22-508 名前:『lic lac la lac lilac』1[sage] 投稿日:2006/01/04(水) 00:23:57 ID:???
陽は薄まり、世界は夜に晒された。漆黒の覆いに散った輝く涙の数々は、一回りも二回りも過ぎ去った思い出にあるのと同じ顔をしている。
世界樹の太き御身を支える足に重みを預け、私は時を感じる。束の間にして永遠。不死者の、あるいは永久を手にした者の、避けられぬ宿命を想い、感傷に浸る。
ゼロ「御主人〜、何時マデ、コウシテルンダヨ?」
エヴァ「うるさいな…折角の黙だというのに…」
根元から見上げた世界樹の幹は、星空も貫く柱で、幾百年の我が昨日さえ易々と支えてくれる。ここ学園で私が頼れるものは、この世界樹くらいなものだろう。
風に囁く葉々は、月光に舞う蝶のように表裏を瞬かせる。しかし、幹は風を裂き、揺れず歪まずの真っ直ぐを徹した。
葉と葉の隙間を漏れる月明かりが、私の肌に触れる。冷たく、高貴で、鋭いその光は本能に通じ、呪いの籠に閉じ込められた今の私にさえ語りかけてきた。
疼く犬歯を噛み締めながら、瞳を閉じる。そして、初恋の人に思いを馳せる。初めて呪文を唱えたその時から、きっと私はナギ…お前を知っていたのだ。

風の唸りが少し大きくなったように感じられる。その中に、遠い記憶に眠るナギとの思い出を見い出そうと、耳を澄ます。
泉が騒がしく流れ、ナギの声が聞こえてこない。欲しい記憶が甦らない。既にベルザンディは煩く叫び、無限を抱えたスクルドが迫る。
ナギのことを忘れてしまうのではないか、という恐怖に私の心が戦く。次々と枯れ落ちる葉に、ナギが埋まってしまうのではないか、と。
ナギの声を求めて、泉に耳を澄ます。やがて私は過去に紛れて、気付けば今日を失っていた。夢という架空の時が、私に語り始めたからだ。
脳髄が夢を織り始め、眩暈と似た感覚に堕ちていく。そこは生温かく、しかし、何度訪れても懐かしくはない。
深く沈んだ記憶が、今日もまた、波打ち際に打ち寄せられた。私はそれを手にとって、苦い日々をまた目にする…。意識は時空を越え、"あの時"に堕ちた。
22-509 名前:『lic lac la lac lilac』2[sage] 投稿日:2006/01/04(水) 00:27:29 ID:???
陽射しの下、大衆に晒された私。ここは領主の屋敷に作られた処刑台。鍬が似合う愚か者共が私を囲み、恐怖と興味を握り締め、残酷の対象に舌舐めずりをする。
彼等の声は喧騒の爆発で、それを束ねる男の声が私の罪を叫ぶまで止まなかった。その男は片手に炎を掴み、丸太の幹に身を繋がれた私に近付く。
寸前で男は立ち止まる。そして、恨みを込めた眼差しのまま、一歩だけ踏み出した。人間共の昂奮が徐々に高まる。炬を掴んだ手の指を、男は私の足元で開いた。
放たれた炎は足元の藁を走り、すぐに私の体に巻き付いた。これが、火あぶりの刑。
皮を剥がされるような痛み。髪も燃え、視界が煙に覆われる。私は叫ぶ。この痛みは堪えがたい。
分厚い暴風の向こうから、農夫共の罵りが聴こえる。不思議と自分の叫びは耳に届かない。喉も焼かれているからだろうか。

やがて煤が全身を黒く埋め、火は尽きた。
灰となった藁の床から煙が細く伸びる中、人々はざわめき怯え始めた。私が焼け死ななかったからだ。
両手を繋ぐ拘束具は焙られ身を捩らせ、丸太は白い粉を散蒔き脆くなっていた、か弱い私でも崩せる程に。
衣服は全て煙となってしまった。だから、黒く焦げてはいるが、私の裸体の輪郭を人間共は見てとることができただろう。
自由を得た私は、体の煤を払いながら深く息を吸った。吐いた息にも、やはり煤が混じっていた。煤を全て吐き出すと、再び私は息をした。
そして辺りを見渡し、様々な感情に縁取られた瞳たちが、瞬きもせず私にただ見入っていることに気付く。
素肌の身の私は、焦げても凍える寒さに耐えきれず、燻った藁の盛りに倒れた。我が身を焼いた炎の温もりに、自ら身を埋めるとは…。
処刑台を囲む人々は、藁の寝台に横たわる私を凝視していた。しかし、私に為す術はない。まだ私には魔法は使えず、人形は作れたが操れはしなかった。しかも今は昼間だ。まだ、吸血鬼の力は眠っている。
炎を放った手の主は、やはり怯えて私を見ている。台の縁から覗く面々も、そのまま恐怖の色に染まっていった。
悪魔は刑に処され、刑を経ても生き延び、今や自由を得た。しかし、何の為の自由か。私が掴んだのは無意味な自由だ。
髪に霜が生え始めたようだ。肩に垂れた金の流れは、粗雑な麻布のように肌を摩った。じりじりと体を焼く藁の残り火に目が覚める。
一度死んだ不死鳥の気持ちがよくわかった。
22-510 名前:『lic lac la lac lilac』3[sage] 投稿日:2006/01/04(水) 00:31:24 ID:???
屋敷の大卓は、主人の身で拵えた灰の山を並べる処刑台となり、それが置かれた庭は、自由を得た農夫たちに踏み躙られ、花は皆、土に花弁を汚している。今や、全ての美徳は失われた。
私がゆっくり起き上がると、静まり返った屋敷の周りを吹き抜ける微風が、私の髪と煤が覆う体を優しく撫でた。
私より先に刑を受けた、処刑台の脇に横たわる十人近くの亡骸。それらは、私を匿ってくれていた領主とその家族の無惨に焼け焦げた抜け殻だった。
処刑台から降りると、人々は足の下をよける蟲のように私から遠退いていく。その中を、煤をぱらぱらと撒きながら亡骸に近付き、隣にしゃがんだ。
良い人だった…。吸血鬼だと知りながら、私を一年もここに置いてくれた。私が悪いのだ。私が吸血鬼なんかでなければ、彼等がこんなに苦しんで息絶えることもなかっただろうに…。
人間味のある生活を思い出し始めたばかりだった。しかし、それも、もう終わったのだ。
必死に泣こうとしたが、何故か涙が出てこない。口数の減った男衆の囁き合いが空気を擦る中、庭には涙の渇れた嗚咽が響いた。

私の踏み出す足の先々、人の群れが避けていく。吸う息さえ足らなくなるほどの衆の中、私は難無く屋敷まで至った。
背で屋敷の打ち割れた扉が閉まると、水を打ったように静まり返った庭から、血の気が再び通い始める音が追って来た。それでも、後ろに振り返ることなく、私は玄関から屋敷の廊下を見つめた。
屋敷の中はかつての様子を留めていなかった。農具で顔を削がれた血も出ぬ名画、脚の足らないピアノ、床に垂れた純潔の紅涙。
我が家を離れる時がまた来たのだ。刻まれずに残った布は少ない。温もりが残る褥を見付け、身に纏い、私は流離いの心を取り戻す。そして、持ち物を集め、この地を去る支度を始める。
とは言っても、物など無いに等しかった。ここの屋敷主が与えてくれた装飾の数々は庭に群れる奴らが持ち去っただろうし、そもそも、私には唯一無二の親友だけだからだ。
親友と聞けば、何か伝わらないかもしれない。それは不恰好な人形で、大き過ぎる頭を支えきれず、
平に切り揃えた前髪を傾けながら、だらしなく両腕を重力に委せている。文句も返さず、ただ居場所を共にしてきた友。
エヴァ「また、私は人を不幸にしてしまったよ…」
人形「…」
私には友の声が、確かに聞こえていた。
22-511 名前:『lic lac la lac lilac』4[sage] 投稿日:2006/01/04(水) 00:33:32 ID:???
まだ真上から傾き始めたばかりの陽の下。裏口から屋敷を抜け出て、ただただ走る。遠退く賑わいも気に留めず、葡萄の生った木々が列を成す畑を過ぎ、屋敷の敷地を裏から囲む暗い森に入っていった。
冬子守り歌が動物の寝息を指揮する寒さの中、獣の足跡をなぞって、凍る土の上に積もった枯れ葉の柔らかな坂を登り続ける。心は空っぽで、瞳は渇き、残るは深い深い虚しさだけ…。
どれくらい走っただろう。鼻や耳が赤らんで、痒さを伴うほどに熱を奪われた頃、左右に深く広がる森に恐怖を植え付けられた。
彼方から呼び掛る遠吠え。茂みに体を潜めた野獣の息遣い。眼を白く灯らせた鳥の飛び去る羽音。久しく触れていなかった孤独に、情けなくも私は翻弄されてしまった。
まるで夜のように光を奪われたこの地は、鬱蒼たる森林の繁茂するままにあらゆるものの存在を隠している。今、何かが私を見つめ、涎に顎を湿らせているとしても不思議ではないのだ。
焚き付けられた恐怖を私は抑えられず、行き先構わず足を早めた。辺りを見回しながら、髪を忙しく揺らし、荒くなる息と脈に余裕を奪われた。
自然と私は安心を求む心に導かれ、樹々の狭間からちらついた光に気付くと、それが何の光であるかさえ気にせず、それがある方向に爪先を向けた。
昼も夜も違わぬ森の下から、草木の禿げた土の床に迷い込んで気付く。そこには、大きく開かれた樹海の穴があった。
煌々と囁き合う星々と何処で目にしたよりも大きな満月が、私とその後ろ、森山の麓で賑わうあの村を照らしていた。
月の指す方に振り返る。昨日まで、いや、今朝まで穏やかだった日々の痕跡が、そこにはあった。


涙が溢れて溢れて止まらない…。
どうしていいか、わからない…。
ただ、ただ、流れる涙に戸惑うばかり…。

でも、わかっている。泣くしかないのだ。再び涙が渇れるまで、泣き続けるしかないのだ。
情の込められた人形も、いつの間にか訪れたこの夜だけは、一言も語りかけてくれなかった。
22-512 名前:『lic lac la lac lilac』5[sage] 投稿日:2006/01/04(水) 00:35:38 ID:???
エヴァ「んん…ん?…ここは?」
茶々丸「あ…マスター、目を覚まされたのですね?」
見慣れた、そして懐かしい木製の天井が広がっていた。私の両手足、この体を支える寝台はやわらかで温かい。私の家、ここは私の寝室。
茶々丸「世界樹に寄り掛ったまま熟睡されていたようなので、私がおぶって来ました。あのままでは風邪をひいてしまいます」
エヴァ「あぁ、そうか…世話をかけたな…」
茶々丸「いいえ、マスター。それでは、私は夕飯の支度がありますので」
わずかな音も立てずに、茶々丸は優しくドアを閉じた。
それから、時計の針が一度か二度、分を刻む軋みを響かせた。調理台のある部屋から、食欲を誘う香りが早くも漂ってくる…。


窓を通して、夜の帳を尚も照らす学園都市の照明を眺め、世界樹を仰ぎながら目にした静かな夜景を懐かしむ。そして、あの哀しき夢も…。
そう何度も見る夢じゃない。数年に一度、断片的に思い出すくらいだ。
魔女狩りという恐怖の暴走が、政治に操られ始める少し前。私がこの身になって、ほんの二十年も過ぎてない頃だ。
魔法も使えず、人形も操れず、の生き延びるのに困難だった時期。まだ、人間に戻れる日が来るのではないか、という淡い希望を捨てきってはいなかった。
いつか、この呪いが解け、苦痛を伴わずに陽の下を歩けるようになるのだと信じていた。
今からすれば、馬鹿馬鹿しい幻想だが、それが当時の自分の生きる意味だった。その希望だけを手に、生き延びていたのだ。唯一の友と共に…。
エヴァ「そうか…あの頃から、一緒だったのか…」

夢を見て思い出すこともある。今の私に、ナギの夢を見ることはできるだろうか…。
鮮明な記憶となった哀しき夢の夜に見た夜空は、やはり、この星空と同じ。寄せる思いの無力さを知った、あの夜の星空と同じ。
22-513 名前:『lic lac la lac lilac』6(1)[sage本文が長くてエラー出たorz] 投稿日:2006/01/04(水) 00:41:18 ID:???
樹々の狭間を抜ける風もなく、露垂れる葉も揺れることなく、北の精が森に居座ってしまったかのよう。冬将軍の剣は鋭く、容赦ない。
踏まれた草が音を立てて折れる。土すらも軋む。頭を振れば、髪からは霜が砕け落ちる。肌と身が離れてしまったかのような寒さだ。加えて、この身を包むものは屋敷からの褥だけ。
吐く息はもう白くもない。腹も空いた。森を何日も歩き続けた素足は、小石を踏んでも痛まない。全てが虚ろになりつつある。吸血鬼とはいえ、死なないだろうが、辛い。

赤く部屋を照らす暖炉、食卓に並べられた湯気を引くスープ、綿毛で肌を掻く冬着、幾重にも枚数を増した夜着…

ほんの数日前まで続いていた幸せの残像が、憎たらしいほどの再現をもって私の心を弄ぶ。今思えば、有り得てはいけないほどの幸せだった。そして、もう終ったのだ、その日々は…。

気付けば、星たちが音を立てて落ち始めていた。欠けた月は、もう満月とは程遠い有り様だ……フン、それはつまり私のことか?
22-514 名前:『lic lac la lac lilac』6(2)[sage本文が長くてエラー出たorz] 投稿日:2006/01/04(水) 00:42:27 ID:???

そろそろ町か村かを見付けて、食べる物を探そう。それに着るものも欲しい。褥の他に私の素肌を隠すものは何もないのだから。

夜に潜む我が儕たちと同様、夜は私の刻だ。ここに私を射る陽はいない。私は身を隠す布を自ら脱ぎ、蝙蝠共に命じた。

"敬意を払え、我が儕にして衣を織る糸よ"

けたたましい羽音と無数の黒に包まれ、私は漆黒の衣纏う吸血鬼になった。
友を腕に抱いて、私の両足は地面を離れる。落葉をも舞い上げて、枝葉の天井を突き破る。螺旋を描いて宙に浮いた私は、周りの光景を知って息を呑んだ。
そこから見えた眺めは、この世には自分ひとりしかいないのではないかとさえ思わせる果てしないものだった。
彼方まで広がる樹木が眼下を埋め、頭上には恐ろしいほどの迫力を持って星空が覆いを成していた。月の何と明るいことだろう…。
蝠蝙譲りの羽をそのまま鋭く尖らせて、遠ざかるばかりの月に向かって、私は森の上を走ることにした。
どれも似通った森の屋根が足の下を延々と過ぎていく。夜を作る森なだけあって、土が覗く箇所はなかなか見当たらない。この限りなく続く屋根の下だからこそ、陽の眼を避けて私は宛てのない旅を続けられたのだ。
エヴァ「町に付いたら針と縫い糸を手に入れよう。お前の服も少し綻びてきたみたいだからな」
人形「…」

北訛りの風が吹き付けてきた。しかし、私は速度を緩めない。前方の森と空の境目に、人の灯りを見たからだ。
22-515 名前:『lic lac la lac lilac』7(1)[sageやっぱりエラーorz] 投稿日:2006/01/04(水) 00:45:42 ID:???
町中に敷き詰められた石畳は潤っているように見え、それぞれが月明かりを溜め込んでいる。
行き交う人々が靴か車輪かで磨いたその人気のない路に、私は素足で舞い降りた。ひんやり冷たい石の鼓動が伝わってくる…。それすらも暖かいと感じる私は、まさに溶けない雪だ。
その雪さえ溶かすほどの温もりが、路の両脇の蔀窓から洩れている。人の点した煉瓦色の灯りが、蔀窓の隙間から路に人の気配を映し出す。
私にもこの幸せの影が触れた。温かい…。この温もりが懐かしく恐ろしい。それは私に、安息と狂気の葛藤を与えるからだ。
私が純粋な人間ならば、この葛藤はないのだろうし、逆に完全な化け物になれてしまえば、これもまた同じことだ。
人間でありたい、しかし、私は紛うことなき化け物。
私はこの町に来た。本能が愛する月よりも、彼方に見えたこの町の灯りの方が、どこか少しだけ自分に近く感じられたからだ。
人の手によって汚され、それでも触れていたいと思う心は、正しいのだろうか…。何故、私はこの町に来たのかわからない。
人の温もりを求めて来たのか、それとも、群れる羊に潜んだ狼になったのか…。
22-516 名前:『lic lac la lac lilac』7(2)[sageやっぱりエラーorz] 投稿日:2006/01/04(水) 00:46:39 ID:???
この町の表層は、あの村と同じくどれも笑顔だ。怖れても仕方ない。私は黒衣を身に巻いたまま、町の中を調べることにした。
腹も鳴っているし、服も欲しい。特に、服は今夜の内に手に入れなけねばなるまい。朝陽と共に素肌を晒す気はさらさらない。
とはいえ、この時刻に子供の私が町を歩き回るのは、少し具合の悪い話だ。私は蝙蝠羽を広げ、人目を気にしながら、再び舞い上がった。
この町を囲む森が見えたが、それはもう嫌というほど見てきた。見たいのは町中だ。私は静かに、密やかに、並ぶ家々の屋根に降りた。こういう時、軽い体は便利だといえる。
息を忍ばせながら、屋根に足を這わす。屋根は煉瓦質な板の重なりで、誤って瓦を動かせば色々と厄介なことになる。だから、慎重を要する仕事だった。
実に少ないが、一応、道を行く人は見掛ける。艶やかに光を返す湖面のような石畳に、眼が焦点を失っていたが、徐々に眼が慣れてきた。そして、通りを見張る吸血鬼の眼は"あるもの"を捕えた。

他と異なる貴族風な屋敷の門から人が何人か、それぞれに黒い外套を着込み、囁きながら玄関先の馬車まで歩いている。その馬車も黒い。
囁き合う影たちの中に、その"あるもの"はいた。夜よりも黒い外套に栄える白い肌。そんな美貌を備えた若い女の姿を、屋根上の吸血鬼は見た。
22-517 名前:『lic lac la lac lilac』8(1)[sage] 投稿日:2006/01/04(水) 00:49:48 ID:???
口元を滴る体液は温く、鼻孔を擽るはチカラの匂い。満悦に歪む頬は紅く血塗られ、女の柔肌を貫いた二本の剣は上唇の下で月に応えた。
気付くと、周りで黒い外套の人間たちが、慌て乱れ叫び逃げ狂っていた。私は素足で血溜まりに立ち、傍らには例の若い女が首の辺りを噛みきられ言絶えていた。

やったのか…

本能が再び眠りについた今、私は事態を把握しながらも、高揚する肉体を悦んでいた。吸血の儀を終えた今は気持ちが良い。
しかし、人の心が完全に戻った時、それは罪悪感と恐怖に変わる。罪悪感は命を奪うという捕食行為に。恐怖は、これで自分がまた一歩、人間から遠退き、化け物に近付いたという感覚に、だ。
女と共にいた人間共の無駄に張り上げる声で、町が目を覚まし始めた。静かだった蔀の向こうはざわめき、扉や窓の開く軋みがあちこちから聞こえてくる。
このままだとマズイ。私は逃げる為、黒衣の羽を広げ、灰色雲の渦巻いた夜空を見上げた。暗雲の彼方に潜む月は、雲を透かし、まだ私に訴え続けている。"もっとやれ"と。
22-518 名前:『lic lac la lac lilac』8(2)[sageまたエラー…] 投稿日:2006/01/04(水) 00:50:48 ID:???
しかし、私はそれを拒んだ。躊躇いはわずかで、私はすぐに体重を風に委ねた。町のどの建物よりも高い位置にまで舞い上がり、目下の様子を眺めた。
通りに人が流れ出始め、数人が灯を手にし、口々に「殺しだ、殺しだ」と声を大にしている。
私と共に黒衣で包まれた人形は、瞼を持たず、事の経過を懐で見守っていた。生きていないかのように無口な友は、私の全てを受け入れてくれている。この、化け物である私の全てを…。

ん!?

ここで、自らの心に語りかける声は途絶えた。魔力の作動を感じる。何処だ?…足元…町の中!?
真下を見下ろして、そこに全ての集中を注ぐ。何処だ?魔法使いか?この町に魔法使いがいる!?
宙に浮いたままでは、格好の的になる。追尾型の光矢でも射たれたら逃げ切れない。通りを行き交う野次馬たちを観察し、魔法使いを探す。見当たらない。
通りから屋根の上を狙うことは、まず無理だ。屋根の上に隠れて難を逃れるしかない。それでも、魔法使いが屋根まで来れば無意味だが…。蝙蝠羽を三角に伸ばし、足下の屋根の上を目指して空中を突進する。
近付く屋根に手を伸ばす。次の瞬間には、屋根に着地しているだろう。しかし、不意に寄せた視線の先に、私は不吉な光を見た。焦茶色の外套を着込んだひとりの男が通りに立ち、短めの杖の先端をこちらに向けていた。
22-519 名前:『lic lac la lac lilac』9[sage] 投稿日:2006/01/04(水) 00:53:36 ID:???

『FLANS EXARMATIO!』

ちっ!武装解除か!

道端の男は呪文を唱え、杖射す先の私には荒風が巻き起こった。風は私から翼を奪ってゆく…まだ羽無しでは飛べない私から…。
蝙蝠共が黒い雲になり散っていく。通り上空から屋根に急降下していた私は重力を思い出し、屋根上の代わりに、屋根端の下の硝子窓に突っ込んだ。幸運なことに壁じゃない。


蝋燭の揺れる炎が夕陽色に染める壁を目にしながら、節々が傷む体を起こす。飛び込んだ部屋の中を見渡し、ここが書斎であると確信する。
さぁ、ここからどう逃げようか。逃げ道になりそうなのは、備え付けのドアと、私が作った閉じない窓だ。窓は駄目だろう。魔法使いが迫っているはずだ。だからといって、ドアの向こうは更なる檻の中。
痛む頭を抱えながら動物的本能で生きる道を探す。どうすれば逃げられる?眩暈が邪魔だ。ドアが二つに見える。頭を強く打ったらしい。
二つのドアが同時に開く。向こうから、一人づつ同じ姿格好の子供が覗いた。残念だ。やはり、ドアはひとつらしい。怯える様子もない妙な子供を眺めつつ、無駄に悔しがる。小僧、何をするつもりだ?
子供「Evangeline.A.K.McDowell……呼ぶときは"エヴァ"でいい?」

は?

考える間もなく後ろの窓を人影が塞ぐ。魔法使いだ。しかし、魔法使いの男はなかなか私を襲う素振りを見せない。これじゃあ、歪む視界に悶える私が馬鹿みたいじゃないか。

男「よりによって私の部屋に墜ちたか…私がそこに行くまで、シャントト、お前はそいつに触れずに待っていなさい。Evangeline、君には少しの間、眠っていてもらうよ」

魔法使いは再び杖を構え、聞き覚えのない言葉を唱えた。眠りの呪文か何かだろう…。無地の壁に宿った蝋燭の灯りを前に、私の意識は遠くなっていった。
22-551 名前:『lic lac la lac lilac』10[sage] 投稿日:2006/01/04(水) 23:55:57 ID:???
耳傍を擽る従者の囁き。ここは…?

茶々丸「マスター、起きてください。夕飯の支度ができました」
趣味に合った木目の天井に茶々丸の顔が覗き出ている。私は寝台で上半身を起こすと、額に滲んだ汗を手で拭った。ゆっくりとした瞬きの合間に呼び起こされる記憶。私は何の夢を見ていたか…。
茶々丸「マスター?大丈夫ですか?悪い夢でも見ていたようなので…」
エヴァ「大丈夫だ…いや、ちょっと待ってくれ」
荒くなった息を整える。気付けば、肩で息をしていた。下着が汗で湿っているのがわかる。
茶々丸「マスター、私は着替えを用意してきます」
エヴァ「ああ、そうしてくれ」
濡れて鋭く固まった髪が重くなって揺れている。紅潮しているだろう頬を撫でながら、夢について、つまり、思い起こされる過去について考える。
エヴァ「あの後、目覚めたときもこんな風だったな…あそこは落ち着きがなかったが」

木の香を籠める天井に再び目をやりながら、深呼吸を二度三度と繰り返した。窓から外のただ真っ黒な空間を眺める。
唾を呑むと、ごくりと大きな音が耳に響いた。鼻息さえも耳に煩い。それでも静かだと感じる、もちろん、あの場所と比べて、という意味だが…。

着替えを手にした茶々丸が戻ってきた。
エヴァ「何の夢を見ていたか、訊かないのか?」
茶々丸「はい」
エヴァ「興味ないか…」
茶々丸「いいえ、違います」
エヴァ「ん?…どういう意味だ?」
茶々丸「悪い夢なら、思い出して欲しくないので」
エヴァ「あぁ、そうか。いや、違うんだ。悪夢じゃないんだ、結局はな。むしろ、良い夢でもある。苦悩を伴うが…」

そう言いながら私はやはり数百年の時を遡り、あの時、あの場所の、夢の続きと戯れた。
それは悩ましく、しかし未熟の薫りを秘めた若き日々。
22-552 名前:『lic lac la lac lilac』11(1)[sage] 投稿日:2006/01/04(水) 23:59:32 ID:???
突如にして起きた農奴の反乱。安住の崩壊。その場で殺されるもの、後で殺されるもの。持ち出される家財。相次ぐ略奪。

自室の窓から奮起する農奴共を見ていて、こうなることは確信していたけれど…。乱暴に扉を開け、男達が部屋に入ってきた。その内のひとり、白髪混じりの皺の深い男が、力一杯に私の腕を掴んだ。
男は下劣な訛りに声を張り上げ、他の農奴もそれに声を合わせた。奴らは私を悪魔と罵り捕え、虐殺の材料に喜んでいる。
無抵抗に従っていると、逆に懐疑心を刺激したのか、奴らから畏怖の念の卵を感じた。
そのまま連れられ、鮮やかな草花が淫らに肌を染める領主御自慢の庭園まで来る。しかし、そこにかつての華やかな庭はない。花粉撒く娼婦たちは泥に塗れて、足元に伏していた。
美しい皿が並ぶはずだった大食卓が庭の中央に置かれ、支配者を灰にする祭壇と化している。屋敷の者たちがその脇に自由を奪われ、死ぬ順番を待っていた。
今朝まで笑顔で世話をしてくれていた顔は、今や絶望に殴られ青褪めている。そして、その中に領主の姿を見付け、私も青褪めた。
藁が積まれ、胴を括る丸太木の杭が付いた台が卓に乗せられた。これから皆、灰になる。恐らく、私だけを残して…。
次々と焼かれていく新しい家族。そして、私と領主の番が来た。反乱の頭が炎の揺れる炬を片手に、私達の前を行き来し、いやらしい目つきで私の体を舐めた後、大衆に向き返って雄叫びを揚げた。
男の持つ炬は火の粉を散らしながら、ゆらりゆらりと遊ぶように領主に近付き、男の小言と同時に藁に沈んだ。

うわぁああああ!!

炎の中の領主に私は叫ぶ。声が渇れるほどに。
22-553 名前:『lic lac la lac lilac』11(2)[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 00:00:59 ID:???


ハッ………

悪夢から逃げるように眼を醒ますと、そこには見慣れない天井を背景に子供の顔が覗き出ていた。寝台で横になっている私の手足は、奇妙な疲労感を帯びて思うようにいかない。
乱れた息を整える。気付けば、肩で息をしていた。下着が汗で湿っているのがわかる。
唾を呑むと、ごくりと大きな音が耳に響いた。鼻息さえも耳に煩い。それでも静かな音に感じる。それ程に、窓の向こうは騒々しい。
側では、安物のブランケットに顔をうずめながら、あの魔法使いが寝ていた。手に杖を掴んだままだ。夢の中でも盗み見られたか…。
私の顔を覗く子供の顔は悲しそうで、同情に満ちていた。そういえば、何故、この子供は私の名前を知っていたのだろうか?
22-554 名前:『lic lac la lac lilac』12[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 00:03:58 ID:???
傍らの魔法使いが目を覚まし、納得したような優しい眼つきで語りかけてきた。気に入らない眼だ。
男「悪いが、夢を透して記憶を見させてもらった」
エヴァ「そのようだな」
男「前もって言うが、そもそも私には、君をどうこうするつもりはない。不死者の恨みを買うのは御免だからな」
エヴァ「そうか、なら今すぐ逃がしてくれ」
男「そう望むのなら、そうしよう。しかし、約束して欲しい。この町には二度と近付くな」
エヴァ「……約束などできんな。したとしても、明日には破ってやる」
男「…困ったな。それなら、自衛の手段として、やることはやらせてもらうぞ」
エヴァ「何をする気だ?」
男「君を人間にする」

今、何と言った?

男「君をどうこうすることが私の目的ではない。しかし、敵に同情を寄せる余裕も私にはない」
溜め息を吐いた魔法使いは、軽く瞼を閉じ杖をこっちに向けた。
エヴァ「ちょっと待て、どうやる気だ?」
男「吸血鬼の力を奪う。それだけだ」
エヴァ「お前は真祖の吸血鬼を人間に戻す方法を知っているのか?」
男「今やろうとしている」
エヴァ「本当に戻せるんだな?」
杖を握ったまま、男は閉じかけていた瞼を上げた。見開いた眼は、若干驚いたようにも見えたが、しかし、どこか芝居染みている。
男「君は人間に戻りたいのか?」
エヴァ「……ぁあ、そうだ」
魔法使いは嘆息に老けた顔を若返らせ、下手な芝居を続けた。
男「ならば止めよう。本物の人間に戻す方法は、まだ知られていない」
魔法使いが次にどんな言葉を続けるか、無表情のまま私は詮索する。
男「君自身で探すしかないな。この部屋の向こうに、君が飛び込んだ書斎がある。そこに吸血鬼の秘術に関する書籍がある。自由に読んで構わない」
エヴァ「それで、お前は私をどうもしないのか?」
男「さっき、言っただろう?それに、私が君を捕えた理由は、何よりも保身だよ。この町で魔法が悪く作用することは避けたい。私まで町を追われかねないからな」
こういう脚本だったか、と鼻で笑うところだ。それを止めて良かったと思わせる真実の台詞が後に続くまで、私も無表情の芝居を続けた。
男「それに、あの村の一揆で生き延びたお姫様と知れば、悪くはできないさ。実は、君が世話になっていた領主に私も恩があってね」
そういうことか。
22-555 名前:『lic lac la lac lilac』13(1)[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 00:05:52 ID:???
それからのわずかな会話の後、魔法使いと子供は部屋を出て行った。賑やかな外から遮断されたここに、私はひとり残してもらえた。

この両手足の倦怠感が魔法の仕業でないとすれば、魔法使いは本当に私を拘束するつもりがないらしい。今にでも、私は蔀を破って通りに出ることができる。
しかし、逃げ出す気が不思議と起きない。理由はわからない。でも、何とも言えない安堵感が付き纏うのだ。前の村の屋敷を訪れた時のように…。

ん?

今更、思い出して、ブランケットの中を確認する。ぉぃぉぃ…服着てないじゃないか…。
脳を無駄に高速回転させ、色々と恥ずかしい光景を想像する。過去も何もかも見られた…。あ〜、もう死にたい…。くそぅ…。

そんな憐れな私をからかう視線が感じられる。視線を蜘蛛の糸のように手繰り寄せ、蔀間から洩れる直線の陽光を浴びた我が人形を、家具の上に見付けた。眼が笑っている。鋭い眼で睨みつけたが、友の眼は笑い続けた。
寝台から這い出て、友の肩を揺らしてみるか、または顔を背けさせるかしようとしたが、扉を越えて響いてくる足音に阻まれた。
私はより深くブランケットに潜り、目から上だけ顔を出して、扉に視線を注いだ。
22-556 名前:『lic lac la lac lilac』13(2)[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 00:08:03 ID:???
扉は激しく軋みながら開き、忙しい雑音が流れ込んでくる。例の魔法使いが子供と一緒に顔を見せ、両手に持った衣類を大袈裟に見せびらかした。
男「着るものを持って来てやったぞ。生憎、男のものしかないが………」
エヴァ「な…なんだよ…」
魔法使いはブランケットを透視するかのように私の胸元に軽く目を落とし、溜め息を吐いたことを誤魔化しながら、笑顔で言葉を続けた。
男「…男の服でも平気だろう」
エヴァ「うるさい」
からかっているつもりか?どいつもこいつも…
男「まさか、何も着ないままでいる気か?」
エヴァ「とりあえず、今はそれで我慢してやる」
魔法使いの男は別として、傍らの子供が特に気に入らない。無垢だからこそ隠さないのか、気味が悪いほどにニタニタしている。私と魔法使いのやり取りを楽しんでるみたいだ。
そういえば、この小僧、私の名前を知っていたはずだ。この家に墜ちた時、悶える私に向かって名前の呼び方を訊いてきたのを覚えている。
エヴァ「おい、魔法使い」
男「なんだい?」
いい加減、その堪えた笑いを止めてくれ…
エヴァ「このガキは何だ?」
ついに魔法使いは、笑いを堪えるのさえ諦めたらしい。男にしては高い声で、魔法使いは女々しく笑った。
22-557 名前:『lic lac la lac lilac』14[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 00:09:55 ID:???
男「君の言いたいことは、いや、訊きたいことはよくわかる」
エヴァ「だったら早く答えろ」
男「シャントト、来なさい」
魔法使いは子供を自分と私の狭間に立たせると、笑いで乱れた呼吸を整え、端の震える唇を開いた。
男「さて、エヴァンジェリン。何か言葉を思い浮かべてくれ」

"裸"

ぉうあ〜!従ってしまった!
子供「"裸"…だって」
男「合ってるか?」
エヴァ「違うな、思い浮かべたのは"月"だ」
子供「うん、合ってるって」
エヴァ「ぅおおい!違うって言ってるだろ!」
子供「"ごまかすしかない"だって」
男「それは、お父さんにもわかるぞ」

ぎゃ〜〜〜〜!!

厄介なシャントト坊やの読心術披露は数十分に渡り続けられ、魔法使いの親子が飽きた頃には、私は心労でぐったりしていた。

エヴァ「つまり、常に心を読むことで、私を完全に監視していたというわけか」
親子揃って、首を縦に振る。嗚呼、憎たらしい…。話を聞けば、このシャントトとかいうガキは他人の心が読めるらしい。なんて迷惑な才能だろうか。
エヴァ「心を読むなと言っても無駄だろう……」
こら、頷くな。
エヴァ「……しかし、着替えの時はひとりにさせてくれ」
頷け。よし、良い子だ。
22-558 名前:『lic lac la lac lilac』15[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 00:11:34 ID:???
二人を部屋から追い出すと、私は着替えを始めた。雑多な綿で織られた服をブランケットの上に展げ、色々と感想(むしろ文句)を述べる。何よりもまず、真祖に相応しくない。
しかし、何も着ないわけにはいかず、渋々、着替える。あのシャントトとかいうガキの服か?微妙に私の方が体は大きいようだ。例えば、袖が足らない。それに加え、あぁ…、やっぱりだ。
扉を少し開け、わずかな隙間に顔を突っ込み、廊下で待機する二人に注文をつけた。
エヴァ「服が小さくて腹が出る。もう少し大きいのを頼む」
男「シャントトの服だと、それ以上の大きさは無いぞ」
エヴァ「あ〜、じゃあ、お前ので構わんから持ってこい」
男「シャントト、見張ってろよ」
魔法使いは何処かの部屋に服を取りに行ったようだ。フン、なかなか従順じゃないか。戻ってきた魔法使いから服を受け取り、再び部屋に閉じ籠る。
うぁ…、大きい…。鏡の前で大き過ぎて着れない服と悪戦苦闘する。私が着ると、まるでワンピースのようだ。ふと思いついて、再び注文しに扉を開けた。
子供「はい、これでしょ?」
シャントトが手渡してきたものは細めの帯。そういうことか、やられた。
エヴァ「心を読んだのか?」
シャントトは自慢げに頷いた。
22-559 名前:『lic lac la lac lilac』16(1)[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 00:14:28 ID:???
茶色を脚に穿き、胴続きの草色のワンピースを黒い革紐で腰に結び付け、とりあえずの間に合わせとする。
質問攻めにしてやるつもりで二人を部屋に招き入れたが、親の魔法使いが訊いてもいない問いに勝手に答え始めた。
男「まず、人間に戻りたいという君の願いには協力しよう。さっきも言ったが、書斎にある魔法関連の本は好きに読んで構わない」
エヴァ「見返りには何を望む?」
男「家事全般だな。飯作れ、部屋掃除しろ、洗濯もだ」
真祖の私が雑用係?こいつらは、そんなことをやらせるために私を保護したのか?思わず不機嫌が顔に出る。
男「居候の上に書斎を貸してやるんだ。そのくらいの条件は呑め」
そんな使用人の役目は私の自尊心が許さない。第一、何不自由なく育ってきた私に、家事などできるはずもない。自信を持って誇れるのは、好きでやっていた針仕事くらいなものだ。
エヴァ「飯作るのも掃除も洗濯もやったことはないが、それでもいいなら…」
男「シャントト、教えてやれ」
子供「うん」
苦し紛れの言い訳も通用しない。初めからそうだが、こいつらは強引なんだ。しかも、やけに子供っぽい。
エヴァ「なんて奴らだ…腹立たしい」
子供「あ、本音を隠さなくなったね」
エヴァ「お前が筒抜けにするからだ」

確かに、書斎を自由に使えるということは、私にとってこの上なくありがたい話だった。人間に戻れるかもしれないという淡い希望については勿論だが、
この機会に魔法についての知識も得ておいて損はないだろうからだ。魔法関連の本に触れられる機会は極めて少ない。これは好機だ、魔法を学ぶための…。
22-560 名前:『lic lac la lac lilac』16(2)[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 00:15:11 ID:???

魔法使いは思い出したように表情を改めて、外界から陽射しを受ける蔀を指でつついた。
男「今は昼間だが、なんでこんなに外が賑やかだか、わかるかい?」
エヴァ「私のせいか…」
男「さっき、外を見てきた。悪魔が現れたと騒ぎになってる。しばらく外には出ない方がいい」
エヴァ「そうか…すまないな。迷惑をかける」
男「好きでやってる人助けだ。迷惑なんて思ってないさ」
魔法使いはシャントトの肩に手をそっと置き、目は遠い彼方にはたたく彼なりの悲愴に落ち着いていた。私はその目に心惹かれた。自分と同じ寂しさが籠められているように思えたからだ。
詰る所、これは傷の舐め合い。忌み嫌われる宿命を背負った者同士、一本の傘の下に隠れているだけ。
魔法、魔力といった類のものは、大概、禁忌とされる。人間は自分らを脅かす存在に容赦しないものだ。
しかし、"人間"は望んでもいる。強大な力や永遠という驚異を貪欲に、そして無差別に求める。それがどんな不幸であったとしても、構わず自分のものにしたがる。

そして今の私は、"吸血鬼"から"人間"に戻ることを望んだ。
22-561 名前:『lic lac la lac lilac』17[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 00:17:52 ID:???
エヴァ「…いや、やはり話すのは止めよう」
恥ずかしいからな…。
茶々丸の持って来た服に着替えながら言葉を続ける。唇は曖昧な単語を刻み、何とも意味を持たない一続きの言葉を綴り終わると、私は茶々丸に向き直った。
エヴァ「言うなれば、私が最弱最小の吸血鬼だった頃の話だ」
茶々丸は黙って私の全体を眼球のレンズに映している。レンズの中の着替える自分を意識の外で確認し、その姿を意識の内に引きずり込んだ。
夢を経た体がまだ微かに残る感覚で、シャントトの服の小ささを訴える。あれ以来、私は自分が他よりも大きい体なのだと感じることは稀だ。
成長のしない肉体が時の経過を忘れさせる。毎年と変わらぬ年齢の身体は衣服の寿命より長くそのままで、足らぬ袖に憤りを感じることもない。

エヴァ「茶々丸」
茶々丸「はい、マスター」
エヴァ「明日、適当な店で服を買うぞ」
茶々丸「服を?」
従者は電算の入り組んだ心で意図を汲み取ろうとしている。服は手作りと決めているのに何故?と習慣に反する事態に困惑を隠さない、そんな正直なお前が好きだ。
エヴァ「ああ、服だ。今回ばかりは手作りでは面白みがない」
茶々丸「わかりました。では、後で学園内から適当な店をいくつか探しておきます」
エヴァ「頼む。私より少し小さいサイズの服が欲しいんだ。着れなくはないが、着るには小さい服が…」
言い終わる寸前に、自らの異常に気付く。小さい服で何をしようというのだ。きっと、あんな夢を見たからだろう。どうかしていた。
エヴァ「…っあ〜、すまないな茶々丸。やっぱり今のは無しだ」
茶々丸「服は探さなくてよろしいのですか?」
エヴァ「ああ。探さなくていい。ほんの気まぐれに惑わされただけだ」

汗に湿った服を茶々丸に手渡し、私は食卓に向かう。木の質感をしっかりと足裏で踏み、あの町に初めて舞い降りた時の石畳と比べる。
そして、食卓に向かう自分の像は夢に流れる時に呼び掛け、また異なる過去の情景で私を覆う。
別れを悲しむと知りながらも尚、出会いを喜び求む、時の経過を知る心の一時の慰めが思い出されてならないのだ。
22-562 名前:『lic lac la lac lilac』18[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 00:20:01 ID:???
人形片手に木目の軋む階段を降り、食卓に並ぶ暖かい食事の匂いを想像して鼻を利かせる。
そこには、あの村の屋敷にある大卓と異なり、小さな小部屋に小さな小卓が置かれていて、三つの小さな小椅子がその周りを囲っていた。何もかもが小さいので、自らも含め、全ての他の家具が大きく見える。
魔法使い、シャントト坊や、私の順に席に腰を下ろした。疑問と決めつけに満ちた沈黙が、布擦れの音まで大きく感じられるほどに気まずく流れる。
理由は実に簡単だ。食卓には何も並んでいない。
エヴァ「…何も出ないのか?」
男「君が作るんだろう」
子供「料理、掃除、洗濯…の中の料理」
エヴァ「今日から…なのか?」
男「君は昨夜から居候してるんだが」
子供「最初は手伝うよ。ほら、立って」
強制的に料理をさせられる羽目に陥った私を、代わりに椅子に座した友なる人形が、やはり馬鹿にする目でこちらを見ていた。癪に障る。
私の心を読んでか、側のシャントトが芋を洗いながら言った。

子供「友達の"チャチャゼロ"に笑われてるよ。ほら、ちゃんと洗って」

その一言で、シャントトが差し出した芋を受けとる余裕などなくなった。
エヴァ「チャチャ…ゼロ?」
目を丸くして小僧は驚く。そして、また心を読んだのか、問いを先取りして答えていく。
子供「君の友達の"あの人形"には名前があってね、あぁ、自分で付けた名前らしいけど、"チャチャゼロ"っていうんだって。うん、え?、読めるのは人の心だけじゃないよ。人形だって、草木だって、心があれば読めるんだ」
エヴァ「お前…」
子供「チャチャゼロの言葉を代弁しようか?"シッカリシロヨ"だってさ。ほら、芋洗って」
冷水を抱えた盥で芋の泥を洗い流しながら考える。全てシャントトに読まれているだろうが、もう構ってはいられない。
私が旅に連れていたのは単なる人形ではなく、本当に、語らぬ親友だったのだから。
22-593 名前:『lic lac la lac lilac』19[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 19:04:46 ID:???
舟から見た陸地のように濃紫色の雨雲は流れ、川を下る桴の如く町は為れるままに時を過ごしていた。
石畳に溜った雨水に、次なる雨が波紋を重ねる。屋根から垂れる雨水は過去の涙の跡を辿り、石の窪みを更に深いものにする。
雨降る毎に繰り返されてきた風景が、今日もまた何ひとつ変わらず繰り返される。初めの雨はいつの事だか、私がこの町に来たのもいつの事だか…。

一際暗い雨降りが数日と続き、一向に晴れる気配はまだない。しかし、それも私には関係のないことだった。揺らぐ灯に蝋を融かしながら、難解な書物と格闘しているだけの毎日だからだ。
傍らには何時も離れずチャチャゼロがいる。何もかもが充実していく。本当の友、新しい家族、ついに終わる苦渋の日々…。

説き明かされていく吸血鬼の秘術。思うに、実体験が大分の助けになったはずだ。十日の誕生日にされた儀式の記憶が、断片的で蒙昧に見える秘術の記述を確信的なものに変えていく。
そして、その複雑な糸の絡まりを解いた時、吸血鬼の永遠は絶えるだろう。
男「なぁ、エヴァンジェリン。あまり無理するなよ」
エヴァ「吸血鬼を見縊るな、…フフン」
魔法に対する知識も増えた。始動キーの存在、呪文詠唱と精霊の関係、体内から発する力と体外から取り込む力…しかし、全ては後回し。吸血鬼の呪いが解けるのなら、私は魔法などに頼りたくない。
シャントトのお陰で家事も得意になった。人間に戻った後で役に立つだろう。他にもシャントトには感謝することが山ほどある。シャントトは私とチャチャゼロの文字通り架け橋だった。
チャチャゼロの声、それが空想の域を越え、現実の触れられるものとしてある、それが何よりも心強かった。今までの長い人生、ずっと一緒だったからだ。

芽生えた絆は奈落よりも深い。死ぬまで、そして、死んでも続く絆だろう。
22-594 名前:『lic lac la lac lilac』20[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 19:06:41 ID:???
私の用意した食卓の席は、今や自慢になっていた。
エヴァ「美味いだろ、ははは、美味いだろっ!」
男「美味いから、そろそろ君も食べたらどうだ」
エヴァ「…いや、その…」
子供「味見でお腹いっぱいで、焦がしたやつも証拠隠滅したから無理だよ、お父さん」
エヴァ「ぇえい!だから、その力を秘密暴露に使うんじゃない!」

この賑やかさが大好きだ。妙な話だが、シャントトの迷惑な力のお陰で私は遠慮なく全てを話すことができたし、まずこの家には隠し事がないのだ。相手を疑う必要のないことが、こんなにも平和だとは…。


雨が止んだこの日。夕飯の後、私は久しぶりに外に出ることにした。勿論、チャチャゼロを抱いて。
私がこの町に来てから、何度か月が満ち欠けを繰り返してきた。そろそろ吸血の一件も世間から薄れている頃だろう。
とはいえ、通りに身を晒すと、魔法使いやシャントトに迷惑を掛ける事態になりかねない。手始めとばかりに、代わりに屋根に這い上がった。
屋根から見下ろした通りは以前のままだ。漆のように月明かりに応える石畳、煉瓦色の灯りを洩らす蔀の並び、夜空を圧倒的に支配する月…。
屋根の端から両足をだらしなく垂らし振り子のようにしていると、その脇からシャントトの声が聞こえた。
子供「外に出たんだ」
エヴァ「ああ、久しぶりにな」
子供「そっち、行ってもいい?」
このガキは知ってるクセに、敢えて尋ねたりする。いつも通りに返事を先取りしたらどうだ?え?
子供「ねぇ?そっち、行ってもいい?」
エヴァ「ほら、掴まれ」
そう言って差し出した手を、何の遠慮もなくシャントトは握り返した。吸血鬼の力で屋根上まで持ち上げると、坊やは満足げに微笑み隣に腰掛けた。
子供「人間に戻れそう?」
エヴァ「なんとかな。皮肉なことに、吸血鬼化の儀式の記憶が一番の手掛りだ」
子供「でも、戻れるなら…良かったね」
エヴァ「あぁ。もしかしたら、明日にも方法がわかるかもしれない」
子供「え!?すごい」
エヴァ「本気にするな。そんな気がしただけだ」
22-595 名前:『lic lac la lac lilac』21(1)[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 19:08:38 ID:???
坊やとの会話の間、私はチャチャゼロに関心を寄せていた。念願叶う私に、チャチャゼロはどのような祝福の言葉を投げ掛けてくれるだろう。

子供「実はさ、渡したいものがあるんだ」
シャントト坊やは遠慮がちに分厚い本を一冊、懐から取り出した。
子供「心を読める本だよ。これはその試作品」
エヴァ「お前が作ったのか?」
子供「うん。あまり詳しくは教えられないけど」
その本は月光に禍々しく栄えたように思えた。それくらいに魔術的な趣に満ちていたのだ。ラテン語の表紙に魔力を秘めた紋様を飾り、しかも無駄に重く厚みがあるのだから。
子供「これが必要になると思うんだ。それはもうエヴァの物。返さないでいいよ」
私は黙って受け取った。自ら親友の言葉に触れられる、その思いが心を支配していく…。
子供「僕はもう戻るね」
シャントト坊やは勝手に屋根を降り、窓から部屋に滑り込んで行った。構うものか、私とチャチャゼロの間にもう小僧は不要なのだ。
22-596 名前:『lic lac la lac lilac』21(2)[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 19:09:27 ID:???

月が妖しく掲げられている。雲は白く淀んでも見え、透明な明かりに漂っていた。彼処に行きたい。
もしかしたら、本当に人間に戻れるかもしれない。そして、その日は明日かもしれない。そうなれば、宵の空を舞えるのは今で最後かもしれない。
月の光を透さぬ黒い雲を、私は森の彼方から招いた。その黒い雲は目前で羽音と共に木の葉の如く散り、蝙蝠の羽と姿を変え私を包んだ。
私は吸血鬼。
チャチャゼロと本を抱え、空に向かって足を放した。この無重力な自由、私は忘れていた。今更だが恋しい。一度得た力は、手放すに惜しいものだ。しかし、心は揺るがない。
私は人間に戻る。所詮、これは最後の舞い。吸血鬼への月の誘惑は無駄に終わったようだ。私の決心は固く揺るがない、縦しんばそれが満月であっても。
月夜を游ぐ私は片手で易々と本を支え、風向くままに頁を捲った。最初の頁には使い方が書かれていた。シャントトの字だろう。面倒なので適当に読み飛ばす。
使い方の説明通りに"相手の名前"を唱え、声で心に語り掛ける。
人形の面が頁の上半分に浮かび上がり、下半分には文字が並び始めた。
ゼロ:"ケケケ…、久シブリダナ…"
エヴァ「最初の言葉がそれか?」
ゼロ:"最初ノ言葉?オイオイ…忘レチマッタノカ?アノガキニ会ウ前ハ、心デ言葉ガ通ジテタハズダゼ…"
エヴァ「どういう…」
ゼロ:"コンナ本ナンカ使ワナクテモ、心デ会話デキテタハズダ…"

私の中で何かが音を立てて壊れた。
22-597 名前:『lic lac la lac lilac』22[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 19:11:28 ID:???
ゼロ:"トリアエズ、ソノ本ニ頼ラズ話ソウゼ…"
私は雲の影の狭間を漂いながら、チャチャゼロとの交換日記的な会話を止めにした。自分の中に眠っていた何かが思考を埋め尽していく恐怖に脅えながらも、魔法の本を閉じた。
エヴァ「…本は閉じたぞ」
ゼロ「…」
エヴァ「人間に戻る念願を叶えられそうな友に、捧げる言葉さえないのか?」
ゼロ「…」
エヴァ「…話をする気がないのか?」
慎重に、そして徐に本の表紙を掴んだ。チャチャゼロの顔色を伺いながら、ゆっくりと本を開く。開きながら、頭の片隅で懐かしい声が響いた気がする。"ヤメロ"と。
エヴァ「なっ…」
後悔した。本を開くべきではなかった。友は悩んでいただけなのだ。私に捧げる言葉と、自分の正直な気持ちと葛藤していただけなのだ。
ゼロ「ダカラ、"ヤメロ"ッテ言ッタンダ」
手の震えを抑えながらも瞼を閉じる。シャントトの力、そして魔法の本の意味を今、やっと知った。
シャントトの力は、相手の心を知れる力じゃない。知らされる力だ。魔法の本は、会話のための道具じゃない。心を盗み見る道具だ。
魔法の本に綴られたチャチャゼロの心は、私にとって残酷であり、しかし対等なものだった。チャチャゼロは友として、常に私と対等だったのだ。その関係を侵したのは、私。

拭う涙を月明かりに誤魔化して、チャチャゼロの言葉を待っていた。しかし、沈黙が続くだけ。耳に入るのは、私のすすり泣く声だけ。
エヴァ「悪かったな。私は自分の事しか考えてなかったみたいだ」
ゼロ「…」
私が覗いてしまったチャチャゼロの心。閉じ忘れていた本には、それが深々と刻み込まれていた。

ゼロ:"人間ニナッタ、オ前ガ死ンデモ……オレハ死ネナイ"

束の間にして永遠。不死者の、あるいは永久を手にした者の、避けられぬ宿命。
ゼロ「何時マデ、コウシテルンダヨ?」
エヴァ「うるさいな…折角の黙だというのに…」
月の支配する今宵の空は、絶えぬ涙の無数を知って、共に瞬く星々を撒いた。
私は本を静かに閉じ、永遠に開かぬと誓った。涙に滲んだ星月夜は、私とチャチャゼロだけのもの。私は人間に戻らない。所詮、これは永遠の舞い。友を残して逝けるものか。
芽生えた絆は生死よりも深い。死ぬまで、そして、それは永遠と続く絆だろう。
22-598 名前:『lic lac la lac lilac』23(1)[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 19:13:17 ID:???
私を嘲笑う月は高らかにあり、寝静まる寸前の町を遥か天井から観賞していた。月は満月と新月に揺れる奴隷の舞台に興じているかのようにも思える。
隠れる気は既にない。堂々と夜空に舞い、町の細い空を覆うばかりに羽を広げた。
満月とも新月とも呼べぬ欠けた月は、私の腹を空かせる。牙は痒く、喉は生命の紅酒に渇いていた。まだ冷静な脳が理由を探す。
エヴァ「私はこの町から出ようと思う。また流浪の者となるだろう…」
ゼロ「…」
エヴァ「あの魔法使いや坊やには悪いことをしたな…」
ゼロ「…」
エヴァ「私は悪い奴だ」
ゼロ「イインジャネーカ?」
エヴァ「?」
ゼロ「別ニ、悪デモ、イインジャネーカ?」
エヴァ「そうか、悪か…。だとすれば、誰一人として善など誇れぬな…」
ゼロ「ケケケ…」
22-599 名前:『lic lac la lac lilac』23(2)[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 19:13:59 ID:???

高貴な町一番の屋敷を眼で捉えると、一直線に屋敷の窓を目掛け飛ぶ。風を切り、黒衣をはためかせ、誰の目にも留まらず屋敷の窓縁に張り付いた。
頬を窓硝子に寄せ、吸血鬼の耳は女の吐息を数える。九人は確かだ。
エヴァ「旅立つ前に、少しは腹を膨らませておこうか」
いとも簡単に窓は破られ、寝具に身を埋めた幼い女を部屋で見付けた。まだ子供だ。これを手に掛ける気はさすがにない。自分の肉体と然程違わぬ娘を見て羨ましく思った。
そんな人の心も束の間、家政婦が部屋の戸を開け、私の姿に声も出せないでいる。私は家政婦に飛び掛り、首元に吸血鬼の接吻を施した。
死なない程度に血を吸うと、私は食べ残しを床に突っ撥ね、勢いに乗せて廊下に飛び出した。
他の家政婦たちが私の姿を目にし、様々な反応を見せる。やはり声も出ぬ者、情けなく地に伏せる者、声を張り上げ助けを乞う者、手を合わせ届かぬ思いを天に捧げる者、皆々が私の餌食となった。
敢えて言おう、私は誰も殺していない。死なない程度の吸血だ。懐に隠れたチャチャゼロが呆れたようにケタケタと笑っていたが、やはり私に殺す気はない。
廊下の騒ぎを聞いて、愚かにも部屋から顔を出した女がいた。女の瞳が私を映したか知らないが、素早く近付き、首に印を残してやった。
貧血で倒れたその女を貴族の娘と判断し、私の食欲は急速に萎んでいった。満足したのだろう。廊下の離れた場所から足音が響く、そこから足音より早く男の臭いが漂ってきた。男に用はない。最も近い部屋に入り、そのまま窓を破って外に出た。
夜の翼は空を包む。今の私に残された仕事は、本の返品と別れの言葉だけだった。
22-600 名前:『lic lac la lac lilac』24(1)[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 19:16:13 ID:???
魔法使いとシャントト坊やが住む家の扉は他と違い、どこか近寄り難い風を帯びていた。しかし、やらねばならない。
ゼロ「ケケケ…別レヲ告ゲルノガ嫌カ?」
からかうチャチャゼロを無視し、戸に付いた小さな鐘に触れる。これを鳴らせば、全てが止まることなく終わりに向かうだろう。
いや、違うな。この町に訪れたときから、全てが止まることなく終わりに向っていたのだ、きっと。

私は戸の鐘を鳴らした。
22-601 名前:『lic lac la lac lilac』24(2)[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 19:19:05 ID:???
扉の中で物音がする。その物音がぴたりと消えた後、蝶番に支えられた戸が軋みながら開いた。あの魔法使いが顔を覗かせるとばかり想像していたが、顔を見せたのはシャントトだった。
子供「行くんだね?」
やはり、こうなると踏んで本を渡したのか…。口を閉じたまま、私は魔法の本をシャントトに渡した。シャントトは何も語らぬまま本を受け取ると、軽く頷き、私の瞳を覗き込んだ。
子供「わかった。さようなら」
エヴァ「あぁ、お別れだ」
子供「チャチャゼロを大切にね」
エヴァ「…」
子供「最後に、ひとつだけ頼んでもいいかな?」
なんだろう?想像もつかない。数ヶ月、世話になった相手だ。頼まれてやってもいいだろう。私は軽く首を縦に振った。
子供「嫌だろうけど、最後にもう一度だけ、この本を使って欲しいんだ」
エヴァ「誰に使えばいいんだ?」
子供「僕だよ」
エヴァ「…いいだろう。本を貸せ。…"シャントト"」
何千行の文字を目にしたか知れない。他人の醜い心を知り尽くした無邪気な子供の悲鳴を全て、本は暴露した。
子供「…これでお互い様だね」
私から本を受け取り爽やかにそう言うと、シャントトは戸を閉めた。しっかりと閉ざされた戸に、震える声で私は呟いた。
エヴァ「私なんかより自分を大切にしろ、バカが…」
そして、返事のない扉に背を向けた。

ゼロ「ケケケ…頼ミナンカ拒否スレバ良カッタンジャネーカ?」
エヴァ「…」
ゼロ「ソウスリャ、ソンナニ泣カズニ済ンダゼ」
エヴァ「…」
ゼロ「ソレトモ、アノガキト別レタ事ガ辛イノカ?」
エヴァ「…」
ゼロ「シッカリシロヨ」
エヴァ「お前と二人っきりの旅を嘆いてるだけだ」
ゼロ「ケケケ…」

不幸なのは自分だけだと思っていた。それは違った。私は人を不幸にしてしまうばかりか、幸せにしてやることすらできない。もう少し早く、理解してやればよかっただけなのに…。
町を去る今は、自分を囲むこの町の灯りよりも、本能が愛する月の方が、どこか少しだけ自分に近く感じた。
だから、きっとこの町に来たのだ。
22-602 名前:『lic lac la lac lilac』25(1)[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 19:21:05 ID:???
眠り子の欠伸も今宵の何度目か、泪粒は枕の代わりに頬を濡らした。挫けた人間の心は、儚くもまだ幾分か温もりを残した胸に居場所を据えている。人間じゃないと認めることが、こんなにも寂しいとは。
空っぽの胸を掻きながら、心臓の鼓動があることを確かめる。まだ、温かい。

チャチャゼロはまた無口な頃のように黙り、一言も交わすことなく私達はこの地を踏み締めた。振り返ると、動かぬ過去の事実としてか、あの町の灯りが見える。あれは人の灯り、私はそこを越えてしまった。
雲が千切れ棚引くそよ風に、囁く木々が耳に優しい。孤独感を紛らわしてくれるようで、目を瞑ると、小河のせせらぎにも思えて。これは過去の泉の音。ウルズの声。
きっと永遠の中の一瞬先にあるだろう遠い未来、天井支える木の根下も恐れぬ自分が瞼を閉じ、葉音に耳を傾けて、今日の日々を杯に汲むだろう。
これは死なない者の小賢しい戯言に過ぎない。しかし、そうなる時が必ず来る。そう信じたい。その日の私は、もっと利口になっているだろうから。
22-603 名前:『lic lac la lac lilac』25(2)[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 19:21:47 ID:???
エヴァ「さて、吸血鬼の私には魔法の知識が活きてくる訳だが…」
何の樹か、とても太い幹に身を預け、私は明日について考える。もう焼かれたりするのは御免だ。力が欲しい。誰にも傷付けられぬように、誰も傷付けぬように…。
魔法使いの書斎で荒読みした本の中身が、地下の水脈の如く湧き出てくる。
エヴァ「始動キーを決めなければならなかったな…」
何も思い浮かばない。当然だ。今の私にはチャチャゼロの他、何もない。しかし、過去を思えば、全てがそこにあった。幸、不幸、愛情、軽蔑、生、死…。

それらも所詮は過ぎたこと。人間であった自分はもう返って来ない。何も知らなかった無垢な少女時代を羨んで、遠くを見据え、何度目か数えるも無益な溜め息を吐いた。
ゼロ「何カ、ヤリタイ事トカ、ネェノカヨ?」
エヴァ「やりたい事?」
ゼロ「ソウダ。魔法ヲ使ウ度ニ、毎回トクチニスル言葉ダカラナ」
エヴァ「…」
ゼロ「名誉ヲ求メルナラ"名誉"ヲ、富ヲ求メルナラ"富"ヲ、ソレゾレノ願イヲ、呪文ニ織リ込ムモンジャネェノカ?」
エヴァ「願い…か。できることなら、失った少女時代を取り戻したいところだ。しかし、突然と饒舌になったな」
ゼロ「…」

もし、口遊んだ魔法が願いを叶えてくれるなら、私は少女の頃に戻りたい。そして、初恋に頬を染めよう。恋人が私をただの少女だと分かってくれるように。
22-604 名前:『lic lac la lac lilac』26[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 19:24:41 ID:???
結局、ナギとの思い出を探し当てられぬまま、食事の部屋に来てしまった。その理由を"まだ終わっていないことだから"として励ます。我ながら憐れだ。
そして、食卓に着いた私を迎えたのは、やはり孤独な晩餐だった。茶々丸の用意した皿は、簡素な木造りの卓を鮮やかな彩りで飾り立てている。しかし、孤独は全てを灰色にする。
茶々丸「どうぞ、マスター」
エヴァ「…ぅん」
下ろす腰に茶々丸が椅子を滑り込ませる。私が両手を食卓に置いたとき、意図せず深い溜め息が出た。
茶々丸「マスター、やはり具合が?」
エヴァ「体は何ともない。少し、退屈しただけだ。いや、お前の仕事に不満はない。ただ、人恋しく……」
茶々丸の無表情の中に悲しみを覚え、咳で段落を区切る。さぁ、夕食だ。

静寂に掻き疵を作るように、皿とフォークが触れ合う。どこか、この静けさはぎすぎすしている。慣れたはずの居心地の悪さに、やはり苛立つ。
そしてそのまま、私は自分の心の醜い、あるいは、卑しい部分を押し隠し、食事を終えた。

夜は更けるだけで、遂に私の孤独は闌けた。晩餐の後に始めた針仕事の続きも終わってしまった。退屈が再び時を埋め尽していく。
エヴァ「チャチャゼロ、新しい服が出来たぞ」
ゼロ「オ!ヤット、デキタカ!」
エヴァ「"もう"出来た、だ」
その言葉を置き手紙宛ら残して、私は玄関を出た。身に染み入る寒さに体を震わす。やはり冬だ。凍えるとまでは言えないが、やはり冷える。
口煩い保護者のように茶々丸が後を追って来て、私の肩にカーディガンを着せた。
茶々丸「マスター、そのままでは風邪をひきます」
茶々丸の思いやりを軽く無視し、都市の明るさに遠慮している星空を見上げた。

エヴァ「六年前の雪の夜、ぼーやの前に現れたそうじゃないか…」
茶々丸「…マスター?」
エヴァ「雪の夜なら会いに来てくれるのか?」

そうだ、と言うなら今宵を雪の夜にしてやろう。散った天使の羽のように、はらはらと雪を踊らせてやろう。
紫の『初恋』織り込んだ言葉を、ナギ、お前に残した唇で紡ぐ。

エヴァ『lic lac la lac lilac…


終わり>>

22-565

22-565 名前:マロン名無しさん[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 00:33:33 ID:???
シャントトなんて居たっけ?
何巻?
22-570 名前:マロン名無しさん[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 01:32:34 ID:???
シャントトってのは、のどかのアーティファクトの説明書にちらっと出てくるひと?とマジレス
22-578 名前:563[sage] 投稿日:2006/01/05(木) 10:52:02 ID:???
レス?です∩(・ω・)
シャントトをよく見付けましたねwその通りです。
"シャントト"はのどかの読心絵日記『DIARIUM EJUS』の取扱説明文に記載されている名前の人物です(5巻参照)。その中にある情報、つまり、生存していただろう時代、読心本の存在に関係するだろう資質を考えた結果、『lic lac la lac lilac』のシャントトになりました。
エヴァの若い未熟な頃をSSにする場合、エヴァの年齢の関係で登場させられるキャラが不足してしまい、最後の手段としてシャントトを創作、登場させました。そういった事情も理解していただけたら、嬉しいです。

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最終更新:2007年07月29日 02:30