久しぶりに足をあずけたロンドンは、またただの外国に顔を戻していた。二年前にこの地を離れる時、すっかり愛着の湧いた友と惜しみ合いながら別れたような印象ではあったが、時間は僕が思うよりもずっと早い速度で、いろんな物を巻き込みながら過ぎていたらしい。
苦手なイミグレイションの前では外国人専用のラインに立ち順番を待つ。この国では毎回のように足止めを食らってしまうので、この決め事がどうしても好きになれない。目の前で、インド系の子供が長旅にうんざりしたのか、立ち並ぶ人の間をくぐり抜ける遊びを始めた。そしてその子供の父親らしい人物がなにやら声をかけている。おおよそ注意をしているのだろうという状況ではあったが、男は次に英語で𠮟った。最初の注意は子供に対して、そして二度目の英語はまわりに対して「お騒がせしてすみません」という親としてのメッセージであると理解できた。いろんな人種が立ち並ぶこの外国人専用のラインに立つと、自分がひとりの異国人であると認識させられる。そしてなんのコネクションも作用しないこの入り口で二年前は二時間半以上もの足止めと質問を浴びた事を、ぼんやりと思い出していた。
当時イギリスは、1997年に香港が中国に返還されるという事実などの追い風を受け、外国人の不法在住で深刻になっていた。また日本のビジネスマンの多くがワーキングパミットを申請せず観光ビザで入国を繰り返すため、イギリスの玄関であるここヒースロー空港では日本人や香港人を取り締まるプロモーション期間中であり、その真っ只中で平然と半年間の滞在を求めたからであった。
先程まで走り回っていた子供の左腕をしっかりと捕まえた男が視界から遠ざかり、ぐるりと見渡したイミグレイションのカウンターに空きができた。こちらにおいでとばかり指を二、三度倒してくれたのは、三十代後半の英国紳士であった。
先日会社から申請してもらい、取り寄せたワーキングパミットを差し出した。彼は隅から隅まで丹念にそれを眺め、先の丸くなった鉛筆で印をつけて行く。
前回、このカウンターで「日本に帰って下さい」と言われた光景が頭を過る。
「お仕事ですか?」
きっと凝結した氷細工のようになっていたであろう僕の顔に飛び込んで来た最初の質問であった。
「はい……」
「シンガーですか。こちらでレコード発売の予定はありますか?」
「いいえ。発売はしません。レコード製作だけです」
わずかなかけひきがあった。この国では仕事に就けない労働者が多いため、外貨を稼ごうとする恐れのあるエイリアン(外国人)への質問と警告であった。
「どういう種類の音楽ですか?」
「ポップスです。あ、ロックです。……のようなものです」
日ごろ、自分たちも答えに迷っている質問をふいに突き付けられ、困ったポーズをとって見せた。
「どうしてロンドンでレコーディングをするんですか?」
「イギリスの音楽が好きだし、ミュージシャンの友達がたくさんいるからです」
この質問はありがたかった。本心でもあるし、イギリス人の愛国心を誘う自然な答えだったからである。
「OK。良い音楽をたくさん作って下さい」
「どうもありがとう」
(どうだ、理解あるだろう)とばかりにウインクをする彼に、僕は親指を立てて返した。
また一から始まったような気がしたが、簡単にクリヤー出来た事で一気に緊張感が緩んだ。
前回も一緒に同行したスタッフの吉岡は、いち早く通過しており、あまりの早さに拍子抜けしていた。
「やっぱり、少なくとも一時間はもめてもらわないとつまんないですよね」
「そうだよな。大声で何か叫びながら、全力で走りだそうか。一斉に追ってくるぞ」
「やりましょうか」
「やめた、疲れる。それよりも迎えの二人が来てるはずだから、ここを出す前に一時間ぐらいゆっくりして行こうか。外で慌てさせようか」
そんな会話をかわしながら、軽く会釈してくれる日本人に会釈を返しながら、荷物の引き渡しロビーへの階段を降りた。
何げなく見あげたところにあった時計は17時30分を示していた。
荷物を載せたカートを押しながら、アライバルホールへ向かった。何らかのハプニングさえ無ければ、きっと出口には迎えが来てくれてるはずである。いつも思うのだが、この瞬間がとても楽しい。訪れる自分を待っててくれる人がいる。それだけで嬉しいし、ささやかな幸福感がある。
まるで夏の日の蟻のようなすみやかな列に沿って、アライバルホールへの出口をくぐった。空港独特のノイズの中、僕は大きな息をするように周りを見渡した。
「アスカさーん」
顔の確認もないうちだったが、声を聞いただけで安心した。
振り向くと、藤本さんと三橋が立っていた。
藤本さんは二年前、『See Ya』のレコーディングのときにすべてをコーディネイトしてくれた人物である。軽快なフットワークと頭の回転の良さに加え、何よりも英語力のすばらしさが彼の持ち味である。このたびリアルキャストの所属になり、リアルキャストロンドンの所長として活躍してもらっている。
三橋は、東京から送った僕の音楽機材や半年間の生活の下準備を、ひと足早くロンドンに飛び、やってくれている。弱冠二十三歳の真面目な優しい青年である。ありがたかった。
「ようこそロンドンへ、って僕が言っちゃっていいんですかね?」
三橋が照れながら言う。
「サンキュー。どうだい、慣れたかい、ロンドンは?」
「バッチリですよ。三橋くん、もう運転もロンドン人ですよ」
ロンドン生活四年目の藤本さんが三橋の背中を叩く。「何だかこの二人気が合ってるな」そんなことを思いながら、あらためて握手を交わした。
ターミナル1から4まであるヒースロー空港。ターミナル3での再会だった。
この国の夏は一日がとても長く、夜の10時を過ぎたくらいでやっと夜らしくなる。ロビーの窓からこぼれる日差しは、6時前にもかかわらず、建物の外から呼んでいるようであった。
長い地下を抜けた所に、駐車場はあった。ひときわ熱い陽光が帯のようにいくつも差して、その帯の中を、ちょうど電車が枕木の上を通過するようなリズムで、何度もくぐった。
「暑いな。ロンドンってこんなに暑かったっけ?」
「いえ、ここ二、三日、特別なんですよ」
カートを押しながら三橋が言う。車は駐車場の二階のエレベータを出た所にあった。荷物を積み終わると、僕らはドアの閉まる音をそこいら中に響かせ、レゴで組み立てたような駐車場を出た。
レンガ建ての街並みは、あのころと表情を変えず絵葉書のようにつづいていたが、何かが違って感じられた。「なんだろう」心の中で答えを探してみる。初めてこの国を訪れた時は、声が震える程に感動した。そして何度かの渡英を繰り返し、二年前初めて生活することになった時も、やっぱり同じであった。しかし、今回はどうしてだろう。この国を感じさせない気候、東京を思わせるような車の渋滞、簡単に通してくれたイミグレイション、何処か印象が違う街並み。
「街が歌ってないなあ」
思わず、ぽつりと独り言をこぼした。それは、同意を求める投げかけであったのかも知れない。
「あっ、いきなり詩が出てきましたね」
三橋が、バックミラー越しに覗く。
「やめてくれよ、少しでも仕事から離れたいんだから」
「無理ですよ。明日の夜、ジェスがアレンジの打ち合わせにアスカさんの家に来ますから」
藤本さんが、身を乗り出して当面のスケジュールを大ざっぱに伝えてくれている。
窓の外の風景をぼんやり眺めていた。
「ジェスか。早く逢いたいな」
ジェス・ベイリーとは前回『See Ya』のとき、僕の曲を一緒にアレンジし合った。ロンドンでの軽いライヴも、仲間を集めて手伝ってくれたミュージシャンだ。元スパンデューバレーのメンバーであり、最近ではシンプリーレッドのレコーディングに全面参加し、今は新人のプロデュースをしているらしい。
「あっ、それから今日、五十嵐のチカさんがバーベキューパーティを開いてくれてますから」
「チカちゃんか、またお世話になるな」
チカちゃんは、子供時代、福岡の実家から歩いて一分足らずの所に住んでいた姉妹の姉の方であり、ご主人の転勤でこっちで生活している。僕らが二年前に住んだ家から車で五分もかからないところに偶然住んでいた。何もかもが偶然の出来事であった。
今回、六カ月間滞在する家はフィンチェリーという街の西の方にある家で、三階建て4ベッドルームの住みやすそうな家であった。ひとまず荷物を置き、パーティへ向かった。
パーティは七時から始まってたらしく、玄関口で、裏庭の様子がわかった。
「わーっ、来たねぇ。待っとったっちゃがー」
チカちゃんが人懐こい顔で駆け寄って来る。
「元気しとった? またお世話になるけん」
チカちゃんと喋ると博多弁になってしまう。周囲はあっけにとられている。それがまたいい。
前回知り合った人達に挨拶をしてまわった。みんな変わってない。そんな最中に名前を呼ばれた。
「アスカ!」
懐かしい感じがした。そこにジェスが立っていた。
「ジェス! 久しぶり、来てくれたんだー」
思い切り握手を交わし、肩をたたきあった。メガネの奥の目がこぼれるくらいやさしい顔をする。
「突然の方がいいかなって思って、内緒にしてたんですよ」
藤本さんが二人の間で楽しんでいる。
「アスカ、日本での状況は聞いてるよ」
独特の、優しい喋り方は、英国紳士をそのまんま感じさせる。
「ありがとう。ジェス、痩せたんじゃない?」
「ああ、煙草の吸い過ぎと睡眠不足でね」
「そうか。じゃあもっと痩せるよ」
「知ってるよ、また朝までつきあうよ」
二時間程のパーティの中で、いろんな人達と話し切れない二年分を抱えて回った。ジェスとは明日の約束の時間を決め、別れた。その夜は、猛烈な睡魔に誘われるまま眠りにおちた。
次の日の夜、約束の時間にジェスが訪ねて来た。ひととおりデモテープを聞かせ、アレンジの組み合わせを話し合った。藤本さんが間に入り、誤解のないように言葉を選び足していく。
「良いものが出来そうだね、アスカ」
「ありがとう。あとはピィルティングを注意しようね」
ピィルティングとは、アレンジを作り上げる段階の事である。少しでもアレンジに違う周波数を感じたとき、何処でそれをイメージに持っていくか。ここが難しい。
「アスカ、前回は君のデモテープのイメージを壊さないようにやったけど、今回は僕のやりたい事をたくさん試したいんだ」
自信みなぎる顔でジェスが言った。そう言われると、頼もしくなる。
「もちろん。だからジェスとやるんだよ」
いろんなアイデアを語りだした。止まらない。「そうか、こんな事考えてたんだな」お互いのアイデアの出し合いで「じゃあこうしよう、じゃあこうしよう」がつづいた。話が終わったのは夜中の一時を回っていた。
その夜、二年前のことを思い出していた。イミグレイションでのトラブル。パスポートを取り上げられ、身動きが出来なかった時間。日本に強制出国させられる恐れがあったため、送った荷物をほどくことが出来ず、何日もの間ダンボールに囲まれて暮らしたこと。パスポートがないため車が借りられず、毎日の買い物に徒歩で出掛け、十二月の寒さの中、ビニールを握った手がちぎれそうだったこと。それとは別に、「音楽の街に居るんだ」という満足感。もし在住を許可されたら「思い切り楽しんでやるぞ」という気負い。不思議な程の人とのつながり。数限りなく頭を過った。その時、ふと昨日の昼間の答えが出た。
「街が歌ってないんじゃない、いろんな期待感、そしてトラブルが常に心を揺らしてたんだ。そして、その目がそう見させてたんじゃないか」
きっとそうだと思った。
今回は、すべてが用意されているという中での出来事であった。あまりに緊張感のない渡英であったために見ることができなかった蜃気楼であった。
その夜、もう一度"街が歌ってる"蜃気楼を見ることが出来るようレコーディングの期待を盛り上げ、心の振り子を揺らしてみた。
最終更新:2025年08月17日 20:59