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六月のやわらかい服を着て > 4

水に身体をあずけることがこんなに心地よく感じられたことはなかった。室内と言えど広い窓から充分に差し込む日差しで、プールの水面は夏の滴を一面に撒いたようにキラキラと輝いていた。その間を遠慮もなく人々が戯れ合う。久しく泳いでなかったので、最初は水を重たく感じたが、すぐに自分の身体のせいだと気づいた。ここ一週間ほど作詞の作業のために椅子に座りっぱなしであったため、まるで運動の機能を掌る神経がうまく反応してくれてないかのようであったが、精神的な余裕が気持ちを満たしていた。歌入れの作業に入る前に全曲の詞が揃っていたからだ。極度の頭痛に見舞われたことなど、もうはるか昔の出来事であったかのような時間を過ごした。
レコーディングに入る前に、既に詞が完成しているなどということはこれまで無かった。
しいて言うなれば、アマチュアのときに書き溜めた曲をレコーディングしたファースト・アルバム以来であろう。十三年振りにさわやかな風を受けることができたようであった。
これは持論ではあるが、頭の中には無数の扉があると思っている。そのひとつに詞を書く扉、曲を作る扉がある。そこにたどり着くまでに時間がかかり、またそれを開けるには粘りが必要である。重い扉を根気よく押し続けていると、あるとき扉が開くような気がする。例えれば、向かい風のなかで愛しい人の名を呼び続けていたとき、前を歩いている愛しい人が、ふと立ち止まって声の主を探す仕草をしてくれるような。そして目と目が互いの存在を確認することができれば、あとは互いが歩み寄れる。扉が開く瞬間である。
アートの業界でよく言われている言葉がある。「最高の作品が欲しいならば忙しくて時間の無い奴に回せ」。とてもよく理解できる。忙しい人は、もうすでに扉が開いており、そこにたどり着くまでの時間が要らないからである。ここ一週間はその扉が閉まらないようにひたすら机の前に座りつづけた。
プールから上がると吹き抜ける風が体をなぶった。八月ではあるが濡れた肌へのこの国の風は冷たかった。プールサイドに並べてある白い椅子に小刻みに駆け寄り、落ちる滴とカルキの臭いの体をバスタオルで包んだ。

今日はいよいよ歌入れのために、みんなが到着する日である。昨夜、詞が完成した後に東京に短いファックスを送った。
……心配かけて申し訳ありませんでした。が、しかし、急ピッチでどんでん返しあり。
 全作品の"詞"完成。互いに喜び合いたし。
ASKA……
それを受けて、朝には一枚のファックスが送り返されていた。
……オメデトウと言いたいが、ASKA落ち着け。夢から覚めろ。
 時間はまだまだ。心配するな。三曲完成してれば充分。
 あまり自分を追い込むな。
追伸 CHAGEの詞が全部揃ったと言うのは嘘です
REAL CAST一同……
話にならなかった。これまでのアルバム制作を振り返れば信じないのも無理はない。それよりもショックだったのは「二十六日にチャゲさんの詞が全部上がりました」と藤本さんから電話で伝えられたことが、なんとガセネタであったことである。
「やられたなあ」
ファックスを手にして呟いた。
到着したみんなと食事をすることになっていたために、六時半過ぎに藤本さんが迎えに来た。
「いよいよ歌入れですね」
シートベルトを締めながら、藤本さんが言う。
「ええ。ゴーちゃんも無事に来られてよかったよね」
「そうですね。病院ではあの手この手で抜け出そうとしたらしいですよ」
先月の中旬には、かなり身体も回復していたらしいが、ほっておくとすぐにスタジオに行ってしまうゴーちゃんであったために、奥さんの要望でギリギリまで病院に閉じ込められてたらしい。考えるとおかしいが、なるほどでもある。
ツィンチェリーロードを真っすぐ市内へ下り、グローブエンドロードを右に折れたところに、アビーロードスタジオがある。今回スタッフはアビーロードの近くの一角にフラットを借りている。二つ、三つ角を曲がるとみんながいた。まず、最初に目に入ったのは帽子をかぶったゴーちゃんであった。そしてチャゲ、マネージャーの中野、キャニオンのディレクターのミホちゃんこと佐多美保、バーニッシュスタジオでデモテープの時から付き合ってくれたエンジニアの横山。みんながフラット前の道路に集まっていた。
「ようこそ」
窓から手を振った。
「また来ちゃったよ。あーっ、早く日本に帰りたい」
いきなりゴーちゃんが疲れた声を上げながら車に乗り込んで来た。
「なに言ってんの。騒がせといて。どう、調子は? 病院に閉じ込められてたらしいじゃん」
「ああ、申し訳なかったね今回は。まだ大きく息をすると胸が痛いけどね。ウイルス性の肺炎だったらしいんだ」
胸を押さえながらゴーちゃんが言う。
「なに? ウイルス性? それ移るんじゃないの?」
いきなり身を乗り出してチャゲが質問する。
「そうだよ。みんなで一緒に肺炎になろう」
「やめてよ、ゴーちゃん」
車の中が一気に騒がしくなった。車は市内の中心部を抜け、オックスフォードストリートに面したポーランドストリート沿いの焼き肉屋「アリラン」に向かった。

ここ「アリラン」は日本語の堪能な韓国人のママさんが経営する店で、いつ行っても幾つかのテーブルに日本人がいる。とても安心のできる店の一つである。
各テーブルに女性が付いて肉を焼いてくれる。カルビなどはハサミで切ってくれて、お客さんのお皿の上に運んでくれる。韓国風お好み焼きというのを僕らは必ずオーダーすることにしている。
ゴーちゃんの病気の話で盛り上がったあと、詞の話になった。
「アスカ、どのくらい出来てる?」
「全部揃ったよ」
「またまた。で……何曲出来てる?」
「全部だよ」
「本当かよ?」
グリーンのレポートファイルを開け、五枚の詞を手渡した。一枚ずつを振り分け、みんなで回し読みが始まった。
「俺、アスカさんと仕事するようになって、こんなの初めてですよ」
エンジニアの横山がジョーク半分、真面目半分で言う。彼には今回歌入れのために来てもらった。前回はロンドンのエンジニアと歌入れをやった。歌詞をローマ字に描き直しての作業であり、ドロップ・インやドロップ・アウト(たとえば歌詞の途中から途中までの録音の作業)や微妙なニュアンスが必要な歌入れでは意思の疎通にずいぶん苦労させられた。その経験もあり横山を呼んだ。ゴーちゃんはひと通り歌詞に目を通した後、
「うむ、よく書けてる。レコーディングも早そうだなあ。いいなあ、こんなの。アスカ、詞は毎回ロンドンに書きに来れば?」
「ああ、時間くれればね」
「お前、すごいな。よく書けたな」
チャゲは焼き肉をいっぱい口にほお張りながら、詞を見ている。そして、はたと思い出した。
「お前、詞は?」
「一つ書いて、一つは青木せい子だから、あと二つかな」
「お前、吉岡になんて言った」
「何を?」
「詞の状態だよ。歌詞の上がり。二十四、五日頃聞かれたろう?」
「二十四、五?」
すっとぼけてるのか本気で考えているのか判らない。
「ああ。あんまり何回も電話して来て、アスカさんも具合悪いし、頑張って下さいってしつこいから、大丈夫心配するな、ほとんど終わったって言った」
「それだ!」
「びっくりさせんな、バカ野郎。肉落とすじゃねぇか」
吉岡の中ではおそらく「チャゲの歌詞はみんな出来たから、心配せずゆっくりやれ」と言うことを藤本さん経由で言いたかったのかもしれない。しかし、安心するどころかそれは逆の精神状態を生み、結果頑張ってしまった。ことの粗筋を皆に伝えた。
「……なら、俺のおかげじゃないか。感謝しろ」
「バカ野郎、どんだけ焦ったか」
「まっ、結果よければっちゅうとこやね。グループの面白さやね」
「お前が言うな、お前が。ただサバ読んだだけやないか」
「そうか、憎めんやっちゃねぇ」
「自分で言うなよ、頼むから」
みんな、会話を聞いて笑っている。
店を出たのは十時半を回り、十一時に近かった。タクシー待ちで並んでる人を避け、不景気で人影の少ないロンドンの夜の街を、駐車場へ向かった。

八月三日、十三時から歌入れが始まった。曲は「GUYS」。
シングル候補曲として、いち早く上げなければいけない。言葉のノリはいい。メロディにも疑いはない。しかし、テンポが速いために言葉が詰まって聞こえる。
「ゴーちゃん。『身震いするような時を』のとこだけど、どう?」
「シングルではいかないだろう?」
「もちろん。ここはチャゲのコーラスで囲むつもりだけど、メロディの速さに負けず、言葉がハーモニーで一斉について来るってのが狙いの場所なんだけどね」
「いけるんじゃないかな」
チャゲはソファーに座り、ブツブツと口のなかで速さを確かめている。
「どう?」
「縦割りさえ合えば、カッコイイと思うよ。でも俺は、『あの日GUYS』のとこが楽しみだな」
レコーディングで使う"縦割り"とは言葉のリズムのことである。特にハーモニーにはこれが要求される。僕らの場合はソロヴォーカリスト意識が強いため、わざと縦割りを無視してお互いの個性で好きに歌うこともあるが、この曲の場合は縦割りを合わせることで曲のグレードが上がる。
「ああ。『あの日GUYS、いつかGUYS』はキャッチだからな」
中野と藤本さんは椅子に座ったまま、ずっと聴いてる。そして何度か歌い、喉が温まってきたころ、録音に入った。
四回ほど通して歌い、一番魅力的なところをセレクトしていく。納得のいかないところはドロップ・イン、アウトで何度も歌う。上手くいかないときは、その場所だけで、三十回、四十回やることも少なくない。それが多いほど、歌入れの時間は延びて行く。二日間、三日間やることもある。今日はセレクトも含めて六時間ほどで形が出来た。
「中野、どう?」
突然振られて驚いた様子であった。
「ものすごくシングルっぽいですよね。カッコイイと思いますよ」
チャゲが藤本さんにも聞く。
「フジはどう?」
外人ミュージシャンに藤本さんを紹介するとき"フジモト"と発音しづらいらしく省略してフジと呼んでいる。
「ライヴ感あっていいんじゃないですかね。テレビなんかでは、インパクトありますよ。でも、僕はM-4も好きですけどね」
フジの本音が、チラリとこぼれる。M-4とは「no no darlin'」のことである。すかさず中野が、
「あーっ、ずるいスよ藤本さん。僕だってM-4好きですよ」
ゴーちゃんと顔を見合わせた。レコーディングスタッフ以外の大事な意見と本音である。

翌日、「no no darlin'」に入った。
この歌は、男性の愛の気負いを、女性が上手にさとすテーマである。ピアノのイントロが気持ちいい。この曲を歌うと、コントロールルームに見えるみんなの顔が温かくなる。三、四回歌ったあとコントロールルームへ戻って来た。
「アスカさん、やっぱりこの曲いいですよ」
ミホちゃんが言う。それを肯定するように、中野とフジがうなずく。
全部で二十回ほど歌い、そのうち三本を録音してある。ゴーちゃんがセレクトに入った。セレクトは一時間から一時間半くらいかかる。
七時からの夕食を終え、細かい直しに入った。声をつぶさないように、休憩を上手に喉の状態に合わせて取っていく。みんなスタジオから出て行かない。
メインヴォーカルが終わったのは朝の二時を過ぎていた。
「ミホちゃん、ちょっとお願いがあるんだけど、サビのメロディをやってくんないかな」
前から、この曲のサビには女性のコーラスを入れるつもりであった。
彼女は現在、「C&A」の他に「COCO」というグループをプロデュースしており、ガイドヴォーカルなども時々やっているらしい。あるアレンジャーは彼女の声がお気に入りでプライベートでガイドヴォーカルを頼んでいたという話を聞いていた。
彼女はスタジオに入り自分のヘッドフォンに送り返される声の音量を調整し始めた。
「ミホちゃん、慣れてんじゃん」
少しちゃかすように、コントロールルームから声を送った。
「やめてください。笑わないでくださいね」
何度か、かるく音程を確かめたあとテイクに入った。曲の中に入り込んでもらうためにイントロから流した。Aメロが過ぎ、Aダッシュの中盤で彼女はリズムをとり出した。ヘッドフォンを両手で押さえ、サビから歌い始める。

 no no darlin'
 雨の向こうに 広がる空を
 いつもふたりで 呼んで来たじゃない

サビに入ってすぐにゴーちゃんと顔を見合わせた。あまりにイメージ通りであったからだ。薬師丸ひろ子を思わせるノンビブラートが気持ちいい。ドキドキしながら歌ってるのも聴いててよく分かる。2コーラス目のサビに入ったとき、ゴーちゃんがキャスター付きの椅子を転がしながら、近寄って来た。
「アスカ、これ本チャンでもいけるかもしんないよ」
本チャンとは、本番のテイクのことである。
「俺もそう思う。敵のない声してるよね」
最初の曲の雰囲気を聴くためのお手伝いを頼んでみただけだったが、僕らの方が入り込んでしまった。頭の中で響いてた声と限りなく近かった。ただ心の中で一つの問題も同時に湧いて来た。「間に合わせで音楽を作っていないだろうか。この場所の一瞬のノリで判断してしまってないだろうか」
しかし、彼女の声が自分の声にミックスされて行く気持ちよさに勝てなかった。常日頃レコーディング中に起こる出来事は、偶然ではないと言っているだけに、その迷いが安っぽく感じられた。
「ミホちゃんの声よく合うなあ。これで俺の声が下から支えるとサビが広がるよなあ」
さっきまで、黙って見ていたチャゲがソファから立ち上がった。
中野とフジは腕組みをしたまま、並んで聴き入ってる。その後、彼女に二、三度歌ってもらい、細部の注意事項を伝え、録音に入った。終わったのは朝方の五時になろうとしている頃だった。とりあえず、「GUYS」と「no no darlin'」のメインヴォーカルが仕上がった。
空が明るくなりかけていることなど考えることもなく、コントロールルームにみんなが集まりシングルの会議を行った。
「メインを二曲、録り終えたわけだけれど、さあ、どうしよう」
ゴーちゃんが周りを見回しながら言う。
大方の意見は、シングルらしさという点で「GUYS」であったが、どちらが好きかと尋ねるとみんな口を揃えるように、個人的には「no no darlin'」が好きだと言う。
「no no darlin'」はやわらか過ぎて目立たないということである。
今日中に決めてしまわなければいけなかった。コーラスには随分と時間をかけるため、両方の曲のコーラスをやってしまってからでは、発売に間に合わないからである。今日決まった曲のほうに、全神経を注ぐ。
「シングルを満たす条件も必要だけど、みんなが好きだと言ってくれるのを歌いたいな」
日頃思っていることを告げた。
「俺も、そう思うな。それに『no no darlin'』がインパクトに欠けてるとは思わない」
ゴーちゃんがつづく。
「俺は、最初から『no no darlin'』だよ」
チャゲが言う。ミホちゃん、中野、フジも同じである。
「なんだよ、なんの問題もないじゃんか、こんな朝まで。帰るぞ、帰るぞ!」
帰宅好きのチャゲが騒ぐ。
レコーディングが始まってから最初のみんなでの選択であった。これからアルバムまで何度となくつづいて行く。

六時過ぎにスタジオを出た。もう仕事なのか、慌てて駅へ走る人。横を大回りで抜けて行く真っ赤なロンドンバス。信号待ちをしながら、コンサートのことを考えていた。「きっとコンサートでは俄然『GUYS』のほうが目立つだろうな。そしていろんな人から、なんでシングルにしなかったんだと言われるだろうな」
毎回あることである。過去を振り返ると随分言われて来た。スタジオの狭い箱の中での出来事はいつだって上手く伝わりづらい。朝焼けのモーターウェイを走りながら「すべてレコーディングでの出来事だよ。偶然はないんだ」
そう言い聞かせながら赤の強いほうに向かって走った。
最終更新:2025年08月17日 21:00