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 自分で言うのもなんだが、私は酷く臆病な人間なんだと思う。
 周りにはよく能天気だとか生きてるだけで人生楽しそうとか、そういうことをよく言われる。他にも面倒見がいいとか頼れるとか、うん、こっちは褒められてるみたいで嬉しいかな。

 けど、本当の私はそんな大層な人間じゃない。
 痛いのも怖いのも嫌いだし、そういうのを目の前にしたらきっと足が竦んでしまう。
 平凡で、ありきたりな、どこにでもいる普通の女の子。

 そんな私が戦ってこれたのは、きっとたくさんの友達がいたからなんだって思う。
 友達、仲間、勇者部のみんな。
 みんなが傷つく姿が見たくなくて、だから私は勇者の力を手にした。
 誰かが傷つくより自分が傷つくほうがいい。誰かが辛い思いをするくらいなら、自分がそうなったほうがいい。
 私一人ならきっと耐えられなかった。けどみんながいたから……傷ついてほしくないと思える誰かがいたから、私は頑張ってこれたんだ。

 誰かのためなら、いくらでも力を振り絞れる。
 だから私はいつかきっと、勇者になるんだって、そう願い続けて───





   ▼  ▼  ▼





 調理用のコンロがぱちぱちと静かに音を鳴らしている。
 台に置かれた大き目の鍋からは、暖かな湯気が立ち上っていた。年若い黒髪の少女は、にこやかな様子で、鼻歌などを交えながらおたまで鍋の中身をかき混ぜている。
 家庭的な食卓の風景だった。平和で穏やかな、今外を覆っている状況には似つかわしくないほどに。

 正常だった。
 頭がおかしいくらい、ここは普通の日常を保っていた。
 今この場所だけ、外の時間から切り離されているかのようだった。
 少女とこの食卓だけが、異常事態とは無縁であるかのように、どこまでも普通に存在していた。

 アイは知らなかった。何もかもが異常な環境で、一つだけ正常を保つとは、ここまで異常なものとして映るのだということを。
 蓮と一緒にテーブルにつき、緊張した面持ちで座るアイは、知らなかった。

「アイ」

 傍らの彼がアイの名を呼んだ。
 彼女は返答しない。視線を向けることもない。

「アイ。何時までこうしている気だ」

 アイは返答しない。
 蓮に名を呼ばれても、ただ、その少女を見つめている。
 願うように、あるいは縋るようにか。
 自分の考えていることが当たりませんように。そんな顔を、アイはしている。

「もうすぐできるからね」

 黒髪の少女が、言った。
 にこやかで朗らかな声だった。柔らかで、何の敵意も異常性も感じられない表情だった。
 固まった表情で沈黙を保っていたアイが、つられて、唇を開いてしまう。何を言うべきか僅かに逡巡して、アイは、少女の言葉から数秒の時を経て言葉を返した。努めて穏やかに、一歩以上を踏み込まない。踏み込んではならない、と本能のレベルで理解しながら。

「どうぞお構いなく。私達は、ただ話を聞きたかっただけなので」

 静かな声だった。
 そして固い声でもあった。
 緊張、恐慌、そういったものを感じさせる声だ。普通の人間なら、何かあったのかと訝しげに思うであろう、そんな声。
 けれど黒髪の少女は、そんなこと露とも思っていないかのように、あまりにも普通すぎる態度で聞き返す。

「私の話?」
「ええ。ここがどんなところなのかとか。あなたがどんな人なのかとか。こういうところに来るのは初めてなんです。こんな風におもてなしまでさせてもらって……」
「それこそお構いなくよ。気にしないで、鎮守府に一般人の来客なんて久しぶりだったから」
「鎮守府?」

 聞き覚えのない単語。蓮がそっと「海軍の拠点だ」と耳打ちしてくれた。
 海軍。海。
 海軍の拠点。ここが、そうであると?
 この小さな宿舎が、街中にあって海など臨めないこの場所が。
 鎮守府であると、少女は言うのか。

 ああ、やはり……

「ここには、あなた一人だけなんですか?」
「ううん、同じ部屋に二人、住んでる子がいるの。睦月ちゃんに夕立ちゃんって言って……でもごめんなさいね、ご挨拶もなくて。そんなに人見知りってわけじゃなかったと思うんだけど」
「いえ」

 アイは微笑む。
 何かを一つ諦めるように。願いを一つ失ったかのように。



「あなたは、一人なんですね」



「え?」

 少女は小首を傾げて、アイの言葉の意味が分からないと素振りで告げる。
 ギシ。小さな、金属の軋む音がした。
 魂が軋む音だった。


 ………。


 ……。


 …。


 ────────────。




 ぐつぐつと鍋の煮込む音がしている。
 少女は既に料理を終えた素振りをしているというのに、それでも鍋はまだ煮込まれていた。音を立てる鍋の匂いは今や部屋中に立ちこめていた。蓮は何かを言いたげであったけど、そっとアイの手が彼の膝に触れると、何を言うこともなかった。
 アイと蓮は、とある宿舎の中にいた。台所と食卓が同じ部屋にある、昔ながらの小さな一室。
 食卓。テーブルクロスの上には一輪の花がそっと遠慮がちに飾られている。
 出された料理を、しかし二人が口にすることはない。
 二人は、じっと、ただひたすらに少女の姿を見つめていた。

「晴れないわね、霧。月明かりも見えないなんて」

 少女は窓辺に立って、言った。
 確かに霧に包まれている。
 鍋を煮込む音で気づきにくいものの、外は霧が立ち込める時特有の異様な静けさに満ちていた。
 霧と靄の違いは見通しの良さだとアイは聞いたことがある。だとすると、これは確かに霧だった。窓から見える外は十m先すら満足に見えないほど煙のようなものに満たされて、向こうに何があるのか、ここはどこなのかすら曖昧になるような寂寥感を覚えさせた。

「嫌な霧ね」

 溜息を一つ。少女は零す。

 霧の風景はアイにとって物珍しいものではあったが、アイも少女の意見に賛成だった。
 この霧は嫌なものだ。晴れてくれたらいいのに。

「こんな中を歩いてきたなんて。二人とも大変だったでしょうに」
「いえ」

 アイは努めて穏やかに。

「これくらいへっちゃらです」
「あら、頼もしい。元気で良いわね、子供は風の子って言うし、そういうものなのかしら」
「……子供というのはやめてください。確かにあなたより年下ではありますけど」
「ごめんなさい、ちょっと微笑ましくて、つい」

 少女は笑う。朗らかな笑みは崩れることがない。

「その服、素敵ね。牧歌的というか、どこか外国のものみたい」
「ありがとうございます。私はここからずっと離れたところから来たので、そのせいかもしれません」
「遠くから? じゃああなたたちは旅を?」
「……どうなんでしょう。実はこの街に来たのは偶然で、でも世界中の色んな景色を見ることができたらな、と思ってます」
「ええ、ええ。素敵ね。私もそう思うわ。もしそんな旅ができたら、きっと楽しい旅行になるでしょうね」

 朗らかに笑う。彼女は、心の底から言っているようだった。旅、風景、それらを見て感じたいと、本心から言っていた。
 楽しそうに、嬉しそうに。でも少女は困ったような笑みを浮かべて言う、

「私も一度は旅をしてみたいわ。でも、私だけそういうわけにもいかないわよね」
「たまにはいいと思いますよ」
「ダメよ。私はこれでも艦娘で、軍人なのだから。少しの外出はともかく遠出なんて以ての外。よく遠征には行ったけど、あくまで任務ですものね。危険も多かったし……けど、せっかくの綺麗な海なんですもの、船旅をしてみるのもいいなって思うの」
「羨ましいです。私はお山で育ったので、今まで海は見たことがなかったんですけど。でも、綺麗でした。本当に」
「ええ、とても綺麗なの。暁の水平線は本当に、本当に……」

 語る少女は嬉しそうに、その口許を綻ばせた。それは大事な思い出か、あるいは強く残った記憶であるのか。
 少女は、本当にただの少女であるようにしか見えない姿と言葉で、自らの郷愁を振り返っているようだった。

「でも今は駄目ね。ここの所ずっと、霧が立ち込めて全然晴れないんだもの。せっかくの景色も台無しで困っちゃうわ」

 これじゃ出撃もできないし、早く晴れてくれたらいいのに、と。
 そう呟いたところで、ふと、少女の表情は不安定なものになって。
 不安定。表情が崩れて。それは感情の変化というよりは、機械部品が動作不良を起こしたような奇妙さがあった。

「あれ? でも、晴れたこと、あったかしら?
 いえ、晴れてたわ。陽射しが強くて、青い海がずっと広がって……鎮守府は、そこにあって……」
「……えっと、あなたのことを教えてはくれませんか?」
「あら……あら! そうね、失礼してしまってごめんなさい。そういえばまだ自己紹介もしてないなんて、こんなに忘れっぽかったかしら?」
「いえ、私達こそ。
 私はアイ、アイ・アスティンです。こっちはセイバーさん」

 アイは隣に座る蓮を視線で指し示す。

 背の高い男。剣士(セイバー)、と呼ばれて。
 整った顔はよくできた仮面のようで、アイにはそれが憮然としたものだと理解できた。
 事実、彼は少女と顔を合わせてから一度も表情を変えていない。鉄面皮というには普段とは違い過ぎて、彼の心境が少しではあるが察せられた。今も、紹介されて尚、表情浮かべずただ会釈するのみで。

「私は、ええと……名前、そうね、名前……」

 少女は何かを一つ忘れるようにして、何かを一つ失うようにして、名を述べる。

「……棲姫」
「素敵な名前だと思います」

 棲姫。それは姫の字を冠して、けれど人の名前に使うにはあまりに仰々しい響きがあった。
 それが意味するところを、アイは知るまい。そして当の本人である少女さえ、そのことを覚えてはいまい。

 ただ、独りだけ。
 棲姫という名を聞いた蓮だけは、ぴくりとその眉を動かして。

「棲姫さん、それがあなたの名前なんですね。生まれた時からの」
「ええ勿論。それより料理、冷めちゃうわよ?」
「本当に?」
「えっと、どうだったかしら……?」

 あっさりと。
 少女は不思議そうな顔を浮かべて首を傾げる。
 自分の名であるはずなのに。短く一言確認しただけで、ぐらりと揺らぐ。
 蓮が何かを言おうとするのを、もしくは何か行動しようとするのを、今度は腕を強く掴んでアイは再び制する。まだ、何もしてほしくなかった。まだ、このままでいさせてあげたかった。
 もう少しだけ、時間をください。
 お願いします、セイバーさん。

「もう一つ質問します。棲姫さん、あなたはいつから一人なんですか?」
「一人じゃないわ」
「いいえ、一人です。残念ですけど」

 表情を、アイは浮かべようとする。
 穏やかに。例えば微笑みを作ろうとするけど、できない。
 できなかった。
 だから酷く歪んだ表情になった。泣くのを堪えるような、怒るのを我慢するような、微笑むのを途中で止められたような、酷く奇妙な顔になって。
 加熱される鍋の中身の匂いなど、もう、気にならなかった。

「……一人なんです。あなたは、棲姫さん」
「どうしたの、泣きそうな顔をして。ええと、可愛いあなた。名前はなぁに?」
「アイ」
「アイちゃんっていうのね。あなたは異国の人かしら? 素朴で素敵な服だと思うわ。なんだかのどかな雰囲気で、えっと、それでこちらの男の人は……」

 少女の、棲姫の言動は明らかに混乱していた。
 言葉ひとつ毎に、態度は、少しずつ変化していく。
 奇妙に歪む。
 アイの表情よりも更におかしな具合になっていく。
 もう少しでお料理ができますからね。既に鍋の中身を皿に取り分けた後なのに彼女はそう言った。
 嫌な霧ね。既に告げた言葉を、再度、窓のほうを見ながら彼女は言った。
 二人の名前は何かしら?
 あなたは異国の人?

「記憶の混濁か、これは」

 セイバーが短く告げる。
 刃を思わせる鋭い声だった。

「やめてください」
「だが」
「……お願いします、まだ」

 彼の腕を強く掴みながら囁く。
 ただ、焦れるように。願うように。
 アイは、まだ、少女を。
 棲姫と名乗った少女を見つめていた。彼女は笑顔を浮かべていた。出会った時とそっくり同じ。朗らかで穏やかな、人の良さそうな笑み。

「こんばんは。まあ、珍しい。こんなところにお客さんなんて」

 同じ笑顔。

「まだ、生きてる人がいたのね」

 同じ言葉。

 出会った時の言葉。十三分と五十二秒前とそっくり同じ言葉を彼女は告げる。
 同じ顔で。同じ声で。まるでビデオテープを巻き戻して、わざと同じシーンを繰り返し再生するかのような。何もかもが同じなまま。

「はい……二人で、ここに来たんです」

 声、なんとか絞りだす。
 アイの表情が更に歪んでいく。
 笑顔を浮かべる寸前のように、憤りを爆発させる寸前のように、涙を零す寸前のように、けれども決して涙の雫を瞳に浮かべることはなく。
 何かに耐えるように。願いを、打ち捨てられたかのように。
 焦がれる想いすべてを引き裂かれる最中であるかのように。

「アイ」

 セイバーが名前を呼ぶ。
 アイは返事をしない。したくなかった。

「こいつは」

 ───この人は、なんだというのか。
 ───違う、手遅れではない。まだ見込みは。

「やめてください……」

 ───また、助けられなかったなんて。

「こいつはもう駄目だ」
「やめて、くださいよ」
「こいつは駄目だ。艦娘、人類海域を守護する艦船に宿る御霊の英霊を俺は知っている。棲姫なんざこいつらの名前じゃない。いや、名ではあるが」

 セイバーの瞳は彼女を見据えている。まるで射抜くかのように。

「それは呪いの名の一つだ」
「でも、この人は、まだ」

 人であることを願っている。
 人であった頃の記憶を、意思を、失いたくないともがいている。
 だからアイは、こうして彼女が人であるかのように接して。
 でも、だとしても、もう。
 どうしようもないくらい、彼女は手遅れで。

「なんのお話をしてるの? 喧嘩するほど仲がいいって言うけど、でも私はあんまり好きじゃないかな。やめて頂戴、ね?
 さ、召し上がれ。スープが冷めてしまうわ」

 少女は笑顔でそう告げる。
 どろりと濁って、人間にはおよそ耐えられないであろう悪臭を放ち続ける、大量の血と臓物が茹った二枚の皿を示しながら。笑顔で、にこやかに。美味しいシチューができたから召し上がれ。そう表情が告げている。
 何を疑うこともなく、恐らくは彼女自身のものであろうおぞましく煮溶けた内臓を見下ろして。胸から腹部にかけて大量の血をへばり付かせ、引き裂かれた胎の内を露わにした姿のまま、彼女は笑う。
 張り付けられた笑みは揺るがない。例え今この場でアイとセイバーが血反吐を撒き散らし惨死しようとも、その穏やかな表情は崩れないのだと思えるほどに、冷たく無機質な微笑み。

 セイバーは席から立ち上がる。
 アイは「やめて」と小さく呟いた。セイバーは構わずにアイの腕を掴んで無理やりに立たせると、一歩、前へと進む。まるで、少女からアイを庇うようにして。

「……料理、食べてはくれないのね」
「悪いな」
「いいえ。いいの。本当はね、料理の仕方なんて忘れちゃってたの」

 少女はまだ笑顔を浮かべていた。
 今や、混乱した精神をその両目にはっきりと顕しながら。
 すなわちぐるぐると人間にはあり得ない形で回転させながら。それでも、朗らかで穏やかな笑顔を浮かべたままで。声、ひび割れさせながら。
 涙を、一筋だけ流しながら。

「付き合ってくれてありがとう。最後に、生きてた頃を思い出せて嬉しかった」
「棲姫さん、待って」

 アイの言葉は届かない。
 既に、少女の聴覚は失われただろうから。

「ごめんね、私はもう、生きて、は、いない、から……」

 涙の色が変わる。

「誰も、彼をも、殺し、尽くすの」

 透明な雫から、血の赤色に。

「逃げて、殺して、逃げて、殺して、お願い、わた、し、を、殺し、て、もう終わり、にして……」

 艶やかな黒髪は抜けるように真っ白に変色し、首の骨は枯れ木を折るような音と共に砕けて。
 ぐるり、と頭が回転する。半ばで折られた首はだらりと垂れさがり、逆さまになった頭は胸のあたりで揺れていた。
 その頭頂には、人ではないかのような角が、何本も。

「逃げ、て……」

 最後の言葉は、声は、悲鳴は、残酷な金属音で食い破られる。
 少女の喉は内側から破れて、瞬時に、幾つもの金属の棒が生える。棒はぐねぐねと形を変えながら質量を増して、柱と化して、少女の体を包み込む。押し潰すようにして。
 ぱしん、と音がして女性の姿が消えた。
 人体が弾けるかのようにして消えてなくなり、そこに残ったのは、巨大な鉄の塊。
 そうして、少女は姿を変えていた。
 巨大に、禍々しく。規則性など見当たらない、金属を滅茶苦茶に繋ぎ合わせたかのような異形の塊に。
 タールのような黒い体表はおぞましくも光沢を放ち、体の随所からはいくつもの砲塔が付きだしている。腹部を覆う口は人間なら一呑みにできそうなくらい大きくて、無機的な目からは一切の生気を感じ取れはしなかった。
 そう、生きてはいない。この鉄くずは既に死んでいるのだ。
 ───深海棲艦。
 ───少女の成れ果てが、ここにはあった。

「下がってろ、アイ」

 セイバーは抑揚を感じさせない声で告げる。
 そこには一切の容赦もなく、故にアイには理解することができた。

「お前ができないって言うのなら。代わりに、俺がこいつを埋めてやる」

 セイバーの言うそれだけが、今やあの少女に残された、唯一の救いなのだと。





   ▼  ▼  ▼





「静かに。僕は敵じゃない」
「……え?」

 思いがけず柔らかな声だった。
 突如目の前に黒い影が現れて、頭の中がパニックに染まりかけたすばるは、しかし声を掛けられた瞬間には不思議と落ち着くことができた。言葉の内容その物ではなく、声の響きが混乱を止めたのだ。酷く落ち着いた男の声。漏らしかけていた悲鳴を喉奥に呑みこみ、すばるは声の主を振り返ろうとして。

「こっちだ」

 振り返った先で黒い影が先導するようにゆっくりと歩き出した。「あ、待って」と慌てて駆け出そうとし、足元の小石に躓きかけた。影について行くこと1分ほど、すばるは何かの建物に辿りついた。朱色の柱が立ち並び、赤い柵に囲まれた賽銭箱が見える。奥まったところは段差となっていて広い舞台。立派な屋根はついているが壁はなく、横合いに吹き抜けになっていて向こう側が見えそうだった。
 これは……

「神社の一部、なのかな」
「舞殿だね。神社の境内に設けられた、舞楽を行うための建物。ここなら霧も少しは薄まるから、話すにはちょうどいいと思って」
「あ……! え、ええっと……」

 その声でようやく、自分が一人でないことを思い出す。胸の前で構えていたドライブシャフトを降ろし、ぱたぱたとスカートの裾を整える。
 目の前には、白銀に映える鎧に青色の外套を身につけた、すばるよりもずっと年上の青年の姿。アイと一緒にいたセイバーと同じか、もうちょっと上くらい? 日本人じゃない、どこかもっと遠い国の人。
 翠色の瞳で真っ直ぐにこちらを見つめ、「よし」と頷き。

「自己紹介をしよう。僕はセイバーのサーヴァント。そしてこちらが僕のマスターだ」
「え、えと」

 青年───セイバーの腕に抱えられた少女の姿にここで初めて気づき驚きの声を上げそうになって、でも自分も何か言わなくてはとやはり慌てて。

すばるです。えと、よろしくお願いします……?」
「ああ、よろしく」

 セイバーはもう一度頷き、ほんのわずかに表情を和らげる。
 すばるは思わず、その顔に見惚れてしまった。

 ……きれいな人。

 今の状況も忘れて、そんなことを思う。綺麗というよりは格好良い、と言うべきなのだろうか。鋭い瞳も固く結ばれた口許もびっくりするくらい整ってて、とても厳しい感じなのに何故かそれが怖いというイメージに結びつかない。透き通るように白い肌と金糸のように鮮やかな髪は西洋人のもので、銀色の鎧と合わさって何だか御伽噺の王子様のような雰囲気を作りだしている。
 勇猛果敢に敵と戦う、御伽噺の王子様。
 でもそんな彼からは、偉い人特有の冷たさみたいなものは感じられない。
 どうしてかな、と思って気付く。彼の腕に抱かれた女の子が、とても気持ち良さそうな顔をしていたからだ。何の憂いも恐怖もなく、すやすやと安らかな寝顔をしている。女の子にそんな表情をさせる人が、まさか怖い人なわけがないだろうという、それはつまりそういうことだった。

「わぁ……」
「どうかしたかい?」
「え? あ、いえ! なんでもありません!」

 セイバーの不思議そうな顔から勢いよく視線を逸らす。訳もなく頬に血が上り、顔が俯き加減になってしまう。変なことを言ってしまった、おかしな子と思われてはいないだろうか。
 上目遣いにちらりと様子を見てみると、彼は難しい顔で何かを考え込み。

「それにしても、何故こんなところに」

 鋭い瞳を、こちらに向けて。

「君は一体、何の目的があってこの場所に?」
「はい、あの……」

 そこから何を話せばいいのか分からなくなり、言葉に詰まって。

「……せ、セイバーさんはどうしてわたしを?」
「僕かい?」

 青年は小さく首を傾げるようにして。

「元々ここに用があってね。そうしたら君が彷徨っているのを見つけて、気になったんだ」
「そうなんですか……」

 俯きながら、まるで子供みたいな扱いだな、と思った。実際自分は子供で相手は大人なのだけど、改めて自分がちっぽけな存在だと思い知らされてるみたいで、なんだか自分が情けなくなってくるのだ。
 セイバーが悪いわけでは決してないんだけど、というかこんなこと考えて失礼なのかもしれないけど、と思う。

「で、でも、敵って思わなかったんですか? わたし、一応マスターで……」
「君がサーヴァントを失っていることは分かっている。その手の令呪を見れば一目瞭然だ。それに……」

 青年は少し考えるようにして。

「誤魔化すこともできただろうに、マスターやサーヴァントという単語にもきちんと反応していた。気付いていないだけなのかもしれないけれど、どちらにしても君に敵意はないと思った。それだけだよ」
「あっ……」

 言われてすばるはようやく気付いた。すばるはマスターやサーヴァントの存在を当たり前のものと認識していたけど、聖杯戦争の参加者以外の人間にとってそれは未知の単語である。サーヴァントを失っているすばるの立場からすれば、それらを敢えて知らないフリをしてやり過ごしたり、あるいは不意打ちに繋げようとしても全然おかしくない。
 それをしなかった時点で、セイバーはすばるのことを信用したということらしい。彼を騙すつもりが無かったのは本当だしそれがいい方向に転がってくれたことも僥倖だけど、元は自分の不注意といか考えの至らなさが原因であるため、すばるはさっきぶりに顔を赤面させ俯く角度が更に下のほうになってしまった。

「ともあれ、最初の質問にまだ答えてもらってないのだけど、君は何故ここに?」

 青年は体をずらして道を開け、段差に座るよう勧める。

「は、はい……えっと……」

 冷たい木組みの段差にぺたんと座り、すばるは、これまでのことをぽつりぽつりと話し始めた。

 ………。

 ……。

 …。

 ────────────────────────。




「……なるほど」

 まとまりのないすばるの説明を聞き終えると、セイバーは小さく呟いた。

「つまり、君の仲間が二人、この場所に囚われていると」
「はい。アイちゃんとセイバーさんは……」

 名前を口にしてしまったことで涙腺が刺激され、まぶたの縁がじわっと熱くなる。唇を噛んで涙を堪え、言葉を続ける。

「二人はわたしに待っててって……きっと助けてあげるから、待ってろって……」
「賢明な判断だ」

 セイバーはすっと姿勢を正し。

「状況はあまり良くないらしい。すぐにここを離れよう」
「え、状況が良くないって……」

 話の流れについていけずに戸惑い、はっと目を見開いて。

「もしかしてアイちゃんたち、もう……」
「いや、違う。そうじゃないんだ」

 セイバーは首を振り。

「この霧の性質についてはある程度把握済みだ。業腹だけど、僕のマスターが既に術中に嵌ってしまったからね。けど見て分かる通り、この霧は覚めない眠りに引きずりこむけど即座に人を殺すようなものじゃない。仮にその二人が昏倒していようと、今すぐどうにかなってしまう危険性は少ない。むしろ、問題は僕たちのほうだ」
「わたしたちの?」
「そう。僕たちはこうして、少なくとも二人が眠ることなく行動できている。そして敵手の腹の内とも言うべきこの領域内にあって、自らの術中に嵌らない相手をどうするかなんて、古今東西を問わず決まりきっている。僕とマスターだけならまだ何とかなったかもしれないが、君も含めるとなると話は別だ」

 言葉を切り、沈痛な声で。

「もしもの場合、僕だけでは君達を守り切ることができないかもしれない」
「それって……」

 敵襲の可能性、そして"足手纏い"の存在。
 セイバーがどれほど優れた戦士であろうとも、無防備な一般人二人を抱えた状態でまともに戦えるはずがないという、そんな当たり前の話だった。





   ▼  ▼  ▼





 故に、その事象は発生する。

 危険があると、戦わねばならぬと、彼らはその事実に合意した。
 認めた、故に"そう"なる。何もかもが不確かな夢の中にあって、それは如何なる道理よりも優先される唯一の真実であるから。

 強制協力、条件達成。
 溢れだす悪夢の源泉が、今こそ彼らへ襲い掛かる。





   ▼  ▼  ▼





 すばるが何かを言おうとした、その瞬間だった。
 爆音と共に、舞殿の天井が跡形もなく消し飛んだ。

「風よ!」

 砕けた天井の向こうに黒い影を認めた瞬間、考えるよりも速くアーサーの剣が動く。不可視の鞘と為す風圧が三人の周囲に展開、迫る瓦礫を押し返し敵襲への反撃とする。
 通常なら瓦礫どころか遠間の敵影すら諸共に打ち砕ける暴威は、しかし今は発揮されることがない。反動の負荷はアーサー自身はともかく常人の二人に耐えられるものではない。事実、この一合だけですばるは悲痛な叫びを上げ、腕の中で眠るキーアの体が軋みを上げていた。
 少女らにできるだけ負担をかけない範囲での最大威力を脳内で演算し、片腕のみで剣を翻す。敵影は既に目の前。何かを掲げるその影は、弧を描いて閃く一撃により両断された。
 ───甲高い、金属音。
 敵影を斬り捨てた感触は生身の肉体にはあり得ぬ鉄塊の手応えだった。それを証明するかのように、辺りに響く斬撃音は金属のそれ。それを訝しむ暇もなく、新たな影が次々と霧の向こうから現出する。

 そして鳴り響く、鉄砲雷火の多重奏。

 無数の弾丸が、三人のいた空間を滅多刺しに貫いた。絢爛な舞殿は既にその姿を崩し、襤褸屑のように木切れを宙に舞わせ瓦礫の山と化している。
 朦々と、土煙が立ち込める。影たちは一斉に射撃の手を止めて、じっと煙の向こう側を見据えた。
 煙が晴れるのを、じっと待った。
 殺意の籠った視線だった。
 やがて風がゆっくりと吹き、煙をどこか遠くへ持っていって。



「───斬る」



 空間を断割する一閃が、影たちの間をすり抜けていった。
 今度は何の音も響かなかった。射撃の手だけを止めていた影たちは、今度こそ一切の動きを止めてしまって、次瞬には上半身と下半身を致命的にずらして、ボトボトと地面に落ちていった。

「げほっ、げほっ、な、なにが……」
「敵襲の第一陣だろう。何とか凌ぐことはできたが……ともかく、怪我はないかい?」
「え……は、はい!」

 土煙をまともに吸い込んで咳き込むすばるは、アーサーに庇われるように瓦礫の山から抜け出した。
 盛大に汚れた服をパタパタと払い、何事かと周囲を見遣る。その困惑した目に並び、アーサーは対照的に油断なく彼方を見据えた。

「それなら良かった。けれど、ここからが正念場だ」
「え?」
「言っただろう、第一陣と。つまり、本格的な攻撃はここからになる」

 アーサーの言葉を一瞬理解できなくて、しかし次の瞬間、すばるはその表情を恐怖で硬直させた。
 肌で感じることができたからだ。周囲一面の至るところから、何か得体のしれないものが蠢いているという気配を。"戦いの経験がないすばるでも容易に感じ取ることができるほど大量のそれら"を前に、アーサーはただ一刀のみを構えて。

「戦いだ。これより先は死力を尽くさねばならない」

 二人の前に立ち塞がる盾のように、その剣を振るい翳すのだった。





   ▼  ▼  ▼





「はあああああああああああああああああああああああああッ!!!」

 アイと蓮が立つ寄宿舎の壁を、何者かが凄まじい勢いで貫いた。
 轟く爆音が大気を引き裂き、横合いに殴りつけるかのような衝撃が建物全体を襲う。
 弾き飛ばされ壁に叩きつけられる寸前、蓮に抱き寄せられるようにして受け止められたアイは、何事かと目を見開き、襲撃者の姿を視認した。

 そこにいたのは、少女だった。
 桃色の頭髪に花をあしらった意匠の装飾。手には何も持たず無手のままで、しかし何よりも力強い拳圧が彼女にはあった。
 何かを殴りつけたかのように拳を突きだした姿の少女を、アイは知っていた。
 見間違えるはずもない。それは数時間前に出会ったばかりの少女であり、アイがここに来るきっかけとなったサーヴァントでもあったのだから。

 サーヴァント・ランサー。
 アイが助けると約束した、主を想う少女であった。

「ら、ランサーさん!? 待って……!」
「"その子"から、離れろォォォオオオオオオオオオッ!!」

 聞く耳を持たず、躊躇なく振りかぶる。
 その気迫にアイは思わず目を瞑り、しかし背後から腕が繰り出され肉を打つ鈍い音だけが、アイの耳に届いた。
 恐る恐る、目を開く。
 ランサーの拳は真っ直ぐに突き出されて、けれど蓮の右手が、それを受け止めていた。

「何をしやがる、てめえは!」
「……っ!」

 掴んだ拳を振り払い、ランサーは舞うように後退する。
 蓮は腰の抜けたアイを無理やりに立たせ、背後に庇うようにして一歩前に出た。

「何があったんですかランサーさん! 私達が戦う必要なんて……!」
「……アイ。あいつは今正気じゃない」

 はい? と一瞬真顔になる。
 けれど、よくよくランサーを見てみれば、その視線はどこか焦点が合っていない。彼女はアイたちを見ながら、けれど全く違う何かを見ているかのような不確かさが介在していた。

「正気じゃないって、まさか『幸福』のアレですか? でも、それならなんで……」
「分からん。だが確実なのは、あいつは今夢遊病者みたいな状態になってるってことだ。錯乱してるってよりは、俺達のことが何か違うものにでも見えてるっぽいな」

 この場に突っ込んでくる際、ランサーは異形のことを「あの子」と呼んだ。それはランサーの知己か、あるいは守るべき無辜の少女に見えているのだろうか。
 現実として、彼女は異形を庇護対象に、アイたちを敵対対象に見ているのは間違いなかった。睨みあう両者。蓮は視線をランサーと異形の少女に固定しながら、背後のアイに問うた。

「なあアイ。お前はあいつを助けたいか?」
「……当たり前です」

 ランサーを助けるためにアイはここに来た。それを撤回するつもりはない。

「あいつを死なせたくはないか?」
「だから、当然です」

 アイたちが戦う必要はない。夢に墜ちているといっても、そこから目覚めさせることは可能であると、他ならぬアイ自身が証明している。ランサーを死なせず救う方法は、確かに存在しているのだ。

「だったら逃げろ、今すぐに」
「えっ?」

 だから、アイは蓮の言ったことがよく分からなくて。

「逃げろ、早く───!?」
「うぁ……!」

 言葉が終わるより先に、突貫してきたランサーの拳が蓮へと襲い掛かった。
 重い衝撃が、周囲に伝播する。思わずそれを手で庇って、霞む視界の先にアイは"それ"を見た。



 蓮の体は、ボロボロだった。



 戦闘のために魔力を充填させたその瞬間、無傷に見せかけていた外装はそのメッキを剥して、一瞬にして彼の状態を一目の元に曝け出していた。
 剣を翳す右手は罅割れて、なんで腕の形状を保っていられるのか分からないくらい。
 ランサーの膂力に抗しきれず、体の節々から鮮血が噴出している。

 平気だよ、と無理に笑っていた彼の姿が思い起こされた。
 心配ないとこちらを気遣って、声にも態度にも苦しみを出さなかった彼のやせ我慢が簡単に想起できた。
 ようやく気付いた。自分を庇うこの男は、本当ならもう戦えないくらい限界に近かったのだということに。

 気付いて、でもアイにはどうしようもできなくて。

「逃げろ!」

 最早自分の出る幕はないのだと叫ぶ、彼の声に。

「……はい!」

 恐らくはこの聖杯戦争が開始されてから初めて、アイは素直に従ったのだった。


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最終更新:2019年06月05日 17:25