秋狼記17

東方秋狼記



   第十七話:時は動き始める


 その少女は、自分の名前があまり好きではなかった。
 親はいない。顔も思い出せない。
 幼い頃、周囲の人間は優しかった。ただそれは、まるで金品を扱うような……そういう優しさで、とにかく気持ちが悪かった。
 つまり、誰も少女の事なんて見ていなかった。みんなが見ていたのは少女の名前だった。
 だから拒んだ。名前などに私をくれてやるものか!
 そんなに望むのなら、そんなに物を請うのなら、いっそ支配してやる。
 私には一握りの砂金がある。おまえたちの優しさなんて、いらない。

   ★

 轟ッ、と暴風のように吹き付けてくるのは、無数の斬撃であった。
 見ることもできない切断力の雨を、気配を感じ取って紙一重の危うさをもってかいくぐりながら、紅魔館の門番である紅美鈴は地を這うように距離を詰めていく。
 事態はまったく想定の範囲を超えていた。
 切り裂かれる地面に目をやり、美鈴はざっとわかる事を整理する。
 客の少女、静流を見送って一息ついた頃、紅魔館は武装した人間の襲撃を受けた。当然、回り込んできたのだろうが、湖を越えてくることもできないような相手など、ここの妖精メイド門番係だけでも対処できる。
 だがその予想は見事に外れた。
 相手の総数はわからないが、その中の決して少なくない人数がなんらかの能力を持っているみたいなのだ。それも斬撃を操る者、土を泳ぐことができる者、砂を一瞬で固めて岩にしてしまう者など、自分たちが言えたことではないが節操がない。
 彼らは能力者を中心にした小隊を編成することで妖精メイドを返り討ちにして、いよいよ館内へと突撃せんという段階にまで至っていた。
 これは非常事態ということで、紅魔館の門番隊長であるところの美鈴が、まだ魔理沙戦の傷が癒えていない体を引きずって参戦した次第である。
「わけがわかりませんが……関係ないッ」
 疲労や負傷を感じさせない華麗な動きで、館内に侵入しようと向かってくる輩に気弾を見舞い昏倒させる。幸い、単体で美鈴が苦戦するような攻撃能力を持った敵は少数だ。
 それでも多勢に無勢。防衛することを考えると美鈴では苦戦は免れられないというのが悲しい現実である。
 霊夢や魔理沙はいつもこんな状況を突破するのかと、感心するやら恐れ入るやら。
 こんな状況に置かれながらも、美鈴はなんとはなしに血が騒ぐのを感じていた。いつも不得手な弾幕ごっこの相手をしていたからだろう。こうやって、ルール無用で応戦するというのは、ヤバイ状況なのになんだか楽しい。
 ああ、まだ自分にもこんな部分が残っていたんだな、と心が踊る。
 繰り出す気弾、気弾、気弾。それも斬撃の雨に切り裂かれ、かき消えた。
 自分が守れるのは正面の入り口だけだが、相手は数少ない窓を割ってでも中に入ることができる。そしてそんな連中まで相手にする余裕は、実のところ無かったりする。
「……ッ」
 肩に鋭い痛みが走り、つぅと血が流れる。
 邪魔されるばかりか、同時に攻撃までされるとは。
 敵は遥か上。まるでそこに地面があるかのように悠然と立ち、こちらを見下ろしている。
「飛べる人間が他にもいるなんて、思いませんでしたよ」
 強がるような笑みを浮かべて、美鈴は空を仰いだ。
 逆に考えるんだ。気弾一発で昏倒してくれる相手なんて、むしろ通しちゃえばいいと。私の敵は、強いヤツだけ。
「行きますよぉ……ッ」
 脚に力を込める。美鈴は空を蹴り、駆けるように飛ぶイメージを持っている。だから、離陸には跳躍が必要だった。
 結果を言えばそれこそが弱点。一瞬の隙。
 ぐん、と脚を引かれる感触と共に、下から濁った声が聞こえた。
「ぞうはさぜねぇよぉ……」
「やば……ッ」
 油断していた!
 敵の中には地面を泳ぐ能力者がいると聞いていたのに、『地面からいつ腕が伸びてきてもおかしくない』と考えることができなかった。
 一瞬、美鈴は迷った。上か、下か。先に対処するべきはどちらかと。迷ってしまった。
「妖怪。迷うというのは、罪なことだな」
 なぜ、あの遥か上空から叫んでもいない声が届くのだろうと疑問に思う間もなく、美鈴の全身から血が噴き出した。
「ぐッ、う……ぁ」
 綺麗な肌が至るところでばっくりと裂けている。痛みで涙が出てくる。頑丈さに自信のある美鈴でなければ間違いなく致命傷、悪ければ即死しかねない威力だ。しかも見えないと来ている。これは時を止めてナイフを投げる咲夜に勝るとも劣らぬチートっぷりだ。
 いや、咲夜のようにタネがわかっていない分、こっちの方がタチが悪い。
(どういう能力か、もう少しヒントがあれば……ふふ、上等)
 美鈴は気付いていなかったが、顔にはちょっとワイルドな笑みが浮かんでいた。

   ★

 事態は一刻を争う。
 とか言っておきながら永遠亭の姫、輝夜はゆったりと飛んでいた。
 つくづくマイペースなお姫様だ。鈴仙はこっそりと嘆息し、行く先を半眼で見据えた。何が奇妙って、例の霧の湖からは少々ずれたところへと向かっているのだ。
 ずっと引きこもっていたせいで方向音痴になってしまわれたのか、と少し失礼なことを考えたりもしたが、いやいや、それこそまさかであった。輝夜は少なくとも一度は自分の足で紅魔館まで本を借りに行ったらしいのだから。
 実のところ、人見知り激しい鈴仙よりも交友が広いのだが、ぐうたらな姫様に困ることも多い彼女にはそういう発想が無いようであった。
「こんなことなら、お師匠様を手伝っていればよかったなぁ……」
 注射器片手に誘われたのをビビって断ったのがいまだに悔やまれる。
 いや、それも輝夜の面倒を押しつけんとする八意永琳の策略であったのかもしれない。
「鈴仙、なにか言った?」
「何でもないです、はい」
 振り返って笑顔を投げ掛けてくる輝夜に、滅相もございませんと首を振る。どうせ自分は三食付きで養われている身。ご主人様には逆らえないし、どちらかといえば素晴らしい環境だと喜ぶべきなのだ。
 だが蓬莱山輝夜は他の集団の長と比べるといささかカリスマに欠けるおとぼけ姫。
「もしかして、うどんげって呼んだのを根に持ってるのかしら」
「なんでそうなるんですか……」
 人間達と交流を持つようになってから、輝夜はなんというか、すごく俗っぽくなった。はっちゃけている。以前は兎はみーんなイナバとか言ってたのに、鈴仙と呼んでくれるようになったし、最近なんか兎を見分けられるようになったらしい。
 これが穢れの影響なのかもしれないが、とにかく最近、鈴仙は思うようになった。
 他のところの主って、もう少ししっかり者なのかもなぁ、と。
 もちろん、そんなのは隣の青い芝、赤い花、白い飯。つまり幻想でしかないのだが、ただでさえ人見知りで他との交流が薄かったりする鈴仙には知る由もないことであった。
「あのぅ、姫様。ふたつ、聞いてもいいですか?」
「それは私にわかることかしら」
 言ってみなさい、と手振りで先を促す輝夜。鈴仙は意を決した。
「どうして、あの人間に拘るんですか?」
「うーん……そんなに不思議なのかしら」
「えっと、たしかに眼力はすごいですけど……姫様が拘るほどでもない気が……」
 おそるおそる輝夜を見ると、我等が姫様はうーんと悩んでいらっしゃった。
「深く考えたことなかったけれど、友達ってそういうものでしょ?」
「そういうものですか」
「そういうものなの」
 でも、あえて言うなら……と輝夜は言葉を続ける。
「あの子からは運命みたいな、ものすごぉく強い力を感じたの。だから絶対に迷わないし、最初の目的を見失ったりしない。たった一つだけ目指して生きていて、そんなところが、他とは違ってて不思議なのよね」
「運命なんて、あるんでしょうか」
「命を運ぶ道くらいないと、迷ってしまうわ」
「はぁ……」
 納得できるような、そうでもないような。はぐらかされている気がして、鈴仙はむぅと唸った。
「それじゃあ、霧の湖に向かわないのも、運命なんでしょうか」
「そう! 運命を読んだのよ、私は」
 きらきらと目を輝かせて、輝夜は振り返って両腕を広げた。
「静流は弱いのに、進む力だけはとんでもなく強くて、誰も進むのを邪魔できないのよ。ほら、まるで運命みたいじゃない! 人間がどれだけ羽ばたいても重力のせいで落ちてしまうがごとく、あの子は決まったレールを直進するわ。だから頼めば必ず達成する。もう紅魔館にいるはずがないのよ」
 一体何がそこまで姫様を興奮させるのだろう。買いかぶりとしか思えなかったけど、他ならぬ姫が仰るのだから、そうなんだろうなぁ、と鈴仙は受け入れることにした。それよりも、輝夜が運命論者だったことが鈴仙には少し意外だった。紅魔館の主レミリア・スカーレットじゃああるまいし。
 そこで鈴仙はふと、あることに思い至った。
「あれ? だとしたら、待っていればいいんじゃあ……」
「その通りよ。私だったら待っているわ。でも、動いてみるのも悪くないでしょ」
 ああ、こういうことなんだ。と、鈴仙は胸中で独りごちた。
 周りさえ引きずられるように行動する。当の本人だけでなく、そういう外因までが運命力の輪郭を作っていくというのか。相対したときに怖いと思ってしまうのは、きっと波長が歪められていくのを感じるからだ。
 地球の重力が人知れず月の軌道を曲げているように、違和感を感じさせないところから異変は起きようとしているのかもしれない。
 とても憶病な鈴仙は、憶病だからそんな違和感を感じることができていた。

   ★

 静流が思うのは、何かがおかしい、ということだ。
 ずっと幼い頃から感じていた違和感が、ここ数日で少しずつ声を増している。
 初の違和感は名前。自分たちの名前は、おそらくはそのまま秋姉妹をなぞらえたものだ。豊穣の秋と、秋の終わり。冷静に考えれば、要するに巫女みたいなものだったのだろう。祈る気持ちもわかるが、幼かった静流はそれに恐怖を感じた。
 成長しても、夏目と遭遇するまでは生理的な嫌悪から『秋静流』とは口にしなかった。必ず苗字と名前を別々に言うようにしていたわけだ。
 それが、なんとなく不自然だ。
 静流は自分の名前が好きになれない。そんな苛立ちが大きな行動力に繋がっているのは否定しない。名前なんて関係のない存在に成ればいい。たとえ王になれなくても、歩兵も進み続ければ金にはなれるのだ。そして王を取ることだってできる。その発想は今も変わらないし、こうやって永遠亭に向かっている事も、目的への一歩であると信じられる。
 だというのに、違和感が付きまとっている。
(夏目と出会ってから、何かが動き出した……? 違う、そうじゃない)
 自分の主義を破りそうになり、かぶりを振る。口で何と言おうと、そうむやみに責任を押しつけない。そう決めているのだ。
「……変わったのは私……でも、これでひとつ枷が外れた」
 ほとんど伸ばそうとしなかった自身の霊能力。なぜかこれだけは伸ばそうとしなかった。霊力が実用レベルにはほど遠かったのもあるし、人間を相手にするのに必要としなかったというのも理由のひとつだ。
 だけど、無意識のうちに封印していたようだ。
 理解すればなるほど、息をするように術を失敗している。
 だから、息を止めるように術を使うことだってできるはずだ。
 ——ズキン。
 わずかな頭痛に顔をしかめつつ、静流は『息を止めた』。

   ★

 紅魔館でメイドとして働く十六夜咲夜は、完全で瀟洒だと言われている。
 時間を操るという、明らかに人間の領分を越えてしまった能力を持ち、それを遺憾なく行使できるのだ。完璧だと思われるのは仕方のないことで、咲夜もそう見えるように工夫してきた。
 でも、実際はそこまで完全じゃあない。
「これは……厳しいですわ」
 咲夜は苦々しく独りごちた。
 ちょっとした買い物のつもりで里に出たのだが、これは失敗だった。黒猫が刺繍された可愛らしい買い物袋は、中身ごとズタズタに引き裂かれて足下に落ちている。
 ざりッ、と音を立てるのは砂利だ。
 べきッ、と踏み折られたのは枝か、それとも肢か。
『ア、アァ……』
 そいつは化け物だった。蛙の形をした二本足で歩く怪物だ。ぎょろりと動く目は左右非対称で、とにかく顔が大きい。それもそのはずだ。巨大な鳴き袋を収めるためには巨大な顔が必要というわけである。
 そいつの能力で、すでに三十を超える人間が全身を圧し砕かれて絶命した。咲夜でも軽く吐き気を催すほどの残虐な殺し方だった。
『ゲェェアアアアッ』
 蛙の怪物が叫ぶ。歪な声は全方位から聞こえてくる。
 まただ。
「どうなってるのよ……!」
 ぐっと全身に圧力が掛かり始める寸前、咲夜は『静止した時間』の中に逃げ込んだ。
 この能力を観察できるのは自分だけなので、咲夜が時間に留まっているのか世界が止まっているのかはわからないが、どちらであれ問題がいくつかあるのは確かだった。
 一つ。例えば炎などに触れればしっかり火傷をする。水にも濡れる。
 二つ。こちらから直接危害は加えられない……らしい。
 三つ。咲夜も、仕組みがよくわかっていない。
 特に三つ目が問題だ。おかげで咲夜はあまり攻撃に時間停止を使わない。どちらかと言えば、逃げたり休んだりするために使う方が有意義だと咲夜は考えている。
 誰も何も動かない、という『静止した時間』の中は最大の安心だ。
 その中で咲夜は考える。自分に襲い掛かる『何か』の正体とは何か。わかっているのは、ヤツが袋を震わせて何かを叫んだときは危険だということと、別の誰かが圧死する時には咲夜には『声が聞こえない』ということだ。自分に向けられたときは全方位から聞こえるにも関わらず……いや、全方位だと?
「つまり、声そのものが攻撃……ということかしら」
 どうりで、時を止めても蛙人間の攻撃が見えない。おそらく音の力を一点に集めることで高圧の空間を作っているのだ。
 判断するや否や咲夜はその場から脱出し、蛙人間にナイフを投げつける。ナイフは抵抗の大きな場所を進んでいるかのように途中でぐぐぐッと止まり、怪物を包囲する。ただでさえ大きな的だ。今回ばかりは避けきれるようには配置していない。
 なるべく距離を取って、時を動かす。
 蛙人間は何が起きたか理解していないようだ。といっても理性があるのかもわからないわけだが、ナイフは避ける間もなく蛙人間に殺到し、全身に突き刺さるかに思えた。だが、実際に刺さったのは完璧な入射角の三本のみ。あとは表面を覆う潤滑油によって弾かれ、表面を浅く傷付けただけだ。
「最悪……」
 遥か遠くから見届けて呻く。これでは直接斬り付けても効果は薄いだろう。
 もっと、それこそ『圧し潰す』ような攻撃がいる。それか……
「いっそ逃げてしまおうかしら」
 分が悪ければ退くのは当然。だがここは人里の外れ。このまま野放しにすると、買い物をする場所が無くなってしまうかもしれない。それは困る。
 ほんの少しの逡巡。それを見切ったのか偶然か、蛙人間の顔が膨らむ。
『ゲャアァァアッ!』
「こんな距離でも!?」
 ひずみきった声が全方位から聞こえ、咲夜の顔が驚愕に歪む。
 ぐぐぐっと空間が狭まってくる感触に、再び『静止した時間』の中へ逃げ込んだ。
 その瞬間……というのも変かもしれないが、起きた出来事に目を疑った。
 景色が、左へ五歩分くらいズレて、傾いている。
「いつの間に……ッ」
 倒れないようとっさに体勢を持ち直して右に目をやると、空気が強烈に歪んでいるのが目視できる。通り抜けようにも、あれではすでに手遅れ。障害を通り抜けられないという制約がある以上、相当の抵抗を喰らっていたのは間違いなかった。
『あー体力の限界を突破した気分』
 張りのある声が不意に聞こえた。いや、聞こえたというべきなんだろうか。頭に直接響いてくる。まるで『思い出している』かのように!
「誰!?」
 声のした記憶を頼りに振り返ると、地面にしゃがみ込んでいる娘がいた。ぜーはーと肩で息をしている。なんということだ、動いている!
「私の世界に入ってくるなんて……何者なの?」
 問い掛けるが、返事がない。というより、聞こえていないようだった。
 こうしていても埒があかないので能力を解除すると、娘はゆらっと立ち上がった。
 うなじの辺りでカットした髪。こうして見ると大人びて端麗な顔立ちをしている。ほっそりとした体は誰もがうらやむプロポーションだ。歳は咲夜と同じか、少し上だろう。咲夜の年齢は不詳ということになっているので参考にするのも変な話だが、とにかくそれくらいだ。
「あなた、何者なの?」
「ハル。ま、味方だからバッチリ安心して」
 そう砕けた調子で名乗ると、ハルは手を差し出してきた。
「私は咲夜……じゃなくて! どうして静止した時間の中で動けるのか、教えて頂戴」
「時を止める? なるほど、それだと変に見えちゃっても……」
「ちょっと、なんでそこで止め——」
 問い詰めようとしたところで、手をぐいっと引っ張られた。息が掛かるほど顔が近づき、直後、すぐ後ろを飛んでいたトンボが潰れて散った。『声』の仕業だ!
 ハルは不思議な雰囲気を持った目で咲夜を見つめると、
「ここは立ち話には向いてないと思うんだけど、どう?」
「同感ですわ」
 相手の射程は恐ろしく長く正確だが、点だ。線ではない。だったら距離を取るだけ損だ。
 判断するが早いか、咲夜は『静止した時間』の中に飛び込んだ。
 咲夜以外の世界が止まる!
 その中を飛び、距離を詰める。蛙人間には三本のナイフが突き刺さったままだ。痛いのかどうかは、蛙の表情を読み取れない咲夜にはわからないが、天人みたく『刺さらない』ということさえ無ければ効くはずだ。
「ちゃんと投げればいいんでしょう!」
 ただ配置するのではなく、今度は刺さるように角度も考えて投げる。手を放れたナイフは少し進んだところで止まり、時が動き出すのを今か今かと待ち構える。
 ハルは動かない。やはり動けないのだろう。そこに咲夜は少しの安堵を感じた。
「時は動き始める」
 能力を解除するや否や、蛙人間に絶妙な角度でナイフが殺到した。
『…………!』
 何かを叫んでいるのだろうが、位置がずれていて聞こえない。
 全身に深々とナイフを突き立てられた蛙人間は、その巨大な顔からドス黒い血のようなものを撒き散らしながら暴れ狂った。おそらくかなり効いているのだろう。そこかしこの空気がデタラメに撃ち出された『声』によって歪みまくっているのが見える。
「ふん。ナイフが短かったかしら」
「ううん、これだけ刺さってれば十分」
 きりっとした声に振り向くと、ハルがすぐ側まで来ていた。
 ハルは顔に似合わない凄味のようなものを漂わせ、荒れ狂う蛙人間に向かって左手を伸ばしていた。
「……『ワイングラス』ッ!」
 バシャアッと音がした。
 かと思うと、いつの間にかブドウ酒がなみなみ注がれたワイングラスが、ハルの右手に現れていた。
「あたしの『ワイングラス』が、あいつの『デタラメに叫んだという過去』をブドウ酒に変えた……ッ」
 いったいこの女は何を言っているんだ。咲夜は怪訝な顔でハルを見た。
 だって、蛙人間はまだ、叫び始めたばかりじゃあないか。
 そんな疑問はお構いなしに、ハルはグラスのブドウ酒をありったけ蛙人間に浴びせた。
「味も素っ気もない単調なものだけど、『浴びるように』飲めばそれなりじゃない?」
 右手からワイングラスが消えると同時、蛙人間に変化が起きた。
 全身に刺さったナイフが震動し、ずぶずぶと中へと入り込んでいく。周囲の空気はこれ以上ないほど歪み震えている。
『ギャァアアアッ!?』
 ダメージのせいか、声はすでに武器ではなくなっていた。
 ほどなくしてナイフが全て体内に呑み込まれ、蛙人間の体がボロボロと崩れ始めた。
 黒ずんだ泥のように変化していく外装の中から出てきたのは、全身をナイフで刺されて血まみれになった女だった。顔は恐怖に引きつり、叫ぼうとしているが肺の中に空気は残されていない。息を吸うのも忘れて女は叫び、すぐに動かなくなった。
 その意外な正体に、咲夜は面食らったように呟いた。
「あら、人間だったのね」

   ★

 その少女は、自分の名前がかなり好きだった。
 親はいない。顔も思い出せない。
 幼い頃、周囲の人間は優しかった。ただそれは、まるで金品を扱うような……そういう優しさで、なんだか気味が悪かった。
 つまり、誰も少女の事なんて見ていなかった。みんなが見ていたのは少女の名前だった。
 そこで思った。なんて素敵な名前なんだろう!
 そんなに祈るのなら、そんなに救いを請うのなら、いっそ応えてあげましょう。
 私にはみんなの優しさがある。それでもまだ、私の心は満たされない。



あとがき

 たまに、運命というものが理解できることがあります。引っ張られていく感じ。
 ここでは輝夜と鈴仙に代弁してもらいましたが、それが秋狼記のテーマ(と言えるほどたいした話じゃないんですが)になっています。
 とりあえずタイトルにどんな台詞を入れようかと迷いましたが、これで。





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最終更新:2010年12月23日 17:46
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