SF百科図鑑
ベンフォード&エクランド『もし星が神ならば』
最終更新:
匿名ユーザー
2001年
9/23
ハリーポッターあと1冊。
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ビッグバンは間違いではないか? 光速不変は間違いではないか? 地球に光が届く最遠部の天体が光速で遠ざかっているならすぐに視野から消えるのでは(光が届かない距離に達してしまう)。光と反対側に向かって物体を基準とすると光速はより速くなるのではないか? 光が屈折するとき2点間の到達速度は光速より遅いのではないか? 光が吸収されて止まるとき光速はゼロではないか? そもそも物体ではない光に速度の概念自体が適用できないのではないか? 光速不変を前提とする相対性理論やウラシマ効果は前提自体が間違っている? 地球近辺の空域の運動を観測して帰納した原理を宇宙に適用するのが間違いでは? 宇宙の物質のばらつきから考えてビッグバンは宇宙の起源ではあり得ないのではないか? そもそも最も遠い天体が光速で遠ざかっていることを根拠とするビッグバン自体、時間の経過テンポや光速といった前提条件を不変と仮定した、間違った前提からの帰納に過ぎないのでは? ブラックホールと光速の届かない宇宙の最遠部とは酷似していないか? 宇宙の最遠部が光速で遠ざかっているなら地球を基準にするとその近辺の天体は、地球から遠くなるに従ってスローモーションになり、最遠部で時間が停止する=見えない、ということになる。しかし異なる地点を基準にすると時間停止地点も異なることになるが、それは最遠部以遠にも見えない空間や物体が存在し観測地点によって違うということなのか、それとも光速や時間が歪むことによってその誤差が修正され、やはり観測不能空間はあらゆる地点において一定不変であるのか?(存在しないとみなしてよいのか?)ブラックホールが全てを吸い込み光を吸収してしまう巨大な質量があるなら不可逆的に巨大化することになるのではないか? またシュワルツシルト障壁内で通常空間の物理法則は通用しないのではないか、接近するにつれて物理法則そのものが漸次変異するのではないか?
そもそも限定空間の運動観測から抽出した法則を全宇宙空間に適用できると考えること自体が大きな誤りだが、そう仮定しない限り科学の存在意味がないから仮にあると前提した限りにおいて極限まで普遍性のある(適用できない事象の最も少ない)法則を発見しようとするのが科学の存在意義である。そのアプローチとしてはやはり個別事象の縦割り的な研究ではだめで全体的なアプローチを併用する必要があるだろう。政治における内閣のような存在が必要。だから天文学と相対性理論(統一場理論を発見し得ない点で誤っている、というか、限定された一部の現象を説明できる部分法則に過ぎないと思われることはおくとして)、量子力学、遺伝子、生命現象、素粒子といったものが全て統一的に説明できるようなものでなければ意味がない。全体の統合は個別事象の観測ではなしえないものであり、結局論理が思考の産物である以上、直観に頼る以上の方法はあり得ない。
宇宙に存在する物体の総量は目に見えるものが全てなのか、そうではないのか、そもそも問題となり得ないことなのか? 遠方に行けば光速や時間の進行が歪むのだとすれば、到達し得ないものについては論じる意味がない? しかしそれと似たものであるブラックホールは決して物理的に到達し得ない存在ではない。ブラックホール内の物理法則を観測できればもっと普遍的な法則が帰納できる? 例えばブラックホールが宇宙の起源である、というか、宇宙の起源というより、ブラックホールが巨大化して一定質量に達すると物理法則が崩壊して爆発に転じて、同様の運動を繰り返しながら宇宙が存在を無限に続けている、ということは考えられないか? ブラックホールが不可逆的に質量を増していくのならそれ以外の論理的帰結はないのでは?(限定論理を全体に適用できると仮定すれば)ブラックホールと、宇宙の起源/終末/構造/大きさ、大きさや時間や光速といった計測尺度そのものの性質、波動と粒子の2重性、物質の最小単位、素粒子の運動、遺伝子と生命現象、これらは全て密接に関係していると思われる。ブラックホールを理解することがこれら全てに対する統一的な説明を発見する鍵になるのではないか? その存在自体が物理法則を存立し得なくさせ、かつ、観測可能な唯一の存在である以上は。
&&などという思索をかきたてる知的刺激を与えてくれるタイプの作品がベンフォードには多い。本作は「星は生きている」という概念を持つエイリアンとのコンタクトを通じて、生命現象、ひいては「宇宙」という現象そのものに対する哲学的思索にまで誘ってくれるネビュラ賞受賞作(ただし収録中編が)である。個人的には、不可知の領域に言及せず神秘化するクラークよりも、そのアプローチがより科学者としての妥当性を有したハードSF作家と思っている。
ベンフォードにはもう一つの指向性があり、それは科学ではなく科学者を描くことへのこだわりである。それはハードSFが常に科学研究の最前線に遅れざるを得ないという本質的属性に対する、一つの方向性を示そうとするものであった。真理の探究という科学の存在目的からすると、科学者の人間的部分は常にその障害となる存在である。目的論的に解すると究極の優秀な科学者は人間的部分を持たない機械のような知性である。SFに科学の啓蒙以上の積極的な意味を科学との関連で見い出すとすれば、2つの方向性が考えられる。一つは普遍/統合科学そのものになること、現実の科学で欠けがちな「統合的視点」を提示することだろう。個別研究の科学者では陥りがちな近視眼的独善に対する正しい指向性を理論的に示すことである。ベンフォードはもちろんこの要素も多分に持っている。もう一つの指向性は、ベンフォードのごとく、科学者の人間的部分が科学の目的に対して及ぼす悪影響を視覚化し、科学の人的組織をより目的論的に効率的なものにするための組織理論を構築する手がかりを示すことである。ベンフォードのこの指向性は、伝統的な、娯楽ジャンルとしてのSFの発展という観点からすると非難されることがあり得るところであるが、ベンフォードは科学者であり、科学の発展という観点からするとこのアプローチは出るべくして出るものであったと言えるだろう。
ただ、この指向性が突出し過ぎてしまうと、例えばロビンスンの「火星三部作」のような代物になってしまう。火星テラフォーミングにおける人間ドラマは、ベンフォードの出世作である本作の第1部を踏襲し発展させたものであることは容易にわかるが、そこにはベンフォードのような真理探究への渇望というもう一つの要素が完全に抜け落ちている。科学技術によって変成する人間を描いてはいるものの、その「科学技術」にはあまり深みはなく、せいぜい文系作家の科学ドキュメントのレベルにとどまっている。SFに何を求めるかは人それぞれだと思うが、ベンフォードの指向性と比べると、ロビンスンのこの作品は、バランスを失してかえって一歩後退した物足りなさをどうしても感じずにはいられない。
というわけで、ベンフォードの本作は、まだ中途だが、SFの指向性を最も正しく示した見本だということができるのではないか。この作家、もっと評価されていいように思う。
9/25
ベンフォード&エクランド「もし星が神ならば」★★★★1/2
偉大なる失敗作。主人公レナルズが宇宙の「標本」として永遠の生命を獲得するまでの半生を5つのエピソードにからめて語る連作中編集で、第2部の異星人が出てくるパート(太陽と会話する)がネビュラ賞を受賞している。
宇宙に生きる人々の下世話な人間ドラマがかなりの部分を占めるところがこの作品の特質。そうでありながら、ロビンスンのようにバランスを失することなく、ファーストコンタクトや様々な知的生命形態、宇宙の創造者、姿の見えぬ知性が残した遺跡/設備、自意識を持つロボット、といったハードSF/アイデアSFの王道を歩んでいる作品。ラストなどクラーク的で、高次元の知性との遭遇とそれによる人類の進化、といういかにもSFらしいオチになっているのが嬉しい。しかも、クラークのように神秘化して回答を続編に委ねるのではなく、具体的なハードSFミステリ的回答を提示しているところが好感が持てる。
このとおり、ハードSFとしてみれば極めて秀逸なアイデアを多分に含む高いポテンシャルを持っているが、それと前述した人間ドラマとの融合がやや不調和を来して、テンポを乱し若干中途半端で冗長な印象を与える部分があるので、1/2減点をしたものである。
しかし、作家としての力量は疑うべくもない。特に、恐らく科学的アイデアの側面を支えているであろうベンフォードのポテンシャルは凄まじいものがある。