ふん、と静流は声を漏らした。
涼しい顔のまま落ちている腕を拾い上げる。
おそらく体幹を潰されたときにちぎれたのだろう。いかにもぞっとする話だが、不思議と静流の心は落ち着いていた。むしろその事にぞっとする。
人が怪物となって人を食った。
まるで怪談話のようだが、そういう例を静流は聞いていた。
悪魔憑き。夏目がカルネヴァーレと言っていたアレは、人間の魂無き心が怪物へと変貌したものだ。言い換えれば、人間の中には怪物の素が住んでいる事もあるわけだ。もしかすると、自分の中にもいるのかもしれない、と。静流は胸に手を当ててほんの少しだけ目を閉じた。
静流はあまり迷わない。
やりたい事と、やっている事。その間にはほぼ溝がない。
いったいどこに乖離があるのだろう。それが力になるのなら、喜んで使ってやるのに。
『つまり、静流君。ミスティア嬢を襲ったのは先日の蜘蛛と同様の存在だというのかね』
「さぁね。直接見てもいないんだ。真相なんてわかるはずがないだろう」
にべもなく答え、静流はすぅっと目を細めた。
「……でも、そうだね。とりあえず幸田行成の仲間なのは確かみたいだ」
ちぎれた腕には全て、目立たない場所に『尊』という刺青が入っている。
このマーク、静流には見覚えがあった。
「こいつら、尊人党だ」
「なにそれ?」
「幻想郷の歴史を調べ、妖怪の排斥を目論む秘密結社さ。怪しい集団でしかなかったけど、行動力はあってね。妖怪がどこに住んでいるかも調べているから、かなり的確に襲撃できる。まぁ、人を尊ぶと言いつつ人間やめてたら世話無いけどね」
目に呆れの色を宿して、静流は肩をすくめた。
なんにせよ、尊人党が厄介な力を手に入れてしまったことには変わりない。人里に郵便システムを敷くという目的の邪魔になるのは間違いないからだ。
もしそんなことになれば、今まで積み重ねてきた計画が全てお釈迦になる。
「あのさ、今まで不思議だったんだけど」
「なにさ」
「静流ってどこでそういう事を覚えてくるのかなぁって。普段何してたらそうなるの?」
「なにもたいした事じゃないだろう? 何でも屋なんてやっていれば大勢の人を見ることになるし、片手間に本を読んでいれば知識くらい増やせるのさ。おまえたち妖怪のことも少しは知っているよ。阿求の家でいろいろ読んだからね」
さらりと答えた静流は頭をとんとんと指で叩いた。
実際、紅魔館で読んだ本の内容はほとんど覚えている。日が経てば少しずつ忘れていくだろうが、それは使わないものをノイズとして切り捨てているだけのことだ。必要な知識を忘れることはまず無い。
まだ全然だが、ずいぶんと術の勝手がわかってきた。それだけでも大きな一日だった。
問題は、これからどう戻るか、ということだ。
「静流はこれから永遠亭に行くんだっけ?」
「ああ、そうだな」
「永遠亭ってことは、みすちーも治せるじゃないのさ! なんで早く言わないのよ!」
「言ったよ。おまえが聞いてなかっただけでね」
静流は半眼で答え、ミスティアに目をやった。
「夜雀はたしか……鳥目にする能力。それで、
リグルは蟲を、チルノは冷気を操るんだな。バーネット、おまえはどういう能力があるんだい」
『吾輩はレターオープナーの憑喪神であるからして、さしずめ、封を開ける程度の能力といったところかな』
「封を開ける……ずいぶんと曖昧じゃないか。とはいえ、隠密の逆みたいだな」
「いきなりどうしたのさ静流。何かいい事でも思い付いたの?」
「それを考えているんだよ」
組んだ腕を指で叩くこと数回、はっとした顔で静流はリグルを見た。
「リグル。蟲を使って離れたところを見張ったりできないのか」
「え? できるよ。私が直接見るワケじゃあないけど、見てもらうことなら」
「ちょうどいいじゃないか。虫が飛んでいても誰も不思議には思わないだろう? 最高の偵察隊じゃあないか」
「でも、なんとなくしかわからないよ?」
「それで十分だろう? 誰にも会わないように進めばいいだけなんだ」
「そんなめんどーなことしなくても、人間くらいならブッ倒せばいいじゃん!」
「本当に学習しないヤツだね。人間の形をしているだけかもしれないだろう。それに相手は複数なんだ。騒ぎを聞きつけて集まられたらどうするんだい」
すぅっとミスティアを指さすと、チルノははっとしたように顔色を変えた。自分の強さにプライドを持っていても、それは弱っている友達を巻き添えにしていいという理由にはならない。少なくとも、彼女はそういう感性を持っている。
そんなヤツだから信用できる。
「とにかく、誰もいない場所を見つけていけばいいんだね? うーん、やってみるよ」
リグルは周りに引きずられやすいが、自分に正直だ。最初に会ったときにそれはわかっている。関係のない者の事まで気にするようなお人好しじゃあないし、自分が好きな方を優先するタイプだ。
そんなヤツだから信頼できる。
「ついでに人里の様子も見た方がいいだろうね」
「うわ、たしかに、なんかすごいことになってるみたいだよ……」
「すごい伝言の速さじゃあないか。それで、なにがすごいのさ?」
「うまく言えないんだけど、慌ただしいというか、なんかヤバめって感じ」
「つまりドッカーン!ってわけね!」
「それはヤバめじゃあなくて、ヤバイって言うんだよ」
「えー。そんなの、どっちでもおんなじじゃないのさ。ヤバくなくないんだから」
「きな臭いのと火が上がってるのとは違うんだよ。まぁ、どちらも避けて通った方がいいのは間違いないけどな」
「ほらッ! やっぱりそうなんじゃないのさ」
「おまえ、自分で何を言っているのかわからなくなったりしないか?」
「あたいは天才よ。わかんなくなくならないっての」
「ちょっと静かにしてよ二人とも。けっこう集中力がいるんだから」
不毛な会話を続けていると、ペーパーナイフをタクトのように振るっていたリグルが手をぴたりと止めて不満の声を上げた。
「はぁ……とりあえず、私に付いてきて。大丈夫っぽい方へ行くから」
「さっすがリグルね!」
「あ、静かに付いてきてよ? 歩きながら偵察するんだから」
「わかった。その間に私は黙って術に慣れておくよ。用心に越したことはないんだ」
『うむ、では吾輩もリグル君のタクトとして尽力させてもらうとしよう』
「尽力することなのか、それ……?」
半眼で静流が呟いた問いは誰に答えてもらうこともなく、森の中へ消えていった。
その数分後、様子を見に来た永琳によって、意識を失って倒れている慧音が発見され、事は明るみになるのだが、その時にはすでに瑞穂の姿は永遠亭から消えていたのである。