「星を見に行きたいの」
小見島つつじは開口一番にそう言った。逸見歩がその意図を掴みかねて眉根をひそめると、つつじは矢継早に続けた。
「この週末は秋晴れですごいいい天気って予報じゃん。だから天体観測に持ってこいだと思ったんだけど、家のまわりだと街灯とかよそんちの電気とかでまぶしくて。それで山なら星を見るのにちょうどいいと思ってね。だからさ」
そこまでくれば歩にも得心がいった。だからこの小さな先輩は歩を見つけるなり全速力で走ってきたわけだ。詳しい話は放課後にするとして、まずはお引き取り願うことにした。隣にいるクラスメイト達の好奇の視線が恥ずかしい歩だった。
小見島つつじは歩のご近所さんで、歩より一つ年上である。幼いころのつつじは町内のガキ大将で、その印象は今も変わらない。おままごとやお絵かきより外遊びが好きだった歩も一緒になって遊んだ記憶がたくさんある。中学に上がって陸上に打ち込むようになってからは次第と疎遠になっていったが、どういう巡り合わせか同じ高校でまた顔を合わせてからは以前のように言葉を交わすようになった。
放課後、再び来襲したつつじに引っ張られ、天文部室兼倉庫で話をした。他に生徒の姿はない。天文部の主な活動時間は土日休日なので当然といえば当然なのだが、そのあたりの事情はワンダーフォーゲル部も似たようなものなので不思議と親しみを覚えた。
五時からバイトだから短めでお願いと歩が言うと、ただでさえ立て板に水なのがいよいよもって氾濫寸前の河川のようになってしまったので歩は少し面白くなってしまった。さらに急かしたらどこまであわただしくなるのだろう――この愛らしい生きたティディベアのような生き物を可愛がるのも魅力的だったが、彼女の話が進むにつれて歩の興味はその内容の方に移っていった。
次の土曜日、つまり明後日に光害の少ない山頂で天体観測をしたい。しかし急なスケジュールで他に参加者はいないし、一人で夜間の山は心細い。そこで今年からワンダーフォーゲル部に入部し何度か山中泊の経験もある歩に一緒に行ってもらえないかと白羽の矢が立った……ともすればわきにそれがちなつつじの話を要約すると、以上のようになった。
急の頼みではあったが、つつじは知らない仲ではない。むしろ一方的に距離を置いていたというような負い目を感じている歩に昔と変わらず気軽に声をかけてくれたことが嬉しかった。それに最近買ったアウトドアグッズの使用感も実地で確かめたくもあったし……。
そういう訳で歩が快諾すると、つつじは文字通り欣喜雀躍という感じで喜んだ。場所とかはこっちで決めておくから任せて!とつつじが胸を張っていた。どうやらしっかり天文部部長をこなしているらしいということがわかって、歩はまたほほえましく思った。
次の日、バイト終わりにスマホを見るとつつじから明日の予定についての連絡が届いていた。明日の昼前に歩の家に集合、路線バスを二回乗り換えて郊外のキャンプ場に到着、キャンプを設営してから日が暮れる前に近場の山の山頂を目指すという運びのようだ。山頂で夜を明かすんじゃないの?とたずねると何かあったら怖いから、と返ってきた。確かに人気の少ない山中とはいえ不審者があらわれるかもしれないし、野生動物が出ないとも限らない。だとしたらキリがよいところで引き上げるのも良い判断だと思えた。とはいえ夜間の下山もそれはそれで危険なのだが。それを伝えてちゃんと懐中電灯を忘れないようにと念を押すと、さすがワンダーフォーゲル部だねとの返信。続けて多分眠くなってるから頑張るとも。まあ冗談だろうとこの時は思っていた。
かかった経費は活動報告を提出すればいくらかは部が補填してくれるかもしれないとも書いてあって、万年金欠の歩にとってはかなり助かる話だった。むこうから持ちかけてきた突発小旅行だとはいえ、方々抜かりなく計画を進めていることが文面からも伝わってきて、今度は真剣に感心させられもした。
準備は朝のうちに済ませるとして、歩は早めにベッドに入った。ベッドの横のカーテンを開けると歩の部屋からでも夜空に浮かぶ星が見える。これまで何度かキャンプしてきて星を見上げることはあった。確かによく見えてきれいだとは思ったが、それでもいま寝転びながら見ている夜空の延長だという感覚は拭えなかった。しかし、明日はわざわざそれを見るために山へと登るのだ。普段と違う山登りへの期待とわずかな失望への予感に根差す不安を抱きながら、歩は眠りについた。
「おはよー」
「おはよ」
そして来たる土曜日の午前十一時、のどけき陽光差すなか自宅の門前で待つ歩のもとへ自身と同じサイズのかばんを背負うつつじがやってきた。簡易テントや携帯コンロといったかさばる荷物は歩が持っていく手筈になっているのだが……何をそんなに持ってきたのか不思議でならなかったが、それを問う前につつじは歩き出してしまった。まあ、聞く機会はいくらでもあるだろう。
乗り換えのバスを待つ間にチェーン店のカフェで昼食を済まし、二時ごろには予定のキャンプ場に着いた。東西を山に挟まれ渓谷となった河原のそばのキャンプ場はそれなりに人も多いようだ。
つつじに見守られながら歩が手早くテントを広げる。設営はものの十五分ほどで終わり、二人は山登りに向けて荷物の整理を始めた。歩が山頂で使いそうな折りたたみイスやブランケットを登山リュックに詰め直す横では、つつじが缶詰やレトルトの箱をうず高く積み上げて夕食の吟味をしていた。どうやら荷物の大半はこれらの食品だったようだ。
「そんなに持ってこなくてもよかったのに」
「だって何が一番食べたくなるかわかんないから」
つつじらしい回答だった。結局持っていく食料は定番のカップ麺を中心に厳選され、リュックはずいぶんとしぼんだ。
準備が整い、しばらく不在にすることをキャンプ場の運営に言い残してテントを後にする。いよいよ出発だ。目指す山頂は川の向かいにある標高700mちょっとの山。高尾山より少し高いくらいだから初心者であっても三時間もみればまず余裕、少なくとも日が沈み切る前にはてっぺんにたどり着けるだろう。
此岸と対岸をつなぐ細い石橋を渡って登山道の入り口に立つ。日はすでに山の影になっていて、背の低い草木は一足先に秋の木下闇に消え入ろうとしている。少し不気味で、ともすれば異界にでもつながってそうな雰囲気すら感じる。ここに古ぼけた鳥居でも立っていたら、歩は山に踏み入れるのを躊躇していたかもしれない。しかしつつじは臆することなくずんずん進んでいった。歩も後になってついてゆく。
山に入ってしまえば一転、影と光の交錯する幻想的な回廊が二人を待ち受けていた。薄暗いといっても見通せないほどではなく、かえって透き零れてくるなめらかな光線が森のあちらこちらを照らしている。早めの落ち葉がまだ雨や朝露に湿っておらず、ざくざく踏む感触と音が心地よい。
森閑とした小道に二人の足音が響き、ときどき交わす話し声がそれに混ざる。なだらかであるとはいえ登りなのだが、前をゆくつつじのペースは変わらない。体格の差があるから彼女に合わせなくてはならないかもと歩は考えていたが、それは杞憂だったようだ。
「懐かしいよね、昔もこうして山を歩いてさ」
つつじがイガイガのついたドングリを拾い、こちらにほおる。放物線を描くそれを強く握らないように歩はキャッチする。
「あげるよ、それ」
「いらないよ」
歩は投げ返す。
「覚えてない?ちっちゃい頃さ、近所の公園でドングリ拾ったらつつじちゃんのがいいって。いいよってあげて、別のやつを拾うとそれも、それもってさ。」
「そうだっけ?」
ドングリはしばらく二人のあいだを往復して、やがて草むらに落ちて消えてしまった。
「あたしのものは何でも欲しがったからねー、石でも木の枝でもお菓子でも」
「よく覚えてるね」
つつじは変わらない。変わらないというのもおかしな話だが、少なくとも歩の目からは姿も心も――まあ確かに多少成長しているとはいえ――小学生の時に追った彼女の背中と変わらなく見えた。変わったのは彼女を見る視点、歩の方だ。背が伸び、世界が広がったはずなのに狭くなり、単に遊ぶために外に出ることがなくなった。
変わったら戻れないものだと思っていた。時が戻らないように、一度変わってしまうと戻れないのだと。歩は自分が変わるたびに前の自分を捨てて、どこかに置いてきているような気がしていた。
何かを捨てるときには、二つある。いらないと思って捨てるときと、気づいたら失っているときだ。歩は自らの意思で陸上を捨てた。そこに後悔がなくはないとはいえ、納得はしている。
しかし、そのさらに前、幼かったころの自分は知らず知らずのうちに失っていた。欲望とは不思議なもので、手に入りそうなものほど欲しくなる。手に入らないものほど欲しくなる。失ったものほど欲しくなる。だが、欲望の極み、決して手に入らないものはかえって欲しくなくなるーー到底到達不可能な望みを抱いても、己が身を焦がすばかりだからだ。歩の幼かった頃の自分とはそういうものだった。そのことをいまの歩も理解していたから、つとめて意識しないようにしていた。
けれども、今ふいに、幼いころの歩はつつじのなかでありし日のままにあることに気づいた。そしてきっとこれからもありつづけるだろうことも。
歩は悔しさを覚えるよりも、安堵した。失ったけど、なくしたのではなかった。どこかにありつづけるならそれで充分で、自分で持っている必要はない。それに、他ならぬつつじが持っていてくれるなら、これ以上の安心はない。
「ねえつつじ」
歩は立ち止まって、先をゆくつつじを呼び止める。
「なあに?」
つつじが軽快に身をひるがえす。あの小さな体に、どれだけの夢と希望が詰まっているのだろうか。それこそ宇宙と同じくらいかもしれない。
「誘ってくれてありがとうね」
「なぁに、いまさら?お礼を言うのはこっちでしょ。変な歩」
笑いながらくるりと回り、坂を駆けてゆく。
山頂からの眺めも空に浮かぶ星座もまだ見てないけど、視野が広がった気がする。秋の木の葉と夕暮れの風がさわやかに感じる。気持ち軽くなったようなリュックを背負い直して、つつじを追った。
山腹を登り切り尾根に出たところで小休止を挟むと、山頂まではもうわずかな道のりだった。日はかなたの稜線の向こう側に落ちていて、この時間ともなると山頂に他の人影はない。
木々の開けた場所にイスを並べ、携帯コンロに火をつける。東の空にはちらほら星が出始めた。お湯が沸くまで二人は夕日の残滓と迫りくるビロードのような夜の帳、その隙間にある細い細い無数の色の帯を眺めていた。
あゆみは醤油のカップ麺を、つつじはシーフードのカップ麺を食べた。食べている最中も、食べ終わってからしばらくも二人は言葉を発しなかったが、それが自然なように歩には思われた。
やがて空が全き濃紺に染まってちりばめられたる白銀黄金(しろがねこがね)の粒が数えきれぬほどになった頃、つつじはそれらの見かた探しかた結びかたを歩に教えはじめた。正直なところそれらの半分はよくわからなかったしきっと明日には忘れてしまうのだろうが、一生懸命に、それでいてこの上なく楽しそうに話すつつじに引っ張られて歩も自分の線を幾筋も自分の空へと引いた。それが少しでもつつじの空と似ることを願って。手や頬を刺す空気はなくなったかのようだった。
レクチャーも一段落し、二人は固まった体をほぐすため立ち上がった。つつじは天に両手を挙げ、浮かび上がるかのように伸びをした。そうして上を向いたまま、しばらく考えていると、口を開いた。
「ねえ歩、お願いがあるんだけど」
「いいけど、なに?」
「肩車して欲しいな」
「唐突だね」
つつじの体は軽かった。それでも一緒に見上げようとするとバランスが難しいから、目だけで上を見る。
「あまり暴れないでね」
「いやーでも安心感がすごいよ」
つつじも真上を見上げているようだ。両手で歩の頭を掴みながら、ちょっと左右に揺れてみせている。お返しにだんだん前傾してゆくと、ごめんごめんとしがみついてきた。
「でもなんで肩車?」
「歩はさ、『あの星をとって欲しいと子がねだる』みたいな俳句?川柳?って知ってる?」
「ごめん、わかんない」
「あたしも前部長から聞いただけだからちゃんと覚えてないんだけどさ、さっき伸びしたときにもう少しで星に手が届きそうだと思ったの。だから肩車してもらえばいけると思って」
「そんなに変わらないでしょ」
「いや、とれそうだよ」
「嘘でしょ」
「じゃあとれても歩はいらないね?」
「……とれたら、欲しい」
「そういうと思った」
つつじはいたずらっぽくからからと笑った。歩は少しむっとして言い返す。
「ほら、早くとってみせてよ」
「いいよ、じゃあ右に二歩動いて」
位置を微調整したあと、つつじの右手が頭から離れる。彼女が全身で伸びようとしてるのを感じて、歩も少しかかとを浮かす。
「よし、とれたよ」
「……嘘でしょ?」
「ほんとほんと。じゃああげるよ」
つつじの右手は両目のあいだを降りてきて、鼻を通りすぎ、歩の唇に触れた。困惑する間もなく星が口のなかに入ってきて、舌に当たる。丸くて固い星は甘くてちょっと酸っぱかった。
「……これは?」
「赤色巨星りんご味」
「そんなことだろうと思った」
つつじの笑い声が降ってくる。歩もつられて笑顔になる。
「今日のお礼。本当に感謝してるんだよ」
「だったら素直にくれればいいのに」
「ふーん。……もういっことれたけど欲しい?」
「……欲しい」
「はい、つぎはグレープ彗星だよ。まだまだいくらでもとってあげるからね」
「さすがにもういいよ」
歩は夜風の冷たさと、つつじの重みと、星の明るさと、飴の味をしっかり覚えていようと思った。今日の自分を見失ってしまわないために。これからの人生のなかでついどこかへやってしまっても、また星が欲しいと願えば見つけ出すことができるように。
つつじも自分の口に飴を入れたのか無言になる。ずいぶんと冷え込んできた。でも、飴がなくなるまでは、まだ星を見ていてもいいだろう。歩は、おそらくつつじも、そう思っていた。
最終更新:2023年09月17日 00:37