私は人間ではない。
では何かと問われれば返答に困る。
私は俗に言う人造人間という奴だ。普通はアンドロイドと呼ばれるが、なんとなくこちらの呼称は偽善的で好きではない。
私の体には無数の回線が行き交い、血液の代わりに電解質の透明な液体が流れている。
それが何故透明なのかというと、血ではスクラップされた時に人間が、罪悪感やおぞましさを覚えてしまうからだ。まったく身勝手この上ない話である。
私はとにかく、そういった身の上に生産された。
製造番号はC2U7562-K。なんと呆気ない、情緒もクソもない記号なのだろう。
だから気に食わない私は普段、邦津ケイ(kunitu-kei)と名乗っている。我ながらセンスのない安直な名だとは思うが、元来センスというものを取りつけられなかった私にはこれで充分だ。製造番号よりはずっとマシである。
私は今、人間の役に立つべく、当然の事ながら就職している。
どの同胞も皆、人間の役に立つために存在することも就職しなければ即スクラップ(廃棄処分)だということもよく分かっているから、就職しようと躍起になる。
しかし私はそれらの同胞とは少しながら性根が違っているのか、就職にはあまり積極的ではなかった。だからといって、スクラップは御免被りたい。
私はしょうがなく、就職したい職業ワースト・ワンを年毎に記録更新する職業、「羊塚」で働くことになった。
この「羊塚」というのは、ただの通称に過ぎない。しかし正式名称もないために、今ではこれが正式名称のように扱われている。
羊塚とはなんでも、相当昔から存在する小説から由来しているらしい。
元々は、「電気羊の墓」と呼ばれていたのがここまで簡略化された。
これは私が“電気羊の学び舎”、つまり「電羊舎」で教育を受けた時に、唯一自分から興味を持って励んだ学問、「雑学」を学ぶ中で知った知識である。だから元来真偽の程が定かではない「雑学」の知識であるため信憑性に欠けるが、他にそれらしい理由もない為疑う余地もないだろう。それこそ疑い出したならば「雑学科」の教授にでもなるしかない。
私はそのような経緯で羊塚に興味を持ち、そして就職した。
この仕事は、例えば「本屋」や「レストラン」、はたまた「銀行」とはかなり趣を異にしている。まぁ、そんなことは字面を見れば分かることなのだが。
羊塚は前述した通り、とても就職希望が少ない。
しかしながら、この職業の賃金が安いといった訳でもなく、むしろ他の職と比べればかなりの高収入といえよう。例えば、羊塚は歩合制をとっているが、平均収入はサラリーマンの平均収入の軽く五倍は上回る。しかもこれは公務員、つまり国の税によって給料を頂戴しているため、保険などのシステムも充分整っている。(まぁ、給料といっても我々羊が受けるのは「金」ではなく「ポイント」であり、それに応じたサービスを受けられるということなのだが。)
では、何故このような至れり尽せりの職に人気がないのか。
それはとてもシンプルで、それでいてなんとも受け止めがたい根本的な問題があるからである。
つまり、仕事の内容自体が、正常な我らが同朋にとって多大な苦渋を強いるものであったのだ。
「羊塚」と云う名の由来は前述したため、もうそれがどのような仕事場なのか、既に大方予想は出来るだろう。
しかし私は無粋ながら、あえてそれを踏まえて答えを出そうと思う。
まず、「羊」とは、元々「電気羊」の略であり、またこれは普通アンドロイドを指して使われるのが一般的だ。
そして「塚」とは、辞書を引けばすぐに分かることなのだが、よく「墓」を指す言葉として用いられることが多い。(因みに、私の記憶によると、電羊舎の書庫にあった辞書には、“土などを高く盛り上げて作った墓。土墳。また、転じて一般に、墓をいう。”とあった。)
つまり羊塚とは、人造人間廃棄場のことである。(一般には「アンドロイドスクラップ場」として通っているが、こちらの方がより現実的、かつ具体的なので敢えて私はこう呼ぼう。)
我々は様々な工場で生まれるが、どの同胞も、結局行きつく先はここである。
家庭用アンドロイドも、業務用アンドロイドも、愛玩用アンドロイドも、全てはここに行きつき、朽ち果てる。
そしてそれを管理・監視するのが、「塚守」である我々の役目だ。
羊塚は、海岸沿いの広大な埋立地である。
その周りはぐるっとフェンスで囲まれており、昔、電羊舎の書庫で見た写真集に載っていた、過去の遺物「戦争」の、「軍用基地」や「収容所」を彷彿とさせた。
フェンスには、出入りの出来るところは一箇所しかない。
「塚守事務所」に面したところにだけ、たった一つ門がある。
この門をくぐる時、羊の“死”は確定する。入れば二度と出ることはない。
羊たちは様々な中継点を経て、大型トラックに積めるだけ積み込んで運ばれてくる。
それらは一日、約五百体に及ぶ。
多い日には六・七百、ひどい時には千。しかし、どれだけ少なくとも百の位を割ることはない。
そうやって羊塚には、廃棄される羊が連日連夜輸送されてくる。
送られてくる羊には、まだ働けるものも少なくない。
旧式で機能が悪く不便なもの、最新式を導入して不要になったもの。
壊れたものは修理費用が非常に高いため、余程愛着のある持ち主しかしようとしない。羊のそれぞれ微妙に違う個性を持つ体は専用に調整するのが難しいからだ。また、ここでいい加減な技師に頼むともとのように動けなくなってしまう。
廃棄される、しかしまだ働ける羊たち。
彼らは皆、耳に付けられる特殊なパルス(信号)を発するカフスによって完全に無気力状態にされる。
そうしたまだ動ける筈の羊たちは、他の壊れた羊と同様に、だらりと不自然な格好でトラックの荷台に積まれてくる。その目には柔らかな光しか見とめられない。
そして羊はすべて、事務所に併設された分別工場に運ばれる。
塚守の具体的な仕事は主に、ベルトコンベアーの管理である。
工場には二十四本のベルトコンベアーがあり、搬入口から無造作に入れられた羊は二十四ある穴から一体ずつコンベアーに落ちて、流れながら自動的に製造番号を確認される。
搬入口から二十四本並列に伸びたコンベアーはすべて、一本の横這いになったコンベアーに辿り着き、確認を終えた羊はそのコンベアーのセンサーによって今度は二つに分別される。最近の羊の殆どは、皆土に帰る、所謂「地球に優しい」素材だ。しかしたまに、旧式の羊には不燃物を使われているものもあり、それらは解体エリアに送られてリサイクル工場へと回される。
我々塚守は、これらのコンベアーを見回る。コンベアーは、流れる羊が多いためにその体液によって羊が滑って落ちることがあるのだ。これらの羊は脇に張ってある保護シートに落ちるのだが、それを拾ってコンベアーに乗せるのは塚守の仕事だ。特にコンベアーの傾く搬入口の辺りと、横這いになった一本に合流するところが比較的落ちやすい。
確認が済んだ不燃物以外の羊は、すべてコンベアーの最終地点から穴に落ち、そこで発せられているパルスの自己破壊プログラムによって完全に内部から死に絶える。
そうして、彼らはまた地下から続くコンベアーによって外に吐き出され、そうするようにプログラムされた機械が纏めて廃棄場に積み上げる。
海岸沿いの広大な廃棄場には羊たちの山々が連なり、潮風に吹かれながらゆっくりと朽ちて行く同胞たちが、まるで世界の終わりのような光景を織り成している。
羊には感情がある。
何故感情を持たせたのかというと、その主な理由は有体に言えば人間が“痒い所に手が届く”サービスを求めた結果であった。
我々は生産される時、回路の中に情緒を生む仕組みと装置をとりつけられる。
この装置のことを「蝶器」という。由来はその形が蝶に良く似ているところにあるらしい。
回路に蝶器からパルスを発すると情緒が生まれる。このパルスは製造番号を信号化したものであり、製造番号が蝶器に入力された時、初めて我々に自己が形成されるという寸法だ。製造番号が入力されるまでの羊はただの人形に過ぎない。
工場では、このパルスを二十四本のコンベアーそれぞれにとりつけられた受信機で読み取り、そのデータは事務所に送られる。そこでデータは紙面に印刷され、それらの書類が所長のデスクに山積みになっているというわけだ。勿論蝶器が壊れてしまった羊も送られてくるが、それらは全てあるパルスを送れば細胞がパルスを記憶しているため、共鳴して製造番号のパルスを発するようになっている。
つまり、それだけ羊にとってパルスの影響は大きい。
パルスはいわば、羊にとっての“鼓動”のようなものなのだ。羊は自己が生まれるまで、仕組みを持ってはいても動き出すことはない。つまり、感情を持たない羊はいないことになる。
また、装置は情緒を生むと同時に、体の様々な情報を保有する、いわば核のような役割を果たしている。そのため少しくらいの損傷ならば、そこから情報を引き出して自己修復することも可能だ。
蝶器が壊れると羊は生きることが出来ない。修復しようにも繊細で複雑なため、元に戻すことなど不可能だ。この蝶器が傷つけられても羊は即スクラップ送りされる。蝶器は人間の脳のように頭に取り付けられて、「羊水」に浸かり、強化繊維の外殻に守られている。
そして蝶器が羊を動かす。
この「塚守」と云う職業は、元々人間のものだった。
しかしながら、そのあまりのおぞましさ故に、誰も職に就きたがらなかった。
たまに、この仕事につく変わり者もいたが、それらのものは一人残らず狂人か、又は狂人予備軍だった。
そんな者たちによって、羊塚は運営されていた。
けれどもそれが、羊たちの手に委ねられるまでに、それほど時間は掛からなかった。
わざわざ我々の体液の色を羊規定に定めたというのに、皮肉というか、滑稽な話だ。
理由は、狂人は狂っても「狂人」だったからである。
一般市民達は、時が経つにつれて、羊塚と、そこで働く塚守のことを知るようになり、それがどれだけ人間性を害する職であるかを知った。するとそれらの人々の中には必ずといっていいほど、正義感に駆られて他人のことに口出し始める者がいる。
その例に洩れぬ人間は、羊塚で人間を働かせる国に対して強く批判の声を上げるようになり、それは次第に人権運動として広まっていった。
困ったのは政府である。
日々羊はスクラップ送りにされるのに、それを処理するのが人間では駄目だと言う。しかしそのための機械を導入するには莫大な資金が必要で、それを捻出しようとすれば、また別方向から批判の声が上がると予想された。まさに八方塞であった。
そして困りに困った政府が苦し紛れに行った政策が、“羊による「羊塚」の運営”である。
これが正しかったのか、間違っていたのか、それはもう判断のしようもない。
それをするには、世の中にあまりにも矛盾が多過ぎるのだ。
羊は所詮使われる“モノ”であり、人間と共存できる生物にはなり得なかったのである。
そうするには、人間は不完全で、羊は弱かった。
勿論人間の中には、羊に羊を処理させるというあまりにも惨い行為に批判するものもいないではなかったが、ではより良い解決策はあるのかと求められると、途端に反論できなくなるのが常であった。
こうして“羊による「塚守」制度”が始まった。
私が事務所の仮眠室から出ると、オフィスには所長以外は皆出払っていた。
私が出てきたことに気づき、所長である、自称・仁美ルー(hitomi-ru)が、相変わらずデスクの上を書類に埋もれておはよう、と言った。
私は所長に挨拶を返し、今日も多いんですかと訊いた。
所長はモニターに目を向けて、キーボードに打ち込みながら、ああ、これを見れば分かるだろうと彼特有の暢気そうな声で書類の山をトントンと叩いて答えた。
私は特になんとも思わなかった、スクラップされる羊が普段より多いことに対して。
普通、今日は雨ですね、と言って憂鬱になることはあっても絶望することはないように、羊が送られてくることは私の日常で、それが多いからといって感情の降れ幅に変わりはない。
たまに私は自分の蝶器が狂っているのかとも思ったが、そういう訳でもないようだ。少なくとも、二年に一回のペースで行われる定期メンテナンスで異常だと診断されたことは一度もない。
私は今日、午後まで非番のため一度自宅に戻ることにした。
自宅といっても、私の場合それは羊塚内にある塚守専用宿舎であり、羊塚から出るわけではない。
「夢見荘」という名のその宿舎は、まだ塚守を人間が行っていた時分からあるもので、かなりの年代ものだ。
事務所を挟んで、分別工場の反対側にある夢見荘の、狭いテラスに続く窓からは、海と、そしてスクラップされた羊の山が見える。遠く海を渡る船もなく、その光景はなんとも形容しがたい。
中央には巨大な石碑が立ち並び、そこには毎日多くの羊たちがその製造番号を刻まれてゆく。
それをするように定めたのは人間で、しかしながらそれは所詮気休めでしかなかった。人間の罪の意識を誤魔化すくらいにしか役に立たない。羊のためというのは、どこまでも人間にとって都合の良い建前に過ぎないのだ。
私は一度だけ、もし世界の終わりが来れば、この光景が世界中に広がるのだろうと思ったことがある。屍の山と巨大な墓標、広大な海、薄い雲が蓋う空、白い太陽、モノクロームの世界。
それらは全て、“死”の象徴だ。
この夢見荘は、煉瓦と鉄骨で造られた洋風の建物だ。
立地から、潮風に晒されるために朽ちていく度合いが大きいと予想される。
しかしここはかなり古くとも、まだ建ってから一度も建てなおされたことはない。改装・改築も同様である。
だから私はどうやってこれほどの間持っているのか、ここは一体何で出来ているのかと不思議に思って調べたことがあった。
羊であった。
なんとこれは、旧式の羊の、不燃物として解体され、リサイクルされて出来たものによって造られた建物だったのだ。
私は初めてそれを知ったとき、何故だかとても納得してしまった。私はこの夢見荘にいると、とても心地よく眠れるのだ。
一応断っておくと、我々アンドロイドは睡眠をとる。睡眠とはどういったメカニズムで起こるのか、まだ完全には分かってはいない。しかし、我々を作る際にその機能の有無で消耗の度合いが断然違うことが分かり、科学者達は首を捻りながらも睡眠機能をつけることにした。
その辺の詳しい知識はとにかく話せば長くなる上に、難解であるため残念ながら端折ることにしよう。
とにかく我々人造人間も、人間と比べ多少融通はきくが、睡眠はとるのだ。
そして私は夢見荘で眠ることを最も好んでいる。
夢見荘に戻った私は、自室についている狭いシャワー室で熱いシャワーを浴び、その間にコーヒーをいれた。我々人造人間は元来食物を必要としない、体内でエネルギーを生成できる仕組みを持っている。しかし私は、こうやって人間のように飲み物を飲むことだけは好きだ。幸い私には味覚も消化機能も備わっている。自分で言うのもあれだが、私は人造人間というカテゴリーの中ではかなり出来が良い。電羊舎での成績も優秀だった。きっと私は他の大量生産された羊とは違い、職人気質な者の手によって丁寧につくられたのだろう。だから私は密かにその人には感謝している。少なくとも、私はその人物のおかげでこうしてコーヒーを味わうことが出来るのだから。
髪を片手に掴んだバスタオルで拭きながら、コーヒーを啜った。
熱いコーヒーは、何となくいつもより上手くいれられた気がする。
なかなか悪くない気分だった。
午前を通信端末によって、羊塚の外の情報を手に入れ、通信販売の紅茶の茶葉を物色して過ごした私は、残しておいた冷めたコーヒーを飲み干して、仕事に向かった。
事務所に戻ると、この塚守で唯一の雌である吾乃エン(gonai-en)君が、ちょうど上がって戻って来たところだった。
エン君は、私を見とめると無表情でお疲れ様ですと首をすくめて、さっさと事務所を出ていった。
私はお疲れ様、と返事をして、素っ気無く横をすりぬけて行くエン君に改めて好感を覚えた。私は鬱陶しい輩があまり好きではない。すれ違いに事務所の中に入る。
所長は今朝と変わらず、所長専用のヒラ員より一回り大きなデスクで黙々とキーボードを鳴らしていた。その回りは、これも相変わらずの大量の書類が堆く積み上げられ、今にも雪崩を起こしそうになっている。
その書類は皆、工場から送られてくる廃棄確認された羊の製造番号だ。
所長が使うPCは特別仕様で、石碑に番号を刻む機械の制御AIに直接繋がっており、所長だけがその入力の権限を持っている。それだけあの石碑は、一般においては神聖視されているらしかった。
所長は私がここに就職した時には既にその仕事をずっと続けていた。しかし彼は今までに、一度も疲れた顔を見せたことがない。常にどこか惚けた空気を纏っていて、だから私はこいつにはなるべく逆らうまいと思っていた。ただのかんに過ぎないのだが、それを否定するには得体が知れなさ過ぎる。
私は本日二度目の挨拶を所長と交わしてから、ロッカー室に入った。
仕事をするために、作業着に着替える必要があるのだ。
誰かが、(まぁ大体予想はつくのだが)、勢いか腹立ち紛れにか殴ったのだろう、少しへこんだロッカーの扉は少し開くのにコツがいる。
所長に新しいロッカーを申請して早数ヶ月が過ぎ、私はもう諦めていた。まったく使えなくなってしまうまで、このまま我慢するしかあるまい。
手早く黒のジャケットとスラックスを脱ぎ、色の褪せた空色のつなぎを着る。我ながら似合わないと思いつつも、大分着続けたおかげか、そう違和感はなくなってきた。…いや、少なくともそう思いたい。
妹尾アル(seno-aru)が、私の顔が上品過ぎなのだと見るたびにカラカラ笑うのは頂けないが、それ以外の者はもう誰も反応しなくなった。出来ればこのまま新入りが入ってこないことを祈る。
私は濃紺のキャップを被って嘆息しながらロッカー室を後にし、タイムカードに記録をとって、分別工場へと向かった。
私が工場へ入ると、真っ先に妹尾が駆けてきて、やはりカラカラと一頻り笑った。
しかし失礼な奴だと思いつつも、何故だかこの男はどこか憎みきれない。小柄でくるくると変わる表情がそうさせるのだろうか。とにかく妙な輩である。(そしてここにはこの妹尾のように、妙な奴が殆どだ)
それから妹尾はようやく笑いを収めると、突然深刻そうな顔になって、先輩ちょっとと耳を貸すよう仕草をした。妹尾は私よりも製造されるのは早かったのだが、ここで働き出したのは遅い。だから当然のごとく私を先輩と呼び、私も寧ろそう呼ばれる方がしっくりきているのだった。
私が少し身を屈めると、妹尾が一旦躊躇ってから、耳に口を寄せてどうしましょう先輩、と囁いた。
それから、妹尾はまた周りを気にしてから、番ナシが来ちゃったみたいなんですと泣きそうに言った。
番ナシ。
私は一瞬スッと寒気のようなものが走った。
番ナシとは、まさかあの番ナシなのだろうか…。少なくとも、私は番ナシと名のつくものは一つしか知らない。
では、やはりあの番ナシが、今ここにいると言うのか。
私は反射的にコンベアーに目をやり、それが動いているのに安堵した。番ナシがもしそこを流れてパルスの受信機を通れば、必ずエラーが出るはずだからだ。番ナシには、その名の通りに製造番号がないという噂なのだから。
だとすれば、おそらくエラーを知らせる電子音に反応した妹尾が受信機に対応してその場を収めたのだろうと予想された。
私はそれらを一通り考えてから、泣き出しそうに鼻水を啜り出した妹尾を見て、とりあえずこれを所長に届け出ようと決めた。
妹尾に泣くな、鼻水が羊につくだろうと声をかけて工場を後にする。
工場と事務所を繋ぐ渡り廊下を走り、急いで所長の元に行こうとして、私はふと妹尾は番ナシをどうしたのか気になった。もし見つけて動揺したあまりにそのままそこらに放置して来たとするならば、不味いことになるかもしれない。
自分の想像に今更面倒ごとを抱え込んでしまったと後悔して、溜息をつきながら工場へ引き返した。
私が戻ると、妹尾は普段と変わらない様子で見まわりを再開していた。
それは面倒ごとを押し付けられてしまったという念を強くさせ、少し苛立って強めに妹尾の肩を掴んだ。予想もしていなかったのだろう、妹尾は振り返る際に脚をもつれさせて転びそうになり、何だぁ驚かさないでくださいよぉと動悸を抑えようとして胸を抑えた。
私はその様子に毒気を抜かれて溜息をつき、指で近寄るように示してから番ナシはどうしたのかと訊いた。
妹尾はまた番ナシのことを思い出したせいか、眉を顰めて顔を俯けて、隠しました、隠しましたベルトコンベアーの下に、と小さく答えて涙ぐんだ。
すると今度はどうしたことか、まるでこちらが彼を責めているような気分になり、妹尾が憐れに思えてきたではないか。
私はいささか内心で狼狽して、肩を叩いてやってから後ろめたくも背を向けた。
走りながら先ほどの隠したという言葉を思い出す。私はそっと胸を撫で下ろして、もう一度事務所へと急いだ。
事務所に駆け込んで所内を見まわすなり、番ナシが来ましたと言った私を、所長は見向きもせずにひたすらキーボードを打ちつづけた。声が聞こえていなかったのだろうか。
念のために私がもう一度繰り返すと、所長はあぁそう、それは拙いねぇ、うん拙いなと独り言のように呟いた。キーを打つ手は止まらない。こんな時にまで暢気なものだ。
私は焦れて、どうすれば良いでしょうと少し大きな声を出してしまった。
そして自分でその愚かさに気づき、口をつぐむ。
しばらく沈黙が続き、所長が打ち込み終えた分なのだろう、一部の書類の山をデスクから下ろしてようやく、そうだなぁと呟いた。そうだなぁ、この件は君に任せるよ。
私はその言葉に唖然として、しばし反論も出来なかった。
私が番ナシに対処する?
私は呟く。
そんなこと、無理に決まっているでしょう。
すると所長は穏やかに笑ってはいたが、眼鏡越しの青いその目だけ色を冷たくして言った。
決まっている?今そう言ったのかな?いつから君はそんなに偉くなったの、君も羊だったんじゃぁないのかね?
彼はそこまでやんわりと言ってから失笑した。
その笑いは私の心身を凍えさせる。
それから彼は、肩を落とした私の腕を任せたよと二度叩いてから、書類の一山をもって保管庫へ行ってしまった。
私はこの時ほど自分が羊であることを自覚させられたことはない。
スクラップされたくなければ羊は上の命令に従うしかないのだ。
私は未練がましく所長の消えたドアを見て、深く溜息をついて工場へ戻ることにした。
さぁ、どうしたものか。
廊下をひとり、なるべく遅く歩きながら答えを探る。
少なくとも分かっていることは、私には選択肢が四つあるという事だ。
ひとつ。番ナシの存在を広める。
しかしこれは私のリスクが大きく、その先起こるであろう面倒ごとに巻き込まれることは確実だ。
次に二つ。番ナシを背負う義務を誰かに譲る。
私は采配を任されたのであって、特にどうしろと指示を受けたわけではない。つまり、それを然るべき人物に託すということも選択のうちには入るのだ。
そして三つ。番ナシを隠す。
これは今のところ最も良い案に思える。これならば、私は切っ掛けにならないで済む上、全てこのままで時代は流れる。番ナシが世間の表へと出てしまえば、全てが覆されてしまうのだ。そのような大それたことを引き起こすなど、私にはとても出来そうにない。そしてやりたくもない。
しかし。この選択には一つ問題があって、ではどこに隠すのか、という事だ。
隠すのは番ナシである。
私は今まで、それほど大きな隠し事をしたことがない。当然だ、私は清く正しく生きているのだから。電羊舎にいたころは、少々後ろ暗い事もしたが、それも若気のいたりで済まされる程度であり、番ナシとは比べようもない。
そして最後に四つ。ここから逃げる。
これは詰まるところ、自らの死を意味している。私には製造番号が標されており、パルスがどこまでも私に付きまとう。この世界では、必要とされない羊は生きることを赦されない。つまり、私は逃げてもすぐに捕まり、即スクラップ送りにされてしまう。そうなればもう、私はこの羊塚であの羊の山同様に朽ちてゆくだけだ。
結局矮小な度胸しか持ち合わせていない私に残される選択肢は一つだけしかないようで、あまりの運のなさにいっそ全てを投げ出してしまおうかとも思った。
しかしそうする間にも私の足は廊下を進んでおり、工場まではあと数秒で着いてしまう。
そして着いてしまった私は、番ナシを抱え込むことが確定した自分に冷笑を送りつつ工場の扉を開いたのだった。
番ナシがいない!
工場に入ったとたん、噛みつくように妹尾が言った。
私は慌てて妹尾の首根っこを掴み、巨大なシリンダーの陰に引き摺り込んだ。
暗がりに入ると、妹尾は恐慌状態なのか、ヒステリックに早口でボソボソと喚いた。
先輩どこに行ってたんですか番ナシいなくてどうしようちゃんと僕はあそこに隠しておいたのにコンベアーの影なんて誰も探るわけがないのにじゃぁどうしていないんだろうおかしいですよねぇ先輩とんでもないことになってあぁ僕もついにスクラップされるのかなぁ…
支離滅裂な言葉にしばらくじっと耳を傾けていた私は、なんとか、妹尾が隠した番ナシがいなくなってしまったのだ、と言いたいのだと理解した。
番ナシがいない?
興奮が高まり、ついには私の胸倉を掴んでグラグラ揺すりだす妹尾を思いっきり殴りつけた。
落ちつけ、お前が混乱する気持ちも分かるがそれよりも番ナシを探すことが先だろう。
何とか妹尾を落ちつけて、とにかくその番ナシを隠していたという場所へと案内させる。
妹尾が興奮しているのを見ているためか、私はそれほど動揺しなかった。
妹尾は一歩進むごとに悲壮感を強めていき、うう、とかあぅとか情けない声を上げる。私はついて行くのが憂鬱だった。
任されてすぐこれかと、所長の惚けた面を張り倒したい衝動に駆られる。
案内された先には確かに、何もなかった。
無人のυ(upsilon)ブロックで、ゴウンゴウンとコンベアーが動きつづけ、その上を羊が流れて行く。コンベアーは羊の体液でぬらぬらと光を返していた。
走り寄ってそわそわと確認する妹尾を引っ張り、もう一度、確かに番ナシはここに隠したのか確認した。
こくこくと頷いて目線をあちこちにさ迷わせるのに少しだけ同情し、もう今日のところは仕事を切り上げるよう言い渡す。
妹尾は何度もこちらと周りを見返しては、大丈夫ですよね、大丈夫ですよね、とうわ言のように繰り返して、私があぁ、と答えるとようやく安心したのか去って行った。
番ナシはどこへいったのか。
妹尾の姿が見えなくなったとたん、僅かに動揺が走った。
誰かが熱くなっていると、それを見ているほうは共感できない限り冷めていくものである。その例に洩れずに私は動揺せずにいたのだが、それは彼が姿を消したことで無効になってしまったらしかった。
番ナシが消える方法は二つ。
誰かが持ち去ったか、自分でどこかへ行ってしまったか。
この場合、スクラップされるものとして送られてきたのだから、後者の可能性は著しく低いだろう。
そう考えた私は辺りを見まわした。
誰もいない。
私はひとまずδブロックを離れて他の同僚を探した。
そして今日はそういえば羊が多かったのだと思いだし、搬入口へと踵を返した。
最終更新:2009年04月29日 16:21