目を開けると、月が異様に近かった。
雲もなく、ただ静かに澄んだ風だけが流れている。少し、息苦しい。全身を包む浮遊感が、なんとも気持ち悪かった。
——生きてる、のか……?
ぼーっと月を眺めながら、安堵に胸をなで下ろす。とりあえずは、助かった。霊壁は木っ端微塵に砕かれてしまったみたいだが、腕も脚もある。慧音もどこかに飛ばされたりはしていない。ここまでは運が良かった。
「ここはどこだ……?」
自問する。その答えはすぐに返ってきた。
ぐん、と背後から体を引っ張られる感覚と共に、月がどんどん遠ざかり始めたのだ。真下から風が吹き付けてくる。それもこれも自分が落下しているせいだと気付いた時には、何もかもが手遅れだった。
「ぅわああああぁぁぁぁぁ〜ッ !?」
自分の悲鳴すら彼方へと流れていく。
「くそ、このままじゃ……なッ」
下を見て絶句した。先程まで自分が立っていた河原が遥か遠くにある。どうりで月が近かったわけだ、などと感心する余裕もなく静流は必死で頭を働かせた。
空は飛べない。呪符もあらかた使ってしまった。頼みの慧音は気を失っている。
半ば諦めかけたその時、ぐん、と何かに背中を押し上げられた。
「ぐぁッ」
慧音との間に挟まれ、呻き声と共に肺の中の空気が押し出される。苦しさのあまり腕の力が緩み、慧音が腕の中から弾き出される。何かに引っ掛かったのだと気付くや否や、静流の目に信じられないものが飛び込んできた。
「これは、蜘蛛の巣……ッ!?」
月を背景に規則正しく幾何学的に張り巡らされた真っ黒い糸。静流の知っているそれと比べればあまりにも巨大だが、それは見間違えようのないほどに典型的な蜘蛛の巣の形をしていた。慧音が引っ掛かっているのが視界の隅にちらりと見えた。
嫌な予感に、静流はごくりと喉を鳴らした。
ここはヤバイ。本能は全力で警鐘を鳴らしているというのに、手足が動かない。見れば両腕両足に黒い糸が絡みついている。蜘蛛の巣に掛かった虫の末路を思い浮かべて、静流はぶるりと身を震わせた。
「このッ、放せよ馬鹿!」
悪態をついても、もがいても、糸はどんどん絡まっていくだけで緩む気配もない。
——ォォォッ
ざわり、と身の毛がよだつのを感じて見上げると案の定、黒い汚泥の塊のような不定形の蜘蛛が赤く光る八つの目をぎらつかせていた。波打ち流動する体の中、ぎらりと並んだ歯が覗いている。
慧音でも敵わなかった怪物に、残ったわずかな霊符が通じるとは思えない。
長い、長い脚が持ち上がる。その鋭利な先端は、まっすぐに静流へと落ちてくる。
……こんな終わりだっていうのか?
心臓が、どくんどくんと早鐘を打つ。
頭が、がんがんと痛む。
「そんなの、認められるわけないだろうッ!?」
真っ白になる視界の中、静流は吼えた。全力で拒絶し、相手を呑むような叫びだった。
——その瞬間、信じられないことが起きた。
「え……?」
静流は自分の目を疑った。本当に一瞬だけ、異形の蜘蛛の動きが完全に停止したように見えたのだ。制動も何もなく、まるで時が止まったかのように。だがそれも一秒と続かない。
ほんの少し震えた後、鋭利な爪は再び進撃を始め、真っ直ぐに静流へと伸びてきた。
しかし、一寸も進まぬうちに脚は再び停止した。
「何が、起きたっていうのさ」
今度は数秒だ。そればかりか、異形の蜘蛛は自分が止まっていることに気付いたらしく八つの目に戸惑いの色を浮かべ、別の脚で周囲の空間を探り始めたではないか。
幻覚なんかじゃなかった。
何が起きたのかはわからないが、異形の蜘蛛の動きは二回、確かに完全に停止したのだ。理屈なんてどうでもいい。とにかく、チャンスはできた。自信は全く無いが、呪符無しの霊撃でこの鬱陶しい糸を弾いてやる。
今度は生き抜くための覚悟を決めて、精神を集中させたその時だった。
「よくわからないけどチャンスってワケだね!」
『その通りである!』
「カッ飛ばすよ! 季節外れのバタフライストームッ!」
どこかで聞いたことのある声と共に、大量の光弾が異形の蜘蛛に降り注いだ。
光弾は蜘蛛の巣を細切れにしながら異形の蜘蛛を打ちのめしていく。声のした方を見れば、緑髪に黒マントの妖怪がナイフ片手に突っ込んでくるところだった。
「リグルスラァアッシュ!」
威勢良く振り上げられた一撃。それは鮮やかとは言い難かったが、静流を拘束する黒糸を確かに縦一文字に切り裂いた。それだけで糸は散り散りになり、遥か地面へと落ちていく。そしてそれは当然静流も同じ事で。
「あッ馬鹿ぁあああッ!?」
「おっと危ない」
支えを失い落下する静流の腕を、緑髪の妖怪
リグルが掴んだ。おどけた調子で首を傾げる。
「セーフ、かな?」
「……助かったよ」
『よくぞ頑張った! 吾輩は君に敬意を表しよう!』
リグルのものとは違う、渋く老成した男性の声が朗々と響く。見回しても誰もいない。わずかに感じる妖力を辿ると、先程糸を切り裂いたペーパーナイフに行き着いた。ずいぶんと使い込まれている。なかなか高価な逸品なのは静流にもわかった。
いつだったか聞いたことがある。長く使い込まれた道具には、魂が宿ると。
「おまえ、憑喪神か?」
『ご名答! 君を助けに来たのだよ、お嬢さん』
「人間を助けるなんて、普通はしないんだけどなぁ……」
芝居がかった憑喪神とは対照的に、リグルは不満げに呟いた。その背後で足場を失った異形の蜘蛛が真っ逆さまに落ちていく。空を自在に飛べるわけではないらしい。リグルはそれを横目で見つつ片手でひょいと静流を抱え上げた。さすが妖怪と言うべきか、見た目に反する膂力だ。
もしここで心変わりされたら一巻の終わり。静流は小さく尋ねた。
「……じゃあ、どうして助けたのさ」
「あの変な蟲。三日前に突然現れて大暴れしてさ、喧嘩売った妖怪が殺されたんだよね」
「仇討ちってわけか。妖怪にもそんな習慣があるんだな」
「違うんだなぁ、これが。あいつが『蜘蛛の形』なんてしてるから肩身が狭いんだよね。だから腹いせに倒しに来たってわけなの」
実に妖怪らしい答えだった。
「ずいぶんと自分本位じゃないか。その分、説得力があるけどね」
「ホタル様は嘘を言わないんだよ。だからわざわざ通せんぼしたのに逃げるし、本当に人間ってのは私の善意を無視するんだね」
「おまえが妖怪じゃなくて普通のホタルなら話を聞いたんだ」
「普通のホタルはしゃべらないけどね」
「うるさいなぁ……妖怪を見たら逃げるのが常識なんだよ。妖怪なのにそんな事も知らないのか?」
「知ってるから通せんぼしたんだよ。里に戻らないとは思わなかったけど」
『二人とも、そこらで終まいにしたまえ。ヤツが来るぞ』
貫禄すら漂うペーパーナイフの声に、静流とリグルはぴたりと言葉を止めた。
蜘蛛は落ちることがない。その体は一本の頑丈な糸で繋ぎ止められているからだ。巨体を支えるその糸は、束ねれば家どころか大きな寺すらも容易く持ち上げるだろう。そして虚空から出ている蜘蛛の巣はいつの間にか復元され、主を迎えんと広げられている。
ここからが本番だと、誰に言われずとも理解した。
ここからが死地だと、誰より先に覚悟した。
風が唸る。蜘蛛の爪が空気の壁を切り裂く。
「うわ速いッ」
リグルが慌てて身を翻し、間一髪でそれを避ける。まるで抉るような一撃にさすがの妖怪も肝を冷やしたようだった。つぅと冷たい汗が伝う。
『何をしているのだ蟲の王! 君は飛べるのだろう!』
「言われなくても!」
ぐんと引っ張られる感覚が静流の体を包むと同時、視界が横に流れていった。すぐ後ろを、上を、右を、黒い汚泥がぶち抜いていく。
「隠蟲『永夜蟄居』!」
負けじと放たれる幽明なる光の弾幕が、何度も何度も蜘蛛の体を打ち据える。避ける気がない上にあの巨体だ。直撃した弾の数はすぐに百を越えた。しかし、蜘蛛の猛攻が止むことはなかった。
血のように汚泥を流しつつも、蜘蛛の動きは衰えを見せるどころか加速していく。
「嘘でしょ!? これじゃあキリが無いよ!」
『なんとかして弱点を見つけなければなるまいな』
どんどん間一髪の回避が目立ち始めた頃、それはやって来た。