紅魔館の図書館に窓はない。
それは昼夜を忘れて読書に没頭するためだと
パチュリーは言う。だがここで働く小悪魔はそれが嘘だと知っている。単に本と紙が傷むのが嫌なのだ。
小悪魔に名前はない。それに値しないというのもあるが、パチュリーは知っているのだ。悪魔に名前を与えるということの意味を。名前を付けられた悪魔は、その名前だけの力が開放される。ただし、名付け親に従うことになる。
小悪魔に名前はない。だが、自由はあった。友人の美鈴は首を傾げるが、小悪魔は知っている。それがパチュリーの優しさだと。
小悪魔に力はない。本を運んだり、少々の弾幕を張るのが精一杯だ。だが、パチュリーは知っている。小悪魔は誰よりも本を愛している事を。本を守るためならば、体を張って戦う度胸があるのだと。
小悪魔に友人は少ない。ここからあまり出ないのだから仕方ないが、おかげで外からの来訪者に戸惑っていた。
「えーと、あたい好みの本は〜、これだ!」
「散らかさないでくださいよぉ!」
上の方の本棚から派手に本を引っこ抜くチルノ。その拍子に隣の本まで出てきてしまい、落ちる。それを慌ててキャッチしながら、小悪魔はもう何度目かになる言葉を叫んでいた。だがチルノは聞く耳を持たない。
なんて迷惑な客だ。小悪魔もイタズラが好きな方なので気持ちはわかるのだが、やられる側となると話は別。これならまだ魔理沙の方がマシ……ということは決してないが、それでもひたすら迷惑だった。
「小悪魔、陰陽道の基礎三巻が足りないわ」
「は、はいッ、ただいま!」
それに加えて下から飛んでくるパチュリーの注文にも応えなければならないのだ。
だいたいの場所は頭に入っている。だからこそチルノに散らかしてもらっては困るのだ。
「えぇと、基礎三巻……三巻……あれ、無い……?」
取り忘れかと思ったが、無い。周囲を見回すが、間違って配架されているわけでもなかった。
「やっぱりこれいらない」
そんな時でもお構いなしにチルノが本を適当に棚に戻す。これが問題なのだ。魔導書は正しい配架をしないと余計な相互作用を起こしてしまう。一応、同じ棚に入っているものは安全な組み合わせなのだが、チルノはそれさえも無視して放り込んでいた。
案の定というか、バチンッと力場が干渉して本が爆発を起こした。
「うわぁぁぁあッ!?」
爆風でチルノが吹っ飛ぶ。抱えている本と一緒に。
小悪魔は泣きそうになりながら急行し、落ちていく本を回収。バレルロールまで駆使した見事な空中機動だったが、褒めてくれる人も無し。
魔理沙の襲撃もあって、こういう事ばかりが上手くなっていく。
下で黙々と本を読んでいる客、静流という少女が羨ましい。
「あのさ、なんとか三巻って、チルノが持ってるやつじゃない?」
「ひゃっ!?」
不意に声を掛けられて本を取り落としそうになった。振り向くと、
リグルがチルノを指さしていた。たしかに一冊だけ死守している。あのやけに分厚い白黒の本。間違いない。陰陽道の基礎三巻だ。
どうりで無いわけだ。小悪魔はまず本を元の棚に戻して、チルノに向かって飛んでいった。
「それ、返してください!」
「返したら、何か面白いことがあるわけ?」
「う……えーと、お菓子……とか」
「お菓子!? だが断る! 最強あたいは妥協しないッ」
「チルノ、返してあげなよー」
「嫌なもんは嫌なの! そんなに返してほしかったら、あたいとこれで勝負よ!」
にやりと笑って、チルノはスペルカードを見せてきた。
それが弾幕ごっこの合図。だが小悪魔はスペルカードを持っていない。それだけの力もないし、練習をするような相手もいなかった。
思わず小悪魔は下を見た。パチュリーはこちらの事など意にも介さず静流の相手をしている。といっても、少し口を挟む程度だが。
少しの寂しさに落胆していると、突然静流と目が合った。
「さっきのおまえの動きなら、奪い返すくらい余裕だろう?」
確信に満ちた目と声。
小悪魔は胸が熱くなるのを感じた。初めて褒められた。見てくれていたのだ。
続いてパチュリーから何か分厚いカードが飛んできた。
スペルカードだ。
「ちゃちゃっと奪い返しなさい」
「……ッ、はいっ!」
頷き、小悪魔はスペルカードを見せた。たったの一枚。無駄撃ちはできない。
「たったの一枚、たいしたこと無いわね!」
そうだ。向こうは何枚も持っている。どうやって勝てばいいんだろう。
一気に自信をなくした小悪魔の肩を、リグルが叩いた。任せて、と囁き声。
「ここはチルノも一枚にしてあげるべきだと思うな。ハンデだと思ってさ」
「ハンデ……いい響きね! わかった、あたいも一枚で相手してやるわ!」
容易く乗ってきた。やっぱりチルノは見た目を裏切らない馬鹿野郎なのだ。振り向いてリグルにお辞儀をすると、小悪魔はキッと気を引き締めた。
「行きますよ!」
「かかってこいやー!」
チルノは威勢がいい。基礎三巻を抱えたまま、開幕早々に氷弾をばら撒いてくる。一つ一つは細かいが、量はなかなかのものだ。だが、これくらいなら黒白の『星』には及ばない!
「そこですっ」
見える。通るべきルートが。
小悪魔はきりもみ回転しながら正確な機動で弾幕をかいくぐり、グレイズすら許さない。
「や、やるじゃないっ」
次々と弾幕を繰り出しながら、チルノは頬を引きつらせた。
「だけど最強はあたい! あんたは逃げてるだけで勝ち目はないわ!」
たしかにその通りだ。だが小悪魔の目的は、あくまで基礎三巻を奪い返すこと。
勝てなくてもいい。
ただ、あの本を取り返せるなら、負けたって構わない。
「そんなの、やってみなきゃわかんないじゃないですか!」
本には強力な防壁が張られている。遠慮は不要だ。カウンターで繰り出すのは大型弾。密度こそ粗いが、それを単発の範囲が補っている。
シャボン玉のように大きいだけの弾。いつだったか黒白に酷評されたが、それでいいのだ。小悪魔は相手を叩きのめしたいわけじゃない。ただ、図書館を平和に保ちたいだけなのだから。
「速いけど、単調です!」
チルノの弾幕はシンプルだった。パターンを読むのも難しくはない。
小悪魔の視野は広かった。毎日これだけの膨大な書物から目当てのものを探し当てているのだ。自然とそういう目はできてくる。刹那の後にできるであろう隙間を見切り、そこへ正確に身を滑らせる。
今の小悪魔には勇気があった。自らの判断に身を委ねられるだけの勇気が。
「む〜! なんで当たんないのよ!」
悔しそうに小悪魔を睨むチルノは、一枚だけのスペルカードを高々と掲げた。
「こうなったらあたいのサイキョー技よ! 凍符ッ! パーフェクトフリィーズッ!」
宣言と同時、無数に冷気が発射され、世界が凍り付いた。
冷気によって動きを縛られた弾幕はその場に留まり次々とストックされていく。展開された弾幕は、一度には発射できる量を軽々と超えていく。
「増え続けるあたいの弾幕に、あんたはビビるしかない!」
勝ち誇ったように叫ぶチルノ。それを静流に凌がれた事を小悪魔は知らない。
寒さが小悪魔の動きをも鈍らせ、満ちていた勇気を削り取っていく。
チルノの言う通り、小悪魔はビビっていた。今までとは違う超高密度の弾幕。それが目の前で、今か今かと動き出す時を待っている。わからない。どこをくぐり抜ければいいのか、動かない弾幕からは読み取れない。
勝てない。これが経験の差なのだ。
だけど、ここで引き下がるわけにはいかない。ここで諦めたら、今後も黒白に舐められっぱなしで無法を許すことになる。そんな自分を許しちゃいけない。
名前が無くても、意地はあるんだ。
なけなしの勇気で、小悪魔は立ち向かう。
「私はッ、諦めません!」
その時、借り物のスペルカードが光った。
決意に応えるように、自分の色に染まっていく。
「これが私の、スペルカード……?」
「ふん! あたいのサイキョー技がそんなのに負けるはずがないわ!」
すでに限度いっぱいの弾幕がセットされている。
今しかない。使うなら、今しか!
小悪魔は声高らかにスペルを宣言した。
「——天国は待ってくれる。日符『ヘブンキャンウェイト』!」
眼前に金色に光る錐状の盾が展開する。
同時に、ズンと体が重くなった。力が湧いてくる。
立ち向かえと、目を開けと、そう言われているようだ。
「そして、さいきょーの弾幕が動き出す!」
どっと向かってくる氷結弾の壁。
小悪魔はそれを真正面から見据え、分析した。どこが薄い? どこに隙間ができる?
飛ぶ力は十分だ。行ける。多少の被弾は根性でカバーだ。
「行きます!」
小悪魔は飛んだ。眼前の小さな盾を頼りに、最高速度で弾幕に突っ込んだ。
最も薄く、抜けやすいルートだが、まだ拡散する以前の弾幕はグレイズさえ許さず次々と被弾する。だがそれも全て、小さな盾が弾き飛ばす。
痛い痛い!
でも、ここで負けちゃいけない!
「やぁああああああッ!」
水飴のように引き伸ばされた一瞬の中で、小悪魔は基礎三巻を視界に捉えた。
弾幕の壁はますます厚い。だけど、いまさらだ。
「ッ、なんで落ちないのよ!」
チルノが焦ったようにたじろぐ。焦ったのは小悪魔も同じだ。このままじゃ、第二波が来る。
「あたいの弾幕は、負けないんだぁあああッ!」
冷気が満ちていく。小悪魔の動きが……鈍らない!
「今度こそ、自分には、負けるもんかぁあああああッ!」
壁を突き抜け肉迫し、手を伸ばす。狙うのは本だけ。それにチルノは気付いていない。本は無防備だ。
「行っけぇえええ!」
リグルの声が聞こえる。応援されている。
発射される第二波。それに臆することなく、小悪魔は基礎三巻をその手に掴んだ。直後、被弾した。
「きゃあああああッ!」
撃墜され、真っ逆さまに落ちていく中で、本が手を放れて落ちていく。
痛い。全身を横から滅多打ちにされ、動けない。飛ばないと。拾わないと。
その時、視界に飛び込んできたのは急降下で追い掛けてくるチルノだった。彼女はあっという間に追い付いてきて、小悪魔の腕を掴んだ。
そして、チルノはにんまりと笑った。
「あたいの勝ちね! あんたそこそこよ!」
助けてくれたのだ。何も考えていないけれど、悪気は無かったのだ。
視界の隅で、本をキャッチしたリグルが微笑みかけてくる。
「ナイスガッツだね!」
『天晴れ! 見事な気概であった!』
ほとんど人から賞賛されることのない生活。だからなのか、胸が熱くなった。
床に降ろしてもらった小悪魔はリグルから本を受け取り、パチュリーの元に駆け寄った。
「パチュリー様、どうぞ」
「ええ……ご苦労様」
「あ、それとお借りしたスペルカードも——」
「何を言っているの……? 私が渡したのは何も入ってないカードよ」
つかみ所のない表情でパチュリーは言った。そのまま読書に戻ってしまう。
確認したから、そんなはずは無い。だけど、小悪魔は知っている。それがパチュリーの不器用な優しさなのだと。
振り返ると、チルノが勝ったからお菓子をくれとせがんできた。
仕方ない。最初にそう言ったのは自分だし、負けたのも確か。それに、楽しかったのだ。
「はい、ただいまー」
小悪魔に名前はない。だけど、今日も楽しく仕事をしている。
名前は無くても、友達は作れるみたいだ。