私家版・高校生物授業wiki
コラボ授業の予告と概説
最終更新:
bioota2010
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なぜ感覚器の特別授業のはずなのに、感覚器に関する個々の講義を行わないのか?
理由は2つあります。まず、50分の特別授業では、どの感覚器を扱うにせよ、範囲が中途半端なものになってしまうこと。お勧めの本を紹介するだけで終わってしまうでしょう。そして、現在、皆さんが受講している授業とのシナジーが取りづらいこと。重複する箇所も多いと思いますし、逆にまったく異なる部位について講義を行うかもしれません。それでは、“波状効果”を期待することはできないでしょう。
それをふまえて、2学期に“コラボ授業” を行うことになりました。
授業で扱われる、実験・モデル作成・観測について、太田が、当該の実験・モデル作成・観測の、生物学の歴史における位置づけをする予定です。
生物学のみならず、科学には、現象に対して幾つものアプローチがあり、それぞれを複合させることで理解・納得ができることを知ってもらえればと思います。
それをふまえて、2学期に“コラボ授業” を行うことになりました。
授業で扱われる、実験・モデル作成・観測について、太田が、当該の実験・モデル作成・観測の、生物学の歴史における位置づけをする予定です。
生物学のみならず、科学には、現象に対して幾つものアプローチがあり、それぞれを複合させることで理解・納得ができることを知ってもらえればと思います。
【科学コミュニケーション】とは何か?
科学コミュニケーションとは端的にいうと、「科学って、わからないから嫌いだなあ」という状況の緩和です(解消させることができれば本望です) 。それでは、「科学はわからないから嫌いだ」という状況では、何が起こっているのでしょうか? いま、「科学はわからないから嫌いだ」という状況を、「科学はわからない」と「わからないから嫌いだ」の2つに分けてみましょう。
いま、ある対象やものの見方の「わかりにくさ」を4つの象限に分けてみます。
いま、ある対象やものの見方の「わかりにくさ」を4つの象限に分けてみます。
1)情報不足のために「わからない」: 例えば、私が法律書やタイ語の新聞を読めないのは、法律の前例やタイ語の語彙を知らないからです。これは、知っている人に聞く、とか、Googleで検索するなどで比較的すぐに解消できる。つまり、学習の(量的?)増大が要になります。
2)マッピングの仕方が「わからない」: わかる、という事態は、部分と全体の両方にかかわっています。つまり、「部分を理解できる」と「全体を俯瞰できる」は異なります。例えば、一冊一冊の本の内容を理解できても、本棚に並べるときにどの本を隣に置くのがいいのかわからないなどの状態です。
3)採用されているパラダイムが「わからない」: 相手がどういう基準で世界を見ているのか、なにを未来に描いているのかがわからない、という状態。これを測るには、「そもそも私はどういう基準で世界を見ているのか?」という問いが不断に必要となります。
4)センス、勘、“嗅覚”の水準で「わからない」: 言葉でのガイドができにくい、身体や習慣のレベルの直感による理解の不能。でも、これは仕方ありません。ラマヌジャンみたいに数学の解法をお告げとして聴くことは、たいていの場合、“なぜそんなことができるのか、本人もわからない”ことが往々にしてあるわけですから。
2)マッピングの仕方が「わからない」: わかる、という事態は、部分と全体の両方にかかわっています。つまり、「部分を理解できる」と「全体を俯瞰できる」は異なります。例えば、一冊一冊の本の内容を理解できても、本棚に並べるときにどの本を隣に置くのがいいのかわからないなどの状態です。
3)採用されているパラダイムが「わからない」: 相手がどういう基準で世界を見ているのか、なにを未来に描いているのかがわからない、という状態。これを測るには、「そもそも私はどういう基準で世界を見ているのか?」という問いが不断に必要となります。
4)センス、勘、“嗅覚”の水準で「わからない」: 言葉でのガイドができにくい、身体や習慣のレベルの直感による理解の不能。でも、これは仕方ありません。ラマヌジャンみたいに数学の解法をお告げとして聴くことは、たいていの場合、“なぜそんなことができるのか、本人もわからない”ことが往々にしてあるわけですから。
1)、2)においては、パッケージされた情報を「物」のように扱う技術の有無が、「わからなさ」を解消させたり、亢進させたりします。けれど、3)、4)においては、情報を随時、使いやすいようにパッケージしつづける技術こそが重要となります。前者で、意味は固定されていますが、後者はそうではありません。このとき、「わからなさ」に対しては、「わかる」ようになるための幾つものアプローチがあると言えます。
何かが(科学が、語学が、相手が何を考えているのか)「わからない」とき、自分がどのような「わからなさ」に陥っているのかがわからないと、余計に混乱します。この混乱が、「わからないから嫌い」という状況を誘発しているのではないでしょうか。「わからなくて嫌い」になりそうなときは、ひとまず「わからなさの種類」を分類してみるのは悪くないと思います。
何かが(科学が、語学が、相手が何を考えているのか)「わからない」とき、自分がどのような「わからなさ」に陥っているのかがわからないと、余計に混乱します。この混乱が、「わからないから嫌い」という状況を誘発しているのではないでしょうか。「わからなくて嫌い」になりそうなときは、ひとまず「わからなさの種類」を分類してみるのは悪くないと思います。