其の二前半 「その涙、誰が哂おうか」
あしらわれた。侮られた。挙句、見逃された!
生粋の武人たる藤原隆道にとって、それは死にまさる屈辱であった。
己が身の内で燃える炎が灼くのは、誰よりも他ならぬ自分自身。あの超常の戦いに
自分ごとき凡人が入り込む余地などあろうはずもない。
無力ゆえの憤悶と慙愧に焦がされながら、少なくとも自分はまだマシなのだと
傍らの少年に目を落としつつ思う。身体に傷こそ負っていないものの、そのありさまは
見るも哀れ。悄然と肩を落とし、前を行く師の足元を虚ろな目で追いながら、
風船のようにふわふわと歩いている。
彼には戦う力があった。にもかかわらず、やはり無力であった……一体どのような
心境なのか、隆道には想像も出来なかったし、それを言葉で表現しようと試みるのは無益である。
敗北の帰路。思えば、時を遡るという大業を成してから一日と経っていない。
聞きたいことは星の数ほどもあった。だが、この手に掴める星が一つとして無いのと同様に
いずれの問いも口をついて出ることができない。
なぜ、あの男は我々を殺さなかったのか。
なぜ、清明自身がアメオスに乗って戦わないのか。
なぜ、自分たちはここにいる?
何をすればいい――?
屋敷に着くと、清明は今しがたの戦いには触れず、そろって沈鬱な表情を並べている
隆道以下一同に風呂を勧めた。
「心身ともに、疲れているときにすることは決まっている。湯浴みをして、飯を食うて、寝るのさ」
ヒオムシは慣れているようで、すぐに浴場があるという方へ歩いていったが、
未来から来た男たち(中には女もいる)はそうも易々と気持ちの切り替えができるほど
タフな精神構造をしていない。
「ふざけるな! 我々は、我々の世界を救うためにここへ来たのだ。もしその術を
お前が知っているのなら――」
「すぐにでも教えよ、と申すか? 採るべき道は一つ、紅蓮を討つこと。しかし現在のところ
君たちに出来ることは何もない。だから、ただ悶々としているよりは湯浴みでもすることだと
言うておるのさ。良いものだぞ、“おんせん”は」
酷薄にさえ聞こえる言葉だが、事実であった。焦ってみたところで、すべきことも解らない。
ならば、といっそ開き直って、隆道と部下の男衆三人は傲然と浴場の戸をくぐった。
途端に、顔を打つ乳白色の湯気。それが晴れると、見事な造りの石風呂が姿を現した。
浴槽を形作る漆黒の石と、そこに熱い湯を流し入れる銀細工の蛇口が、調和の取れた美を
生み出している。もっとも、ここが平安の日本だと意識しなければの話だが。
「平安の世に大風呂だと? おまけに温泉とは……」
彼はこの光景に対する感嘆のあまり言葉を打ち切ったのではない。彼の視線の先に、原因はいた。
ヒオムシだった。透き通った湯の水面に、その細い身体で波紋を描き出しながら
まるで瞑想に耽る隠者のごとく、微動だにせず座している。
ふと、その目が隆道と合った。
すいと細められた目はあくまで静けく、なんら感情の色は宿していないように見えた。
だが、目の下に残る腫れが全てを物語る。彼がいち早く浴場へ消えた理由も。
そうとも――彼とてまだ年端も行かぬ少年。あそこまで虚仮にされてなお、大人びた
薄い笑みを湛えていられるはずがない。それでも精一杯の強情さでもって、彼の瞳は
「笑いたければ笑え」と言っている。
老兵にはそれを嗤うことなどできなかった。ただ歩み寄り、湯船の縁から見下ろす形で
静かに、厳かに、あるいは自身に確かめるように呟く。
「お前も、悔しいんだな」
答えはなかった。少年は身じろぎもしなかった。
それでも、彼が一度だけ瞬きをしたとき、その長い睫毛を伝って光るものが落ちた。
同時にほんの少し、ほんの少しだけ――張られた湯の塩気が増した。
宮廷内に天蓋つきの寝台などは珍しくなかったかもしれないが、とりわけその一つは
他と比して桁外れに豪奢な装飾と、燦爛たる彩色を施されていた。
つまりは、至尊の位にある者――帝の寝床である。
天皇の眠りを妨げるなど、火急の用でもない限りは許されぬことである。しかし
その月夜、不思議と寝付けぬままに庭先を眺めていた帝は、月光の中にゆらりと
現れる人影を認める。近年報ぜられる土蜘蛛の跋扈に対し、陰陽寮が総出で張り巡らせた
幾重もの結界をすりぬけてこの庭に沸いて来られる者を、彼はひとりだけ知っていた。
「清明……否、今は『疾狐<とぎつね>』か。いかなる用にて、かかる刻に?」
「機が熟したのさ。第三の操手が、時の流れに逆らってこの都へやってきた。
天子よ、今こそ“星”の三位式機・星影を目覚めさせるとき」
「なるほど。鹿島神宮に文をやって、布都御魂<ふつのみたま>を遣させるとしよう」
清明は謝辞を述べ、苦笑しながら言った。
「すまぬな。なにやら、帝を使い走りか何かとして使っているように思わるるかな」
「かまわぬよ。お飾りの天子が、己の意思で成せる数少なき業なれば」
あろうことか天皇が漏らした、我が身を儚むような言葉に、清明は首をかしげた。
「いまの御上は善政を布かれている、と民は噂しているよ。藤原家のお飾りというには、
いささか有能すぎる気がするのだが」
「傀儡に甘んずるつもりなど無い。なればこそ、摂関家の権勢を弱める手を打っているのだ」
「ふむ――君の代で成就することとも、思えんがなあ」
今度は天皇が苦笑する番だ。
「いまさら敬えなどとは言わぬが……まこと、言いたいことを言う男よな。
さよう、予の代には成せまい。だが、我が子貞仁の頃には実るであろう働きだ」
「期待しよう。藤原家の娘に振り回されて以来というもの、あの一族は私も好かぬ。
……とかく、用向きは伝えた」
来たときと同じく、陽炎のように揺らいでふっと消えてしまう清明。一人になった帝は、
やわらかい光を投げかける月を見上げ、口を開きかけて――やめた。
気の利いた歌でも一句詠んでみようと思ったのだが、どうやら今日の自分には、歌才が
致命的なまでに欠如しているらしい、ということに気づいたのである。
最終更新:2009年12月09日 23:12