女王の孤独

拳闘奴隷の雑居房と聞いて、ただちに浮かぶイメージは刑務所のそれだろう。暗く冷たい石造りの廊下、そこは清掃の行き届いたためしがない。一つ一つの部屋はまさしく房というにふさわしい狭さで、建築士も大工も家畜小屋を作るのと同じくらいの気楽さで建てたのだろう。壁から染み出た汚水、吐瀉物と分泌物と排せつ物、怒号とため息と怨嗟の声とすすり泣き、失われた過去とあろうはずもない未来の混ざりあった地獄の一丁目一番地。……そういったものを想像するに違いない。そしてその想像の大部分、いや、ほぼ全ては当たっている。
しかしながら、その房のまわりだけは違っていた。昼まだきとはいえとっくに昇った陽が小さな小さな窓から差し込むその先、その房からは豊潤な香りが漂ってくる。花の香り、スパイスの香り、精油の香り……武骨で不愛想な造りの房にはあまりにもミスマッチな香りは空気の色を極彩色に、壁をなめらかな大理石に、床を毛羽立つ柔らかいマットに変えてしまうかのようだ。
その香りの奥、狭い室内の狭い寝台には規則的に上下する緑の小山がある。床を這う光がその小山に差し掛かると小山の動きは緩やかになり、やがてほどけていって、中からは一糸まとわぬ赤髪の女が大あくびをして現れる。天に向かって褐色の両腕がしなやかに伸びてゆき、指先がくるんと一回転してぷるぷると震える。小山を成していた長く太い尾が別の生き物のようにどろどろと床に垂れて、上体をふわりと浮かすとゆらゆら揺れながら房を出てゆく。
雑居房の狭い通路をほとんど埋め尽くしつつ、彼女はゆるゆると進む。一つ一つの房の前を過ぎゆく度に声がかかるーーやあおはようジュジュちゃん、ずいぶん良く寝てたじゃないか。ーーようジュジュ、昨日はお休みだったそうだがゆっくり出来たか。ーー眠そうだな、水でも飲んでシャキっとしてきな。ーー今朝のスープは旨かったよ。まだ残ってるといいな。……まるで商店街を歩く評判の若奥様といった感じだ。ジュジュと呼ばれた彼女も軽く受け答えを返しながら雑居房の端の扉から消えた。きっとブランチでも食べに行くのだろう、その時もきっと、小汚ない食堂を通りに面した明るいカフェに変えてしまうのだろう。

日が暮れかかるとともに空気中の酒の香りが濃くなってゆく。その発生源は数多く立ち並ぶ露天の飲み屋であり、それらの中心にコロシアムは存在する。
一日の労働を終えた日雇い人夫や商人たち、あるいは有閑を抱えて日没をいまかいまかと待っていた紳士淑女たちが常連一見分け隔てなくコロシアムの入り口をくぐってゆく。VIP席も立ち見の列も埋まりきって退屈な大道芸にヤジが飛び出した頃、その日の本当の興行……いや、”見せ物”は始まった。
屈強なドワーフと背の高いリルドラケンが組み合って殴り合う。マギスフィアを用いてコロシアム中に響くハイテンションな実況。ドワーフの拳に鋭い鱗が刺さって血潮が飛ぶ。歓声。叩きつけたリルドラケンの尻尾は捉えられ、普段とは反対に折れ曲がるとともに悲鳴が上がる。また歓声。トロールとグラスランナーの悪意あるマッチアップは何度行われてどのような結果になろうと面白い。ゴブリン5人がゴルゴルに追いたてられる様子が狂った笑いでもって肯定される。ヴァンパイアのなり損ないとバジリスクの出来損ないが試合の範疇を超えて本気の死闘をし、止めに入ったジャッジも巻き込んで大怪我を追う。大いなる拍手がいつまでもコロシアムにこだまする。
低俗で下劣で野蛮で非道、だからこそ最も愉快で愉悦な宴がここでは毎晩の如く繰り返されている。その宴も佳境に差し掛かる頃、コロシアムで一、二を争う人気者が姿を現す。
《次の試合は基本に帰って『一対一・武器や凶器の持ち込み禁止・時間無制限』のルールでいくぜ。…そしていよいよ!皆々様お待ちかね、あの『悪逆女王』ことレスタリヴァーサ・ジュジュワルド、ジュジュちゃんの登場だァ~~~~!!》
実況の呼び出しとともに赤髪半裸半身蛇体の美女がコロシアムのグラウンドに歩み出てくる。突如建物を揺るがさんばかりの「ジュジュちゃん」コール。彼女が手を振るとそれはどんどん早くなってゆき、何を言ってるかも聞き取れなくなって、最後にウォオオォオ~~~~~……とどよめきに変わっていった。
彼女こそがジュジュワルド、雑居房をおしゃれなアパートのように住みなすその人だった。彼女の前には今、そう遠くないところに筋骨隆々の若きオオカミのライカンスロープがイライラした様子で試合開始のゴングを待っている。にも関わらずジュジュは変わらない調子で馴染みの客に挨拶したり、投げ込まれた花束を拾っては投げキッスを返したりしている。これもショーの一部なのだろう、ジャッジもニコニコしながら眺めている。この場で不満をあらわにしているのはライカンスロープ一人だけだった。
その彼にとって気の遠くなるほどの時間の待たされた後、ジュジュワルドが歩み寄ってくる。距離は2,3メートルほど。彼女はライカンスロープよりも頭ひとつ低くなるように上手に蛇体を折り曲げると、ゆったりカーテシーの真似事をして、上目遣いに秋波を送った。まるでこれから血みどろの争いを行う相手に対する挨拶であるとは思えず、彼はうろたえた…しかしすぐに敵意丸出しに喋りだした。
「オレはな、オレの村では一番の狩人で一番の戦士だったんだ。ついこないだこんなゴミ溜めみたいなトコにぶちこまれるまではな。ジュジュちゃんだかなんだか知らねえが、決闘の場を酒場の舞台かなんかと勘違いしてるオンナに負ける気はサラサラねえんだよ」
ジュジュは目を見開いて両手で口許を隠し、よよよと泣き崩れた。いかにも芝居臭い。当然彼の怒りは増すばかりである。
「いかにこれから戦う相手だからとはいえ、そこまで嫌わなくてもよろしいではございませんか……。せめて自己紹介だけでもさせてくださいまし、私の名前はジュジュワルド、このような細腕ですがなんの因果かいち拳闘士として皆様のお相手を務めさせていただいております。何卒ご容赦を」
そう言ってジュジュはもう一度ゆったりお辞儀する。「それで、あなた様のお名前はなんと……?」
「ああ、それじゃあ教えてやるよ。オレはウルブエ村のーー」
ライカンスロープは背中に固いものを感じた。何だ?目の前に女はおらず、明かりが見える。何でだ?踏ん張りがきかない。息ができない。どうしてだ?
ほんのわずか一瞬の逡巡ののち、自分が倒れていることに気づく。後頭部の痛み。腹に強烈なブローを食らった感覚。全身が一日中泳いだ後みたいに重たい。
体当たりを食らったのだ。あえて上目遣いにしてたのも蛇体を折り曲げていたのも、バネのように飛び出すための布石にすぎず、あのふざけた態度はカモフラージュに過ぎなかったのだーーそうに違いなかったが、たとえ虚をつかれたにしても、あまりに速い砲弾のような突撃であった。
「テメッ……フザケやがって……!」
喉に、関節に、四肢の先に緑の太い綱が絡み付いている。振りほどこうにもジュジュの蛇体の重量と力む起点を押さえられているせいで、力を込めれば込めるほどかえって自分の身体が締め付けられてゆく。爪を立てようにも届かない。
「ごめんなさいね、わたしこういうやり方しかできなくって」
馬乗りになったジュジュが本当に申し訳そうな顔をしながら覗き込む。
彼女の柔らかな指先がライカンスロープの毛だらけの胸を、二の腕を、下腹部を、急所を撫でてゆく。ライカンスロープは酸欠も相まって、わずかに身じろぎするほかに反応できない。
「それでどうしようってンだよ……このまま絞め落としておしまいってワケか?」
彼は苦し紛れに憎まれ口を叩く。ジュジュは目を丸くして驚き、ーー彼に顔を寄せて淫靡に微笑む。
「そんなわけないじゃない」
直後にライカンスロープの絶叫が響く。
《おおっとどういうわけだァ、狼男の太腿にブッとい釘が刺さってるぞお!あァっ!今度はソイツを引き抜いて胸元をガリガリ引っ掻き回して…ひゃ~見てらんないねェ!》
わざとらしい実況に観衆たちはひときわ大きな歓声を上げる。
「なんだよテメエ……!ルール違反だろうがあッ!」
命の危機を感じてだろう、より一層の力で暴れるライカンスロープ。しかし尻尾の締め付けが緩む様子は微塵もない。
「あら、あなた勘違いしてるわよ。この釘は”たまたま”花束の中に入ってたの。このハサミも、この金づちも……あらあらどうしましょう、まだまだ花束はいっぱいあるわ」
ライカンスロープの顔色が青ざめてゆく。自身のそう遠くない未来がどういうものなのか、見えてしまったのだろう。
「わっ…わかったッ、降参だ、降参するッ、降さっーー」
彼の悲痛な声がジャッジに届くものになろうとしたその瞬間、ジュジュの尻尾の先端が彼の喉の奥深くまで入り込んだ。吐き出そうにもむせることさえ出来ず、噛みきろうにも開ききった顎に力は入らずーー声を出すことなど到底不可能だった。
吐き気と痛みと恐怖で目尻に涙さえ浮かべつつある彼に、ジュジュは再び微笑みかける。
「それにね、もう一つ勘違いしてるの。これは決闘じゃなくてね、”ショー”なのよ」
彼女が観客たちに向けて合図を送る。再びジュジュちゃんコールが沸き上がり、今度は花束の代わりに廃材が、鉄片が、工具が投げ込まれる。ジャッジが小型拡声マギスフィアをジュジュの口元に近づける。
「みんな、今日もいっぱいありがと~!みんなも一緒に楽しもうね~!」
活気、どよめき、狂喜。まだまだ彼女の舞台は始まったばかりだった。

すべての興行が終了しやがて日付も変わろうとする頃、コロシアムのある一室で幾十人かの男と幾人かの女がそわそわしながらソファに腰掛け、あるいは壁に寄りかかりながらたたずんでいる。彼ら彼女らはいずれも、ジュジュワルドに”一定額”懸けた者たちだ。みな自分の持つ木札の番号を見つめ、その時が来るのを待っている。
そして無愛想な使用人が扉を開き、手短に告げる。
「27番」
立ち上がったのは成人して間もないであろう、人間の青年だ。やったじゃないか、気張ってきな坊主、そんなヤジで紅顔の面影を残すその頬をさらに赤く染め、緊張に固まりながら使用人に木札を渡す。使用人は首だけで扉の奥を示すと、そこにはジュジュワルドが控えている。ジュジュは片手に手燭を掲げ、片手で青年の手を引いてコロシアムの闇のどこかに消えてゆく。残された者たちは三々五々に散り、次の機会を待つ。

ジュジュワルドは聖女のようだ。それが過言であるというなら、敬虔なシスターのようだというぐらいであればもはや首を横にふる者はいない。
しかしなぜただの拳闘奴隷にそのような印象をうけるのか。それはきっと彼女がいつも無私だからに違いない。ジュジュは自分に手を振ってくれるものに笑みを返し、自分に金を賭けてくれるものに勝利をもたらし、自分を一晩買ってくれるものに悦びを与える。
だからこそ、ジュジュは誰のものでもなかった。金満で醜い中年男のものでも、彼女を掃き溜めから救いだそうと手を伸ばす好青年のものでも、そして彼女自身のものでもなかった。あえていうならコロシアムという「人を悦ばせる」施設の、際立って突出したいち器官に過ぎなかった。

薄衣をまとい満足げに眠る青年の頭を撫でながら、ジュジュワルドは夜明けを待つ。こうした時にジュジュは、この人が普段どのように暮らしてどのように生きているのかに想いを馳せる。両親はどんな人なのか。どんな幼少期を送ったのか。何を生業としているのか。家庭はあるのか。……決して本人には直接尋ねないし、幼い頃から私娼としての教育を受けてきたジュジュには想像もできないだろうが、だからこそ彼らが住まうであろう未知の世界がどんなものであるか気になった。
このコロシアムに拳闘奴隷兼娼婦として買われてそれなりに長い時間が経った。九割九分を差し引かれる彼女の給金も、そろそろ一般奴隷の権利を貰うのに届きそうなほど貯まってきた。
貯まってしまったら、わたしはどうなるのだろう?わたしはわたしのものになる。わたしがわたしのものになったら、わたしはもうわたしではなくなる。そうしたら、わたしは……。
いつもそこまで考えて、ジュジュは考えるのをやめる。わからないや、きっと何があっても、わたしはわたしだ。
火を灯した香が尽き、香りが薄らいでゆくが、夜はまだまだ明けない。次の香を選びながら、ジュジュは唯一知っている子守唄をか細く楽しげに歌う。

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最終更新:2023年09月18日 15:06