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日本の状況

ガバン・マコーマックの指摘するように、土地は日本人にとっての多くの意味合いを持っていた。土地は日本人にとっては「第二の貨幣」であった。当時の銀行は、融資の担保として、土地や不動産資産を重要視していた。バブル経済は、実質的な、経済的裏付けを持たない土地の異常なまでの高騰と、その泡のようにふくれ県土地の価値に基づいた融資によって成立していた。このような土地という第二の貨幣は、本企業の投資活動を多かれ少なかれ規定していくことになる。この貨幣を手にすることは、そのまま企業の価値を上昇させることを意味した。従って、オーストラリアやアメリカへの「安い」土地を求めて、海外投資が起こったのである。
日本のバブル経済と相並ぶ形で、国際社会(特に欧米諸国)から、日本の対外貿易黒字に対して批判がなされ、さらに、日本の経済・社会体制は閉鎖的であるとする批判を受けてきた。このなかで、日本は「国際化」に向けて動き出す。海外旅行の進展は、この「国際化」の動きへの一部として捉えることが出来る。(ここで日本は他に何を奨励したのか。)このことを象徴的に示す政策的対応としては、テンミリオン計画が挙げられる。テンミリオン計画とは、海外旅行倍増計画とも呼ばれる。運輸省と通商産業省(いずれも当時)によるこの政策によって、対外貿易収支問題の改善と、日本社会の開放性を目指した。また、同時に、Leheny (2004)は、この政策を日本の西洋へのキャッチアップの一環として捉えている。Lehenyによれば、日本は日本国民を「文明化された」市民にすべく、西洋諸国の望ましい社会生活形態を模倣してきた。海外旅行は、この「文明化された」市民の形成において適した手段であるとされた。
このようなテンミリオン計画と並んで、国内では1985年、リゾート法(総合保養地整備法)が制定され、日本各地でテーマパークやリゾート地整備といった大規模な娯楽施設が次々に建設されていった。国内において飽和的となった市場において、日本資本は海外にその投資先を求めた。固定相場制の下でのドル高の離京で、日本資本の海外進出は、決して容易なものではなかった。実際、この体制の元でのオーストラリアドルは200円前後で推移しており、オーストラリアへの投資の多くは、資源部門に偏っていた。1985年のプラザ合意と変動相場制の導入によって、日本資本にとって外貨の獲得は以前よりも容易になった。この合意に伴い、オーストラリアドルに対する日本円の価値は倍加し、日本資本にとって、新たな資本敷く関の機会が訪れたのである。また、日本国民にとって、このような外貨の値下がりによって、海外旅行客が急速に拡大していくことになる。この時期と並んで、ケアンズを含む各航空路線は大幅に拡大していく。
このような海外旅行の拡大に向けた外圧、さらにはそれに対応する形での海外旅行やレジャーの推進を軸とする政策的対応、さらには、外貨価値の下落によって、日本資本や日本からの旅行客が急速に海外に向かっていくようになったのである。
日本資本にとっては、日本の土地や建物が高騰する中で、オーストラリアのそれは安価なものとして映った。例えば、東京の物件が2209$にたいして、シドニーの物件は600$であった。
最終更新:2009年10月04日 15:23