靴の爪先が、伸びた草の下に隠れた小石に引っ掛かる。踏みとどまろうとした膝が呆気なく崩れ、美紀の体は道の真ん中に投げ出された。
派手な転倒音。咄嗟に手をつくことすらできず、顔から地面に突っ込む。荒れ放題で舗装もされてない道は砂利と小石でいっぱいで、顔中を引っ掻かれて薄く血が滲み出てくる。けど、痛みは感じない。これで何回転んだか、もう覚えていない。のろのろと立ち上がり、荒い息を続けたまま俯き歩き続ける。
走ることは、もうできなかった。体力が限界に近づきつつあった。手足の感覚はとっくに無くなっていて、酷使された肺は痛みを通り越してもう不快な冷たさしか感じない。体中泥と砂にまみれて、酷い格好。夢遊病者みたいな、というのはきっと今の自分みたいなのを言うんだろう。
山へと続く、閑散とした暗い小道。どこをどう走ってきたのか覚えていない。最後に人とすれ違ってから、もう随分と経ったような気がする。ここはどこだろうと考えて止める。どこでもいい。行く当てなんてない。聞こえるものは二つ、自分の足音と木の葉の擦れる音。
ざあざあ、ざあざあ。葉っぱの音が聞こえてくる。ちっとも静かじゃないのに、どうしてだろう。凄く静か。
まるで、世界が止まったみたい。
「……あ」
気が付けば。
目の前には、荒れ果てた学校が聳えていた。
そういえばと思い返す。直前まで自分が歩いていた道はちょっとした登りで、周りは緑ばかりの砂利道で、つまりここは山の麓に近いところなのだろう。昔の学校はこういうところによく建っていたらしいし、などと合っているのかそうでないのか分からない知識が頭の中で思い浮かんだ。
荒れた廃校。何故だか、学園生活部の皆と過ごしたあの校舎を思い出す。
崩れかけた木造の校舎は似ても似つかないけれど、不思議な共通点があるように思えるのだ。
だからだろうか。今まで必死に体を支えてきた足が、とうとう悲鳴を上げて崩れ落ちた。
ペタリと座り込む。石造りの校門に、倒れるように肩を預ける。
「先輩……私、どうしたら……」
呟き、口のあたりを押さえて激しく咳き込む。血の混じった苦い味が口の中に広がった。少し休んで回復した体は途端に忘れていたはずの痛みを思い出し、内側から湧き上がる痛みに耐えて荒い呼吸を繰り返す。なんだか視界が霞んできたように思える。頭が重い。熱があるのが、自分でも分かった。
体を襲う数々の不調の原因が、自らの魔力不足の結果であることを、
直樹美紀は重々自覚していた。元よりなんで聖杯戦争のマスターに選ばれたのかすら分からない自分に、魔力回路なんて代物があるとも思えなかった。そして、引き当てた侍従は狂戦士。これだけ揃えば、あとは小学生でも末路を予想できるというものだ。
先の一戦、時間にしてみれば数分も経たなかったであろう出来事。たったそれだけで、自分はもうこんな有り様だった。身の丈に合わない奇跡を望んで、身の丈に合わない力を与えられた結果がこれだとすれば、もう笑う気力すら浮かんでこない。
まるで、抱いた願望の重さに自ら押しつぶされたみたいだ。なんとも皮肉が利いている。
「……?」
ふと。
少し離れた場所に、人影が見えたような気がした。
それは大柄な人影で、けれどバーサーカーのような異形の巨躯ではない。ぴっしりと決まった黒いスーツに、程よく整えられたオールバックの髪型はまるでどこぞのサラリーマンのようで。
───その右手には、人の身には不釣り合いなほどに巨大な釘バット。
「―――ッ!」
それが何かを理解した瞬間、美紀の思考は急速に熱さを取り戻した。
いや、それは或いは冷たさだったのかもしれない。彼女の頭を占める感情は、驚愕と危機感と、何より恐怖。
主の恐慌に反応するように、異形のバーサーカーがその姿を現し。
対峙する正体不明の怪人が、その大口を開けて咆哮した。
「■■■■■■■■■■――!!」
理性無き雄叫びが響き渡り、狂気を宿した凶眼が真っ直ぐに美紀を見据える。
振り上げられた巨剣と釘バットが、中空で火花を散らし激突した。
▼ ▼ ▼
もうじき昼ごろに差し掛かろうという午前。
部室内に漂っていた団欒の空気は、勢いよく開け放たれた扉の音によって破られた。
「へ? いきなりどうし───」
「悪いが今は時間が惜しい。敵襲だ、逃げるぞ」
「ちょ、セイバーさん!?」
いきなり入ってきてアイを問答無用で担ぎ上げる男の人……セイバーの所業に、
すばるは一瞬だけぽかんとした表情になった。
なんじゃこりゃーと言わんばかりにじたばた暴れるアイを無視して、セイバーはどこ吹く風だ。「自分で走れますから下ろしてください!」「うるせえ静かにしてろ」「もう! セイバーさんの馬鹿!」「よく知ってる」とか、なんだか目の前で次々会話が流れていって。あまりに突然すぎて、我に返るまで一秒くらいの時間を要した。
「えっと……アーチャーさん、それって本当なんですか?」
「ええ。校門付近に二騎、サーヴァントの気配があるわ」
「しかも最悪なことにやる気全開ときてやがる。ぐずぐずしてるとこっちまで巻き込まれるかもしれないからな、こういう時は逃げるが勝ちだ」
アイを捕まえてるのとは逆の腕でゆきを担ぎながらセイバーは言う。ゆきは呑気なもので「おー……」などと好奇心いっぱいの声をあげていた。反対にアイはなんだか諦めた表情で大人しくしている。
「それじゃアーチャー、撤退補助を頼む」
「分かっているわ。セイバー、あなたも」
「ああ、抜かりはしないさ」
セイバーとアーチャーは、そんな短いやり取りだけで何かを確認し合ったらしい。役割分担でも事前に決めていたのだろうか、すばるはアーチャーに後ろから抱きかかえられるように腕を回された。
「……さて」
慌ただしく動いていたセイバーとアーチャーが、ピタリとその動きを止めた。
理由は言われずとも分かった。濃密な"気配"が、すばるにも感じられた。それは徐々に強くなり、そしてこちらに近づいてきている。
咆哮が。
びりびりと、窓ガラスを揺らす咆哮が辺りに轟いた。
「安心して、すばるちゃん」
回されたアーチャーの腕が、ぎゅっと力を込めて。
「あなたは絶対に、死なせないから」
呟かれた、瞬間。
「■■■■■■■■■■――!!」
薄い壁面を打ち砕いて。
雄叫びを上げる何者かが、戦火の音と共に部室内へと転がり込んできた。
▼ ▼ ▼
弾きだされた体を中空で捻り危うげなく着地すると、爆ぜるような勢いで地を蹴り出しセイバーが駆ける。
朽ちた廊下を一直線に突っ切る体は、獣さながらの前斜体勢に移行していた。その疾走は余人では及びもつかないほどに速く、まさしく風のように走り抜ける。
速かった。人の目には映らぬほどに、駆ける姿は疾風の如く。
速い。そう、あくまで"人として"は。
「■■■■!!」
セイバーの背後、飛びかかるような形で釘バットの男が現出する。その腕は既に振り上げられ、握られた釘バットは圧壊させる獲物を求めて硬質の風切り音を響かせていた。
セイバーの疾走は、サーヴァントのそれとして見るならば明らかに遅かった。それは、理性無く反射的に動くしかないバーサーカーをしても、容易く追い縋れるほどに。
本来この場で最も敏捷性に優れているはずの彼が、何故そこまで鈍間な存在となったか。理由は、その両腕にマスターの少女を抱えていたからに他ならない。当然ながら常人の身は脆く、生身で音の壁を乗り越えるなど不可能。彼女らの体に負担がかからないようにした上での、これは現状における最大限の速度であった。
そして勿論、人の身で制限された速さなど、サーヴァントであれば追いつくことは容易い。打撃などという領域を遥かに逸脱し、最早爆撃とさえ形容できるほどの鉄槌が振り下ろされようとして───
「遅え!」
喝破と同時、セイバーの体は五メートルの距離を完全に無視して、バットの射程圏外まで移動していた。
一瞬遅れて廊下に叩きつけられた重爆が如き一撃が、文字通り床を消失させる。耳を覆わんばかりの轟音が鳴り響き、巻き上げられた無数の破片が宙に舞う。付属した衝撃波で、触れてもいないのに廊下中の窓ガラスが一斉に砕け散る。
破壊であった。何の修飾もいらない、それは純粋なまでの破壊の顕現。たった一発で、比喩でもなく校舎そのものが倒壊しかけたほどに、それは強力無比な一撃だった。
しかしセイバーと、その腕に抱えられた二人の少女は何の痛痒もない。無傷のままに窮地を脱した三者は、そのままの勢いで疾走を再開する。
"仕切り直し"のスキル―――戦場を脱し、不利な状況を仕切り直すそのスキルは、劣勢にある戦況そのものを零に戻して動き始める。
かつて黄金の牙城からも逃げ延びた彼にとって、この程度は危難と呼ぶことにさえ値しなかった。
「―――――ッ!!」
そして襲いくる第二撃───釘バットの男の背後から全てを一刀両断にせんと猛る巨大な斬撃が、横薙ぎに振るわれた。
右から左へと振るわれるそれは、右手側にあった教室を諸共に粉砕しながら破壊の衝撃を叩き付ける。言うまでもなく、セイバーと釘バットの男双方を狙った問答無用の一撃だった。
当たれば即死。その攻撃を、釘バットの男は瞬時に屈むことで、セイバーは天井近くまで跳躍することで回避した。それを目撃した二騎のバーサーカーは、理性のないはずの瞳に喜悦に歪んだ輝きを宿した。
中空とは、すなわちそれ以上の逃げ場が存在しないフィールドである。翼持つ異形種であるならばともかく、人であれば例えサーヴァントであろうとも地に足つけなくば生きてはいけない。着地までのコンマ数秒、セイバーは無防備な姿を晒すことになった。
無知、無様ここに極まれり。下手に跳躍などすれば狙い撃たれるのは戦場の定石。その程度も弁えぬならば、この男に戦士を名乗る資格なし。
共に獲物を狩ることしか脳にない狂戦士は、隙を晒した者を優先的に狙うという不文律の下、意図せず同じ相手に鉄槌の照準を合わせて───
「く、ぉおらぁッ!」
当然、そんなことはセイバーとて百も承知であった。
浮き上がった体を無理やりに捻り、その足元に蒼白の輝きを"形成"する。
空間を貫き現出したのは、一振りの西洋騎士剣。銀光に輝くそれを、セイバーは胴廻し回転蹴りの要領で背後へと蹴り放つ。
空を斬る鋭い刃鳴を引き連れて、一条の光が二騎の狂戦士を違わず撃ち貫いた。
稲妻を纏う刀身は、まさしく雷速で敵手へと飛来する。その閃光に反応することは如何なサーヴァントであれど絶対不可能。迅雷の威力で刺し貫く騎士の剣は、釘バットの男の霊核を穿ち巨躯の異形を削り取ると、用を為したと確認するや空間へと溶け入るように消え去った。
生じた隙を逃がすことなく、セイバーは着地の勢いを殺さずに再び跳躍。横手の教室へと飛び入り、砕けた壁からそのまま外へと体を踊り出させた。
都合二名の少女の悲鳴が、憚ることなく耳に突き刺さる。尾を引く絶叫を無視し、セイバーは全身運動で着地の衝撃を殺しつつ一気に駆け出した。大きな遮蔽物のない校庭は、それだけでセイバーの移動を後押ししバーサーカーたちとの相対距離をどんどん広めていく。
異形のバーサーカーと、何故か致命傷から回復している釘バットの男が崩れた壁面から姿を見せるが、もう遅い。銃撃音さえ置き去りにした遠距離狙撃が狙い違わず二騎の頭部を打ち据える。
アーチャー・
東郷美森の放つ、超長距離に及ぶ精密狙撃。この十数秒の間に数百mを踏破した彼女による射撃は、正確にバーサーカーの進路を阻む。異形のバーサーカーからビットのようなものも複数飛び出すが、見抜かれているかのように逐一撃墜されては溶けるように宙へと消え行った。
セイバーとアーチャーが立てた役割分担はひどく簡単なものだった。近接戦能力と敏捷性に優れ、なおかつ仕切り直しのスキルを持つセイバーが相手の注意を引きつつ撤退し、その隙に先んじて全力逃走したアーチャーが狙撃にてセイバーたちの撤退を補助。急場を逃れたならアイとゆきだけを逃がし、セイバーが単独で足止めして時間を稼ぎ機を見て仕切り直しにて逃走。保護対象としてあぶれたゆきは、敏捷性が底辺値に近いアーチャーではなくセイバーが担当する。
筋書き通りだった。少なくともここまでは。校庭の端まで移動したセイバーは二人の少女を肩から下ろし、改めて騎士剣を形成して身構える。
「アイ、お前はそいつ連れて向こうまで全力でダッシュだ。いいか、何があっても振り返るなよ」
「……色々言いたいことはありますけど、分かりました。そしてありがとうございます。けど、セイバーさんは」
「俺はここで足止めだ。ま、適当なところで引き上げるから心配するな」
「うえぇぇぇ……何がどうなってるのぉ……」
支援狙撃を行うアーチャーがいる手筈となっている場所を指差したセイバーに、アイは様々な感情を煮詰めたような表情で答える。その手は目を回したゆきをしっかり抱きかかえていた。
ようやく校舎から身を乗り出したバーサーカーたちは、今は自分たちに襲いくる銃弾の雨を振り払うのに必死でアイたちには気付いていない様子だった。つまるところ、彼女らが逃げ出すには今を置いて他にはなかった。
けれど。
「……ゆき先輩!」
セイバーでも、アイでも、ゆきでもなく。そして当然バーサーカーやアーチャーたちのでもない、八人目の声が、セイバーたちに届いた。
振り返った先にいたのは、少女。色素の薄い髪をショートに切りそろえ、利発そうな光を瞳に宿した、高校生くらいの少女。
───
丈槍由紀と色違いの制服を着た少女が、そこには立っていた。
▼ ▼ ▼
「すばるちゃんは離れてて。ちょっとだけ、危ないから」
廃校から離れたビルの屋上にて。そう言って狙撃銃を構えたアーチャーは、ただの一瞬で常の彼女とは一線を画した存在となっていた。
すばるにとってのアーチャー「東郷美森」は、言ってしまえば優しくて頼れるお姉さんのような存在だった。仮にも英雄に向かってそれはどうなんだと自分でも思うことはあったが、事実としてそう思っていたのだから仕方がない。
英雄という言葉から来る硬いイメージとはかけ離れた、気さくで朗らかで暖かな。そんな優しい"勇者"こそが、すばるの抱いていたアーチャーの姿だった。
けれど今は違う。長大な狙撃銃を携え、照準し、射抜くような鋭い眼光で以て遠間を見据える彼女は、まさしく鬼気迫るという形容がこれ以上なく似合う様相と化していた。
気迫が違う。戦意が違う。ドライブシャフトという超常を手に入れたすばるでさえ今まで感じたことのないようなそれは、戦場に満ちる極大の覇気そのもの。
ここでようやくすばるは思い知った。勇者とは、ただ人々に憧憬を抱かせる暖かいだけの存在ではない。その勇気と暴威を用いることで立ち塞がる敵を薙ぎ払う、鬼神が如き戦闘者でもあるのだと。
「アイちゃん、ゆきちゃんも、大丈夫かな……」
アーチャーの気迫に中てられてか、それとも今の自分にできることはないと自覚したのか。すばるは俯いたままでぼそりと呟く。
セイバーとアーチャーが何を考えて今の行動に出たのかは、既に念話で詳細を聞いていた。だからアーチャーが後方支援についたことも、そのマスターである自分がこうしてこの場にいることも、理解はできた。戦場から離れたことに起因する安堵の気持ちもある。
けれどそれ以上に、あの場に残されたアイとゆきが心配だという思いが、すばるの胸の内には強く渦巻いていた。
「あの、アーチャーさん……私だけじゃなくてアイちゃんとゆきちゃんも連れてくることって、できなかったのかな……」
「できなくはなかったわ。けど、判断としてはとても危険なものね」
返すアーチャーの表情は狙いを定める狩人の静謐さで、けれど声はどこか苦渋の色を滲ませたものだった。
その間にも引き金を絞る動きは止まらず、細かな照準変更を繰り返しながら幾つもの銃声が反響している。
「結果的にはこうして予定通りの戦況になってはいるけど、一歩間違えたらあそこにいたのはセイバーじゃなくて私になってた可能性だってあるの。そうなったら……全員を守りきれる保証なんてないわ」
いいや、そうなったら間違いなく全滅していただろうとアーチャーは考える。自分は近接戦に不向きな銃士で足手まといが三人、対するあちらは戦闘に特化したバーサーカーが二騎。結果なんて戦うまでもなく明白だ。宝具である満開を使ったとしても五分にすらならないだろう。
だから、この振り分けは間違いではなかった。客観的に見ても、これ以上リスクを低減する組み合わせはなかっただろう。全員が生き残るにはこれしか方法は皆無である。
……そして当然、セイバーが引きつけに失敗してこちらにバーサーカーが向かってきたならば、すばるに令呪を使わせてでも単独で撤退を敢行していただろうと考える。残された彼らの生死など度外視して。
「だからね、すばるちゃん。あなたが責任を感じる必要なんてないの。今はこらえて、私達を信じて……ね?」
「あ……」
だから、無意識に取り出したのであろうドライブシャフトを握りしめるすばるを、できるだけ優しく諭した。自分の体が震えていることにやっと気づいたのか、すばるは小さな声を漏らすと、そのまま俯いて黙り込んでしまった。
彼女の持つ力は常人としては破格のものだが、しかしサーヴァントを相手に戦えるような代物では決してない。仮にあの戦場へ全力で飛んだとしても、呆気なく叩き落されるのがオチだ。
その優しさは認めるし、だからこそこの子だけは無事に帰したいと願うのだけれど。今は自分たちに任せて、この子には大人しくしていてほしい。
そう考えて、知らずアーチャーは苦虫を噛み潰したように口元を歪めた。
心底から他者の無事を祈るすばると違い、自分は打算だけで彼らの生存を期待している。いや、場合によってはここでバーサーカーごと潰れたって構わないとさえ考えている。
なんて偽善。そんな自分がすばるに優しい顔をするなど、どう考えても滑稽な三文芝居でしかないだろう。
嘘と罪に醜く汚れた自分が、今は嫌になった。自己嫌悪に塗れながら、アーチャーは砲撃の熱量だけを戦場に投下し続けた。
(違う、違うの……私はそんなすごい人間じゃない)
狙撃を続けるアーチャーの後ろで、ドライブシャフトの柄を握りしめて座り込んだすばるは、一人自己嫌悪に陥っていた。
無意識にこの杖を取り出してしまった理由。アーチャーはそれを責任感と言ってくれたけど、違った。
これは単なる保身だ。戦いが怖くて、死ぬのが怖くて、だから空飛ぶ魔法の杖たるドライブシャフトを出してしまったのだ。
逃げるつもりなんて、なかった。アイとゆきを慮る気持ちも嘘ではなかった。
けれど、自分が助かりたいと願う気持ちも本当で。
だから、何もできないくせに逃げ足だけは一人前な自分の弱さが、嫌になった。
遠く離れたこの場所からでも、廃校の崩壊と戦闘の余波は轟音となって耳に届く。
あそこでは、自分では想像もつかないような凄惨な戦いが繰り広げられているのだろう。そんな場所に無辜の少女が二人も囚われていることへの不安と憤りと、他ならぬ自分が巻き込まれなかったことへの安堵と不信が、すばるの中でぐるぐると渦巻いていた。
自分にできることが何もないから、すばるはただ祈る。皆の無事を、その帰還を。
自己嫌悪に塗れながら、届かない祈りだけを捧げ続けた。
▼ ▼ ▼
乱戦を選んだのは、不確定要素を増やすことで生存率を上げるためだった。
客観的に見て、今の自分が他のサーヴァントに勝てる可能性は、極めて低いと言わざるを得ないのだろう。なけなしの魔力はすっかり底を尽いて、虎の子の令呪だって大部分を喪失してしまっている。使役するバーサーカーはそのクラス故に戦闘能力こそ高いが、自分の目の前に立ち塞がるサーヴァントもまたバーサーカー。戦力での優位性を確保することなどできはしない。
馬鹿正直に戦えば、自分たちの負けは必然でしかない。
だからこそ、美紀は釘バットのバーサーカーを隔てて聳える廃校に存在する二騎のサーヴァントの気配に賭けたのだ。
本来ならば避けて然るべき不確定要素を、丁半どちらの目が出るかも分からないそれを、それでも自身にとっての鬼札と変えるために。
アンガ・ファンダージに命じて、彼らの潜む廃校へと釘バットのバーサーカーごと押し込んだ。
別に彼らをここで討ち果たそうだなどと、美紀は考えてはいなかった。最優先すべきは自身の安全、故に釘バットのバーサーカーを彼らに押し付けることができたならば、その時点で即座に逃げ帰るつもりだった。
元より今のアンガ・ファンダージを戦わせている魔力は、宝具によって完全回復したファンダージ自身のものなのだから、そう長く状況が保つわけもなし。適当に機を見計らって運が良ければ逃げ出そうと。
そう、考えていたのに。
「───え?」
崩壊した校舎から飛び出た人影を見て、美紀は目を疑った。魔力消費と疲労から鈍りつつある頭が、とうとうイカレたのかと錯覚して、けれど何度見てもそれが現実としてそこにあるのだと否応なく理解させられた。
バーサーカーの追撃を振り切って疾走する男の姿、恐らくはサーヴァントか。これはいい。
その腕に抱かれた、金髪の異国の少女。これもいい。
けれど、それとは逆の腕に抱かれた、小学生のようにも見える矮小な体躯は。
色素の薄い髪色の、場違いなまでに緊張感のない顔は。
トレードマークの耳帽子と、見慣れてしまった学校の制服は。
見間違える余地もなく、丈槍由紀という見知った少女のものでしかなくて。
「……ゆき先輩!」
思わず叫んで、気付いた時には後戻りができない状態になっていた。
誰もが、こちらを振り返っていた。警戒と敵意に満ちる男、驚愕一色に染まる異国の少女。そして───
「あ、みーくんだ。ねえねえ何してるの?」
緊迫した状況には不釣り合いなほど明るい笑顔は、ここでもまるで変わっていなくて。
直樹美紀は、信じてもいない神さまをどうしようもなく殺したくなった。
▼ ▼ ▼
「あ、ゆきさん待って!」
「ちィ!」
その瞬間を端的に言いあらわすなら、さながら"間が悪かった"とでも形容すべきものなのだろう。
虚を突かれた一瞬にゆきはアイの手から離れ、全く同一のタイミングで異形のバーサーカーがセイバー目掛けて襲い掛かってきた。
一閃を辛うじて受け止めたセイバーはその相手をするのが手一杯で、異形のバーサーカーが現出したと同時に発生した異常気象が、荒れ狂う乱気流となって周囲を覆った。
それは何故か銀糸の髪の少女を囲むように広がり、彼女へと駆け寄るゆきを包むように呑みこんだ。二人を外界から遮断するように大気の檻が形成される。アイは元より、セイバーですら突破に難儀するそれは、当然ながら戦闘を続行しながら介入できる範疇を逸脱していた。
そして彼女らを守るかのように、セイバーの前に異形のバーサーカーが立ち塞がる。澄み渡る剣気は狂しているとは思えないほどに、爆発寸前の臨界点として沈黙を保っている。加えて、追い縋るように釘バットを持ったスーツ姿のバーサーカーまでもが飛び行る始末だ。長い距離を跳躍してきたそいつは異形のすぐ傍に着地し、衝撃でクレーターを形成する。
状況は完全に切迫し、最早ゆきの救出などという余裕を言っていられる場合ではなかった。端的に、絶体絶命というやつだ。
「セイバーさ───」
「……お前の役目は終わりだ、アイ。いいからとっとと行っちまえ」
「でも、ゆきさんが!」
「邪魔なんだよ、お前がいると」
「私は、誰かを見捨てるなんて!」
「うるせえ」
頼む。頼むから早く行ってくれ。この状況でも必ずお前を守りきれると断言できるほど、自分は無責任な人間になったつもりはないのだから。傷つくお前なんか見たくないし、お前を守れない自分なんか論外だ。
醜悪なまでに造形の歪んだ釘バットが空を裂いて振るわれる。震える歯列、軋む筋肉、異形のバーサーカーが猛悪な殺意を膿のように垂れ流す。
膨れ上がる殺意の、ここが最後の臨界点。狂戦士たちの暴走が開始されるまで最早幾ばくもない。
息を呑むアイを、力任せに突き飛ばした。
「走れ、この馬鹿野郎ッ!」
そう叫んだと同時に。
「■■■■■■■■■■――!!」
「ぐ、ァァ!」
「セイバーさん!」
振り下ろされた一撃を真っ向から受け止める。明らかにこちらを凌駕した膂力に、超重量の振りおろし───衝撃だけで足元が砕け散り、クレーターのように陥没した。
速さ自体は大したことなかった。けれど、この巨体と腕力を捌くのは並大抵のことではない。
徐々に圧力を増す重圧に体が潰され、鍔競り合わせた刀身がガチガチと震えるけれど。
それでも、後ろのこいつを傷つけるわけにはいかないから。
「なに、してやがる……行けっつったろ」
アイを突き飛ばした分、反応が一瞬遅れて威力を逸らすことができなかった。まともに受け止めた一撃の重さに片膝をつき、身動きの取れない状況に陥る。剣圧の凄まじさに背骨が折れそうだ。眼前の異形から放射される殺気の密度は半端じゃない。流石は腐ってもバーサーカー、最も殺戮に適合した狂える戦士の名は伊達ではない。
そして、相手にすべき敵手はこの異形だけではなく。
「■■■■!!」
横合いから振るわれるのは愚神礼賛の一撃だ。思考能力が奪われようと培った殺戮の記憶だけは健在なのか、身動きの取れない自分へと一直線に攻撃を放ってくる。
狙うは弱者、確実に仕留められる相手───なるほど間違ってはいない、それは戦場のお約束としてはあまりに当たり前すぎて反吐が出てくるようだった。
ここから躱せる道理はない。膂力で劣る自分が押し付けられた剣圧を捌いて反撃に転ずるなど、どう考えたってできはしない。
けれど。
「ちょっとでも怪我してみろ、そん時は泣くほどぶってやるからな!」
全身の力を振り絞り、押しつぶそうとしてくる鉄塊を横に流した。すぐ傍らの地面が衝撃で爆散し、刃筋に沿って縦の亀裂が深く走る。
そして、そこに吸い込まれるように叩き込まれる、愚神礼賛の一撃。
「■■■■■■■―――!?」
愚神礼賛の射線上に突如として現れた巨剣に、両者は抗うことも許されず正面からの激突を余儀なくされる。金属が破砕されるような反響音が鳴り響き、異形のバーサーカーが持つ巨剣がバラバラに砕け散る。
地面に突き刺さったままの巨剣と、勢いのままに振るわれた釘バット。生来の頑強さはともかくとして、今回は両者の状況がこの結果を招いた。
それを目視で確認する暇もなく、セイバーは身体を反転させた勢いを上乗せし、無防備状態の胴体に渾身の廻し蹴りを叩き込む。
その一撃で異形の巨躯は吹っ飛ばされ、木々をなぎ倒しながら雑木林の向こう側へと消えていった。如何に膂力で劣るとはいえ仮にも同じサーヴァント、一方的に攻撃すればこの程度は造作もない。
この時ようやく体勢を立て直したスーツ姿のバーサーカーに、返す刃で騎士剣を逆袈裟に斬りつける。そんな見え透いた一閃は当然のように手にしたバットに阻まれるが、本命の一撃はこれからだった。
「これで眠っとけ、不細工野郎!」
瞬間、鍔競った刀身から膨大な熱量の紫電が放出される。拡散した雷撃は一見無軌道に見えて、しかし地面や木々といった無駄な破壊は一切起こさず、標的たるバーサーカーにのみ痛打を与える。
致死の雷撃を直接浴びせられたバーサーカーは全身を黒焦げに炭化させて、しかし次の瞬間には即座に再生して襲いくる。未だ治癒の済んでいない腕にも構わずに、握った愚神礼賛を一直線に振り下ろしてきた。
「あ……」
「なんだよ、俺が勝っちゃ不満か?」
その一撃をいなしつつ、背後の少女へと語りかける。できるだけ余裕そうに、焦燥の色は見せないように。アイが未練なくこの場を離脱できるように。
「つーわけで、俺に任せてお前はさっさと逃げろ。大丈夫、負けはしな───」
「……いいえ、私はここに残ります」
そんなセイバーの心遣いはたった一言で粉々に打ち砕かれた。
ずい、とアイが一歩を踏み出す。その眼は、足は、意思は、逃走なんて選択肢など微塵も考えていないのだと言葉以上に強く訴えていた。
「言いましたよねセイバーさん。私はゆきさんを救うんです。こんなところで足踏みなんかしていられません」
「お前、何を……」
「心配はいりません。ちゃんと後ろで大人しくしてますし、自分の身くらいは自分で何とかします。それに」
そこでアイは、それまでの焦燥と不安の表情など嘘のように、にっこりとほほ笑んで。
「私はセイバーさんを信じてますからね。ええ、これ以上の安心はありませんとも」
「……この馬鹿が。だったらすぐ終わらせてやっから大人しくそこで待ってろ!」
叫び、セイバーは今度こそ後ろを振り向かずに剣を構えた。目前まで迫り視界を覆い尽くさんとする巨大な二振りの鉄槌を、渾身の力で弾き返す。
三者三様の得物が中空で激突し、空間を振るわせる反響音が辺りに木霊した。
最終更新:2019年05月12日 22:04