胸ばかりに栄養が供給されていらっしゃる門番に別れを告げ、静流は紅魔館を後にした。門をくぐり、湖畔に造られた桟橋までのんびりと歩く。燦々と降り注ぐ日光は容赦ないが、こちらには容赦なく冷気を振り撒くチルノがいる。静流は内心、同じペースで付いてきてくれることに感謝していた。
チルノは得意げに前を歩いている。勝ったことや褒められたことで鼻高々だ。
「飛べると楽なんだろうなぁ……」
湖の上で遊ぶ妖精達を遠目に見ながら、静流はため息をついた。
術の基礎が理解できても飛べるようにはならなかった。ということはもっと別の理屈があるのだろう。
「私からしたら、静流が飛べないことの方が不思議だよ」
「人間は飛べないのが普通なんだ」
『吾輩もそれには同意だ。飛行は人間業ではない』
「そうなんだろうけど……うーん」
悩み始めた
リグルを見て、静流はやれやれと首を振った。
「おまえは飛ぶ種族だからわからないんだろうさ」
鳥は自分が飛べることに疑問なんて持たないものだ。こういう連中は飛べることが普通で、どうやって飛んでいるかなんて考えたこともないのだろう。たしかに飛べる人間はわずかながらいるが、彼女たちも方法なんて考えたことはないのだろう。
飛べないことが普通の静流は、別に飛びたいとは思わない。可能なら楽ができるのだろうが、できない事に執着しても仕方ない。それが静流の考え方だった。
そんな方法は存在しないのだと割り切ると、頭は冴えてくる。
「私は飛べないけどさ、湖を渡ることくらいはできるんだよ。たぶんな」
整備された桟橋に立ち、霧の立ちこめる湖を見渡しながら静流は言った。
しかしチルノは不満げだ。
「あたいの船で行くんじゃないのー?」
「おまえ、途中で疲れて進めるのをやめちゃうじゃあないか」
「こ、今度はそんな事ないわよっ。あたいだって、あんたくらいのスピードは出せるんだから!」
「いや、それはやめようよ……」
冷静に止めるリグルの言葉も聞かず、チルノは湖に手を突っ込んだ。
氷の弾を作ることはできても、船のようにしっかりとした形の氷像を創るには、体の一部がしっかり水に触れていなければならない。それは来たときも同じだった。馬鹿で大雑把な印象のあるチルノだが、こういう事は妙に手慣れていて器用だ。
「あたいの凄さを見て腰を抜かせばいいのよ!」
得意げにチルノが言い放つと湖があっという間に凍り、出来上がった氷塊が周囲の水を押しのけて浮上した。
それは昨日の簡素な小舟とは一線を画す、まるでサメのような流線型のボートだった。表面は滑らかに削られ、水の抵抗をかなり減らすことに成功している。
「図書館でしきりに画集を見ていると思ったら、へぇ。そんなことまでできるのか」
「当たり前よ! なんてったって、あたいは天才だから!」
「チルノは自称・氷のアーティストだからね」
『カエルを凍らせる遊びは感心できないがね』
「子どもは小動物をおもちゃにするのが好きなものなんだよ」
「む、なんか馬鹿にされた気がする!」
頬を膨らませるチルノに静流は肩をすくめて苦笑した。
「馬鹿にするも何も、見たまんまじゃあないか」
「あたいはあんたよりずぅぅっと長生きしてるんだ。あたい様からしたら、あんたなんかオタマジャクシねっ」
「長生きしてるだけじゃあ大人とは言わないね。大きくなった子どもって言うんだよ」
「うぎぎぃ〜ッ、あんただって子どもなくせにぃッ」
うまい反論が思い付かなかったらしくチルノが悔しそうに地団駄を踏む。
だが静流にとっては痛くもかゆくもない言葉だ。むしろそうやって悔しがる相手を見るのが楽しみの一つでもあるくらいだ。子どもという年齢と見た目は武器になる。可憐な外見の中にどんな策謀が渦巻いているかも知らず、見かけを信じて大人は油断する。
自称大人のそういう油断と侮りを利用して、静流は今まで生きてきた。
おかげで同年代からは怖がられて友達もあまりいなかったが、こうして似たような歳に見える少女と他愛のない話をするのも、悪くない。
「じゃあ、頼んだよチルノ。この船、かなり速いんだろう」
さっさとボートに乗り込んだ静流は口の端を持ち上げるように笑って挑発した。
「おー! 受けて立つってのよ!」
「せめてゆっくり行こうよ……」
心底嫌そうなリグルを引っ張って、目を三角にしたチルノが船に飛び乗った。
ちょろい。
静流は袖で口元を隠してニヤリと笑った。湖を渡るのは、そう難しい事じゃあない。