秋狼記13

東方秋狼記



   第十三話:欲望に直結する知恵


 胸ばかりに栄養が供給されていらっしゃる門番に別れを告げ、静流は紅魔館を後にした。門をくぐり、湖畔に造られた桟橋までのんびりと歩く。燦々と降り注ぐ日光は容赦ないが、こちらには容赦なく冷気を振り撒くチルノがいる。静流は内心、同じペースで付いてきてくれることに感謝していた。
 チルノは得意げに前を歩いている。勝ったことや褒められたことで鼻高々だ。
「飛べると楽なんだろうなぁ……」
 湖の上で遊ぶ妖精達を遠目に見ながら、静流はため息をついた。
 術の基礎が理解できても飛べるようにはならなかった。ということはもっと別の理屈があるのだろう。
「私からしたら、静流が飛べないことの方が不思議だよ」
「人間は飛べないのが普通なんだ」
『吾輩もそれには同意だ。飛行は人間業ではない』
「そうなんだろうけど……うーん」
 悩み始めたリグルを見て、静流はやれやれと首を振った。
「おまえは飛ぶ種族だからわからないんだろうさ」
 鳥は自分が飛べることに疑問なんて持たないものだ。こういう連中は飛べることが普通で、どうやって飛んでいるかなんて考えたこともないのだろう。たしかに飛べる人間はわずかながらいるが、彼女たちも方法なんて考えたことはないのだろう。
 飛べないことが普通の静流は、別に飛びたいとは思わない。可能なら楽ができるのだろうが、できない事に執着しても仕方ない。それが静流の考え方だった。
 そんな方法は存在しないのだと割り切ると、頭は冴えてくる。
「私は飛べないけどさ、湖を渡ることくらいはできるんだよ。たぶんな」
 整備された桟橋に立ち、霧の立ちこめる湖を見渡しながら静流は言った。
 しかしチルノは不満げだ。
「あたいの船で行くんじゃないのー?」
「おまえ、途中で疲れて進めるのをやめちゃうじゃあないか」
「こ、今度はそんな事ないわよっ。あたいだって、あんたくらいのスピードは出せるんだから!」
「いや、それはやめようよ……」
 冷静に止めるリグルの言葉も聞かず、チルノは湖に手を突っ込んだ。
 氷の弾を作ることはできても、船のようにしっかりとした形の氷像を創るには、体の一部がしっかり水に触れていなければならない。それは来たときも同じだった。馬鹿で大雑把な印象のあるチルノだが、こういう事は妙に手慣れていて器用だ。
「あたいの凄さを見て腰を抜かせばいいのよ!」
 得意げにチルノが言い放つと湖があっという間に凍り、出来上がった氷塊が周囲の水を押しのけて浮上した。
 それは昨日の簡素な小舟とは一線を画す、まるでサメのような流線型のボートだった。表面は滑らかに削られ、水の抵抗をかなり減らすことに成功している。
「図書館でしきりに画集を見ていると思ったら、へぇ。そんなことまでできるのか」
「当たり前よ! なんてったって、あたいは天才だから!」
「チルノは自称・氷のアーティストだからね」
『カエルを凍らせる遊びは感心できないがね』
「子どもは小動物をおもちゃにするのが好きなものなんだよ」
「む、なんか馬鹿にされた気がする!」
 頬を膨らませるチルノに静流は肩をすくめて苦笑した。
「馬鹿にするも何も、見たまんまじゃあないか」
「あたいはあんたよりずぅぅっと長生きしてるんだ。あたい様からしたら、あんたなんかオタマジャクシねっ」
「長生きしてるだけじゃあ大人とは言わないね。大きくなった子どもって言うんだよ」
「うぎぎぃ〜ッ、あんただって子どもなくせにぃッ」
 うまい反論が思い付かなかったらしくチルノが悔しそうに地団駄を踏む。
 だが静流にとっては痛くもかゆくもない言葉だ。むしろそうやって悔しがる相手を見るのが楽しみの一つでもあるくらいだ。子どもという年齢と見た目は武器になる。可憐な外見の中にどんな策謀が渦巻いているかも知らず、見かけを信じて大人は油断する。
 自称大人のそういう油断と侮りを利用して、静流は今まで生きてきた。
 おかげで同年代からは怖がられて友達もあまりいなかったが、こうして似たような歳に見える少女と他愛のない話をするのも、悪くない。
「じゃあ、頼んだよチルノ。この船、かなり速いんだろう」
 さっさとボートに乗り込んだ静流は口の端を持ち上げるように笑って挑発した。
「おー! 受けて立つってのよ!」
「せめてゆっくり行こうよ……」
 心底嫌そうなリグルを引っ張って、目を三角にしたチルノが船に飛び乗った。
 ちょろい。
 静流は袖で口元を隠してニヤリと笑った。湖を渡るのは、そう難しい事じゃあない。

「あたいは風になるぅぅう!」
 チルノが歓声を上げる。流線型のボートは謎の力で猛スピードを出していた。さすがに黒白のような速さは出せないが、湖面を滑るように滑らかに加速するボートには刹那的な浪漫があったし、真夏の太陽の下を疾駆する透明な氷のボートというのはなんとも逆説的な風情があって、総じてクールだった。
 静流が普段の切迫した毎日から開放された、滑空する大鷹のような余裕を楽しんでいると、リグルが耐えかねて弱々しい声を上げた。
「だからスピード出しすぎだって、もうちょっと緩めようよぉ」
「いい乗り心地じゃあないか」
「本気でそう思ってるのなら静流は自分を見つめ直すべきだよ」
「おまえもこれくらいのスピードは出せるじゃないか。なんで怖がる必要があるんだい」
「そ、それはそうなんだけどさぁ」
 不満げな表情ながらすごすごと引き下がるリグルを見て、なるほどと静流は得心した。
 妖怪というのは飛んだり泳いだり、とにかく種族として優れた力を持っているから、道具を使うという事に不慣れなのだ。自分が飛ぶのはいいが、乗り物は怖い。
「まったく。妖怪には欲望に直結する知恵が足りないんだ。そんな事じゃあ、いつか私にも後れをとるよ」
「さすがにそれは無いと思うけどなぁ」
 リグルは馬鹿にするふうでもなく、困ったように苦笑いを浮かべる。
 そんな事に腹を立てるような静流ではない。彼女はただ純然たる真実を改めて提示しているだけ。悪気なんて無い。
「へぇ、どうしてそう思うのさ。もうおまえと出会ったときの私じゃあないんだよ」
「だってさ、静流は術を覚えたけど、それでもパワーはあんまり変わってなかったじゃん。式神も見かけほど強いワケじゃないし、何より静流は飛べないじゃない。闇討ちでもされなきゃ負けないと思うよ」
「ははっ、闇討ちされたら負けちゃうんじゃないか」
「でも、そんな事しないでしょ?」
「……ッ!」
 疑うことを知らないような瞳で言われ、静流から余裕の表情が消え失せた。
 かぁっと顔が熱くなる。
 どうしたらいいかわからず、静流は顔を見られないようにそっぽを向いた。
「はっ。幸せなヤツだな、おまえは」
 残念ながら、静流は必要なら汚い手だって使う。闇討ちを躊躇うほど純朴じゃあない。
 だからなのか。こんなに暑いのは。
 ふと、そっぽを向いた静流の視界に、奇妙なものが入り込んできた。
「なんだ……?」
 高速で航行する船からでも、静流の目ははっきりとそれの姿を捉えていた。
 それは、人のカタチをしていた。しかも水の上に立っている。
 妖怪か? いや、違う。あれは人間だ。
 襟から氷を突っ込まれたような悪寒に襲われ、静流は五芒星の描かれたカードを放り投げた。
 即座に印を切って結界を展開した直後、何かが激突した。水だ。
「な、なにがあったのよ!?」
「うわぁッ、なんかこっちに走ってくるよ!」
『落ち着きたまえ二人とも。あれは人間だ』
「だから驚いてるんだってば!」
『昔の日本には水の上を走れる人間が大勢いたと聞いている』
 それは忍者だと言ってやりたかったが、そんな暇は無いようだった。
 水の上を韋駄天のごとく疾駆してくるのは若い男だ。たしかに忍者のような黒装束に身を包んでいる。
 この世には水面を走る方法があるのかもしれないが、それにしてはいくらなんでも、彼の走り方は『陸と同じすぎる』のではないか。
「まさか……ッ、チルノ、もっとスピードを出せないのか」
「もう全力でやってるわよ!」
 たしかにボートは相当な速さで航行している。対岸まではあっという間だろう。
 だが、忍者の方がさらに速いのだ!
 あっという間に併走してきた忍者は、水でできた手裏剣を飛ばしてきた。
「ふんっ、水なんてたいしたこと無いって——」
 ザクッと船体に水手裏剣が突き刺さり、チルノは威勢のいい口を閉ざした。
 硬い。まるで石のようだ。いや、鉄くらいはあるのかもしれない。
 水が氷よりも硬いなんて、普通ならあり得ない。
「あたいの最強ボートに、傷を……!」
「あいつ、本当に術師か……?」
 静流は常時発動中の霊力波ソナーのおかげで、術か否かを高確率で見分ける直感のようなものを持っている。だから妖怪の接近だろうとなんとなくわかるのだが、今の手裏剣は、なんだか違うような気がする。
「こんなの聞いたことがないよ!?」
「私も無いね。できないこともないんだろうけどさ」
 どんな不可解な現象も、受け入れることで初めて次のステップに行ける。つまり、解析フェイズの始まりだ。時間を稼ぐために、カードを船体に貼り付けて幾重にも障壁を張った。
 忍者は水の上ということを無視したような走りで併走している。おそらく水を手裏剣にしたのと同じように、足下の水を地面のように硬くしているのだろう。まさに常識以前の現実を無視した走りだ。忍者に出会ったことがないのでわからないが、本当にこんなふうに水上を走るのだろうか。
 考えている間にも忍者の水手裏剣は絶え間なく障壁を強襲し、一枚ずつ着実に破壊していく。
「ちっ、即席だとこんなものか」
 術であろうと何であろうと、水が無尽蔵にある湖という地形は忍者に有利だ。何と言っても、武器が無限にあるということなのだから。対する静流はカードの枚数が限られる。物量勝負をすれば絶対に負ける。
 しかしここで天眼を喚ぶことはできない。このボートにそこまでのスペースは無い。
 已蒼で障壁を張れるほど上達もしていない。こればかりは呪符の力が必要だ。
「このままじゃヤバイよ静流!」
「おまえは飛べるんだから、飛べばいいだろう? あいつの周りに弾幕を降らせるチャンスじゃあないか」
「あッ、たしかにそうだね!」
 リグルの行動は速かった。あっという間にボートから脱出し、高速で飛びながら忍者へと弾幕を放つ。静流だって当たればひとたまりもない、そんな容赦のない弾幕だ。そう、彼女はこの三人の中では一番力の強い種族、妖怪なのだ。
 忍者の標的がボートからリグルへ移った。いや……初めから彼は静流など眼中に無く、リグルを見ていたのだ。
 静流はそれを理解した上で飛ばせた。これで時間は稼げる。
 それに飛べば彼女は自由に戦える。あんな幕にもならない弾に当たることも無いだろう。リグル=ナイトバグは蟲の王女なのだ。
『なるほど、あれがジャパニーズ・ニンジャか!』
「違うような気がするんだけどなぁ、うわっと危ない」
 さすがにボートとは自由度が違う。次々と放たれる硬い水を回避していく。
 それでも、忍者の顔に焦りの色が出る事はなかった。走りながら器用に湖に手を突っ込み、水を掴んで引っこ抜いた。出てきたのは忍者刀だ。それも湖面に直結した水の刀。
「そんなものじゃ、飛んでる私には当たらないよ!」
「違うリグル、それは飛び道具だ!」
「えぇっ!?」
 忍者が水刀を振るうと、刀身が柄の部分から分離して飛んでいく。広範囲を横薙ぎにする水の刃。それを放ち終えたときにはすでに次の刀身がセットされている。
『まさに東洋の神秘! だが動きが雑だな。それでは蟲の王には敵うまい』
「そ、そうでもないんだけどなぁ……ッ」
 顔を引きつらせながら上へ下へ回避するリグル。その間も弾幕を発射し続けているが、忍者は軽い身のこなしで右へ左へ蛇行しながら避けてしまう。永夜蟄居を繰り出しても、忍者は水を畳返しのように立ち上げて防いでしまう。
 猛スピードで併走しながらの弾幕勝負。これが異変の時に行われるレベルなのかは静流にはわからなかったが、壮絶だ。
 しかし、忍者の戦いは、どこかで見たような気がしてならない。
「ちょっと、あんたも手伝いなよ!」
 船を操縦するチルノが怒ったように声を上げた。友人の危機に対して焦っているのか、それとも船を傷付けられたのに参戦できない悔しさで怒っているのか。それはよくわからなかったが、考えに没頭していた静流はその声で我に返った。
 五芒星の描かれた呪符を船体の外側に貼り付ける。
 そう、まるで海賊船の大砲のように。
「チルノ! 思いっきり忍者のいる方に傾けろ!」
「あたいに命令すんな!」
 言いながらも、チルノはボートを忍者に傾けてくれた。
 忍者はリグルを、つまり上を見ていて気付くのが遅い。
 やるなら今だ。
「水気は満ちた! さぁ廻せ廻せ! 急々如律令!」
 パン、と柏手を打つと、設置された砲台から怒濤の勢いで冷凍光線が発射された。
 反動で船が傾くのを、チルノが防ぐ。
「何……ッ!?」
 初めて忍者が声を上げた。
 慌てて水の盾を引き出すが、冷凍光線に当たるや否や凍り付いて湖に沈んだ。
 その隙に乗じて静流は短く呪を唱えながら白手袋の五芒星を忍者に向けて、命じた。
「止まれッ!」
 虚を突かれた忍者はまともに五芒星を目にしてしまい、その身を硬直させた。
 金縛りだ。
 そこへリグルが容赦なく襲い掛かる。
「またもやチームワークの勝利だねッ!」
 急降下で勢いを付けたローリングソバットが忍者の胸をしたたかに打ち抜く。蹴り飛ばされた忍者はまるで陸にいるときのように全身を打ち付けながら湖面を転がり、遥か後方で止まった。そのままゆっくりと水の中へと沈み込んでいく。
 それを確認した静流は術を止め、呪符を剥がした。
 あの忍者が何者だったのかはよくわからないが、ひとまず危機は去った。
 静流はほっと胸をなで下ろした。不満げにチルノが叫ぶのを聞きながら。
「む〜、あたいも一撃を入れたかった!」
「仕方ないだろう、おまえが船を走らせないと勝負にもならなかったんだ」
 そう言ってやると、チルノの顔がぱぁっと輝いた。
「つまり、あたいのおかげって事ね! あたいったら最強だから仕方ないけど!」
 不満はどこへやら、あっという間に上機嫌だ。
 静流はため息をついて、すぐ横を飛ぶリグルを見上げた。
「……おまえ、よくこいつと一緒に遊んでいられ——」
 言いかけて口を閉じた。
 ざわりと、嫌な予感が背筋を振るわせる。
 視界の隅。
 何かが這い上がってくる感覚。
「なんだよこれ……気持ち悪い……」
「ちょっと、どうしたの!?」
 これは、そうだ。どこかで感じたことのある違和感。
 ——それは足下からやって来る。
「逃げるよ二人とも! まだ終わってないッ!」

 その時、湖を砕くような爆音が大気を震わせた。


あとがき

 湖を出るまでが紅魔館編です。
 だんだん静流が成長しているように見えるといいなぁと思って書きました。
 奇妙な三人組の小さな冒険も板に付いてきたような、そうでもないような。




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最終更新:2010年08月25日 15:34
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