東方秋狼記
第十五話:いいや、殴るね!
静流があっさりと船を降り、霧が一面に立ちこめたその時、手を強く引っ張られた。
「追い掛けるよ、
リグル!」
力強い友達の声。
そこでようやく、金縛りが解けていることに気付いた。
巨大な剣が落ちてきて、勢いよく船から飛び出して、後ろで何もかもが押し潰されて、霧で何も見えなくて、かろうじて見えるのは一生懸命に前を睨むチルノの顔だけ。
『ふむ。これが霧隠れの術か……!』
「ふーんだっ! こんなの、あたいには効かないってのよ!」
これだけ見通しの悪い霧の中でも、チルノはあんまり困らない。いつも自分達で出している濃霧の中で遊んでいるから、これくらいなら慣れっこなのだ。ただ、どういう理屈か飛ぶと姿を見失うらしい。
リグルはまだ動揺していた。
なんであのタイミングで金縛りが解けたのだろう。効果が切れたのか、それとも……
「あいつ、絶対殴る!」
チルノは怒っていた。目を三角にして、必死で走っている。
「私も殴ってやりたいけど、まずは話を聞いてみようよ」
「じゃあ一発ずつね! 話すのはそれから!」
チルノは頑固だ。
こうと決めたら曲がらないし、迷わない。
「うー、なんで追いつけないのよー! あたいの方が足速いのに!」
『吾輩が思うに、おそらく結界の一種であろう』
「博麗の巫女がやってるみたいな?」
『時にリグル君、その博麗の巫女とは何者かね』
「あーもう! 何でもいいのよ!」
吼えるチルノの声は果たして、静流にまで届いているのだろうか。霧はリグルにも先が見えるほどに薄くなってきたが、なんとなく、音でも追いつけないような気がしていた。
★
走る、走る。
なんてヤツだ。あんな理不尽、まともに相手していられるか!
「はぁ、はぁ、はぁっ」
奥へ、奥へ。息を切らせ、草をかき分け、森の中、道無き道を駆けていく。
とにかく逃げるしかなかった。勝ち目のない戦いをするのは馬鹿だ。頭を使って、自分の力を逃げることに費やして何が悪い。あの二人は馬鹿だ。リグルも、チルノも。相手は遊びじゃないというのに、どうして飛んで逃げようとしなかったんだ。おかげで余計に苦労したじゃないか。
霧隠れの上に迷路結界まで利用して徹底的に逃げながら、静流は内心で独りごちた。
あれだけしか稼げなかったが、あいつらは逃げられただろうか。
相手の規模はわからないが、自分のことを必要な人材だと言っていた。今までいろいろやってきたから、目を付けられているのかもしれない。それなら一人の方が動きやすいし、巻き添え食わすのも後味悪い。それがお人好しで脳天気な馬鹿なら、なおさら。
「くそ……なんなんだよ……」
奥まったところまで来て、ようやく静流は足を止めた。大きな木にもたれかかり、息を整える。体力には自信があったが、さすがに堪えた。
「なんなんだよ、って言いたいのはこっちだよ!」
少年みたいな声が少し怒ったように不満を漏らす。
うっすらと開けた視界に緑髪の妖怪と、青い氷精の姿を認め、静流は嘆息した。
「なんだ、逃げられたのか。なんで付いてきたのさ」
「いや、たしかに逃げ切れたのは感謝してるけどさ……そうじゃなくて! どうして——」
「しずるぁーッ!」
リグルの言葉を遮るようにチルノが雄叫びを上げ、拳を振りかぶった。
避ける暇もあればこそ、彼女の小さな拳はしたたかに静流の頬を打った。鈍い音が森に響いた。
「…………っ」
じんじんと痛む頬を押さえて、しかし静流は何も言わなかった。
逃げるためとはいえ、裏切り宣言をしたのだ。打ち合わせなんてもちろん無かった。だからチルノの行動はむしろ納得できた。それに、嫌われるのも睨まれるのも殴られるのも慣れている。その度にやり返してきたが、今回はそんな気になれなかった。
顔をゆらりとチルノに向けると、彼女の何とも言えない怒りの視線が突き刺さってきた。氷の妖精らしい、でも彼女らしくない静かで荒々しい怒りっぷりに、静流は戸惑った。そうだ、この目。船を降りたときも、ずっとこんな目で静流を見ていた。憎んでいるわけでもない、ただ怒っている目だ。
なおも拳を振り上げようとする彼女を、後ろからリグルが羽交い締めにして止めた。
「ちょっとチルノ!? 一発って言ったじゃん!」
「いいや、殴るね! よくわかんないけど、気に食わないんだ!」
どうしようもない、やり場のないエネルギーを握り潰すように、チルノは強く強く拳を握っていた。
「あたいが! リグルが! こういうときはッ、友達が殴ってやんなきゃなんないのよ!」
吼えながら、その怒りの理由もわからず、その事にも気付かないくらいの剣幕で、チルノは身をよじった。でもリグルの腕力は妖精よりも強い。もし放せばチルノは真っ直ぐに静流を殴るだろうから、余計に放すことはできなかった。
氷精のくせに頭を冷やすことを知らないチルノを半眼で見据え、静流は嘆息した。
「はぁ……ホントに幸せなヤツだな。だから簡単に利用されるのさ」
「うるさぁぁい! あんたはッ! すぐあたいを馬鹿にするくせにッ! なんでそんなにバカなのさ! なんでもっと……ええと、ああもうッ!」
「ふん。馬鹿のくせに頭を使うからそうなるんだ」
「やかましやい! ふん! 天才あたい様は初めッからガツンとお見通しだってのよ! あんたはそうやって人が近付かないようにしてるんだ! いっつも嫌なことばっかり言って、ぶあいそーでッ! なんでそんなに『独りぼっち』になろうとすんのさ!」
自慢げに怒るという器用な形相で、チルノは真っ直ぐに指を突き付けてきた。
全く理解できないと言わんばかりの、しかしお見通しですと宣言する咆吼には、さすがに動揺した。まさかここまでボロクソに言われるとは。
「うるさいなぁ……! その方が楽だからに決まっているだろう。無理に愛想振りまいて媚び売って、私に何の得があるっていうのさ?」
ぎろりと鋭い目で睨む静流を真っ向から睨み返し、チルノは勝ち誇ったように叫んだ。
「あんた知らないのね! 誰かと一緒の方がッ、ごはんが美味しいんだぞ!」
その言いっぷりがあまりにも自慢げで馬鹿馬鹿しくて、静流は思わず脱力してしまった。
深々と嘆息し、チルノの頬をぐにっと掴んで左右に引っ張った。
「さすがに知ってるよ、それくらい」
「いひゃい。はにゃひぇ!」
「……悪かったよ、あぁ私が悪かった」
「いひゃいいひゃい!」
「ちょ、ちょっと静流っ、やめたげて! チルノがセントバーナードみたいになるよ!」
「なんだよ。私なりの謝罪表明が気に入らないって言うのか」
「なんかもういろいろと台無しだよっ! ホントにどれだけ素直じゃないのさ!」
「うがー! ひっぱるなバカ! やっぱりあんたは、ずるくて性格悪くて嫌なヤツだ! もう殴る! 氷でボコるわ!」
「うわ馬鹿ッ」
目の前から二人同時に飛び掛かってきたのをどうにかできるはずもなく、静流は逃げることさえできずに組み敷かれてしまった。二人に乗られると、とりあえず重い。そしてこうもチルノに密着されると、寒い。リグルはどうして平気なのだろうか。
何やら振り上げられた拳を眺めながら、抜け出す方法を必死で考え始めた、まさにその時だった。
——ドゴォォオンッ、と派手な爆音が鼓膜を振るわせた。
たぶん場所はそう遠くない。
ついさっきまで死線をくぐっていたせいか、リグルはビクッと身を震わせ周囲を見回す。そうすれば何かがわかるとでも言いたげに。
「なに、今の……っ?」
「ジケンの香りね! さっきのあいつかも!」
『いや、吾輩が思うに、こういうのはよくあることだ』
「そんな事より重い、苦しい、降りろ」
しっしッ、と追い払うような手振りで下から偉そうに言う静流に、リグルは半眼になり嘆息した。
「静流……だんだん遠慮がなくなってきてるよね」
『初対面からこうであったと吾輩、記憶しているが』
一体どこに記憶しているのかはわからないが、ペーパーナイフが渋みのある声ですかさず指摘する。まさにその通りなので静流は反論しないが、とにかくさっさと退いてほしいというのが唯一の願いだ。
なんだかんだでリグルは良心的で、すぐに降りてくれた。それに合わせて、すでに興味の対象が爆音へと向いているチルノが勢いよく飛び退いた。掛かる体重が一瞬だけ倍加して、静流は短く呻き声を上げた。
だが、好奇心に目を輝かせるチルノには、そんな苦悶の声は届かなかった。
「ほらっ、早くしないと! あたいを謎が待ってるわ!」
すでに宙に浮いて急行体勢のチルノの足を掴み、リグルは不安げな顔を向けた。
「ねえ……もし爆発の原因が、さっきみたいにデタラメなヤツだったらどうするの……?」
ひく、とチルノの頬が引きつる。
さすがに理解できていたのだ。あの人間、幸田行成は逃げるのにも苦労するような怪物であると。そういう人間の形をした怪物が、この辺りをうろうろしているかもしれない、ということを。
そして、しばしの逡巡の後、チルノは大人しく地面に降りた。
少しの沈黙の中、静流は腹を押さえながら起き上がると、二人の肩にぽんと手を置いた。
「じゃあ、行こうか」
「静流まで!?」
『安心したまえリグル君。あれから爆音が聞こえないということは、すなわち事は過ぎたということである。普通の喧嘩ならば良し、たとえ先のジャパニーズ忍者の仲間とやらの破壊活動だとしても、すでに破壊された場所に用は無かろう。つまり、ある意味では最も安全な場所かもしれんのだよ!』
ペーパーナイフの熱弁も虚しく、リグルもチルノもぽかーんとした顔で思考が止まっていた。たまに賢いことを言うような気がしていたが、やはり頭は弱いのだ。ほんの少しだけ見直しそうになっていたのを、単なる気の迷いであったと静流は首を振った。
「ここにいるよりはマシって事だよ」
「最初からそう言ってくれれば良かったのに」
いじわるだなぁ、と言うリグルに嘆息を返し、静流は爆音の聞こえた方へ歩き始めた。どうせ飛べないし、他の二人にしても飛ぶよりは見つかりにくいはずだ。
道中、ふと、静流は聞き忘れていたことを思い出した。
「紙切ナイフの憑喪神。おまえの名前はなんていうのさ?」
『むむ、吾輩としたことが忘れていたな! 吾輩の名はバーネット。かつて吾輩を所持していた作家に付けられた名前だが、以降はそう名乗っている』
「ふぅん。探偵みたいな名前だな」
以前読んだ小説を思い出し、静流は率直な感想を口にした。
★
木々の間を抜け、少し開けた場所に出る。
一気に明るくなった視界の中、隅の方に映り込んできたワインレッドに、リグルとチルノが総毛立った。ぞわりと肌を妖気と冷気が撫でていく。
静流は冷静にその場を見回した。
あるのは、辺り一面に散らばる木材と、それに紛れるように倒れている暗紅の夜雀。柔らかそうな羽は無惨に切り刻まれボロボロで、ちぎれ掛かって真っ赤に染まっている。全身に木の破片がいくつも刺さり、それでも胸が上下しているのを見ると、まだ生きているらしい。さすがは妖怪だ。
おそらく先程の爆発の結果が、これなのだろう。木材がまるで破裂でもしたかのように裂けているのも気になったが、それ以上に、木材に紛れて人の腕のようなものや、異様なくらいの血痕がそこかしこにあることが、事態の異常さを物語っていた。
そうやって観察している間にも、二人は夜雀の元へと駆け寄っていく。
「みすちー!」
『なんという事だ。ミスティア嬢、気をしっかり持ちたまえ』
本気で心配している二人と一つの様子を少し離れた場所で眺めながら、なんとはなしに疎外感を感じてみたりして、静流は別のところに目をやった。
ふと、珍妙な足跡が付いているのに気付いた。
人の足跡……にしては巨大。指は五本あるものの、異様に長いし、指先が丸くて大きい。まるで蛙だ。
妖怪か、と思ったその結論を、静流は即座に訂正した。人間の足跡も、すぐそばにあったのだ。それに強い妖怪ならいつもの奇妙な感覚でわかる。たまに人里に来る風見幽香のように徹底的に力を抑えていても妖怪だとわかるのだから。
「ふぅん。つまり、嫌な予感だけは当たったのか。嫌だな、嫌な気分だ」
独りごちて、静流は嘆息する。
「チルノ。妖怪のことはよくわからないけど、出血の酷い傷は凍らせなよ」
「凍らせる、そういうのもあるのね! ま、まぁあたいは知ってたけどねッ」
「冷やしすぎるんじゃないよ。あとリグル、そこの木っ端で羽を固定してあげなよ。落ちてる布を巻けばいいから」
「え、ちょっと待って静流っ、どうやるの?」
『なるほど、固定なら吾輩も知っているぞ。リグル君、吾輩の言うようにやってみたまえ』
こんなところで永遠亭で見聞きしたことを活かすことになるとは思いもしなかったが、妖怪の回復力ならこれでもなんとかなるだろう、と静流は目線を外した。
自分が今するべきなのは、状況を把握することだ。
これの犯人はなんらかの力を持った人間かもしれない。もしかすると、紅魔館に向かう『ついで』だったという事もあり得る。
幸田行成は鉄のように硬い水を操る力を持っていた。もちろんそんな噂は聞いたことがないし、選ばれたという彼の言葉が正しいなら、きっと身に付けてから日が浅い。絶対に無いとは言い切れないけれど、あれだけの力を突然得るのは難しいはず。
もしそんなことができるなら、みんなやっている。
「いや……違う」
ふと、以前話をした黒い探偵の言葉が脳裏をよぎった。
(ぼくは怪異に対しては『きっと可能』と考えるんだ。そうしないと際限がないからね)
可能な方法。つまり、それがあるから紅魔館攻めなんて無茶を実行に移したのだ。それがどんなものかは後で考えよう。とにかく、妖力も持たず、妖怪に重傷を負わせる人間がこの辺りにいる。妖怪への敵意を持って行動している。
危険だ。危険だが、目的があるらしいので逃げようはある。
だが——ここに散らばる『人間の破片』は一体なんだ。
「静流ー! ぼーっとしてないで手伝ってよ」
不満げなリグルに呼ばれて、静流は嘆息。ひとまず被害者に話を聞くために現場の観察を中断した。
まぁ、他の場所よりはマシだろう。と内心で独りごちる。
もちろん後続部隊がいれば別だが、それは今はあまり考えないことにした。
いいかげん体も限界だったのだ。
あとがかれ
久しぶりの更新。
そして話はシリアスモードへ。
うだうだと書き続けているうちに、だんだんわからなくなってきました。
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最終更新:2010年12月08日 22:00