湖を砕くような轟音と共に現れたのは、巨大な水塊だった。
忍者はまだ倒れてはいなかった。全身から怒気と闘気を噴出しながら、再び立ち上がった。そう、まるで大岩のような水を両腕で持ち上げて、彼は立ち上がってきた。黒装束もところどころが破れ、鍛えられた筋肉がむき出しになっている。憤怒の炎が天を衝き、執念を湛えた目は爛々と光りこちらを睨む。
「まだだ……まだ俺は戦える……!」
地の底から響いてくるような男の哭びに、
リグルが色を失った。チルノがごくりと生唾を飲む音が聞こえた。そして静流は、冷静に船の後端に呪符を貼り付けた。逃げる準備だ。
すでにわかっていた。こんなところでまともに戦えば勝てないということが。
勝てないだけじゃない。最低でも命は落とす事になる。
「じょーとーじゃない! 今度はあたいが——」
「馬鹿っ、あと少しで岸なんだぞ」
「バカとは何さ! あたいは天才だって何度も……」
目を三角にして反論するチルノの声が尻窄みになっていく。だんだんと危機感を持った表情に変わるのを見て、静流は理解した。何かが後ろから来ている。
理解するのと行動はほぼ同時だった。リグルの手を掴み、ボートに引き下ろす。そして空いた手で素早く印を切り、命じた。
「急ぎ急げ律令の如くッ!」
合図に従って、砲門が霊撃を放つ。ボートが爆発的に加速する。もはや限界に近かった。これ以上を出せば安定を失い最悪転覆する。それでも静流は心の命じるままに加速させた。
その刹那、ボートのすぐ後ろに、忍者が持ち上げていた巨大な水塊が墜落した。
危ないところだった。あんなものに潰されれば即死だ。だが、これでも回避したとは言えない。巨岩同然の水塊が落ちた衝撃で、波紋が湖面を同心円上に広がっていく。それも、恐ろしく高い大波だ。
「う、うぇぇぇええぇえ!?」
後ろから追い掛けてくる波濤を見上げ、リグルが目を白黒させて素っ頓狂な声を上げた。
だが今は構っている場合じゃない。揺れるボートの上、静流はチルノの頬をぺちぺちと軽くはたいた。
「何ぼーっとしてんのさ」
「べ、別にボーっとなんてしてないわ。びっくりしただけよ!」
「一緒だよ。おまえはとにかくボートが沈まないようにするんだ」
「だからあたいに命令すんな!」
ぷいっと顔を背けるチルノ。しかし言葉に反してボートは安定を取り戻していく。
静流は推進用とは別に三門、呪符の砲台をセットして即座に発動させた。
「急ぎ急げ律令の如くッ!」
三条の冷凍ビームが大波に向かって発射され、一気に凍結させて動きを止めた。
これでひとまず呑み込まれることはなくなったが、気を緩めるにはまだ速い。
『槍の出番だリグル君!』
「え? あ、どぎついヤツね。オッケー!」
リグルがボートの後部に立ち、腕を突き出した。その手には取っときのスペルカード。
もちろん、狙うのはすぐに遠ざかる凍った波ではない。
狙うのは——氷の壁を切り裂いて現れる忍者だ!
「なに!?」
表情は覆面でうかがい知れないが、憤怒に満ちた忍者の目にさざ波が立つ。
「波を目眩ましに斬りかかるなんてのは、馬鹿にしか通じないんだよ」
冷徹に言い放つ静流の前で、リグルがスペルを宣言する。
「襲来! ハードデイズッ、ナイト!」
ずがんっと稲妻のような音を上げて、リグルの腕から巨大な角のような光槍が発射される。射程距離は四メートル。まるで破城槌のように打ち出されるそれは、ただ相手を打ち抜くために編み出された必殺の接近戦用スペルだ。
慌てて防御の準備をしても遅い。
「ごふ……ッ!」
土手っ腹に弾幕の杭を打ち込まれ、忍者の体が『く』の字に折れ曲がった。
だが、そこで忍者は踏みとどまった。さっきみたいに吹き飛ばない。ほんの少しの間に体勢を立て直して、再び追い掛けてくる。
「そんなもので、俺の背負った宿命をへし折ることはできんぞ妖怪ッ!」
『なんと天晴れな根性!』
「うそッ、通じなかったよ!」
「化け物かあいつは」
体術じゃない。
当たる瞬間に体を後ろに流してショックを軽減したとか、腕で防御したとか、そういうものではなかった。
あれは、妹紅の不老不死と同じような、もっと理不尽なものだ。
「これで終わりだァァアッ!」
憤怒に満ちた顔で、忍者が水刀を振るう。刃が来る。
その時、チルノの声が涼やかに響いた。
「パーフェクトフリーズ」
疾駆するボートの周囲に冷気が満ちる。動いて出す技じゃないから、どんどん冷気が後ろに流れているが、それでも水の刀身は飛ぶ寸前で凍らされて崩れ去った。さらに忍者の動きまでもが鈍る。
「な、なんだこれはッ! 身動きが……!」
「あたいのゲージュツ的な船は、あたいが守る」
前を向いたまま語るチルノの背中は、なんとも頼もしくカッコよかった。
だが当然のように冷気は自分とリグルにも襲い掛かっているわけで。正直、この密着に近い距離だとうっかり凍死しそうだ。
気温は氷点下をとうにブッちぎっている。
ほら、船のスピードが落ちていく。がりがりと削るような音。湖面まで凍り始めたのだ。
「チ、チルノ、たた助かったよ……っ」
唇を紫にして静流に抱きつきながら、リグルは震える手で親指を立てた。
こっちも寒いので、リグルの体温は助かる。頭の回転どころか呼吸や鼓動まで止まるところだった。
「見て! あいつが!」
チルノが声を上げる。振り返ると忍者の鍛えられた体や黒装束がひび割れていた。
そういうことか、と内心で呟く。
忍者は薄い水の鎧を着ていたのだ。透明な鎧は甲冑並の防御力でリグルのスペルを受け止めた。だがそれも今となっては、割れて体を傷付けるだけの針のむしろだ。
これでは動けまい。そう思った矢先、忍者の顔に人間的な色が宿り、地から響くような声で唸った。
「そうやって、いつもお前達は俺たちを虐げる……!」
鍛えられた肉体が震え、動きを束縛する薄氷を弾き飛ばす。
皮膚が裂け、血が吹き出る。覆面も氷と一緒に砕けて取れた。
思っていたよりも若い。顔つきは精悍で鋭く、影がある。血みどろになりながらも彼の顔から、遠ざかる静流達を睨み付ける眼から、憤怒と闘志が消えることは無い。どうしようもない執念を感じ取り、体が震えるのがわかった。
早くここから逃げなければ。
「どうなってるのさ! あたいの船が進まないなんて!」
チルノが悲鳴を上げる。もう岸は目の前だというのに進めない。
何が起きているのか、想像は付いた。周囲の水を固められたのだ。表面の氷だけなら砕けるが、さすがに湖に掴まれてはボートが進めるはずがない。
「妖怪に与する小娘よッ!」
男は太く、強く、声を張り上げた。その呼び掛けに、静流は目を逸らせなかった。引き寄せられるように忍者を見てしまう。
精悍な顔はどうやら信念を湛えていた。
「妖怪の力に怯え、身を寄せ合い、それで人間は幸せになれると思うか!」
「一体なにを……」
「おまえは知らないようだが、妖怪は力を振りかざし、広い土地を人間から奪い取った。抵抗することも敵わず、あろうことか博麗の巫女は妖怪側に付いた。今の俺たちは妖怪に飼われた家畜も同然だ!」
忍者は言葉にあわせて一歩、また一歩と着実に足を踏み出してくる。
いつでも脱出できるよう二人に目配せして、静流は冷たく微笑する。
「なるほどな。それで、おまえの目的は何だ? その力で下剋上でもするつもりか」
だが忍者はそれを鼻で笑った。
「ふん、下剋上? そんな甘っちょろいものではない」
「じゃあなんだって言うのさ」
「これは、人間の尊厳をかけた戦いだ」
忍者は厳かに言うと、湖から巨大な水剣を引っ張り出した。彼のいる十メートル先からでもボートごと真っ二つに両断できるほどの、化け物じみた大剣だ。
「俺は試練を乗り越えて『力』に選ばれた。これは、妖怪という宵闇を打ち祓い、人類に夜明けをもたらせという天命に相違ない。幻想郷に妖怪など不要。この力は、俺たちの革命を成し遂げるための、つまり妖怪を滅するための力だ」
『ニンジャよ、その理論はすでに外の世界で幾度となく悲劇をもたらしてきた悪論だ』
「いいや、これより他に手段は無い。妖怪の中に俺たちとまともに取り合う者などいない。俺たちを貧弱な種族と侮り、巫女の作った『ごっこ遊び』でなければ対抗すらできないと思っているからだ。何もできぬ家畜だと思っているからだ! その驕りを打ち砕き、覆すには、大きな力が必要だと思わないか。こういう力が」
水の大剣を、ゆっくりと上段の構えに持っていく。
反則級の重量を支えるために足下から水が這い上がる。体が何倍にも膨れ上がる。
身の毛もよだつような悪寒に襲われながらも、静流は冷たい微笑を崩さなかった。
「あぁまったく、おまえの言う通りだよ」
「静流、なに言って——」
「ただ、目の前の些事に捕らわれて目的を見失うのは良くないな。おまえ、本当は紅魔館に攻め入ろうとしたんだろう? だったらまずは任務を果たすべきじゃ無いのか」
「些事だと? 違うな。ここまでコケにされてなお、おめおめと引き下がっているようではッ、俺は何も果たせない……!」
強く低い、唸るような声で、忍者は言った。
「孤独に生きるおまえなら、それが理解できるはずだ。そうだろう、秋静流!」
「えっ、あいつ知り合いなの?」
リグルが震えながら尋ねてくるが、もちろんそんな事はない。
人里では静流の名前を一方的に知っている人も少なくない。それほど秋静流という名前は特別なもので、畏れられ、だからこそ、そんな自分の名前が好きになれないのだ。なぜこんな名前を付けたのか、それを知っている者はもうこの世にはいない。
静流は苛立たしさに表情を歪め、沸々と溢れる激情を目に宿し、声に乗せた。
「ずいぶん知ったような口を利くじゃないか、幸田行成……ッ!」
今度は忍者、幸田行成の表情が歪む番だった。
まさか知られているとは思わなかったのだろう。上段に構えた大刀が揺れる。
「どうして、俺の名前を知っている……」
「その顔を見て思い出したんだ。おまえ、歴史学者の幸田成定の息子だろう? いつだったか、阿求の屋敷を尋ねて来たところに出くわして話をした。おまえのこともな」
成定がそもそも怪しげな男だったので、よく覚えている。強い意志によって爛々と輝く目は、たしかによく似ている。
行成は戸惑ったような表情から一転、憎悪に満ちた般若の顔へと変わった。
「親父は死んだッ! 志半ばで、妖怪共に殺されたのだ!」
その怒号に応えるように、構えた大刀がさらに質量を増した。
「俺は、この水を制する力で親父の無念を晴らし、その宿願を成就させると誓った! そのために得た力だ! それでもおまえは、俺の邪魔をするのかッ!」
返答次第では即斬り捨てると言わんばかりの剣幕。
静流はふっと表情を緩め、かぶりを振った。
「まさか。そんな面倒ごとに巻き込まれるのは御免だね」
「え……ちょっと待って!」
愕然とした表情でリグルが詰め寄ってくるのをひょいと避けて、静流は凍り付いた湖面に降り立った。
非難の視線が突き刺さる。
「友達だと、思ってたのに……っ」
「本当に幸せなヤツだな。おまえたちを友達と言った憶えは無いよ」
「そんな……」
「ところで、行成。私が逃げる時間はくれるのか?」
「ならばその妖怪共を金縛りにしろ。ただし、妙な真似をすれば斬るッ」
「用心深いじゃないか。わかったよ」
ひどく動揺している今なら、力の強いリグルやチルノも金縛りにできる。
静流はためらいなく、流れるような動きで白手袋のセーマンを二人に向けた。
「待ってよ静流!」
「動くなッ」
ビクッと肩が震え、二人の動きが止まった。
己の意に添って事が進んだことに気を良くしたか、行成が口元をにぃと歪める。
「そうだ、それでいい。俺たちの敵は人間ではない。それにおまえは必要な人材だ。疾く里へ戻れ」
「そうさせてもらうよ」
白手袋を嵌めた手をひらひらと振りつつ踵を返し、そこで立ち止まる。
「あぁそうそう。一つ教えておくと、私はおまえの何倍も用心深いんだ」
「なんだと……?」
行成が怪訝な顔になるより早く、青いラインを残して光の翡翠が奔り、周囲に視界をゼロにするほどの濃霧が充満する。
霧隠れの術だ。
「くッ、小癪な真似を!」
焦った行成が、強化された膂力をもって刃渡り十五メートルの大刀を振り下ろす!
放たれるのは十分な速度を持った質量の暴力だ。
巨大な水刃は濃霧ごと凍り付いた湖面を真っ二つに引き裂いた。