「いつか世界に通用するアーティストに──」。プロデューサー渡辺の壮大なる野望、楽曲への絶対的な自信、チームの結束力……コンサート・ツアー「史上最大の作戦」で全国を廻る日々のなか、彼らにとってひとつの区切りとなる出来事があった──。「CHAGE&ASKAの真実」、感動の最終回。次号は待望の総力特集である。
「泣けてくるよなあ……」
プロデューサーの渡辺徹二が、ステージに釘付けになりながら呟いた。いつもわりと冷静で、どんなに感動しても「うん、いいんじゃない?」のひとことですませていた彼の、珍しい一面だった。
十一月十四日。場所は東京ドーム。三年ぶりに来日したポール・マッカートニーの東京公演二日目のことだった。
今回は前回以上にビートルズナンバーを演奏し、ビートルズエイジにとってはたまらない構成になっていた。
渡辺も日本全国にひしめくビートルズエイジのひとりである。「ドライブ・マイ・カー」からはじまり、「ミッシェル」「マジカル・ミステリー・ツアー」「ペニー・レイン」などなど、ビートルズの楽曲中心に行われた今回のポールのステージに、冷静でいられるはずもないだろう。
コンサートの本編を「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブ・バンド」でしめくくり、舞台袖に消えて行ったポール。ドーム全体に響きわたるアンコールの拍手のなか、渡辺は身動きもせず、ただじっとステージに見入っていた。
「今日って、ナベさんがいちばんうれしいんじゃない?」
ポールのコンサートがはじまる六時間前、東京ドームの控室でASKAが笑みをたたえて渡辺をからかった。「うん、まあな」渡辺はてれながらも顔をほころばす。
ポールのコンサートを観られるから、ポールの楽曲を生で聴くことができるから……。渡辺の笑顔は、そんな単純な理由でのものではない。
ASKAと渡辺が本番の六時間も前に東京ドームに入ったのは、ポールに会うためだった。ビジネスを遂行するために、彼らはポールに会いにきたのだった。
ひとつは十二月下旬にフジテレビで放送が予定されているポール・マッカートニー特別番組の収録のためだった。ポールと日本のトップミュージシャンとの対談。この対談相手としてフジテレビがASKAを指名してきたのだ。世界のトップミュージシャンである。ポールと堂々と渡り合えるのはASKAしかいない。フジテレビの申し出はありがたかった、でも、相手がポールであろうとも、この話にすぐに乗ったわけではなかった。
「会うなら、先へとつながる会い方をしたい」
渡辺はフジテレビサイドに対して、"いい会い方"になるべく、その方法を申し出た。交渉は成立。そして、この日ASKAとポールの対談は実現した。
「How do you do, Mr. WATANABE. You are CHAGE&ASKA's Producer」
ポールはASKAと挨拶を交わした後、笑顔で渡辺に握手を求めた。道端で偶然会ったポールとの相手ではない。ファンとして紹介されてのポールとの握手でもない。仕事として、ポールと会ったのだ。
差し出されるポールの手に触れたとき、渡辺は自分の手が世界に触れたと思ったという。
いつか世界に触れてみたい。そう思っていた渡辺が、ASKAとともに、世界に触れた瞬間だった。
渡辺が音楽業界に身を投じようと思ったきっかけはビートルズだった。
ビートルズの音楽を愛していた。ビートルズの音楽を聴いているうちに、彼らのミュージックビジネスにも興味をそそられた。ビートルズのミュージックビジネスの頭脳といえば、彼らの初代マネージャー、故ブライアン・エプスタインである。
渡辺はビートルズの音楽を聴きながら、一方でブライアン・エプスタインの本を読みあさった。
テレビに出演する際のビートルズの権利の主張、イギリス戦略、アメリカ戦略をはっきり分けてのレコードリリースの方法……彼が打ち出す数多くの戦略に深い感銘を受け、まだ学生だったにもかかわらず、渡辺はいつしかブライアンに自分を投影していた。
「いつか世界に通用するアーティストを育てたい」
やがてそれは渡辺の夢になった。壮大なる野望になった。壮大すぎて、人に聞かれたら鼻で笑われることかもしれなかったが。
そしてヤマハに入社し、音楽ビジネスの仕事をしているなかで出会ったのが、デビュー前のCHAGE&ASKAだった。
まだ"チャゲ&飛鳥"の頃のCHAGE&ASKAである。
「いったいどこの国のグループなんだ」
最初、彼らのグループ名を聞いたとき、その妙な名前を何度も聞き返したという。いざ会ってみれば、学生気分の抜けない気のいい兄ちゃん風。
楽曲がよくなかったら、渡辺は彼らのマネージメントを降りていたかもしれない。そう、楽曲が命だった。チャゲと飛鳥の作り上げた楽曲に、ある種の勘が働いていなければ、引き受けていなかっただろう。
実際、私も彼らを初めて紹介されたとき、正直いって"絵になりにくいグループだなあ"と思った。私は渡辺と違って、彼らの音楽も実はピンときていなかった。ファンクラブの会報を書くという仕事を割り当てられ、受けたのはいいが、彼らの音楽性を理解していない、実に失礼な状態でのスタートだった。
彼らの仕事にあまり前向きになれず、形だけ作ったらあとは後輩にバトンタッチしたいとまで考えていた(これを読んで、彼らはものすごく怒るだろうなあ)。
あまりやる気のない私の腰を上げさせたのは、渡辺だった。彼はチャゲ&飛鳥というミュージシャンの音楽を、私に熱っぽく語り続けた。ヤマハでバイトしていた私のもとに時間が空くとやってきては、なぜ彼らはコンビを組んだのか、なぜ自分が彼らの音楽に将来性を見いだしたのかを熱心に話した。
音楽を言葉で説明することほど難しいことはない。とくにまったく趣味が違うという人間の嗜好までをも変えようとするのは、実は無駄なことである。でも、渡辺は無駄を承知で、非常に労力のいることを続けた。きっと私にだけではなく、他のスタッフにも同じことを言い続けていたに違いなかった。
「いつか日本一のバンドになる。力を貸してほしい」
たかがライターの私にそこまで言う。私は渡辺の力に押された。渡辺がいなかったら、きっと私はやっていなかった。やれていなかった。
そして、渡辺の言葉を信じて彼らと仕事をしていくうちに、まるで魔法をかけられたかのように彼らの音楽に引き込まれていった。夢中になるのはかっこ悪い。少し冷めていたほうがかっこいいという。若いがゆえの妙な価値観があって、一歩離れて彼らと接しようとしたけれど、無理だった。
あのときの気持ちのまま現在に至って、私は十五年という膨大な年月を、彼らとともに歩いているわけだ。
CHAGE&ASKAをプロデュースする頭脳として、渡辺はのっけから日本一を目指した。彼の夢は世界に通用するアーティストを育てることだった。世界の前には日本一にならなければいけないという関門がある。だからとりあえず、日本一を目指そう。
こうしてCHAGEとASKAと渡辺はエンジンを始動した。それもローギアからではなく、いきなりトップギアにシフトアップしての発進だった。
どこのマネージャーもそうだと思うが、アーティスト育成には、先輩マネージャーが作り上げてきたマニュアルを参考にする。まずはマニュアルに沿って活動を行うのが安全なやり方だ。
当時、同じプロダクションには、一世を風靡したツイストがいた。クリスタルキングがいた。先輩アーティストが先にひいてくれた路線を走れば、世の中の人が気づいてくれやすい。
でも渡辺はマニュアルをすべて崩すことからはじめた。新人アーティストを抱えるマネージャーとは思えない。強気の姿勢でのマネージメントだった。
「渡辺って奴は、なに考えてんだ」。テレビ局、ラジオ局などで敵を作ることも多かった。
でも、そんなことは彼にとっては小さいことだった。
渡辺はブライアン・エプスタインの戦略を参考に行動を起こしていたのだ。スケジュール台帳を真っ黒に埋めるだけが仕事ではない。大きな作戦をもって、個々の仕事の戦略のひとつにしていかなければいけない。
アーティストとしての権利、楽曲の権利をも主張した。相手が譲らない場合は、いさぎよく背中を向けた。決して安っぽい売り方はしなかった。
ときとして大きな批判の対象となっても、どうしても自分の考えを曲げなかった。それはCHAGE&ASKAを守ることだ。CHAGE&ASKAを守ること、それはつまり、彼らの楽曲を守ることだった。
絶対的な自信があった。CHAGE&ASKAが作る楽曲は逸品であるという、揺るぎない自信。
ビートルズの音楽プロデューサー、ジョージ・マーチンが、ジョンとポールに他人が作った曲を渡し、レコーディングを命じたことがある。そのとき、ジョンとポールは言った。
「おれたちが作った楽曲は絶対に売れる。だからおれたちの楽曲をレコーディングしてくれ」
ジョンとポールは自分たちの楽曲に絶対的な自信があった。結果的に世界的な大ヒットとなり、ビートルズの名を全世界に轟かせることになった。
渡辺はジョンとポールの楽曲に対する姿勢と同じようなこだわりを示してきた。もちろん渡辺だけではなく、C&Aチームの結束があってのことだ。
CHAGE、ASKA、ディレクターの山里、そして渡辺という四人のプロデュースチームは、出す曲にいつだって胸を張ってきた。
「この楽曲は絶対世の中に受け入れられる」
その姿勢はずっと同じだった。でも、哀しいかな、レコード会社がのらないこともままあった。
顕著なものが、「WALK」だろう。クオリティの高さも当然ながら、人々の胸を打つ名曲である。
「この歌を今の僕らの代表曲にしたい」
しかし、シングルとしての華がない、難しい、わかりにくいと、レコード会社は「WALK」をシングルに切ることに弱腰だった。プロデュースチームの頑強なこだわりでシングルになったものの、広くプロモーションをしていくことができず、残念ながらヒットにはつながらなかった。
ところがステージで歌い続けていくうちに広まり、一昨年、再びリリースして大ヒットという結果になった。
ASKAのソロ・シングル「はじまりはいつも雨」もそうだった。ASKAのソロ曲をパナソニックのCMソングとして起用したいという申し出が代理店を通してあったとき、彼らは「はじまりはいつも雨」を押した。ところが、返ってきた返事はNO。相手の希望は、他の楽曲だったのだ。でも、彼らは押した。何度言われても「はじまりはいつも雨」以外は考えられないと。
結果は百万枚を超す大ヒット。
まだある。CHAGE&ASKAがブレイクするきっかけになった「SAY YES」がそうだ。ドラマ主題歌として依頼がきて、ASKAは自信をもって「SAY YES」を作り上げた。しかしドラマのプロデューサーは他の楽曲を希望する。「いいえ、この楽曲以外はあり得ません」。これも押しの勝利となった。
まだまだある。「YAH YAH YAH」である。シングルリリースのローテーションからはずれる、だいたい今さらドラマの主題歌をやる必要はない。事務所内部で反対の声が上がった。彼らは押した。スタッフと険悪になってでも、自分たちの意見を押し通りた。結果はご存じのとおりである。
プロデュースチームの作品に対する自信とプライドが、現在のCHAGE&ASKAを作り上げてきたといっても過言ではないのだ。
彼らの結束力の賜物である。しかし、どの場面でも矢面に立って戦ってきた渡辺の力なくしては語れないだろう。
「この楽曲はいける」というCHAGE&ASKAの自信と渡辺の勘が合体したとき、楽曲にさらなる力がついて、いい結果が生まれる。
自信はレコードリリース以外のところでも示されてきた。
今だから話せるが、この月刊カドカワをめぐって、興味深いエピソードがある。
まだブレイク前、渡辺は月刊カドカワという雑誌にCHAGE&ASKAを出したいと考えた。レコード会社を通して取材を依頼する。しかし「CHAGE&ASKAとうちの雑誌は色が合わない」ということで、けんもほろろに断られた。それならそれで仕方がない。
ところが、ブレイク後に今度は月カドサイドから取材の申し出がきた。
色が合わないと言っておきながら、売れたからやりたい。どのアーティストも嫌というほど経験することだと思うが、渡辺には通用しなかった。
売れたからといって飛びついてくる媒体を、渡辺は断じて信用していない。たとえ今後のCHAGE&ASKAのメリットになり得ると思ってもだ。
それはアーティストを本当に理解しているとは思えないからだ。理解してもらえないところとはつき合わないのが渡辺の鉄則である。
月カドはそれでも食い下がった。突っぱねても突っぱねても食い下がった。そして、当時の編集長であった見城氏と担当の小玉氏が、"SAY YES"ツアー中の新潟に突然やってきた。
私は渡辺が彼らにどんな態度で接するのか、内心ヒヤヒヤだった。
「ナベさんもめるぞー」「爆発するぜ」。CHAGEやASKAは私に脅しをかけながらも、この会見をおもしろそうに遠くから眺めていた。
でも、予想に反して渡辺は紳士的に接していた。はるばる東京からきてくれたふたりに、いい席を用意してまで。
彼は、コンサートを観終わった後のふたりの心境の変化を予想していたのだ。売れたから取材を依頼するのではなく、本当にいいから取材をしたいという考えになることを、予想していたのだ。
案の定、彼らはステージに魅せられ、CHAGE&ASKAをもっと理解したいという言葉を残して会館を後にした。CHAGE&ASKAというアーティストに気づかなかった時間を、これから取り戻したい。取り戻して、さらに理解したうえで、改めていいページを作りたいと。
その半年後、ようやくCHAGE&ASKAは月刊カドカワの総力特集に登場することになる。
この号は完売して、現在編集部にも資料用の一冊しか残っていないという、幻の号となった。
世の中にいい楽曲はあふれている。いい楽曲を広めるためには、戦略が必要だ。戦略方法はアーティストによって様々だが、狭い音楽シーンのなか、いつかどこかで似かよってくることもある。でも、渡辺とCHAGEとASKAの信頼関係こそがCHAGE&ASKAの基盤である以上、その戦略は誰も真似のできないものになりうる。
CHAGE&ASKAに日本一という冠が輝いた現在、渡辺の目は別の方向に向けられている。
次の目標を熟成させるべく活動を行っている。
そして十一月のポールとの出会い。
──ビートルズのように、やがて世界に通用するアーティストを育てたい。
ビートルズが渡辺の目標だった。ビートルズが彼の夢でもあった。そのメンバーの主力であるポール・マッカートニーと会談して、新たなステップを踏み出そうとしている。
ポールの手に触れた──。
ポールの前では始終クールな態度を通していたものの、ステージを観て、抑えていた感情がついこぼれてしまっても、それは仕方のないことだろう。
振り返ってみれば、彼とCHAGE&ASKAが出会ってからすでにはじまっていた"史上最大の作戦"。今後、どんな作戦が立てられ、どういうかたちとなって世の中に現れるのか。
今はまだ明かせないことばかりだが、ひとつ言えるとすれば、過去、誰もが実現できなかったことであるということには間違いない。
最終更新:2025年12月22日 00:41