明け方近くに帰って来ると言っていたはずのお父さんからかかってきた電話で、あたしは目を覚ました。
半分眠ったままの頭で聞いていた話によると、なんだかどこかの誰だかに不幸があったらしい。なにしろ半分眠ったままだったのでよく憶えてない。
はっきり憶えてるのは、予想外に帰りが遅くなりそうだっていうことだけ。下手したら今日明日では帰れないかもしれないって。
やっぱり寝ぼけたままだったあたしは、ユージくんが泊まりに来てくれるから大丈夫、とだけ答えて電話を切っていた。
受話器の向こうからはお父さんの声が聞こえていたかもしれないけど、よくわからない。なんと言ってもあたしは寝ぼけていたのだ。別に威張ることじゃないかもしれないけど。
寝直して起きた後でユージくんにそのことを話すと、あっさりとOKしてくれた。一人で留守番することもそうだけど、まだあたしの体調を心配してくれているらしい。
・・・気まずい。
そんな気まずさを抱えたまま登校して、気がつけばもう授業も終わっていた。
今日は部活がない。ないんだけど、あたしは道場へと向かっていた。昨日干しておいた洗濯物を取り込んでおかないといけない。
・・・本当は昨日のうちにやっておくべきことだったんだけど、昨日はその、あんなことがあったもので、動転して忘れていたのだ。
道場へと辿り着き、洗濯機のある方へと向かおうとしたところで・・・
なにか、聞こえた。
・・・なんだろう。道場の外からじゃない、中からだった。
道場の中を見渡す。けれど、別になにもない。
・・・また聞こえた。なんだろうか。声みたいだったけど。
えっと、今のは・・・
「・・・ジ、くん・・・」
あ、また。今度はさっきより大分はっきりと聞こえた。出所もわかった。男子更衣室の方だ。
あたしはそろりそろりとそちらへ近づき、扉に耳を当てた。泥棒だろうか? それとも、昨日みたいに・・・いやいや、あんなことが二日連続であるはずがない。
「あ、ん・・・ユージ、くん・・・っ!」
・・・ユージくん?
あたしは眉をひそめた。わからないことは三つ。
まず一つ、聞こえたのが女子の声だったということ。ここは男子更衣室のはずなのに。
次の一つ、なんでそこでユージくんの名前が出てくるんだろうということ。ユージくんならあたしを待って自転車置き場にいるはずなのに(帰る家が同じなんだから仕方がない)。
そして最後の一つ、聞こえてきた声が、耳に憶えのあるものだったということ。これは・・・
疑問を解明したいという欲求に勝てず、あたしは扉を開いた。
「東さん? ユージくんがどうし・・・」
そして、そのまま動きを止めた。
「・・・っっ!!!???」
同時に、中にいた彼女も動きを止めたらしかった。
そのまましばし、なんだかよくわからない空気をまとった沈黙が訪れる。
・・・あたしが動きを止めた理由は簡単だった。単純に、室内の状況がちっとも理解できなかったからだ。
更衣室の中にいたのは、予想した通りに東さんだった。うん、それは別にいい。
ただ、そもそもどうして男子更衣室にいるのか、それがわからない。
もう一つ、どうして下着を膝の辺りまで下ろしているのか、それもわからない。
更にもう一つ、ユージくんのロッカーの前で籠手(たぶんユージくんのなんだろう)をスカートの中に潜り込ませているのはどうしてなのか、それもわからない。
とどめにもう一つ、顔を真っ赤にして目も潤ませて、しかも息まで荒らげているのはどうしてなのか、それもわからなかった。あ、これは一つじゃないかな。
わからないことだらけだった。当然、東さんがあたしの方を見たまま石化している理由もわからない。
「・・・東さん? どうしたの?」
それになにしてるの? と聞こうとしたところで。
見る見るうちに、東さんの顔色が赤から蒼白へと変わった。持っていた籠手を取り落として、かたかたと小刻みに首を振動させる。
「タ、タ、タ、タ、タマちゃ、いえ、これは、あの、その、ちが、違うんです、わた、私はその、別に、いやらしいことをしていたわけでは、その、なくってですね!」
言っているうちに、東さんの目にじわりと涙が浮かんできた。
「あ、あの、ですから、これは、その、アレなんです! 陰謀なんです! きっとそうです! そうに決まってます!」
必死に弁明? をしながら、けれど東さんはその場にぺたんと座り込んでしまった。
・・・しくしくと泣き声を上げる。
「あ、ああ・・・よりによって、タマちゃんに見られるなんて・・・もう、ここまで来るとドジとかそういうレベルじゃない・・・」
「・・・東さん、さっきからなんの話してるの?」
よくわからないまま動転した挙句に落ち込まれ、あたしは疑問を口に出していた。せめてちゃんと説明して欲しい。
東さんは俯いたまま、やっぱり鳴き声で答えてきた。
「なんのって・・・その、見たまんまというか。抑えきれない衝動に身を任せてしまった結果と言うか、そんな感じのアレです」
ごめん、さっぱりわからない。
とりあえず東さんの方に近づいて、あたしは開かれたロッカーを見た。うん、やっぱりユージくんのだ。
「それ、ユージくんの籠手だよね? なにしてたの?」
東さんが床に落とした籠手を見ながら聞いてみる。あれ、なんか親指のところが濡れてるような?
と、東さんが顔を上げた。
「・・・あの、タマちゃん」
「なに?」
「もしかして・・・本気で聞いてます?」
「?」
その質問の意味はよくわからなかったけど、ともかく東さんは泣き止んでいた。ていうかどうして泣いてたんだろう。
「あ、いや、でも、タマちゃんならあるいは・・・」
「???」
あたしは眉をひそめた。なんだろう、あたしがどうしたんだろう。そしていつになったらこの状況の説明をしてくれるんだろう。
こほん、と咳払いをしてから、東さんは立ち上がった。
「あ、あの、タマちゃん。厚かましいお願いなんですけど・・・ここで見たこと、全部胸の中にしまっておいてもらえますか?」
「・・・? どうして?」
「どうしてもですっ! お願いします! ちゃんと説明しますから! 一から十まで! だからお願いしますっ!!!!」
さっきまでとは打って変わった気迫で言い寄られ、あたしは思わずこくこくと頷いていた。よくわからないけど、口外しない方がいいならしない。
ふう、と東さんがため息をつく。
「ありがとうございますタマちゃん。じゃ、じゃあその、説明しますけど・・・」
と、再び顔を赤くしつつ、東さんがあたしの肩からを手を離す。
あ、その前に東さん。
「・・・下着、上げないの?」
指摘すると、彼女はもの凄い勢いで下着を本来の位置に戻した。
・・・別に、それほど長い説明だったっていうわけじゃない。十分くらいだろうか。
「・・・とまあ、その、そういうわけ、なんです。タマちゃん、わかってもらえました?」
あたしは答えられなかった。たぶん、目の前の東さんと同じくらい顔が真っ赤になってると思う。
こんな場所で、しかもユージくんの防具を使って、東さんがそんなことに耽っていたっていうのも充分に驚くべき事実なんだけど・・・それ以上に。
あたしの脳裏には、昨夜の出来事が蘇っていた。
つ、つまり・・・あれも、そういう行為だったのだ。だから、その、なんて言うか・・・せ、性欲をどうにかするための。
あたしが返事をしないのを見て不安になったのか、東さんが再び詰め寄ってくる。
「あ、あの、タマちゃん。ホントに、みんなには内緒にしててくださいねっ!? お願いしますねっ!?」
「う・・・うん」
するわけがない。今正に同じ羞恥を味わっている身として、彼女の考えは痛いほど理解できた。
東さんは更にもう一度だけ「お願いしますねっ!!」と念押ししてから、更衣室を出て行った。なんだか歩き方がおかしかったけれど、それは別にいいとして。
・・・あたしは、と言えば。
その場を動けなかった。
・・・なんてことだ。昨夜の、あれが。そんな行為だったなんて。
ユ、ユージくんの・・・その、それを使って、あたしはそんなことをしていたのだ。恥ずかしくて死にそうだった。
さっきの東さんの動揺が、今は嫌というほど共感できた。うん、もう恥ずかしいとかそういう問題ですらないのかもしれない。
頭がぼーっとしていた。考えたくないし、考えるべきじゃないってわかっているはずなのに、昨夜の記憶が鮮明にフラッシュバックしてくる。
・・・どうしよう。ユージくんの顔をまともに見られるんだろうか。ていうか、ユージくん今日もうちに泊まるのに。
それでもどうにか、更衣室を出ようと踵を返したところで・・・
床に落ちたままの、ユージくんの籠手が目に入った。
・・・あたし、とんでもないこと考えてる。