その日、静流が輝夜から請け負ったのは非常に厄介な仕事だった。
あの紅い吸血鬼の住む紅魔館に借りていた本を返し、そのついでに香霖堂へ行って頼んでおいた品を受け取る。いつもの静流なら間違いなく断っている依頼だ。そこそこ里に近い香霖堂はともかく、紅魔館に近付こうとする馬鹿はそうそういない。妖怪退治を生業にしている人でさえ、あそこには手を出さない。
とはいえ、里でも有名になりつつある永遠亭との繋がりは欲しいものだったし、なにより輝夜とは決して浅くない交流がある。無下に断るわけにもいかなかった。
ともあれ、香霖堂は奇妙な建物である。まるで骨董屋のような雰囲気を持っているが、どこまでも胡散臭い。しかし、里では取り扱わないような珍しい品を所有しているのは魅力的だ。いかにも輝夜が好みそうな店ではある。
無国籍な建物の普通なドアを開け、静流は中に一歩踏み入った。
「……いらっしゃい」
型通りの挨拶が店の奥から飛んでくる。歓迎するふうでもなく、かといって棘があるわけでもない。その態度の正体は、商売する気があるのか疑わしい、散らかった店内を見れば一目瞭然というものだ。
まぁ、態度という面については静流も人のことを言えないのだが。
「輝夜の使いで来たんだけど」
「ああ、話は聞いてるよ」
奥から出てきたのは、和風アンティークといった風情の男。
若く見えるのに髪は真っ白で、幻想郷には珍しくメガネなどを掛けている。服は青と黒を基調にした、和服と洋服を折衷したような独特のもので、この店全体に広がる胡散臭い雰囲気と見事にマッチしている。
「頼まれてたものなら、これだよ」
手渡されたのは巾着袋に入れられた植物の種と、薄い白手袋。あとは、耳飾りが二つ。まるでバラバラだが、それを頼んだのが輝夜だと考えると納得できる。
香霖堂の店主は気怠そうに品物を袋に入れながら説明を始めた。
「これは青い薔薇の種だ。まだ試作品らしいけどね。あと、この手袋は五芒星が描かれているから、バラの棘が刺さらないためだろう。この耳飾りはよくわからないが、護符みたいなものだろう。にしても見当違いなものを彫っている辺り怪しいものだが」
「ご丁寧にどうも」
「しかし君も変わり者だな。あの姫に付き合うとは」
「よく言われるよ。ただ、ここに来るヤツなんてみんな変わり者だろう?」
「それは言われたことがなかったな。僕は至極真っ当な店をやっているつもりだがね」
「それは自覚が足りないね、香霖堂の。もう少し整理したらどうだい」
「君の目には散らかっているように見えるかもしれないが、僕には把握できているから実際は散らかっていないんだ。君の目に見えているものだけが真実じゃあない」
「なるほどね。だとしたらさ、香霖堂の」
したり顔で言う店主から袋を受け取り、静流は踵を返しながら言葉を返した。
「輝夜との付き合いは面倒に見えるかもしれないけど、私にとっては楽しいことの方が多いから実際は面倒じゃないんだよ」
香霖堂を出て、紅魔館への道すがら。静流は袋から耳飾りを取り出した。これはルビーだろうか。表面にはそれぞれシンプルな線が彫られている。稲妻をできる限り完結にした図形と、くの字に棒を刺したような図形だ。梵字でも漢字でもなく、静流の知る印とも違う。
「似合うとは思わないけどね……」
誰にともなく呟き、静流はその耳飾りを身に付けた。そして手袋を嵌める。
身に付けられるものは身に付けて持ってきてほしい、というのが輝夜の出した条件だったのだ。もしかすると紅魔館に行くことを考えての事かもしれない。彼女は静流に優しい。何かを期待しているようにも見えるが。
仮にその通りなら、甲に描かれた五芒星は園芸用などではないはずだ。
「つまり、危険は避けられないという事か」
妖怪の気配はわかるので、それを避けて歩けば多少楽になる。途中で気配さえつかめない木っ端妖怪が襲い掛かってくることもあったが、その程度なら霊撃でなんとか退治できた。本を傷付けるわけにはいかず、ヒヤヒヤものだったが。
日が下り坂に差し掛かった頃、ようやく霧の湖にたどり着いた。
「はぁ……やっとか……」
「あーっ! 見つけたぁああッ!」
突如、大音声に殴りつけられ、静流はとっさに声と距離を取った。
「誰だい?」
振り向くと、そこにいたのは青い服に水色の髪をした氷精だった。妖精の割には自信のようなものが全身から過剰にみなぎって、ぼたぼたと垂れ流しになっている。
……いや、あれは溶けた氷の羽だろうか。
ともかく強い冷気を持っているのは確かだった。
「あたいはチルノさ! さいきょーなんでヨロシク」
「ああ、よろしく」
適当に挨拶して歩き出そうとした静流の前に、氷の塊が突き刺さった。
「そのナマイキなタイドにツリ目! やっぱり
リグルの言ってた通りの人間ね!」
「おまえだってツリ目じゃないか」
「あたいの目はきゅーとっていうのよ! あんたとはちがぁーうっ」
このクソ暑い夏にこれだけ元気な氷精というのも珍しい。
馬鹿なのか。自分が溶けてることにも気付かないほど馬鹿なのか。
「勝ち誇った顔で宣言されてもね。私は自分が可愛くないことは知っているんだよ。だから悔しいとは思わないし、そうだなと認めてやってもいいよ」
「むきー! やっぱり気に食わないのよあんた!」
「気に食わないなら無視すればいいだろう?」
さっさと進もうとすると、ずだだだッと氷弾が降り注いだ。内心ひやりとしたものを感じながら、静流は足を止めた。袖から呪符を出す。
「仕方ないなぁ……」
「ここから先はあたいの湖。通りたければ、あたいを倒してから行くことねっ!」
チルノは静流を指さし、すでに勝ち誇っていた。
なんだか妙に強いリグルは言っていたが、さいきょーの自分が人間相手に負けるわけがない。リグルだって逃げられただけだし、あいつは見るからに弱そうだ。だってあいつは飛べないんだから。
「あたいの弾幕をくらえー!」
「うわっ眩しッ」
ずだだだだだッ、と氷が地面に突き刺さる。容赦のない弾幕。飛べない相手にも容赦しないのが最強が最強であるうんたらかんたらだとチルノは考える。最強への道は険しい。夏は暑い。氷は溶けるし湖も冷たくない。だけどそれがどうした。それをものともしないあたいったら最強ね!
スペルカードまで使っちゃう。
「冷符ッ! 瞬間冷凍ビィィィム!」
「なッ!?」
三本の冷凍光線が地面を凍結させていく。これならすばしっこい人間も避けられない。
「勝った!」
満面の笑みでガッツポーズをとった瞬間、強烈な霊光が頬を掠めていった。
直後、冷気で発生した霧の中から、凄絶な微笑を浮かべた静流が現れた。
「ハッ……間抜けだね。最初からそれを出していれば良かったのに」
「うそ!?」
静流は無傷。髪が乱れていたり着物が崩れていたりはしたが、盾のように展開した呪符で弾幕を凌ぎきっていた。どうしてこれだけの力が出たのかは静流にもわからなかったが、ここは余裕を見せ付ける。
さっきまでは必死だった。霊撃の届かない高さから揚々と氷弾をばら撒いてくるのだから、たまったものじゃない。飛べる連中は上下という幅があるが、静流には無いのだ。ただ地べたに這いつくばってギリギリ避けていた。
死ぬかと思った。
死ぬかと思ったけど、助かった。耳が熱い。手は凍り付いて燃えるようだ。
「頭が痛いな……。けど、いいじゃないか、こういうの。何か掴めた気がするよ」
「わけわかんないよ、あんた!」
「私だってさっぱりだよッ!」
振り下ろされた巨大な氷塊を、静流は五角形に並べた呪符から光線を放ち粉砕した。足を踏み鳴らす。途端、凍り付いた草原から冷凍光線が放たれる。
「そんなの当たるもんか!」
「急ぎ急げ律令の如く! 廻せ!廻せ!廻せ!」
ずらりと並んだ五枚セットの呪符が次々と入れ替わり、光線状の霊撃を放ち続ける。使い捨てだが、数十枚を一気に消費していた時と比べれば格段に燃費が良い。何条もの霊撃レーザーが上空の氷精を狙い撃つ。
しかし、チルノはそれでも強かった。一日の長があった。
「こうなったらッ! あたいの本気を見せてやるッ!」
慣れた機動でレーザーをかいくぐると、自信に満ち溢れた表情でスペルカードを絶叫した。
「凍ぉぉ符ぅッ! パァァァフェクトォォッ フリィィィィイズ!」
身構える間もあればこそ。
——無数に冷気が発射されたと思った瞬間、世界が凍り付いた。
「増え続けるあたいの弾幕に、あんたはビビるしかない!」
発射されては止まり、ストックされていく冷気の弾幕。真夏だというのに気温は急激に下がり、息が白くなっていく。寒さにやられて脚が動かない。
「こんな、ところで……」
「そしてサイキョーの弾幕が動き出す……つまり、あたいの勝ち」
数秒で一気にストックされた弾幕が、一斉に動き始めた。全ては舞い落ちる雪のように。超高密度、不可避の弾幕——!
レーザーだけでは撃ち落としきれない。かわされる。
だが、まだ手はあった。文字通り、手が。
「こんなところで、倒れてる場合じゃないんだよ!」
手袋に描かれた五芒星は、これ自体が陰陽道の触媒として機能することを示している。
「急ぎ急げ律令の如く、霧祓い境無く世の風凪祓う!」
退魔の呪文により、多少だが霊力の壁ができた。だがそれでは弾幕は止まらない。チルノを倒す必要なんてない。ただ生き残って依頼を完遂できればいい。
それにはもっと、もっと強い力が要る。
もっと、もっとだ!
その時、耳飾りが赤熱している事に気がついた。
感情の高ぶりに応じているのだと自覚した刹那——
静流の世界は凍り付いた。
「な……ッ!?」
草木は氷雪に覆われ、太陽の光は弱まり、湖は一面が凍結している。
いきなり現れた真夏の雪原は、冬と言うにはあまりに寂しい、終わった世界。その上を燃え盛る炎が荒れ狂い、全てを溶かし、焼き、再び凍らせていく。それを行うのは、一匹の巨大な狼。凍て付き燃え盛り、世界は終わっていく。
そんな光景を、静流は『幻視』した。
一瞬後、さっきまでの真夏に戻った世界から弾幕が消えていた。いや、全て固められて地面に落下していたのだ。おかげで地面が大変なことになっている。
「なんだよ、今の……」
「あたいのサイキョー技が! なんで!?」
「それはこっちが知りたいよ」
「む〜! ヒキョーだ!」
「飛んでるヤツに言われたくないな! 降りてきなよ。おまえが最強なら、飛ばなくても私くらい倒せるんだろう?」
「あったりまえじゃん! あたいのソードフリーザーでメメタァにしてやるってのよ!」
やっぱり馬鹿なのか、チルノはあっさりと降りてきた。見上げているときはわからなかったが、背丈は自分より少し小さい。しかし彼女から溢れ出すだだ漏れの自信は収まることを知らない。
降りたときに氷の翼は消えている。飛ぶ気はない。
チルノは自分を指さし、かっこよく笑った。
「あたいはサイキョー、あんたは最弱! だから勝つのはあたい。すごくろんりねす。あたいったら天才ね!」
スペルカードを持った右手を氷の大剣が覆う。なんという妖精だ。
内心でひやりとしたものを感じながら、静流は皮肉げに口端を歪めた。
「普通の妖精にはできないことを平然とやってのけるとはね……少し憧れるよ」
「いまさら素直になっても遅いのさ!」
「だけど、今の私は冴えてるんだ。サイコーにね!」
静流は笑いながら残った呪符を右手に貼り付け、チャージしてある霊力を解放した。
いつもは解放すると炸裂していた霊力が、不思議なくらい言うことを聞く。剣のような形へ変化する。
今までできなかった事が、今はまるで蓋が開くように次々と理解できる浮ついた感覚。
あっという間に力を使い果たし消えてしまう霊力の剣を、凍った地面に突き立てる。
周囲の霊力を感じる。大地から、剣を伝わり、手袋を伝わり、大地を流れる力の鼓動が、
「今は、手に取るようにわかるッ!」
「ハッタリだ! 天才あたいは騙されないッ!」
デタラメな踏み込みで斬りかかってくるチルノ。しかしその動きは真っ直ぐ。
「急ぎ急げ律令の如く……!」
消えゆく剣と入れ替わり、大地から氷が伸びる。それはチルノと同じ氷の剣。しかし、その色は真紅!
「あたいの真似するなぁッ!」
力任せに薙ぎ払う氷柱を、静流は真っ赤な氷柱で受け流した。勢い余って泳ぐチルノの体。そこを左手でつかみ、投げ倒す!
だがチルノは倒れながらもう一枚のスペルを宣言する。
「氷符ッ! ソードフリーザー・ダブルアクト!」
左手にもう一本の氷柱が現れ、体を支えた。そのまま投げられる勢いを利用して、右手の剣を振り抜く。いつだったか、こんなふうに二本の刀を使うヤツがいた。名前は忘れたけど、いつかびっくりさせるために作ったスペル。
それが氷柱の二刀流、ソードフリーザー・ダブルアクトッ!
雑だが動きに迷いは無い。馬鹿だから、馬鹿ゆえに、真っ直ぐ!
だが静流は本を持つ左手を自由に使えない。
「考えろ! 二刀を相手にする最も冴えたやり方を!」
「無駄無駄ッ! 剣が二つであたいはもっと強くなったんだ!」
「だったら、私は十二本だッ!」
静流は真っ赤な氷柱を防御に使わず、地面に突き立てた。目を疑うチルノ。馬鹿だと思ったが、違った。
凍った地面から、静流の足下から、十二本の氷剣が飛び出したのだ。
「うそ!? でもざんねんね! あたいは天才だけど、9までしか数えられない!」
「それがどうしたっていうのさ!」
距離を取ったチルノに駆け寄りながら、真っ赤な氷柱を振り上げる。
チルノは両手の氷柱を投げ上げた。
「あたいが勝つって意味よッ。九極『ブロークングラスシンドローム』!」
途端、身の丈ほどもあった氷柱は四分割され、八本の氷剣へと姿を変えるッ!
自分の手には、羽と同じような形の氷剣。これで、九本。
チルノは八と一の斬撃を、真っ直ぐに叩き込むだけ。
「とあぁぁぁああッ!」
「邪魔するな! 私は先を急いでいるんだ!」
その場に真っ赤な氷柱を叩き付ける。応じて地面から飛び出す十二の氷柱、上から迫る斬撃を打ち払い砕け散った。
残るは一つ。真っ直ぐ馬鹿正直に突っ込んでくるチルノとの一騎打ち。