でも、登れたんだから降りられるはずだよね……?」
そう自分に言い聞かせ、四つん這いになって塔屋の淵に膝を置く姿勢から、一番近い足場へ恐る恐る脚を伸ばす。
足の裏に確かな感触があるのを確認し、そこにゆっくりと重心をかける。
と、
「きゃ」
ずるっと滑り、静の身体がバランスを崩す。
なんとか淵にしがみついてこらえようとしたが、足場を得ようと脚をばたつかせたのが災いし、すぐに支えを失ってずり落ちた。
咄嗟に頭を庇い、落下に備えた。一瞬遅れて、どん、という衝撃が静の胴体に走る。
だがそれは、想像していたよりもずっとソフトなものだった。
痛みという点でなら、まるきりなにも感じなかった。
「……あれ?」
不思議に思う静だったが、
「……あ。あーっ!」
痛みがなかった原因を理解し、そして真っ青になった。
厳密に言うなら、静は着地していなかった。コンクリートの床と静の身体の間に、緩衝材が挟まっていたのだ。
「い、痛た……」
──それは人間だった。
もっと言うなら、見ず知らずの男子生徒だった。
静のお尻が、大の字に伸びた彼の背中にちょこんと乗っかっていた。
「ご、ごめんなさい!」
泡を食ったように彼から飛び降り、その腕をつかんで引き起こす。
「だ、大丈夫ですか……?」
静が謝意を前面に押し出して訊くと、その男子生徒は気弱そうな微笑を見せた。
「はい。大丈夫です。あなたのほうこそどうなんですか? 怪我は?」
「え、あの……はい。あの、お陰様で」
気恥ずかしさと申し訳なさとで混乱した静は、馬鹿みたいになんども首を縦に振った。
「いやあ、でも驚きましたよ。屋上に出たら、いきなりあなたが落ちそうになってたんですから」
と、彼は塔屋に設置されたドアを指差す。開けられたドアの向こうには、階下につながる階段が見えた。
なるほど、と静は思う。
そりゃ、屋上に出てふと上を見たら誰かが落下寸前だった、というシチュエーションは驚くしかないだろう。
(……あれ?)
静は『あること』に気がつく。自分は塔屋の淵に上半身だけでしがみついていて、彼はちょうどドアのところにいて、
つまり、その、なんと言うか自分の下半身と彼の目線の位置関係的に──。
(み、見えてた!?)
ぼっ、と顔が瞬時に赤くなるのが自覚される。
問いただそうと咄嗟に思うが、
(き……訊ける訳ない!)
「ところで……どうしてあんなところにいたんですか?」
一人で勝手にオーバーヒートしていた静は、その質問でやっと冷静さを取り戻した。
「は、はい?」
「ですから、なんであんな高いところに?」
冷静になったのはいいが、それはそれで答えに困る問いだった。
『世界の敵の敵』を自称するコスプレ少年との交流を、なんと言って説明したらいいのだろうか、と。
なんか適当なことを言って誤魔化せたらいいのだろうが、そんな都合のいい言い訳はすぐには浮かんでこなかった。
こうなると十和子の口の上手さが羨ましくもある。
「えーと、それは」
「言いにくいことですかね」
と、その男子生徒は静の困惑を汲み取って先回りした。
「まあ、誰にだって秘密はあるものですよね」
それはどこか達観しているような口振りだった。どこと知れぬ場所を見つめているような遠い目で、彼は静かに言った。
「端から見れば、大したことの無いように見えても、本人にとっては『それ』が大切だということもあります。
そうした場合、『それ』はどうしても秘密にせざるを得ないでしょう。この残酷な世界から、『それ』を守り通すために」
最初はあまり気にしていなかったが、改めて見ると、ちょっと見は女の子と見間違えてしまうくらいに、整った顔立ちをしていた。
なんとはなしに、静は彼が話す横顔をぼうっと眺めていた。
なので、彼が、
「だが──この状況に限っては話が別だ」
と、がらっと口調を変えたときもすぐに頭を切り替えることが出来なかった。
「静・ジョースター」
名前を呼ばれ、静は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受ける。
フルネームを知られてることに驚いたのではない。彼のその声音に、なにも感じられなかったからだ。
人が人として当然持ちうるべきもの──感情が、彼の言葉から消えていた。
彼は流れるような動作で立ち上がり、そして静のセーラー服の襟に手を掛け、そして──。
「……ぅぁっ!」
無造作に、そしてその細い腕からは想像も出来ない力で、静の身体は弧を描いて塔屋の壁に叩きつけられた。
「なにがなんでも吐いてもらうぞ……。君は──なぜここにいる? 君は何者だ?」
乾いた響きが、静の耳元で囁かれた。
その声に、振り返って仰ぎ見ると、ブギーポップはもうそこにいなかった。
静はなんとなく不安な気持ちになり、きょろきょろと辺りに視線を彷徨わせる。
「……あれ? ブギーポップ?」
その呼びかけに応える声は無かった。
「あ、秋月くん?」
ブギーポップの『正体』である少年の名前を口にしても、やはり反応は出てこない。
えっちらおっちらと屋上の塔屋の給水タンクによじ登ってみたが、もはや人っ子ひとり見当たらなかった。
「ど、どこ行っちゃったの……?」
つい数秒前までは、確かにこの場所に、謎の怪人『ブギーポップ』がいて、静と会話を交わしていたというのに。
ふと、首筋に涼しい風を感じる。
「うわあ……」
眼下には、放課後の学園風景が大パノラマで広がっていた。
遮るものがなにも無い視界には、学園内にいる生徒たちの姿が驚くほどはっきりと見えていた。
校庭ではたくさんの運動部が思い思いの種目で汗を流していたし、
校門あたりでは何人かの女子生徒がたむろして井戸端会議に花を咲かせているようだった。
それらを見るともなく見渡しながら、静は感慨深げに溜息を漏らす。
「なんか……すごいな……」
ブギーポップの視点というものを実感して、なんとなく静は嬉しくなった。
これが彼(彼女?)の見てる世界なんだなあ、と、妙にこそばゆい気分になる。
視線を転じると、太陽がいつの間にか西へと転じていた。
さっきまでは直視できない眩しさを放っていたものが、うっすらと赤味を帯びて静の目に映る。
「……あ。こうしてる場合じゃなかったんだ」
我に返ってそろそろ降りようと思い立つが、さて、
「あ、あれ? どうやって登ったんだっけ?」
猫かよ、と自分に突っ込みつつも、降りれなくなったことに途方に暮れる。
給水タンクのほうは梯子がついてるから問題なかったが、塔屋の梯子は錆びて崩れかけており、しかも上半分で途切れていた。
下を覗いてみると、登るには適した足場がいくつもあったが、それを使って降りられるか、というのには自信が無かった。
「……でも、登れたんだから降りられるはずだよね……?」
そう自分に言い聞かせ、四つん這いになって塔屋の淵に膝を置く姿勢から、一番近い足場へ恐る恐る脚を伸ばす。
足の裏に確かな感触があるのを確認し、そこにゆっくりと重心をかける。
と、
「きゃ」
ずるっと滑り、静の身体がバランスを崩す。
なんとか淵にしがみついてこらえようとしたが、足場を得ようと脚をばたつかせたのが災いし、すぐに支えを失ってずり落ちた。
咄嗟に頭を庇い、落下に備えた。一瞬遅れて、どん、という衝撃が静の胴体に走る。
だがそれは、想像していたよりもずっとソフトなものだった。
痛みという点でなら、まるきりなにも感じなかった。
「……あれ?」
不思議に思う静だったが、
「……あ。あーっ!」
痛みがなかった原因を理解し、そして真っ青になった。
厳密に言うなら、静は着地していなかった。コンクリートの床と静の身体の間に、緩衝材が挟まっていたのだ。
「い、痛た……」
──それは人間だった。
もっと言うなら、見ず知らずの男子生徒だった。
静のお尻が、大の字に伸びた彼の背中にちょこんと乗っかっていた。
「ご、ごめんなさい!」
泡を食ったように彼から飛び降り、その腕をつかんで引き起こす。
「だ、大丈夫ですか……?」
静が謝意を前面に押し出して訊くと、その男子生徒は気弱そうな微笑を見せた。
「はい。大丈夫です。あなたのほうこそどうなんですか? 怪我は?」
「え、あの……はい。あの、お陰様で」
気恥ずかしさと申し訳なさとで混乱した静は、馬鹿みたいになんども首を縦に振った。
「いやあ、でも驚きましたよ。屋上に出たら、いきなりあなたが落ちそうになってたんですから」
と、彼は塔屋に設置されたドアを指差す。開けられたドアの向こうには、階下につながる階段が見えた。
なるほど、と静は思う。
そりゃ、屋上に出てふと上を見たら誰かが落下寸前だった、というシチュエーションは驚くしかないだろう。
(……あれ?)
静は『あること』に気がつく。自分は塔屋の淵に上半身だけでしがみついていて、彼はちょうどドアのところにいて、
つまり、その、なんと言うか自分の下半身と彼の目線の位置関係的に──。
(み、見えてた!?)
ぼっ、と顔が瞬時に赤くなるのが自覚される。
問いただそうと咄嗟に思うが、
(き……訊ける訳ない!)
「ところで……どうしてあんなところにいたんですか?」
一人で勝手にオーバーヒートしていた静は、その質問でやっと冷静さを取り戻した。
「は、はい?」
「ですから、なんであんな高いところに?」
冷静になったのはいいが、それはそれで答えに困る問いだった。
『世界の敵の敵』を自称するコスプレ少年との交流を、なんと言って説明したらいいのだろうか、と。
なんか適当なことを言って誤魔化せたらいいのだろうが、そんな都合のいい言い訳はすぐには浮かんでこなかった。
こうなると十和子の口の上手さが羨ましくもある。
「えーと、それは」
「言いにくいことですかね」
と、その男子生徒は静の困惑を汲み取って先回りした。
「まあ、誰にだって秘密はあるものですよね」
それはどこか達観しているような口振りだった。どこと知れぬ場所を見つめているような遠い目で、彼は静かに言った。
「端から見れば、大したことの無いように見えても、本人にとっては『それ』が大切だということもあります。
そうした場合、『それ』はどうしても秘密にせざるを得ないでしょう。この残酷な世界から、『それ』を守り通すために」
最初はあまり気にしていなかったが、改めて見ると、ちょっと見は女の子と見間違えてしまうくらいに、整った顔立ちをしていた。
なんとはなしに、静は彼が話す横顔をぼうっと眺めていた。
なので、彼が、
「だが──この状況に限っては話が別だ」
と、がらっと口調を変えたときもすぐに頭を切り替えることが出来なかった。
「静・ジョースター」
名前を呼ばれ、静は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受ける。
フルネームを知られてることに驚いたのではない。彼のその声音に、なにも感じられなかったからだ。
人が人として当然持ちうるべきもの──感情が、彼の言葉から消えていた。
彼は流れるような動作で立ち上がり、そして静のセーラー服の襟に手を掛け、そして──。
「……ぅぁっ!」
無造作に、そしてその細い腕からは想像も出来ない力で、静の身体は弧を描いて塔屋の壁に叩きつけられた。
「なにがなんでも吐いてもらうぞ……。君は──なぜここにいる? 君は何者だ?」
乾いた響きが、静の耳元で囁かれた。