東方秋狼記
第五話:それでこそ淑女である!
まるで咆吼のような唸り風とすれ違い、静流は足を止めた。止めざるを得なかった。
見回しても何もいない。同じく足を止めた夏目が、じっと慧音のいる方向を睨んでいるだけ。それ以外は、いつ見ても変わらない風景だ。月明かりに照らされた稲が瑞々しく、夜風に揺れている。
……いや、違う。
虫の声がしない。先程までやかましく鳴いていた虫たちが、ぱったりと鳴くのをやめ、何かに怯えるようにじっと息を潜めているのだ。唸り風に、人間にはわからない『何か』を感じ取ったのだろう。この幻想郷で鈍いのは人間だけだと猟師は言っていた。
だとしたら今、周囲に広がる妖気の揺れを感じ取っている静流は果たして人間か。
「夏目、気を付けなよ。妖怪が近くにいる」
「なんだお嬢。そんなことがわかんのか?」
「それなりにはね。だからこんな時間に出歩けるんだよ」
物心付いたときには霊感があった。わずかながら霊力も備えている。
もちろん、弾幕なんて夢のまた夢という程度だが、無いよりはずいぶんマシだ。こうやって危険を察知できる。そこからは、努力次第といったところか。
「おい……こんなにホタルいたっけか?」
「いなかったよ。何かに呼ばれたんだろうさ」
人里の周辺には蟲を操る妖怪がいるという。静流の記憶が正しければ、そいつはホタルの妖怪だったはずだ。見る間にホタルの光が辺りを取り囲み、不規則な明滅を繰り返している。通さじという意思表示だとすぐにわかった。根拠など無い。ただの、勘だ。だが、霊感を持つ者の勘を馬鹿にしてはならない。
「この近くかはわからないけど、妖怪がいるよ」
「へぇ。お洒落なお出迎えだこって」
「ふざけてる場合じゃないよ馬鹿。相変わらず危機感のないヤツだなぁッ」
今は悪態をつく暇も惜しい。
脳天気な夏目にキックを入れながら、静流はすでに駆け出していた。
「囲まれてから危機感なんざ持っても仕方ねえよ、っと!」
しかし夏目はそんな事お構いなしにその場に留まり、脚を振り上げた。
だんっ、と打ち合うような音が響く。振り返れば、夏目が黒マントの少女の跳び蹴りをハイキックで受け止めていた。緑のショートカットに、ぴょこんと生えた触角。あれが、蟲を操る妖怪だ。彼女は、背後から静流に襲い掛かろうとしていたのだ!
この状況で、夏目は不意打ちに気付いたというのか。
「私のキックを受け止める人間なんて久しぶりだよ!」
緑髪の妖怪は何が面白いのか、不敵に笑いながら宙に浮かんでいる。
「おいおい、浮いてやがるぞ。流行りなのか?」
「そんなわけないだろ。種族にもよるけど、力のある妖怪は飛べるんだよ」
説明しながら静流は腕を一振りし、両袖から紙の束を取り出した。封紙帯を咬みちぎり、扇のように広げる。それら全てに簡潔な紋様が描かれているのがわかる。
それを一切の迷いも無く、投げた。
「急ぎ急げ律令の如く!」
瞬間、青光が弾けた。小さな光の爆発が、ホタルもろとも緑髪の妖怪を飲み込む。
「うわぁッ!?」
——霊撃符。
呪符に溜めておいた霊力を瞬時に解き放ち炸裂させる代物だ。当然、その威力は術者の霊力に比例する。静流が使ったところでせいぜい逃げる間の時間稼ぎにしかならないが、今はそれで十分だ。
「逃げるよ夏目ッ!」
「あ、おい!?」
有無を言わさず夏目の手を引いて静流は逃げ出した。
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霊撃の余波がかすかに残る道の上、
リグル=ナイトバグは仰向けに倒れたまま困ったように嘆息した。
「あーあ。せっかく親切心で止めてあげたのに。最近の人間はホタル様への礼儀がなっちゃいないよ」
『うーむ。そもそも君が妙な奇襲など掛けるからであろう』
窘めるように声を上げたのは、彼女の胸ポケットに突っ込まれたペーパーナイフだった。西洋の剣を象っているのだろう。柄にも鞘にも丁寧な細工が施されている。どこか育ちが良さそうに見えるリグルにはお似合いの品かもしれない。
ペーパーナイフは尚も続ける。
『リグル君、吾輩は可及的速やかに追い掛けることを推奨しよう』
「わかったよ……」
『天晴れ! それでこそ紳士である!』
「だから、女だってば」
『それでこそ淑女である!』
「……はぁ、面倒なもの拾っちゃったなぁ」
肩を落とし、リグルはふらふらと飛び始めた。
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それはまるで黒いビロードの塊だった。ヘドロのように流れる表面は、あるいは月光を跳ね返す毛並みなのかもしれない。その身に獲物を固定する黒糸は、絹よりも滑らかで、麻糸よりも無骨。一目でそれが化け蜘蛛だと看破できたのは、ついさっき蟲を操る妖怪に出くわしたからだろう。
巨大ではないが、人の身には余る大きさ。約3メートルの高みでぬらりと光る八つの目はどこまでも不気味で、怖気がした。
だがそれよりも静流の芯を震え上がらせたのは、腹から血を流す慧音の姿だった。
「先生ッ!?」
思わず出た声は悲鳴だったのか絶叫だったのか。
慧音は弾かれたようにこちらを振り向き、絶句した。苦しげだった表情が瞬く間に驚愕へと転じる。なぜここにいるのか、理解しかねている様子だった。そしてその戸惑いは今この場において致命的だった。
虫特有の、予備動作のない動きで放たれたのは脚の一閃。
「ぐ……ぁッ」
慧音はまるで鞠のように地面をバウンドし、静流の目の前で制止した。もはや手を動かす力も残っていないようだった。
「先生、しっかりしなよ!」
静流が抱き起こすと、慧音は悔しそうに微笑んだ。
「ごふッ……不甲斐ないところを見せてしまったな……荒事はどうにも苦手なんだ……」
「しゃべっちゃダメだよ先生!」
「早く、逃げて……ここは、あいつの巣だ……」
——先生がこうも一方的にやられるなんて、何がどうなっているんだ!?
心中で叫ぶ静流の横で、夏目は白紙のスペルカードを手に、ただ異形の化け蜘蛛に鋭い眼光を向けていた。
ここまで平然とされると気味が悪い。
さっきといい今といい、この男は何かが『普通』ではなかった。
——おまえは何者なんだ。
静流の疑問を感じ取ったのか、夏目はポケットに手を突っ込んだまま振り返りもせずに肩をすくめた。その動作は、どこか妹紅に似ている。何かを諦めて、何か人とは違うものが視えているような。
「ヤバイ状況には慣れてんだよ。ここは俺に任せて、お嬢は先生を連れて下がってな」
確信に満ちた声。
何か言おうとして、しかし静流は言葉を飲み込んだ。
いつの間にか、夏目の周囲を黒い帳が囲っている。
まるで生きているかのように、影が起き上がっているのだ!
「行くぜ、人喰い。てめぇの世界を喰らってやんよ」
途端、スペルカードが若草色の炎に包まれ——
——バルルルォォォオンッ!!
それは地の底から響いてきた。
——バルルルォォォオン!
獣の雄叫びを思わせるエグゾースト・ノイズが、夜闇を震わせる。
黒いライダースーツとフルフェイスに包まれた夏目の姿は、まるで騎士だった。
肘から後ろに伸びるエグゾーストパイプは陽炎のように影を噴き出し、足を包む車輪は地面に突き刺さっているかのような重みを感じさせる。あれなら壁であろうと走ることができると、見るものに確信させるようなフォルムだ。
武器はないが、無手ではない。夏目が着ているものは、紛れもなく武装だった。
——バルルルォォォオンッ!!
空気を震わせず、影を震わせる排気音。
地面を抉るような摩擦音を上げて、人型の戦車が疾駆する。
爪を突き立てろ!
深く! 深く!
遮る壁をぶち抜くほどに!
「らぁぁぁぁぁぁぁぁああッ」
夏目は突進の勢いを一切殺すことなく肉迫すると無造作な右ストレートを蜘蛛の顔面に叩き込んだ。戦車の主砲でも当たったかのような衝撃音と共に、蜘蛛の体が揺れる。
【—〜〜—__ ̄ ̄—〜ッ!】
唸り風が静流の鼓膜を震わせる。それは、化け蜘蛛の絶叫だった。
だがそれも一瞬のことで、即座に黒い汚泥が夏目を軽々と弾き飛ばした。まともに受ければ骨がバラバラに砕けかねないほどの衝撃を、影の衣が極限まで減衰させていく。まるで海を殴っているかのような違和感に、追い打ちが一瞬だけ遅れた。
次々と放たれた黒糸が、どれも一歩間に合わず軌道上の地面にいくつも突き刺さる。
——バルルルォォォオンッ!!
夏目は地に足を着け体勢を整えると、最後の黒糸を真っ向から殴りつけて弾いた。
その瞬間、蜘蛛の姿が消え——
「ふんッ! さぁて、覚悟はできてんだろうなぁ……!?」
背後から伸びてきた黒い爪をガシッと脇に抱え、夏目は振り返りながら獰猛に唸る。
だが……何かがおかしい。軽すぎる。
「違う、上だ夏目ぇッ!」
切羽詰まった静流の声。
弾かれるように上を見た夏目の視界に飛び込んできたのは、脚を一本切り捨てて高々と跳躍する黒い汚泥の姿だった。化け蜘蛛と呼ぶには、その姿は変幻自在すぎる。七つの突起を広げて宙を舞うように移動する姿は、まるで海妖として知られる大蛸だ。
周囲を照らす月が、ヤツにすっぽりと隠される。
次の瞬間——ヤツの下面、腹にあたる場所がバックリと開いた。
円形に整列した鋭利な歯がぬらりと覗く。
——ヤバイ!
【−—— ̄ ̄ー ̄——_ ̄ ̄——−—!】
今度のは唸り風と呼べるようなものではなかった。
うねり、
渦を巻き、
空気の壁をこじ開けるように天から落ちてくるそれは——竜巻。
「うわぁあああ夏目ぇーッ!」
「お嬢ッ!?」
慧音を抱きかかえたまま、静流が竜巻の中へと消えていく。
恐怖に涙を流す彼女へ手を伸ばすが、遠すぎる。その間にも竜巻はどんどん膨れ上がり、ついには夏目をも飲み込んだ。
あとがき
どうも。第五話で区切れなかったことで深い悲しみに包まれた36です。
やっと夏目くんが本気出しました。でも解説も無しに影を使うってのはどうなんでしょう(汗) 何年か前に作った設定を引っ張り出してみたものの、タイミング的に勘違いされそう。あっちも大好きですけどね!(何の話だ) 伏線は第一話からあったんですよ? 「影踏んだ」って。
どうやら説明の入れ方を勉強しなきゃならないのは確定的に明らかなようです。
※推敲もほどほどに上げたので、後で手直しするかも。
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最終更新:2010年08月05日 16:23