ただ、少しだけ。
少しだけでいい。自分にとって何があったかを追憶する時間が必要だと感じた。
回歴するように、巡礼するように、ただ深い記憶の内海へ。
「そうだな、あれは……」
人が生まれ、落ちる。その原初の記憶が残る事はない。
意識の形成、自我の構築、そういったものと程遠い幼子にそれらを覚える事はできないだろう。
けど、自分は違った。澱のような、棘のようなものが記憶の片隅に突き刺さっている。それは微かな残穢なのだろう。
「く、ッ―――あ、あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ッ!!??」
誰かの悲鳴が、嗚咽が、引き裂くような声がする。
それはきっと、母親……そう呼ぶべきモノだったのだろう。
隣に何か、自分には無いナニカを持つ誰かがいると感じる。不快ではない、寧ろいてほしいナニカだ。
けれど、それが放つ生命の鼓動というのは実に力強く、同時に弱々しく。
そしてまた、それは自分も一緒だった。
「このままでは、母体共々―――」
「では、私にどちらかを見殺しに―――」
騒がしい、焦燥と苛立ちを含む声の数々。
誰かが言い争って、何かをしようとしている。今思えばこれはきっと、そうだ。
弟と、兄のどちらを取るかを言い争っていたんだな。
程なくして、ふたつ。ぷつりと、何かが途絶えた。
今なら理解できる、それは命の終わる音だ。
二人死んで、俺だけ残った。
「どうして……どうしてなんだ……ああ、私は……あんたがいないと……」
電気一つ灯らない家屋。俺の最初の世界だった場所で、ずっと親父は苦しんでいた。
思えば親父と呼べるような事は、マトモにされなかったが。ただ、子供として動いて回れる程度になるまで育てる愛着は持ち合わせていたんだろう。
齢を数える能力なんてなかったが、せいぜい4歳。あの時はこれが普通だと思っていたし、外に連れ歩かれることはなかった。
正真正銘、此処が俺の世界だ。
「とうさん、どうしたの?」
邪気のない、他意のない俺の言葉が苦悩する父を刺す。
人の機微なんぞ知らない、他に例なんぞない。ただ一人の世界、ただ一つの世界から学べる事もまた少ない。
一つ確かなのは、今の俺から見たらそれはただの悪手だったって事だ。
「ッ―――おま、え……おまえ、お前が……!おまえ、おまえさえ生まれて来なければぁぁああああッ!!!」
鈍痛。
赤く染まる痛みは、今も鮮明に思い出せる。ただ、頭に酒瓶を叩きつけられた。
「お前さえ!お前さえいなければ!!私は、おれ、俺はぁぁぁぁああッ!!!」
破壊音。ただ、当たり散らして壊れて壊して、元々少なかった家財がどんどん壊れ続けていく。
俺は嗚咽すら零せない。苦しみを訴える方法も、意味も理由も知らないから。
「俺は、お前のせいで妻もお前の兄も!!一夜にして―――悪魔、悪魔だッ!お前は俺を不幸にする悪魔の子なんだッ!!」
答える者はいない。そのやり場のない怒りに答えられる者は、みな黙した。
「返せ、返せよ……俺に、俺に家族を……二人、おれに……わた、しに……嗚呼、あぁ……あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛―――」
悲しみと、苦しみとだけがそこに残り、響いて。
もう誰も幸福を嘯かない。
「よろしいのですね?」
「はい。……私には、もう耐えられません。私の子だと、受け入れられない。これ以上は、狂って……きっと殺めてしまう。それだけは、やっては駄目だ。」
「……気の毒なことだ。あなたも、そしてこの子も。これは、せめてもの気持ちです。」
薄れ霞んだ意識の外で、二人の大人のやり取りが聞こえた。
そう、俺は売られたんだ。
その日俺は、天涯孤独になった。
「大人の言う事には決して逆らわず従うように。」
それが口癖の孤児院だった。
「大人の指示には疑問を抱かず従うように。」
それが最初の命令だった。
「大人の指示に従えば幸福になれる。」
それが最初の指標だった。
控えめに言う。あの孤児院はクソだった。
何の因果かは知らないが、あれは子供を売り払うビジネスをやっている孤児院だ。
縋る想いで親父の頼った孤児院は、そんなどうしようもない場所。きっと下調べなんてする余裕はなかったんだろう。
責めはするまい。俺にその理解は難しいが、今の俺を構成する大切な要素だから。
「おや、いらっしゃいませ。本日はご入用ですかな?」
「ええ。差し当たって、従順な駒を三つ程。」
「では丁度いい、一つ素晴らしいモノが入ったのです。是非。」
別に何も思わなかった。何かを思う知識も情緒もなかった。
ただ、自分にとっては世界が一つ、広がっただけの事だ。
「お前は筋が良いな。魔力への適正も十分、動きも機敏でただの一般人の出自とは思えん。」
「そうですか。」
「苦痛に顔を歪めないのも良い。ただ、お前は少し他より心音が煩いな。消音の魔術を覚えるといい。」
「はい。」
毒液の注射を肉体に馴染ませながら、受け答えを続ける。
苦痛は感じていた。けど、それは俺の知る世界で当然のものだった。
当然のものに、何を思えばいいというのか。今思えば、肥溜めから肥溜めに移った俺の目はただ濁り続けていたのだろう。
「今宵、また一人消す必要がある。お前の仕事だ掃除人。」
「はい、わかりました。」
「今回のターゲットが始末出来たのなら、お前に名前をやろう。正式メンバー採用だ。」
何かを思う事はない。感慨もなく、その意味も知らない。
或いは意味という言葉さえ、あやふやだ。
「ぐ、がはッ―――こんな、子供に……」
首筋を冷えた鋼鉄で引き裂く。
「油断したんだろ、だから。」
都合が良かった。子供っていうのは侮られるのだ、と学習した。
温い感覚、柔肌を断つ感触。それらに何を思おうものか。
ただ、また一つ世界が広がっただけ。
「ひいッ、あ……悪魔……!」
よく言われる。悪魔とは何を指すのだろうか。
前に気になって、自由時間で組織の書物を見た。
「人を指したら適切な意味じゃないよな、それ。」
悪魔っていうのは宗教の魔、神の敵対者だろう。
ああ、でも神って何だ?宗教ってのも何だ。
当時の俺は知らなかったから、もしかしたらどっちも俺の事なのかもしれないと思っていた。
ただ、だからどうしたって話だ。
「おにいちゃん、だあれ?」
「悪魔、らしいな。」
自分とさして変わらない女子供の命を断つ。
大人よりずっと殺しやすかった。肌も柔く、すぐ死ぬ。
だからその時思った事は
「俺もこんな簡単に壊れないようにしないとな。」
ひどく、ズレていた。
「これでお前は貼れて掃除人の一員として正式部隊に組み込まれる。
そうだな。名前をやろう―――お前は今日から449号だ、異論は認めない。」
「そうですか。」
どうでもいい。
俺の世界に名前は特別な意味を持たない。
「449号、これからもお前の働きには期待している。より多くの異端を罰する優秀な忌み狩りとなれ。」
「はい。」
忌み狩り。魔術という神秘を穢す者たち、魔術を適切に扱えない猿共、学会より罷免されし屑、魔女。
「魔女は忌むべき存在だ。奴らを生かしておけば、世は乱れる。」
それらを誅戮する掃除人の名、つまり今の世界で生きる俺のこと。
「魔術は人類の叡智、理解せぬ猿どもを根絶することで漸く人類は次のステージへ進める。我々掃除人は何れ英雄になるのだ。」
自分にとって一番長い時代だ。
「同じ人間だと思うな。奴らは死んで当然なのだ。」
自分にとって、最も忌むべき時代でもある。
ぱち、ぱちりと火花が爆ぜる。
焚き火の前でただ粛々と食事を済ませ、磔にされた死体が焦げるのを見守る。
「任務は完了だ、行くぞ449号。」
「はい。」
俺の世界に代わり映えはない。
魔女を狩って、集落一つという世界を終わらせた。一人残らず、自分と部隊員の手で。
日に日に悪魔と罵られる事が増えている。だから、多分自分は悪魔なんだと思っていた。
神とは何なのだろうか。組織の書物に記されているものはなかったから、きっといつか俺が殺さないといけない何かだろう。
宗教とは何を指す?これもやはり殺すべきなのだろうか。
今思えば、掃除人という組織こそ宗教じみている。
きっといつか、俺が殺さないといけないな。
しばらく生きて分かった事がある。人間というモノには雌雄の違いがあった。
雄は壊しにくかった、雌は壊しやすかった。ただの経験則、比率の問題だ。
強い雌もいた、弱い雄もいた。ただ、やっぱり雌の方が簡単に壊れる。
組織の掃除人もそうだった。直前に駄目にされたのは雌だ。
別に何か思う事はない、替えの効く人材。俺も例外じゃないし、淡々と継ぎ足されていくのみ。
俺達に、意味も意義も面白みも何もない。
だが、どうしたことか。
「ほんっと……アルカノスは悪趣味ですねぇ……!」
青髪の魔女が手を振るう。追従するように、爆炎がなぞる。
群がる掃除人が薙ぎ払われ、一人また一人と物言わぬ肉塊へと変わっていった。
「これが異端の創像者、特例指定予定の魔女か。」
たった一人の魔女相手に、掃除人が何十と宛てがわれた。過剰戦力だと思っていたが、それすらも見通しが甘い。
触媒なし、詠唱なし、完全同期で瞬時に上級魔術が無数に飛んでくる。なるほどこれは確かに、紛れもない魔女。
どの魔術も教本や辞書に無い。全て我流なのだという、恐ろしい技術だ。
「こんな、がきんちょまで掃除人にしてるとか……ッ、反吐が出るったらありゃしない!」
今まで殺した相手の誰よりも強く、まるで子供を往なすようにあしらわれた。事実として当時の自分は子供なのだが。
「……だからって侮ってはこないな。」
そう、侮りはない。どころか、加減されていた。あいつが殺したのは大人ばかりで、この場にいる子供の掃除人は生き残らされていた。
殺す気の相手と殺す気のない相手、これらが衝突して殺す気の相手に手加減をする余裕があるという事は即ち絶望的な実力差がある証左。
「これでも、やるかやられるかの狩人家業……経験者ですからねぇっ!」
幾度となく殺す気で不意打ちを仕掛けたが、尽く通用しない。向こうは声色に力みがあるが、これも演出だろう。
底無しの穴でも覗いた気分にさせられる。教官でさえここまでではなかった。
「こんな、子供の頃から殺しばっかりやって楽しいんですか?もっと幸せになろうとかって、思わないわけですかねぇ!」
問いかける言葉が続く。その意味と理由を理解するに足る知識は、無い。
だが疑問は残った。楽しいとは何だ。幸せとは何だ?そんなものを俺は知らない。
「耳を貸すな、動揺を誘っている。」
先輩掃除人がそう嘯く。俺の世界は閉じたままだ。
けど、一筋の光が差し込んだ。
「幸せの意味も知らないようで、ずっと飼い殺しなんて……虚しいだけですよっ!」
幸せの意味。何だそれは。
飼い殺し?そんな言葉があるのか。
仄暗い知識欲の芽生えがある。悪意を嘯く先輩は今のひと振りの魔術で血煙になった。
ただ乱雑に対処され、殺すでもなく痛みを齎され、子供の掃除人達は次々と脱落していった。
「はーっ……あーしんど、二度と喧嘩売らないでくださいよ全く。
こんな雑兵共の倍の数用意したって私にゃ敵いっこないんですから、後ろの組織にでも告げ口しといてください。」
どこ吹く風。まるで後片付けをしただけのように振る舞った彼女は惨劇の場を悠々と立ち去っていった。
傷一つ無し、今の大言もホラ吹きではない。そう確信があった。
「……任務失敗か。」
初めての失敗だった。
「やはりあの魔女を始末するには、機会を伺うべきか……いや、よくやった。」
報告を済ませた後は、特に何も変わらない。
俺の世界は昏く淀んだままだ。ただ、粛々と殺し、殺し、殺し、殺す。
キル・オア・ダイ。殺せないなら死ぬ、あの魔女が例外なだけだ。
今日も一人掃除人が死んだ、替えは明日届く。今日も九人の忌み狩りをした、感触は今も手に残留する。
殺しに感慨はない。ただそうしなければいけないから、するだけ。
でも、一つ気になった事はあった。
「幸せって何だ?」
殺す寸前の、心臓に刃を食い込ませた相手に問う。
「お前、が……今、踏み躙った……モノ、だ……ッ!!」
忌み狩りの指定を受けた家族を屠る。
「そうか。」
幸せの意味は、組織の書籍には一切載っていない。
帳が降りたように、組織には常人になる道が徹底して閉ざされている。
知る権利もなく、知る道標もなく、知る必要もなく。ただ、使い潰される歯車。
だがその歯車が根本から狂ったのは―――
「"幸せ"……"その人にとって望ましいこと。不満がないこと。また、そのさま。幸福。幸い。"」
最後に気になって、焼き払う前のその家の辞書を引いてみたのが。
"幸せの意味も知らないようで、ずっと飼い殺しなんて……虚しいだけですよっ!"
投げかけられた問いを
"耳を貸すな、動揺を誘っている。"
黙殺しようとした先輩の言葉が気になったからだ。
「……望ましい?」
望みとは何か。不満とは何か。幸福とは?
ふつふつと疑問が連鎖し、堰き止められたものが一気に溢れた。
家一つを焼き払った後、俺はそこから一人の仕事をする時に必ずやる事が増えた。
「望みとは何だ?」
「不満とは何だ?」
「虚しいとは?」
「幸福とは?」
殺す相手に、一つ尋ねる。ただ空白を埋めるように。
組織が意図して足抜けを嫌っているのを、俺は何となく理解した。
でなければ幸せの意味なんて閉ざそうと思わない。世界がまた一つ、広がっていく。
"お前が今摘み取ったもの"、"お前に対して抱いている感情"、"あなたを見ていると思う"、"返せ"。
問いには様々な答えが返ってきて、自分の置かれた場所の歪さを少しずつ理解する。
だが、結局巡ってくる答えは一つだった。
「だから、何だ。」
別にどうにかしようとは思わない。自分の力は、きっと思った以上にちっぽけだ。
化け物を見て理解した、あの足元にも及ばないようじゃ組織から抜けるなんて程遠い。
あれぐらい強くなければ、世界というものは広がっただけで飛び出してはいけない。
不満も、さして抱いている訳じゃない。何せこれが俺の世界だったのだから。
「そうか。」
色々な言葉を知ったが、そうか。これが虚しさというものか。
折り重なって、積み重なって、ただ沈んでゆくのみ。
深い深い心の内海へと。
親父もこんな事を、思っていたのだろうか?
ほんの一瞬で、色々なものが過った気がする。
これが俺にとっての最期の瞬間だ。俺は、しくじった。
たった一人での暗殺任務。魔導騎士連盟員とやらの重役暗殺。
どう見ても、使い捨て宣言だ。恐らく何処かで勘付かれたのだろう、心の奥にある叛意の萌芽に。
なるほど、確かにこれは―――
「望み、か。」
最期になって、その意味をやっと知るというのか。
ただ、一つ予想していなかったのは
この後俺は、この肥溜めから拾い上げられた挙げ句、普通の名前と普通の暮らしを与えられる羽目になるという事だ。
最終更新:2024年09月12日 10:40