ギレルモは四時の少し前、空が白み始めるその前に目を覚ました。ギレルモは寝起きが好きだ。頭が働かないまま、重い体がゆるゆると自然に行動を始める。
ギレルモの部屋は《若木亭》裏の勝手口に近いところにある。寝巻きから仕事着に着替えて、勝手口から外に出る。勝手口の先はちょっとした広場になっており、中央には井戸が、それを囲むように《若木亭》、シンディのガレージ、鄙家のような厩舎がある。夜明け前の空気と冷たい井戸水を肌で感じて、ようやく本当に目を覚ました。
ル・ロウドへの形ばかりの祈りとささやかな幸運を願う呪文を唱えながら、ギレルモは今日すべきことを頭のなかで並べる。
まずは今日使う野菜を洗う。次は洗濯物を洗って干してしまって、昼過ぎに干すシーツの場所を確保しておく。それから店の前を掃き、朝食の準備と昼食の仕込みをする。そこまでやれば市場へ買いだしに行く時間になるだろう、後のことは買い物をしながら考えよう。
井戸水でもう一度頭を洗い、活を入れる。顔を上げるとガレージの窓からこぼれる灯りに気がついた。
覗いてみるとつけっぱなしのランプの横にシンディのつむじが見える。彼女は机に突っ伏して寝ており、奥ではネトラールが工具と部材の山の中で毛布にくるまっている。シンディの顔の下の図面ではインクとよだれ、それぞれの染みが領土を争っている。ペンは握ったままだ。
これは昼過ぎまで起きてこないな、そう思いながら振り返ると厩舎からポニ彦が顔を出してこちらを眺めていた。
おはようさん、これから朝飯を持ってくるから待ってろよ――前を横切りながらそう声をかけると、ポニ彦は一ついなないて顔を引っ込めた。
一度勝手口までゆき、泥だらけの野菜が山と積まれた箱を抱えて井戸端へと引き返す。人参――タビット人参じゃない普通のやつ――を真っ先に洗ってやり、ポニ彦にくれてやる。
野菜を取っては洗い、洗っては取るを繰り返す。野菜が終わったら水を取り替え、衣類に取り掛かる。指先の感覚はとうになく、手首から先が自分のものではないようになる。自分のものではないようになると、あとは気楽なものだ。手が勝手に仕事を進める。
ギレルモはこうした仕事が好きで、嫌いだ。好きだというのは、仕事をしている間は自我の消滅した無に浸っている瞬間が訪れることがあるから。嫌いだというのは、そうした瞬間に至るまでには止むことのない自省と迷妄と杞憂の念がギレルモをさいなむからだ。
手で洗い物をし、目でそれを見つめるあいだ、ギレルモの心中では常に問いかける自身の声が鳴り響いている。こちらが聞くことに慣れてしまったように、むこうも飽きることを忘れてしまったようで、いつまでもいつまでも心の声はギレルモを責め、苦しめ、不安にさせ、絶望させる。
声はやるべきことがあるんじゃないかと話しかけてくる。姉を探すんじゃなかったのか? 金を貯める必要があるんじゃないか? お前はそんなにお人よしか? もっと強くなる努力をするんじゃないのか? それとも安穏に暮らす思案は働かせないのか?
うるさいな、とギレルモが返す。努力はしている、考えてもいる。俺は働いている。これはギレルモの声であり、ギレルモの声でない。この声もまた、勝手にケンカを買うもう一つの声だ。本物のギレルモはただ、体を動かしながら二つの声を聞きたくもないのに聞いている。まるでカウンターで一人で呑んでいるとき、自分を挟んで二人の酔っぱらいが怒鳴りあっているかのようだ。
未来を攻撃してもだめだとわかると、問いかける声は過去の幻影に姿を変える。荒れ狂う嵐と逆巻く海、船から身が飛び出した瞬間の感覚。投げつけられた小石の痛みと高い料金の残飯の味。全てお前に力と金がなかったからだ、だからこそ今のままでいいのかと声は攻め立てる。こうなると言い返す声も反論がない。暗く物悲しい幻痛にじっと耐えていると、向こうの声も止む。なんとなれば三者の中に勝者はなく、全員が同じ苦痛を今また体験しているからだ。
ここまできてようやく、ギレルモは虚無の境地に至る。それは心地よい虚無であり、空虚であり、空白だ。空間と時間が知覚されなくなり、頭の働きが白か黒に統一される。眠る前と目覚める前の一瞬の浮遊感。これを待ち望んでいるのに、その一瞬に至ったことに気づけず、過ぎ去ってようやく気づく。
そうしてその一瞬は過ぎ去り、空は白み、衣類は干し終わっている。ため息が出る。
時刻は五時ちかくといったところだろう。ギレルモは体を伸ばして骨を鳴らし、箒を手にして店の正面へと向かう。
掃き掃除はわりあいに意識が散漫となる。ぼちぼち海鳥も鳴きだし、表通りにもちらほら人影が現れだす。
偶然、派手な民族調の帽子が通りがかるのが見えた。まぎれもなくトリスだ。これから朝一の市場に行って仕事の材料を買い込むのだろう。お互いに手を挙げると、トリスは去っていった。あと二時間もすればいつもの如くかばんをパンパンにして朝食を食べにくるだろう。
合鍵を使って店の正面扉から入ると、昨晩の宴会のままに時間が止まっている。無数の酒瓶、食いかけの料理、化粧品と薫香と汗と油の匂いが漂ったまま、人だけが居なくなっている。今日に備えるため中座して床についたギレルモだったが、どうやら無事盛況のままに終わったようだ。
ソファではアロディとネオが姉妹のように肩を貸しあって寝息を立てていて、その足元ではケニーが酒瓶を枕に酒瓶を抱えて眠っている。彼の眉は逆八の字に寄っているが、口は締まりなく緩んでいる。酒の海で溺れる夢でも見ているのだろう。三人の眠りを妨げないよう、そっと毛布を掛けてやる。
早起きだとこういうことはよくあるが、ギレルモに他人の寝顔を伺う趣味はない。角もない頭の平たい顔なんてどいつもこいつも似たりよったりで好き好む以前の問題だ。けれども穏やかで満足げに眠っている彼らの顔を見ると、こちらも穏やかな気持ちになるのは確かだ。
ル・ロウドには申し訳なく思うものの、やはりこうした暮らしが自分には合っているとギレルモは思う。
誰かのために何かをすること。親切は人のためならずというが、まさしくギレルモは自分自身のためにおこなっている。それがギレルモの生きるための術であるから、別段親切だとも思っていない。己に何もないから他者に何かをするのだ。ギレルモの器は極めて小さいから、大志とか野望とかいったものは到底入れることができない。抱こうと思ったこともない。たぶん、その方がいいのだろう。そう思い込んでいるのか実際にそうなのかはわからないが、命あっての物種だということだけは間違いない。燕雀いずくんぞなんとやら――小人には小人の生き方がある。欲するものを求めるのではなく求められるものを欲せよとはよくいったものだ。
それに、人にかかずらっていれば己のことは気にならない。シンプルだが、味わい深い事実には違いない。
そんなことをぼんやりと考えながら瓶を片付けたり机の染みを拭いたりした。残りは皆が起きてからにするとして厨房に向かおうとすると、まなこを擦りながらあくびをするミトと出くわした。これから朝練に行くのだろう。彼らを起こさないようにジェスチャーでおはようを告げると、むこうも頷いて手を振って出ていった。
厨房で先ほど洗った野菜を刻み、ランチ用のサラダとスープを作る。メインのパスタは――今朝は風が凪いでいたから魚が取れたろうし、アクアッパッツァ風にするか――漬物が少なくなってきたからそれも買わなくては――あと香辛料も――それから――そんなこと考えながら手を動かしていると、半分に割ったタマネギが転がって床に落ちそうになった。慌ててタマネギを右手の包丁で上に向かって弾こうとした、それは何の気なしに行った行為だったが、コントロールをあやまった包丁はキッチンのへりに弾かれて手を逃れ、重力に身を任せた。ズドン、という音で突き刺さる。何に? 怖くて下は見れない。止めた息が苦しくなるまで待って、足から痛みが来ないのを確認してから見る。果たして包丁はサンダル履きの指先わずか一寸の先に刺さっていた。
息を長く長く吐く。運が良かった――まな板の中央でタマネギを切っていれば、それか軽はずみに包丁で戻そうとしなければ、あるいは包丁を強く握っていれば、そもそも調理中に気を抜かなければ、せめてサンダルではなく靴を履いていれば、ここまで冷や汗をかくこともなかった。しかし最後の最後のところで、愚かなギレルモを救ったのは運だった。
運。思えばギレルモはこの運というものに支配されてきた。力でもなく金でもなく、運に。
いくら力があろうとも病気には敵わず、いくら金があろうと事故に遭えば使う暇はない。結局どこまでいってもダイスの目が良いやつが勝ち、悪いやつが負ける。ギレルモは自分の運が良いとも悪いとも思わない。良ければこんなところで生きてないし、悪ければどこでも生きていない。
だからギレルモが好きなのは、運に左右されないことだ。そういう意味では料理も掃除も洗濯もおおむね運には左右されない。賭け事に勝ったときの興奮は嫌いではないが、仕事を終えたときの満足ほど長続きはしない。我ながら堅実で安上がりな生き方を選んだものだ――だからこそ冒険者を続けている自分に驚くことがある。理由はいろいろある。金を得るため、姉を探すため、仲間たちのため――だが、理由があろうとなかろうといいのだ。ギレルモは一つの信念に全霊をかけて全うするほど若いつもりはないし、冒険ができないほど年を取ったつもりもない。全ては流れる方に流れてゆく。運を信じて天に任すとき、それは運命となる。運命を前にギレルモができるのは、下手な考えを止めてただ眼前なるものに尽くすことだけだ。さしあたっては、命長く明日の日を拝むために、朝食のサンドイッチを完成させることだ。
厨房の壁時計が音を鳴らす。午前六時。日が顔を出す。静かに寝ていたアンヘリエルが目覚めて大声でおはようを言うだろうから、それを押し止めて皆を起こさないようにしないといけない。そして、あわただしく騒々しい一日が今日も始まる。まあ、悪くない。
最終更新:2021年05月09日 13:31