ここではない宇宙。ヒオムシや清明、紅蓮が生まれた世界。
隆道が生まれたのとよく似た、日本のどこか。
そして、少なくとも遥か遠い過去。
“それ”は地底深くに存在した。
否、始まりはそもそも存在してさえいなかったモノ。
付近に住まう人々が、その営みを破壊する自然の暴威に怯え、何らかの
悪意ある知性が暴れているのだと考えた。そうして生まれた、ただの幻想。
だが、長きにわたって人々がその存在を信じ続けたがゆえに――
“それ”は確かに、地の底に棲むようになったのである。
災いの源。自ら作り出した邪神を、人は『フカキカミ』とだけ呼んだ。
陰陽式機伝 イメージ・アンド・ワード 其の六(3)「星辰、瞳に映じて」
「アニミズムか……人は、己を苦しめる神を作り出していたというのか」
「ありもしないモノ。けれど、あると思っている人にとっては在るモノ。
たくさんの人が共有した嘘だから、本当になったんだよ」
思惟の力が、天災と神性に結びつきを作った。
当然、邪神はその力を持って人々を苦しめる。彼らはますます恐怖した。
そこで、人々はフカキカミを鎮めるための手段をも『考え出し』た。
生贄。
条件が付けられた。自分が生贄に選ばれぬよう、恐怖に駆られた人々が
当時の社会的弱者に白羽の矢を立てたがったのだ。
贄は女性でなければならない。
若い方がよい。
できれば、処女が望ましい。
そうして、フカキカミに捧げるためだけに育てられる『巫女』の制度が
誕生した。子が生まれ過ぎた家などから、共同体のためにと言い訳を添えて
女児が集められ、人ではなく神の餌――家畜として養われ、やがて
「……君も、そうか」
「大当たりぃ。巫女は消耗品だからね、人として扱われないんだよ。
自分が垂れ流した物の上で眠って、毎日の食事は死なない程度に与えられる。
誰も情が移ったりしないように、徹底的に巫女を虐げるの」
「人の喜びも、希望も知らぬまま、邪神に喰われて死ぬのか」
「そう、でもそこで終わりじゃないよ」
フカキカミは肉体を持たない。それは人々の願望が、呪詛が、地の底の
暗闇の中で渦巻き凝集した存在なのだから。
ゆえに、生贄は肉体ではなく精神を貪られるのである。
邪神という投影されたイメージの通りに、人の恐怖、苦痛、絶望などを
糧として肥大化し続ける“力”。闇の中に投げ落とされた巫女は、あらゆる
惨苦を記憶に刻みながら肉体を破壊され、残った魂もフカキカミの中に
囚われて、朽ち果てるまで蹂躙され続ける運命にある。
恐怖は苦痛に呑まれ、終わりのない苦痛は絶望を生み出し、擦り減った魂が
一辺の希望さえ見ぬままに消滅するその時まで、邪神の糧となる。
そして救いがたいことに、人々がその犠牲によってフカキカミは満足したと
思い込んだことによって、事実、彼らの生んだ邪神は天災を減らした。
地上には幾世代もの平穏。
その礎として、数知れぬ巫女が地底の闇に呑まれていった。
「普通さ、人間の魂って大き過ぎる負荷には耐えられないんだよ。
度を越した苦痛、希望がない永遠、それは精神を――心を壊してしまう。
だけどね、こういう神性に囚われた魂は、壊れることも許されないんだ。
壊れられないから、代わりに人の形を失っていくんだよ」
「……人の魂は、肉体を離れては遠からず消滅してしまうと聞いた。肉の身
無くして在り続ける怨霊の正体は、人ならざるモノへと変質した人間の魂か」
ヤコもそうした巫女の一人として、光を知らぬままに死んだ。
死してなお、昼も夜もない世界で責め苛まれ、いつしか絶望で自らを縛る
『かつて人間だった魂』に成り果てた。
喰らい尽くされる日まで続くかと思われた地獄は、しかし唐突に終わる。
救済によってではなく、別の地獄の到来をもって。
ヤコの霊は、自らを包んでいた邪神のどす黒い思念が、なにかに
斬り裂かれてバラバラになるのを感じた。
光。地の底に巣食った妄念を、断滅する輝き。
神剣、天叢雲を携えたツチイミがそこに居た。
「ほう? これは使えるな」
そう言って、紅蓮はヤコの魂をツチイミの中に取り込んだ。同じように
土蜘蛛の核とするべく取り込まれた無数の魂がひしめく中で、少女は解放の
喜びなど感じてはいなかった。
彼女にとって、一つの苦しみが終わることは次の苦しみの始まりでしか
ないのだ。それしか知らずに生き、肉体が死を迎えても変わらなかった
絶望の螺旋。小さな魂が知る、世界のすべて――。
「やはり、紅蓮が君を式機に」
「そ。並はずれて強力な怨霊は、ふつうの土蜘蛛よりずっと強力な式機を
呪符の拘束なしで操る核に使える。他にも二人くらいいたかな」
「残りの大型機はそれか……君は、紅蓮に助けられたと思っているか?」
「べつに、なにも変わらないよ。ただ絶望が反転して、憎悪になっただけ。
出口があるかないかの違いだけで、冥い想念の力を絞り出されるだけなのは
ソラガセの中にいても同じ。苦しみしか与えてくれない世界なんて、
消えればいい。命あるものは、みんな死ねばいいんだ」
「ならば――どうして私にこれを見せる。救いを求めているのではないのか」
「自分なら救えるって? 傲慢だね、簡単に誰かを救えるなんて想うのはさ。
逆だよ。誰にもあたしを救うなんて出来ないってことを見せてあげてるだけ。
土蜘蛛と戦ってきたなら知ってるでしょ? 死者は救えないんだ。
消滅だけが救済――けど、あたしは自縛が強すぎて消せないからね」
記憶の世界は暗転し、老兵と少女の魂だけが残る。
本当に、なにひとつ光のない記憶だった。あまりにも空虚。永遠の冬に
閉ざされ、凍りついた無の世界。
記憶、ゆえにすべては過去。『過ぎ、去った』のだ。
もう起きてしまったことは変えられない。時は戻らない。
だから、ヤコの絶望と憎悪は誰にも殺せないと――。
「……だが、神にならできるかもしれない」
隆道は神ではない。しかし、彼の手には神の力の欠片がある。
人の子の生を知らぬがゆえに怨霊と化したのであれば、教えてやればよい。
世界には苦しみ以外のもの、光があるということを。
それは人には不可能なことかもしれない。だが、神の力ならあるいは。
「誰も教えなかったことを、いまから知れ――ホシカゲ!」
ホシカゲの全身に埋め込まれた、皓白の玉星が輝く。言霊増幅機関が
操手の魂の叫びを受け取り、顕現するは神の御業。
三位式機の力はこの世の理を超越する。
罪深くも無辜、たったひとつの哀れな魂のために、奇跡さえ作り出す。
「なに? たくさんの糸が見える……」
少女は見た。茫漠たる無の中に、果てしなく長い糸が伸びるのを。
とても細く、数え切れないそれらの糸は、みな違ったきらめきを見せる。
「一本の糸は一つの世界だ。このすべてに、別々の君がいる」
ここはどこでもない場所。宇宙の“外”の空間。
二人は異なる可能性の世界、無限に並存する宇宙の壁を越えて翔け――。
やがて、命が始まった。
「母さん、今日の夕飯は何だい?」
「まだ決めてないのよ。ヤコはどう? なにか食べたいもの、ある?」
「えっとね――」
暖かい『家族』があった。
一つの世界では生まれてすぐに捨てられ、愛情を注がれることなく
生きた少女。この世界の彼女は両親に愛されて、健やかに育っている。
「ぼくは魚がいい!」
傍らで、幼い弟が飛び跳ねながら要望を叫んだ。いじらしいな、とヤコは
思わず微笑する。ときどき憎たらしくもなるが、自分を「お姉ちゃん」と
呼んでどこへでも付いてくる様子は、やはり可愛いものである。
そのとき、戸を叩く音がした。
「あら? ヤコ、ちょっと出てくれるかしら」
「はーい」
扉を開けると、老境に入りつつある男が一人。
「あ――」
少女は忘れていたことを思い出す。
自分はこの男の導きで今の世界にやってきたに過ぎない。本当の自分は
すべてを呪い、破壊と死の権化たらんとしていた巫女の怨霊。
「……そっか、これは夢みたいなものだっけ」
夢の終わりが来たと思うと、当たり前の『家族』への恋しさが胸を刺す。
だが、敵であるはずの男はなぜか、彼を殺そうとした者に優しげな顔を見せた。
「夢ではないさ。普段は交わらないだけで、どの世界も現実なんだ。
それに、ここだけじゃない。君はこれからいくつもの生を繰り返す」
「他にも? どんなあたしがいるの?」
問うヤコの瞳は、絶対の暗黒ではなくなっていた。
それはごく小さな光。されど、もはやその目が破孔ではない証。
「さあな、君を生きるのは君だ。時には苦しいこともあるだろう――
それが人生というものだ」
老兵だから言える科白。陳腐で不器用だが、重みをもって響く。
光が瞬き、少女の魂は再び宇宙の外側の空間へと漂い出た。
「これは救いであると同時に罰だ。多くの命を奪った君の罪は消えない。
だが、人として生きなかった者に人の善悪を押し付けるのは筋違いだ。
だから君が、自分の罪を知ることができるように、幾度でも人として
生き直すんだ。魂だけで身軽な今なら、ホシカゲの力でそれができる」
家族に愛された自分が消えるわけではない。あれもまたヤコだ。
これからも生き続けるであろう、平凡で幸せな自分の一部。
果てしなく巨大に膨れ上がっていた心の暗闇に、家族と生きた日々の
暖かな記憶が、ひとつの灯を残した。
而して、また命が始まる。
「やだ、うつむき加減のヤコの横顔って……なんかイイかも」
「ホントだ、これは男に見せたくないね。私たちで独占したいや」
「ちょっとちょっと、なに言ってんの、女にもてても嬉しくないよ――」
気の置けない『友』がいた。
一つの世界では同年代の子供と触れ合う機会もなかった少女。たまに
姿を見せる悪童などは、彼女を罵り蔑む言葉を吐くだけだった。
この世界では、互いに最も心地よい距離を知りつくした同性の友人たちと、
楽しく話して適度に馬鹿をやって、そんな時間を幸せだと感じる。
幸福――なぜか、少し前までは知らなかった気がするもの。
「ああそうですよね、あんたは綺麗な男つかまえてるもんねぇ」
「日吉、だっけ? 女の子みたいだよね、彼」
「ただの幼なじみだってば!」
橋の上で女三人。噂をすれば、白皙の美少年が通りかかる。
「ん、ヤコか。どうしたのだ、人の顔を凝視して」
「何でもない! べ、べつにあんたの話なんてしてないんだからっ」
「なんだ……数百年は早すぎる定型句を聞いた気がする……」
友が笑い、少年は首を捻り、ヤコは火が出んばかりに赤面する。
――日吉が近くにいると、あたしは変になる。胸が痛い。
異なる自分を生きて、死の巫女は恋をも知るのだった。
微笑ましい光景を、離れた場所から隆道が見ていた。
奇妙な宿縁だ。まったくの偶然から、異なる世界のヒオムシが
ここではヤコの幼なじみとして生きている。本名の『日吉』のままで。
彼にも別の生き方はあったのだろう。そう思うと、胸が痛んだ。
「誰だってそうだ。私も、清明も、紅蓮でさえも……」
ふと誘惑に駆られる。自分の可能性は見たくないのか。
戦争など起こらなかった平和な世界で、平凡なひとりの男として、
働いて結婚して子を儲けて――虚ろな英雄の偶像などにされない人生。
いまならそんな世界にも行ける。三位式機の力で、物質なら容易には
越えられない可能性の境界を飛び越えて、どこまでも飛べる。
しかも、それらは夢でも幻でもない。すべては等価の現実なのだ――!
「……やめておこう」
老兵はあっさりと誘惑を振り捨てた。心惹かれなかったわけではない。
自分が生きる世界はやはり一つであるという思いも彼をおし止めたが、
それ以上に、行けば戻って来られないかもしれぬという恐れがあった。
時は過ぎて。
この世界でも、再び隆道はヤコの前に現れる。
「家族でない、『他人』だって君を愛してくれたかもしれない。
同時に、君も友や想い人を愛せたかもしれない。これは、その希望――」
ヤコは頷き、答えた。
「わかるよ。可能性なんでしょう、誰とだって絆を作れるってことの。
友達と喧嘩もしたし、大切な人が死んじゃったこともある。
立ち直れないと思った。自分も死のうかって考えもした。
だけど仲直りもできるし、思い出は消えない。いつまでだって
新しいつながりは生まれるかもしれない――
そうやって、人は生きていくんだね」
隆道を見上げる瞳は、また少し輝きを増している。彼は戦士として
鍛え上げた自らの残酷さに震えた。
少女は『人間』に戻ってゆく。あるいは、初めて『人間』になってゆく。
一つの世界を生きるたびに、さまざまな形で人の善なるものを知って。
そうして瞳に光を宿していけば、やがて彼女は――
「……そうだ。そして、まだまだ知るべきことはある」
無知ゆえに罪を犯した。ゆえに、裁かれざる者。
ならば、欠けていたものを知り尽くすまで繰り返す。
――動植物の世話をして生きた。
――母となって生きた。
命が生まれ、それを育み……ときに悩み、理想と現実の差に憤って。
同時にその成長を見守る時の流れが、たまらなく愛おしく感じられた。
慈しんだ相手に信頼され、必要とされる喜び。ときには失われる命もあった。
心を傷つける喪失に涙し、自分が知らなかった痛みもあるのだと気付いた。
新たな痛みを知って――また幸せの尊さを噛み締める。それは希望。
――富める者として生きた。
――高貴なる者として生きた。
物質的な欠乏がないことは、決して健全に生きることと無関係ではない。
身も心も飢え、生きるにも人の道を外れねばならない者はいる。しかし
権力も財力も、使い方を誤れば幸福を約束してはくれないと知った。
また、失ったとしても取り戻せぬものではないとも。それは希望。
――歴史が始まる前の過去に生きた。
――人が星の彼方へ漕ぎ出す未来に生きた。
――見たこともない生態系、国家、文化を有する異界に生きた。
たとえどんな時代、どんな世界であっても、人は光と影のなかを歩む。
人間という存在はちっぽけで、弱くて……されど偉大で、強くもある。
時間と空間を越えて偏在するその営みは、かくも醜く美しいのかと知る。
過去に幸せの記憶を、未来に幸せのしるべを持って生きる。それは希望。
到底語り尽くせぬ、無数のヤコが生きた。
いつしかその瞳は、小さな光で満ち溢れ――ただ虚ろだった暗闇は、
無尽の拡がりをそのままに、星空となっていた。
そんな少女の魂が、命の螺旋の果てに辿り着いた世界。そこでは
――奇妙な運命を生きた。
<続く>
最終更新:2012年05月11日 22:28