やなせたかし

登録日:2025/10/03 Fri 00:00:00
更新日:2025/10/04 Sat 01:02:31NEW!
所要時間:約 24 分で読めます




正義のための闘いなんてどこにもないのだ。
正義はある日突然反転する。
逆転しない正義は献身と愛だ。
目の前で餓死しそうな人がいるとすれば、

その人に一片のパンをあたえること。



「人生はよろこばせごっこ」


やなせたかしとは、イラストレーター・詩人・絵本作家・キャラクターデザイナー・作詞作曲家・構成作家・編集者・司会者……等、非常に多岐のジャンルにわたって活躍した日本の漫画家である。

【プロフィール】


本名:柳瀬 嵩(読みは同じ)
生年月日:1919年2月9日
没年月日:2013年10月13日
作曲家時の名義:ミッシェル・カマ
出身地:高知県香美郡在所村朴ノ木
※出生は東京都北区滝野川
プロダクション:やなせスタジオ


【概要】


今や日本で生まれ育った子供たちが必ずといっていいほど出会う(そして多くのキッズを熱狂させる)作品『アンパンマン』の原作者で、94歳で亡くなるまで第一線を駆け抜け続けた日本を代表する漫画家の一人。
夫人は小松暢。2025年前期のNHKの朝ドラ『あんぱん』のヒロインのモデルとなっている。

上記の通り、一般的には『アンパンマン』の作者としてお馴染み。だがかつては「困ったときのやなせさん」「はやがきやなせ」とも呼ばれており、舞台美術・放送作家・映画の美術監督・作詞家・果てはテレビ番組の司会者までとにかく活動範囲が多岐にわたる。
一方、当初目指していた漫画家として大成したのは60歳を過ぎてからと遅咲きで、これは同じく出征経験がある水木しげると同様。

自画像はやなせうさぎというサングラスをかけたうさぎのキャラクター。やなせ曰く
「ぼくはヒツジ年ですから羊でもよかったのですが、描きにくい。兎は描きやすい。それに臆病で逃げ足が速く闘争心がない。闘う武器がない。そのへんがいいなと思ってサングラスかけた「やなせ兎」をつくりました。」
アニメでは劇場版・TVSP・節目の回などで度々出演しており生前のCVはやなせ本人。没後は山寺宏一三ツ矢雄二が担当していることが多い。
しょっちゅう遭難してはお腹を空かせてアンパンマンから顔をもらったり、何匹にも増殖し楽器を演奏したりして町の皆を楽しませている。


【人物像】


一言で表すなら「人がいい」。サービス精神・エンターテインメント精神にあふれたお人だった。
決して楽なことばかりではない。むしろ苦節・苦難・そして悲しい別れの多かった生涯の中でも、冒頭の言葉「人生はよろこばせごっこ」を体現するかのように誰か喜ばせるための努力を怠らなかった。

とにかく自腹・無償で何かすることに定評があり、ビルを買い取って日本漫画家協会(長らく同協会の理事長を務めていた)の拠点とし賃貸料は受け取らない、故郷に美術館を建てる、度々いろんな人を招いてパーティを開きその舞台上で自作の曲を歌う躍る、イラスト・キャラクターデザイン・サインの仕事を無償で引き受けてしまう*1等々……ちょっとさすがにサービス精神が旺盛すぎる。
「そうやってなんでもタダで引き受けられては我々が困る」と同業者からクレームを入れられることもあって、氏も一応これはよくないことだと自覚はしていたらしいが。

子供の頃は外で元気よく走り回るというタイプではなく、家で絵を描いたり本を読んでいる方が好きな、内向的で人前に出たがらない性格だったとか。
これが老成してからは自ら積極的に表舞台に上がり、老人のアイドル「オイドル」やダンディーな爺さん「ダン爺」と自らを称して洒落た格好でバチバチに決めてオリジナルソングを歌っているのだから、人生はどうなるか分からないものである。

若い頃からどちらかというと病弱だったためか健康には人一倍気を使っていて、無理がたたって早逝する漫画家も多い中、晩年まで精力的に活動を続けられるほどの体力を持ち続けていた。
睡眠時間についても水木しげる同様、1日平均7時間とることを心がけていたという。

晩年でも健啖家として知られており、例えば朝ごはんは基本的に「野菜スープ、生ハム、ゆで卵、おから入りパン、ハーフサイズのトースト、これらにマスタードを添える。甘いものとして巣蜜*2、バナナとパイナップル入りのヨーグルト。飲み物は豆乳とコーヒーの2種類を両方飲む」と非常な大ボリュームである旨を本人が描いている。
また『アンパンマン』のパン工場外の面々に食材や料理といった「飲み食いするもの」をモチーフとしたキャラクターが非常に多いのも、やなせの「なんとなく○○が食べたいなぁ…」という気持ちからキャラクターを起こすことが多かったため、とのこと。
ちなみに『グレーテルのかまど』などで、やなせ本人としてはつぶあんが好みである旨を述べている。このためかシリーズの公式サイトでは 「あんぱんまんは、あんパンとしてはつぶあんのあんパン」との見解とアニメシリーズの基礎設定である旨 が示されている。

作家の交友関係では、あの手塚治虫や水木しげるを君付けで呼んでいた数少ない人物でもある。
高知県出身の漫画家である西原理恵子とも交友があり、毎日かあさんでも度々アンパンマンのイラストが登場している*3他、西原はやなせたかしの追悼漫画を描いたことがある。
この他、脚本家の中園ミホは幼少期に父を亡くして傷心のところをやなせの詩集に救われたことから一時期文通をしており、それが途絶えた後も偶然道で会ったところから出版パーティに連れていかれたり、母が病気なことを伝えると励ましの電話を送って貰ったりと苦境を幾度も救われたことを語っている。
中園は前述した朝ドラ『あんぱん』で脚本を担当し、その中には中園自身がモデルと思われる少女も登場した。

また、晩年は新宿区内に居を構えていたことから、東京都新宿区の名誉区民に認定されている。


【来歴】


・出生~少年期

1919年2月9日 東京府にて、父・柳瀬清と母・登喜子の間に長男として誕生。
当初は朝日新聞の特派員として出向していた父を追って上海に移り住んていたが、1924年にその父が客死。残された母と二歳年下の弟・千尋の三人で、父の親族を頼り高知県に移住する。

弟は高知県後免町で内科・小児科として医院を開業していた伯父の柳瀬寛に養子として引き取られ、しばらくの間は祖母と母の三人で生活するもじきに母は別の男性と再婚。この時点でやなせ氏は戸籍上、天涯孤独の身となる。
母の再婚後は氏も弟と同じように伯父に引き取られ、そこで少年時代を過ごす。

伯父は引き取った兄弟に分け隔てなく愛情を注ぎ、学業含め何一つ不自由させることなく柳瀬兄弟を育て上げた。
とはいえ氏は養子である弟と違って居候の身であったためか、心のどこかでやはり寂しさを感じていたという。中学を卒業するまでは毎日のように泣いていて、自殺未遂するに至るほど精神的に不安定だったとか。
一方この頃から絵に対して関心を抱いていて、祖母からは「この子はクレヨンと紙さえあれば一人でずっと遊んでいるから手がかからない」と言われており、弟の勧めで雑誌の絵の懸賞に応募、見事に賞金を勝ち取ったこともあった。

そんな少年時代を送っていたやなせだったが、ある日遠くの町まで遊びに行った際に財布を落としてしまったことがあった。
日暮れが迫る中、当然電車の切符を買うこともできず知らない人達の雑踏の中で仕方なく線路沿いに徒歩で帰ることを決意。しかしその時、偶然友人とその母親が通りかかり、無事に電車で帰宅することができた。この帰りの電車の中でやなせ氏が友人の母に食べさせてもらったのが“あんぱん”だった。
ペコペコに腹をすかせた少年の胃と心にあんぱんの甘さは深く染みわたり、その経験は生涯忘れがたいものとなる。


・青年期~出征、終戦まで

高知県の中学校を卒業後、東京の「官立旧制東京高等工芸学校工芸図案科」に入学。担任だった杉山豊桔教授は「デザイナーになりたいなら机にかじりついてないで銀座で遊べ!(要約)」と生徒たちに説いており、その言葉通りに毎日銀座の街に繰り出した。
故郷とはまるで別世界のようにきらきらと輝く最先端の文化に触れ、様々なことを学び吸収していったのである。
この頃に井伏樽二の本やフランケンシュタインの映画と出会っており、これらの出会いがのちの作風にも影響していくことになる。

しかし卒業が差し迫った頃に、育ての親である伯父が危篤との知らせが入る。当時の交通状況だと東京から高知まで何日もかかる道のりであり、すぐに戻らなければ今わの際に間に合わない状況であった。氏は卒業制作を作成している途中であった為、電報をもらってから一日かけて卒業制作の作品を完成させて帰郷の途についた。
しかし、ようやく氏が高知にたどり着いたころ、伯父は既に息を引き取っていた。
この時すでに東京田辺製薬という製薬会社に就職することが決まっており、製薬会社ならきっと医者の伯父の役に立つ。今までの恩を返すことができると考えていた。しかし、結局その思いが成就することはなかった。
伯父の棺の横で弟に「兄貴遅いよ」と責められ、自身もどうしてもっと早く帰らなかったのだろうと子供のように大声で泣き喚いたという。

芸術学校を卒業後は東京田辺製薬の宣伝部で広告デザインの仕事をこなしていたが、就職から一年ほどで召集令状が届く。
故郷で徴兵検査を受けた結果、地元高知の歩兵44連隊ではなくわざわざ福岡・小倉の第12師団西部73部隊に配属されることになった*4
西部73部隊は野戦重砲兵の補充部隊であり、氏はその中で大砲を牽く馬部隊に配属される。
自由主義かつ自他ともに認めるほどとても軍隊に向いていない性格だったが、運よく(?)上官のお世話係になったことで、当時の軍隊で横行していた新兵に対するいじめの手から逃れることができた。それでも古参兵からのシゴキという名のビンタの嵐は逃れきれなかったらしい。

入営して数か月後に上官から幹部候補生の試験を受けるよう言われ、「軍隊で成り上がりたいわけではないが、二等兵だからと無駄に暴力を振るわれるのは嫌だ」という理由で試験を受けることを決意。
試験自体は難なくこなしたものの、その試験の前日に馬小屋で居眠りしていたのがバレてしまい、下士官の伍長として合格することになる。
昇格したのちは上官として新兵の教育を任されたりする立場になったが、自分にお世話係をつけることはせず暴力を嫌って新兵を殴るようなことはしなかった。

召集から2年が経ち、あと数か月で除隊となって東京に帰れるというタイミングでついに太平洋戦争が開戦。
除隊は延期となり1943年、中国戦線の福州へ送られることとなる。
伍長になってから大隊本部の暗号班に配属されていたが、そんなにしょっちゅう暗号が飛んでくることがなかったため、上陸してしばらくは宣撫班の手伝いで、地元民に見せる紙芝居の作成等を行っていた。

そうして福州にて2年ほどを過ごしたが敵国が攻めてくる気配もないため、部隊は決戦に向けて上海へ移動することになる。
1日に40キロも進む行軍の中、部隊は何度も敵の襲撃を受けた。
砲撃が降り注ぎ、銃弾が耳を掠めて飛んでいった。部隊の誰かが負傷しても足を止めれば敵軍になぶり殺しにされてしまうため、死んでいく上官や仲間をその場に置いて部隊は死に物狂いで行軍を続けたのである。

上海に到着してからはマラリアにかかってしまい、2週間ほど寝込んでしまう。マラリアにかかってしまったこと自体は運が悪いが、これがもし行軍中だったら間違いなく置いていかれてそのまま…だったため、タイミング的には運がよかったとしか言いようがない。
やがて上からの命令で食料を切り詰めなければならなくなり、食べ盛りの青年期にもかかわらず食事は一日に二度のうすいオカユだけ…。腹を空かせてその辺に生えてる草を貪り食うというひどい餓えを体験することになる。
訓練で這いずり回る、重い荷物を持って毎日歩く。そんな肉体的な苦痛はいずれ元に戻るし慣れもする。しかし飢えること、ひもじさだけは耐えられない。
氏にとっておなかが減るということは何よりも耐え難いものだということをこの時強く痛感したのだった。

そして1945年8月に第二次世界大戦は終結。
結局氏の所属する部隊が直接敵軍と交戦することはなく、最後まで人を撃つ事はなかった。
終戦翌年、なんとか帰りついた高知の地で、義母からたった一人の弟の死を告げられた。

「チイちゃんは死んだぞね」

柳瀬千尋海軍少尉(死後一階級特進して中尉)、1944年に台湾・フィリピンのバシー海峡にて戦死。
享年22、あまりに早すぎる死だった。

氏が小倉に入営してから、一度だけ千尋は小倉まで兄を訪ねて来ていた。
海軍の特殊任務に就くことになったから最後の挨拶に来たのだという弟に対し「そんなものになるな」と怒ったそうなのだが、みんなが行くのに自分だけが行かないわけにはいかないといわれてしまったそうな。
結局弟の顔を見たのは、この時が最後となってしまった。

本名である「嵩」という名は、嵩く聳える山からつけられた名前。
弟の「千尋」という名は、尋く深い海からつけられた名前。
山と海の名をつけられた二人の兄弟は、片や深い山の中で砲弾の雨に降られながらも生き延び、片や深い海の底に沈んで骨の一欠けらすらも故郷に戻ることは叶わなかった。




弟の骨壺には一片の木片があるのみで、その骨壺を故郷の墓地に埋葬した。

子供のころから忠君愛国の思想で育てられた。
日本の戦争は正義の戦いだと教えられていた。
正義のために戦うのなら、命を捨てるのも仕方がないと思っていた。
…しかし、戦後にその価値観はすべてひっくり返った。
日本の戦争は侵略のための戦争と言われたのだ。


正義のための戦いなんてどこにもない。
正義はある日突然逆転する。


心に大きな穴を空けたまま、その事実だけが骨身に染みていった。

・戦後

戦後は無気力なままに軍で知り合った友人に誘われてくず拾いをしていたが、そのくずの中に紛れていた米兵が持ち込んだ雑誌を見る内に「何か仕事がしたい」という気持ちが沸き上がり、数か月後に高知新聞社に入社。ここで生涯の伴侶となる小松暢と出会う。
ちなみに現在確認できる限り仕事で発表した最初の漫画は高知新聞から発刊されていた月刊誌「月刊高知」内で掲載された6コマ漫画である。

「月刊高知」の編集者として雑誌の挿絵や表紙絵などを担当していたが、1946年に昭和南海地震が発生。この地震により各地で建物の崩壊や津波が発生し、多くの死者や行方不明者を出す。氏も高知市で被災…したはしたのだが、なんと震度5の中で大爆睡。しかも揺れの中一回起きた後で二度寝をかましており、事態の深刻さに気付いたのはぐっすり眠って気持ちよく起床した翌朝である。
ここまで事態の深刻さに気づけなかったのは元々野戦重砲部隊にいたことや、戦地で散々爆撃にあったため爆音にも揺れにも慣れっこだったからだとか…。

「地震の中で眠りこけるとは、とても記者には向いていない」と思ったやなせは高知新聞社を一年ほどで退職*5、代議士の秘書に転職するため上京した暢を追いかけて自らも上京。同棲を経て1947年に結婚する。

上京後は日本橋三越に就職。漫画家を目指す傍らで宣伝部の一員として働き始める。ちなみに、三越で使用されている包装紙のデザイン「華ひらく」は、画家の猪熊弦一郎が描いた絵の横にやなせが三越のロゴを入れたものである。

三越に就職した頃、終戦直後の日本はそれまでの規制や物資不足の反動からかとにかく「読み物」に飢えており、雑誌は創刊されたら必ず売れ、漫画の描き手は引く手あまたでまさに大人漫画界全盛期といったところであった。
漫画雑誌、新聞、お色気漫画…やなせの元にも様々なジャンルの仕事が舞い込み1953年、漫画家としての収入が給料の3倍となったため三越を退社。
ここで漫画家として生きていくことを決意する。

【活動】


漫画家として独立後、北海道や高知で発刊されていた新聞で連載を持ったが、ヒット作と言えるものは生み出されなかった。この頃、のちにやなせの人生を大きく変える「やさしいライオン」の元となった物語を同人誌で発表していたり、ニッポンビール(現:サッポロビール)の雑誌広告などを担当したりしている。
しかし、独立後にタイミング悪く「漫画の神様」と呼ばれた手塚治虫が描く子供向けの「ストーリー漫画」が世間では一般的となり、大人漫画や四コマ漫画といったやなせの作風は過去のものとなってしまう。

代表作は無く、漫画を発表する場すらろくに見つからずに漫画家としては花開かない一方で、何故か別ジャンルの仕事は続々と舞い込んでくる状況にあり「貧乏は嫌だ」という事でなんでもこなしていった結果、「困ったときのやなせさん」と呼ばれるように。

ちなみにこの時にこなした仕事は
  • 一度インタビューで出会っただけなのにの突然電話を掛けてきた宮城まり子からの依頼でリサイタルの構成を担当
  • 会ったこともないのに突然家にやってきた永六輔から依頼されてミュージカル「見下げてごらん見上げてごらん夜の星を」の舞台装置を担当
  • 突然家にやってきた佐野和彦(のちの「徹子の部屋」のチーフプロデューサー)から依頼されてニュースショーの構成を担当
  • ↑の番組内で使用する曲として「手のひらを太陽に」の作詞(作曲はいずみたく)
  • ニュースショーのゲストだった映画監督の羽仁進から突然電話が掛かってきて連続テレビ映画「ハローCQ」のライターを担当
  • 会ったこともry)NHKディレクターの丸谷賢典から依頼されてテレビ番組「まんが学校」の司会者を担当
  • 会っry)陶器屋の三輪宏からの依頼で陶器の絵付けを担当
  • 1970年大阪万博にて行われた漫画集団によるショーの全体の構成を担当
と様々。みんな突然家に来すぎである。

一応飢えはしないほどに稼いではいたものの、漫画家として代表作もないまま年月が過ぎていく。そんな中どうしても漫画家を諦められなかったやなせは一念発起し1967年、プロアマ問わず応募できる雑誌「週刊朝日」の漫画賞に応募し見事に入選する。
この時作成したキャラクターは「ボオ氏」。「某氏」と「帽子」をかけたキャラクターとなっており、気に入っていたのか後年の作品にもちょくちょく登場し、それゆけ!アンパンマンにも「ポエムさん」という名で登場している。

また、この入選と同時期にこれまた突然電話を掛けてきた手塚治虫からなぜか声を掛けられ、大人向け長編アニメーション「千夜一夜物語」の美術監督・キャラクターデザインを担当することになる。
二人は10歳以上も歳が離れている上にほとんど親交もなく、アニメ制作の仕事に携わるのも初めてだったためこの依頼はやなせにとって困惑ばかり。一からアニメ制作について指導を受け「虫プロに朝はない」の落書きを見ながら修羅場の夜を超えていき、そうして何とか完成した「千夜一夜物語」は見事に大ヒットを収める。

この仕事を経てやなせは「キャラクターデザインというのは自分にむいているのではないか」と思うようになり、後年まさしくその通りギネスに登録されるほど多くのキャラクターを生み出していくことになるがそれはまた別の話。

後日、大ヒットのお礼として手塚は、自らのポケットマネーでやなせになにか短編を1本作らないかと提案する。この話を受けてやなせ氏は、「犬に育てられたライオン」の話をアニメ映画化することにする。
その作品こそが今なお多くの人に読まれている名作「やさしいライオン」である。

この「やさしいライオン」はかつて同人誌や絵本で、そして「現代劇場」というラジオドラマ内のコントとして発表された作品である。ちなみにラジオドラマ内のコントに関しては文化放送のディレクターからの依頼で一晩で書き上げている。
この「やさしいライオン」のアニメ映画はその年の毎日映画コンクールのアニメ部門で大藤賞などの様々な賞を受賞。
これ以降、やなせは「童話・メルヘン」といったものに強く気持ちを向けていくようになり、絵本作家として活動を広げていく。

【アンパンマン誕生】


先述の陶器に絵付けをしていた関係で訪れていた陶器展の会場で、とある人物と出会い、デザインの仕事を依頼された。
その人物とは山梨シルクセンターの社長・辻信太郎。みんなご存じ「サンリオ」の創業者である。
現在でこそキティちゃん等で有名な会社だが、当時は社員が6人ぐらいしかいない小規模な企業でそこで小物雑貨を販売していた。
そのデザインを依頼されたわけなのだが、なぜか突然辻が出版部門を会社内に設立し、やなせが書いた詩集「愛する歌」を出版する。
出版のことについて何もわからないままに設立・本を出したものだからとにかく宣伝をしよう!ということでサイン会が行われたのだが、そのサイン会会場はなんと婦人下着売り場。辻がバナナのたたき売りのような勢いで客を呼び込むもんだからやなせ氏は相当恥ずかしい思いをしたとかなんとか。
しかしそこからつながって1973年から2003年まで多くの人に愛された雑誌「詩とメルヘン」が刊行されることになり、やなせはそこの編集中を務めることとなる。

時を少し戻して1969年、やなせは出版事業に乗り出したサンリオの辻社長から誘いを受けて短編詩集の「十二の真珠」を出版していた。
これは元々雑誌「PHP」で連載していた十二の詩編をまとめた作品であり、収録されている内の一編は1960年頃に仕事の依頼を受けて書いたとあるラジオコントからモチーフを引っ張ってきたものだった。
その一遍のタイトルは「アンパンマン」。
そう、我々のよく知るあのアンパンマンがここで生まれたのである。

しかしこの時のアンパンマンはマントを付けた小太りのただのおっさんで、今のデザインとはまるでかけ離れている*6かつ非常にビターなストーリーの「アンチヒーロー」物の作品であった(詳細は初代アンパンマンを参照)。
氏の描く物語は決してハッピーエンドで終わるものばかりではなく、むしろ救いのない悲劇で終わる作品も少なくない。
この「十二の真珠」に掲載されたアンパンマンもそうだが、同雑誌に掲載された作品「チリンのすず」などはその極致と言ってもいいだろう。

1973年、先述した「やさしいライオン」が大変好評だったためフレーベル館からもう一冊絵本を描かないか?と依頼があり、上記の初代アンパンマンを子供向けに仕立てた絵本「あんぱんまん」を出版する。
一応この時点で現在のアンパンマンのデザインにはかなり近づいているものの、頭身も高いままで、しかも普通に首なしの状態が描かれていたり*7と若干の不気味さがあった。

絵本が世の中に出るとこれが絵本評論家から幼稚園の先生から大悪評の嵐。「顔をちぎって食べさせるなんて残酷だ!」「こんなくだらない絵本は図書館に置くべきではない」と大人たちからは大変評判が悪く、挙句の果てには出版社からも「アンパンマンの絵本はもう描かないでください」と言われる始末であった。
特に宣伝をされたわけでもなく、幼稚園に直接卸されるタイプの絵本だったため一般にも知り渡ることはない。そうしてひっそりと世の中に出された「あんぱんまん」であったが、このキャラに愛着を抱いたやなせ氏は「詩とメルヘン」大人向けの作品として「熱血メルヘン怪傑アンパンマン」を一年ほど連載。そしていずみたくからの提案でなんとミュージカル化までしたのだが、このミュージカルも大人向けのもので劇場も大きなものではなく70人程度しか入れないような小さなものであった。
まさに「知らない人は知らないが、知ってる人は知っている」。
そんな状態のアンパンマンだった。

ところが、大人たちから酷評を受けていたアンパンマンの絵本はとある層から絶大な人気を得始める。
字も読めないし言葉もおぼつかない。そんな子供たちからである。

「なんの先入観もなく、欲得もなく、すべての権威を否定する、純真無垢の魂をもった冷酷無比の批評家」である子供たちはただ自分の好き嫌いでしかものを判別しない。
大人たちがくだらないと烙印を押した絵本は、幼稚園ではどれだけ新刊を買ってもすぐに手垢だらけのボロボロに。
子供たちの圧倒的な支持を前にしては、あれやこれやと理屈を立て並べた大人たちの批評など無に等しいものだった。
やなせはこの純粋で冷酷な批評家たちに対して、適当な甘い言葉でお茶を濁していいのかと考えるようになる。
子供に子供だましなど通用しない。真剣に、自分の考えをこのアンパンマンに描こう。
「正義とは何か。傷つくことなしに正義は行えない」
それが今なお続くアンパンマンの根源的なテーマとなっていくのである。
ちなみに、世間的には幼児向けの絵本作家として捉えられていることが多いが、当のやなせ氏本人は幼児を子供として扱うことを嫌っていた。子供向けの作品を制作するときはいくらか難しい部分があっても決して甘やかさず、子供と真剣にぶつかりあう姿勢を常に持っていた。そのことはかの有名なアンパンマンのマーチの歌詞からも感じ取れる。

まさかの人気を得たアンパンマンはどんどん刊行数を重ねていき、ついには1988年に日本テレビでアニメシリーズとして放映されることになる。この時既にやなせ氏は69歳であった。

しかしテレビアニメシリーズもまた決して順調な始まりではなく、むしろ逆境の中でのスタートだった。
幼稚園でボロボロになっていた絵本、あんぱんまんに目を付けた日本テレビのプロデューサー武井英彦が会社にアニメ化の企画を持ち込んだのだが、スポンサーや上層部の反応はかつての評論家たちと同じ様に悪いものばかりだった。
それでもめげずに武井はプレゼンテーションや資金調達に奔走し、その結果最初の企画持ち込みから2年の歳月をかけてアニメ化につなげることに成功する。
とはいってもやはり最初はそこまで期待視されておらず、むしろ世情の影響でどちからと視聴率を悲観視されていたのだが、ここでもまさかまさかの無事大ヒット。数クールで終わる予定だったのが現在でも続く長期シリーズとなった。
絵本も発行1千万部を超え、賞も勲四等瑞宝賞などを受賞。アニメのヒットを受けてやなせは売れっ子作家の仲間入りをする。
ようやく順風満帆な漫画家人生を歩めるはずだった。

しかし1993年11月22日、妻である暢が乳がんで死去。享年75。
まさにアンパンマンが大ヒットした矢先の事だった。

暢は小柄で細身だったがとても勝気な性格で、若い頃は「はちきんおのぶ」「韋駄天おのぶ」と呼ばれていたりなど、やなせとは正反対の気質の女性であった。新聞社に勤めていた頃は代金の支払いを渋る相手にハンドバッグ投げつけたり雷が鳴ると「もっと鳴れ!」と大喜びしていたそうな。
やなせ氏と結婚してからもお茶の先生をしながら趣味で日本全国の山登りをするほどアグレッシブに活動を続けていた。
元々短命の家系だったやなせ氏は体が弱かったため病気で臥せってしまったりすることも多く、反対に夫人は長命の家系で(夫人の母親は101歳まで生きたのだとか)、やなせが病気の時も三越を退職した時などは「私がなんとかする!」と話すほどに非常に頼りがいのある人物であったから、氏は老後は静かに過ごして夫人に看取られるのだとばかり思っていた。
しかし現実はそうとはいかず。夫人はやなせ氏に手を握られ、75年の生涯を閉じることとなった。
「アンパンマン」こそが、二人の子供だった。

夫人の死去後も、アンパンマンのヒットに驕る事なく漫画家として精力的に活動を続けていく。
日本漫画家協会理事長就任、まんが甲子園の立ち上げ、アンパンマンミュージアム開館の他、自身で作詞作曲、さらには歌唱まで担当してCDを出してみたりとか。
しかし2000年代に差し掛かる頃から様々な病気にかかり2011年には視界すらも怪しくなってきたことから引退を考え始める。
この頃の病歴は難聴、耳鳴り、白内障、緑内障、狭心症、心筋梗塞、膵臓炎、腎臓結石、肝炎、坐骨神経痛ヘルニア、腸閉塞、糖尿病、爪白癬とまぁオンパレード状態。

生前葬すら企画していたが、同年3月11日。未曾有の大災害東日本大震災が発生。
2万人近い死者を出したこの災害を前に、やなせ氏は宣言していた引退を撤回することとなる。
というのも、アンパンマンの主題歌である「アンパンマンのマーチ」がラジオのリクエストで殺到したのである。
子供たちは、ヒーローであるアンパンマンの歌に失っていた笑顔を取り戻し、
大人たちは、やなせが綴った歌詞に励まされた。
日本人なら誰もが耳にしたことのあるその歌につづられていた歌詞は、大震災の後だからこそ人々の心に染み入ったのである。

そしてその話を耳にしたやなせは、引退している場合では無いと言わんばかりに支援を開始。
被災地に向けてポスターを描いては寄贈したり、「奇跡の一本松」をテーマに自ら作曲し、売り上げはすべて寄付に回すなど既に病気でボロボロだった体を押して活動をつづけた。

かつて、終戦して故郷に戻る道すがらで焦土と化した広島を見ていたやなせ氏は、広島だって復興したのだから東北も間違いなく復興するだろうと震災後に出版した自書に記している。

2012年から2014年の間に制作された劇場版アンパンマンは通称「復興三部作」と呼ばれており、復興する事・希望を捨てない事・望郷と故郷を再建する事がテーマとして描かれている。

【そして……】


2013年10月13日、心不全のため東京都の病院で逝去。享年94。
遺作は「アンパンマンとりんごぼうや」。

死去する数カ月前に撮影されたアニメスタッフとの打ち合わせ映像には
「来年までに俺は死ぬんだよね。朝起きるたびに、少しずつ体が衰弱していくのが分かるんだよね。まだ死にたくねぇよ。面白いところへ来たのに、俺はなんで死ななくちゃいけないんだよ」
と語る姿が残されている。
また、2012年公開の「よみがえれ バナナ島」の初日舞台あいさつに登壇した際には
「僕はまもなく死ぬと思うのですが、せめてあと2年は生かしてほしい。」
「来年(アンパンマンが)25周年を迎えるので、それでこの世にさよならです」
とコメントしており、実際にアンパンマン25周年記念映画「とばせ!希望のハンカチ」が公開された3ヶ月後に亡くなっている。

現在は故郷である高知県香美市香北町の実家跡地に建てられた「やなせたかし朴ノ木公園」にて、幼い頃に弟と駆けた緑生い茂る山々と多くのアンパンマンキャラクター像に囲まれながら、暢夫人と共に静かに眠っている。


【代表作】


とりあえずアニヲタwikiに記事があるものだけ掲載。


<参考文献>
  • やなせたかし大全
  • アンパンマンの遺書
  • わたしが正義について語るなら
  • 人生なんて夢だけど
  • ぼくは戦争は大嫌い
  • もうひとつのアンパンマン物語
  • 痛快!第二の青春 アンパンマンとぼく
  • 絶望の隣は希望です!
  • 慟哭の海峡
  • あんぱんまん




ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、
そして、そのためにかならず自分も深く傷つくものです。

あんぱんまんは、やけこげだらけのボロボロの、
こげ茶色のマントを着て、ひっそりと、はずかしそうに登場します。
自分を食べさせることによって、飢える人を救います。
それでも顔は、気楽そうに笑っているのです。

さて、こんな、あんぱんまんを子どもたちは、好きになってくれるでしょうか。

それとも、やはり、テレビの人気者のほうがいいですか。

(出典:キンダーおはなしえほん『あんぱんまん』あとがきより 一部抜粋)



追記・修正はアンパンマンを見て育った人がお願いします。

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最終更新:2025年10月04日 01:02

*1 そのためか「キャラデザをやなせが担当したイメージキャラクター」は現在でも起用が続けられているメンバーに限定してもなお非常に多い。

*2 ハチの巣ごと採取したハチミツ。

*3 商業作品である毎日かあさんにアンパンマンのイラストを乗せるのは「別にいいよ」と許可してくれたらしい。

*4 なぜ小倉部隊に配属されたかというと、(戸籍上)天涯孤独で悲しむ家族もいないからという理由。

*5 退職後も高知新聞社とは関係が続き、何度も4コマ漫画やエッセイが掲載されていた。

*6 このアンパンマンは自由に空を飛べないし、アンパンも顔をちぎるのではなく普通に持ち歩いているのを渡す。

*7 現在のアニメでもこの状態で描かれることはほとんどなく、唯一の例外は劇場版23作目のみ。