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夢を見ていた。
現実には決してあり得ない、けれど私がずっと実現してほしいと願い続けた、そんな幸せな夢を。
私はただ、あの子を死なせたくなかっただけだ。
マスターを助けるには他のマスターを殺さなきゃいけなくて、でも私はそんなことしたくなかった。
できるだけ殺さずに、それでもやらなきゃいけない時はできるだけ苦しまないように。そう思い続けて、でもあの子はどうしようもなく救われなくて。
それなのに、あの子は私に希望を託してくれた。
私はそれに報いたかった。ありがとうと言ってくれた彼女を、いつか絶対救ってあげたいと強く思った。
私のマスターと同じように。
聖杯の力さえあれば、それができるのではないかと考えた。
私は、あの子が笑っていられる世界が欲しかった。
生前の勇者部のように。パスを通じて垣間見たマスターの過去の風景のように。
私はただ、それを見てみたかっただけなんだ。
………。
……。
…。
────────────────────────。
見つけた、見つけた、見つけた!
生きてた、あの子は死んでなかったんだ!
傷なんてどこにもない、きれいな姿のままで、あの子はちゃんと生きててくれた!
良かった、良かった! 無事でいてくれて、元気な笑顔のままで、本当に良かった!
あの子を傷つけようとする人は許さない、あの時は助けられなかったあの子を、私は今度こそ助けるんだ!!
だから。
だから。
だから!
あの子を傷つけようとする"怪物"二匹!
殺させはしない───私は誰かを助ける勇者なんだから!
▼ ▼ ▼
思いがけず上げられた声に、アーサーは剣腕を止めることなくすばるを振り返った。
周囲一帯、破砕と炸裂の音に満ちている。市井の人間ならば身じろぎひとつできないであろう鉄風雷火の中にあって、
すばるの表情は尚も折れぬ覚悟に染まっていた。
「やれるか?」
「はい! ここを切り抜けるくらいなら、必ず!」
すばるの持つ力については既に聞き及んでいる。ドライブシャフト、飛行補助の魔術礼装にも近しい魔杖。騎乗者を高速移動による風の反動から守る機能もあるという。
それはアーサーにはできない芸当であった。生身のキーアを連れて急速離脱を試みようとすれば、彼女の体は高速移動の負荷に耐えられない。だからこそアーサーはこの場に留まっての迎撃しか選択できず、すばるの戦力もアテにはできなかったわけだが。
「ならば、頼む。君達の退路は僕が作ろう。だから後ろを振り返ることなく駆け抜けてくれ!」
「───はい!」
言うが早いか、すばるはキーアを受け取ると、決然とした表情でドライブシャフトに跨った。瞬間、総身を覆う光と共に変生する姿。少女の道を切り拓くため振るわれたアーサーの風の刃が異形の群れを薙ぎ倒し、出来上がった隙間を縫うかのように、漆黒の衣装に身を包んだすばるは猛然と飛びだっていった。
あっと言う間に小さくなっていく後ろ姿。それに、アーサーは知らず感嘆の息を漏らした。すばるの力、ドライブシャフト。見てとれる移動性能は下手なサーヴァントすら凌駕している。自分は無力だなどと何の卑下か、すばるは立派な力を持っていたではないか。
「……これで、後願の憂いも消え果てた」
離れ行くすばるを狙撃しようとする異形たちの弾丸を悉く打ち落とし、舞殿の残骸の上に降り立つアーサーは銀影の中で剣を構える。
不可視剣の切っ先を緩やかに持ち上げ、並み居る異形たちに向けた。
「ここを通しはしない───死にたい者から前へ出るがいい」
▼ ▼ ▼
壁にできた大穴から、アイが離れていくのが見える。
それを見送り、決して通さないと仁王立つ足を踏みしめる。ランサーが勢いよく地を蹴ったのはほぼ同時だった。
「お前なんかに、奪わせたりしない!」
踏み込みざまに繰り出されたランサーの右手は、咄嗟に掲げた蓮の右腕から防御に構えた細剣を弾き飛ばしていた。
(何を───)
しているんだ、と一瞬の思考。困惑はそのままに蓮は上体を大きくのけ反らせ、防御を弾いてなお迫るランサーの左手を回避。魔力放出による戦闘加速を発動し、減速する視界の中で右手を跳ね上げ、飛び去ろうとしている細剣を空中に掴み取る。
右脚を強く踏み出し、崩れかけた体勢を強引に立て直す。
一挙動に腕を引き戻し、続けざまに襲い来るランサーの右腕に合せるように剣筋を滑らせようと……
───私はランサーさんを助けます。
「……チッ!」
左胸を貫く衝撃。
剣閃を寸でのところで停止させたことで生じた隙間から滑り込んだランサーの右拳が、蓮の左胸を情け容赦なく打ち抜いていた。
激痛を示す危険信号が脳内を駆け巡る。骨折とまではいかなくとも、骨に罅が入っていることは間違いない。咄嗟に一歩後ずさり、それに呼応するようにランサーが前進する。滑るよう、というよりは荒々しい。余裕や冷静さなど完全に失っているその挙動は、精彩さを欠く反面原始の野生に近しい力強さを感じさせた。
桃色の外套が、陽炎のように揺らめく。
踏み込むランサーの右脚が、霧に満ちる大気を震わせる。
つま先を軸に体全体が螺旋を描き、左の踵が横薙ぎに襲い掛かる。頭部を狙ったそれを体勢を落とすことで回避し、地を這うように低い回し蹴りを放つもランサーは軽く跳躍することで難を逃れる。
起き上がりと着地はほぼ同時。再び距離を開けて対峙する二人。
ランサーの動きに淀みはない。痛みや損傷等による動作制限は皆無。夕方ごろに見受けられた魔力消費に代表される諸々の損耗は、その一切が消え失せ万全の状態へと復帰していることが見てとれた。
対して蓮の側は、対照的なまでにボロボロだ。二度の宝具解放による魔力消費は甚大で、死者否定の渇望による自壊は未だその傷を癒すに至っていない。実際のところ戦闘行為を成立させるどころか普通に立ち上がっているというそれだけでも奇跡的な損傷を彼は負っていた。アイやすばるの前では極力そうした消耗を見せないよう立ち回っていたが、それもそろそろ限界が近づいている。加えて蓮はランサーをできるだけ傷つけずに戦わねばいけないという重い制約が課せられており、状況的に不利なのは確定的に明らかだった。
(まずい、な……)
正直言って、打開策が見つからない。
倒していいなら話は別だ。逃げてもいいならとっくにそうしている。しかし前者は絶対的に認められず、後者はアイの逃走時間を稼いでいる以上はやはり不可能。
よって蓮としては第三の選択肢、つまりは対話や休戦といったものを取りたいところなのだが。
「おいランサー、こっちの話を───」
「この子を、傷つけるなァァァアアアアアアアアアアッ!!!」
その瞬間には、既に、3mの距離を無視して踏み込んだランサーの左足が唸りを上げていた。
奇襲に限りなく近い行いはランサーの体勢を不安定なものとしていたが、そこから繰り出される蹴撃は、それでもガードに置いた蓮の右腕ごと彼の体を弾き飛ばすには十分な威力を持ち合わせていた。
空中に投げ出された蓮の体を、深海棲姫の砲弾が照準する。理性を失おうとも戦闘に関する直感と本能は失わないのか、少女の異形はこの場における生存に向けて最適な、蓮にとっては最悪の行動を叩きだした。
放たれた砲弾が、超音速の初速を以て蓮に襲い掛かる。その数3発。その数自体対処は容易であり、形成した刃を振るい眼前まで迫ったそれらを中空にて叩き落すことに成功する。
しかし、一連の行動によって蓮の体勢は崩れ、一瞬だが行動が制限される。その隙を見逃すランサーでは、残念ながらなかった。
「勇者ァ───」
大きく飛び上がる、少女の影。
咄嗟に振り向いた視線の先には、その顔面を鬼気に染め上げたランサーが、大振りに拳を振り上げていた。
未だ空中にある蓮は、それに対し有効的な回避行動を取ることができない。
だからせめてもの抵抗に両腕をクロスさせ防御として。
「パァァァァァァァンチッ!!!」
炸裂する、これまでで最も重い一撃。蓮の体は真っ直ぐ地面へと叩きつけられて、凄まじい轟音と土煙が辺りを埋め尽くした。
着地して静かに事の成り行きを見守るランサーに、勝利の余韻も、まして落ち着いた様子も見られない。その表情はあくまで戦意一色に染まり、決して逃がさぬと睨む視線が告げている。
戦意───戦意?
だがそれは、彼女のその感情は、果たして本当に戦意と言えるのか?
戦意───戦い勝ち取り前へと進む、そのような光に属した感情なのか?
それはあるいは、直視したくない現実から逃避する───
「……いい加減にしろよ、テメェ」
煙を払うように立ち上がった蓮は、低く唸るように吐き捨てた。
頭からは血を流し、全身の至る箇所は襤褸屑のように擦り切れている。
しかしそれでも、彼は膝を屈しはしなかった。
「いつまで夢、見てやがる。いい加減に目を覚ませ! お前も英雄の端くれなら、目の前の現実くらいきちんと認識しやがれ!」
叫ぶ蓮の訴えを、唸る拳の風切り音が掻き消した。
地を蹴るランサーの体は一呼吸の間もなく蓮へ肉迫、右腕が螺旋の動きで跳ね上がる。突き上げた拳は一直線に鳩尾を狙って、しかし横合いから差し込まれた掌に軌道を逸らされ肉ではなく宙を穿つ。
そこから間髪なく繰り出される裏拳、肘打ち、蹴撃。無抵抗に近い蓮を決して逃がさないとばかりに追い立てて、的確にその命を狙いに行く。
その形相は鬼気迫り殴打にも渾身の力が込められて、けれどその猛攻故に守りへの精彩さは欠けていて。
「起きろッ!」
不意打ち気味に放たれたその一撃を躱すことは、ランサーにはできなかった。
正拳を受け流し懐に潜り込んでの鳩尾突き、この戦闘が開始されてから初めて放たれる蓮の攻撃である。
肉を打つ鈍い音に引き絞るようなか細い悲鳴が混じる。死なないよう極力威力は絞ったが、それでも一切の苦痛を感じないほど弱いものではない。できればこの一撃で正気に戻るか、最低限意識を失ってほしいと、後方へ飛び退り様子を見る蓮はそう考えていた。
けれど現実はそう甘くはない。
「……はあああああああぁぁぁぁああああああああああ!!」
片膝をついていたランサーが、しかし一挙動に跳ね起きる。その動きに消耗の二文字は皆無。蓮の拳撃など意に介さず、ダメージも何もかも意識の向こうに置き去りにして、尚も屈さぬと吠え猛る。
凄まじき執念、凄まじき戦闘続行能力。サーヴァントとはいえ人の形を取る以上人間と弱点を同じくするのは明白であり、故に神経系の集合箇所である鳩尾に強烈な打撃を食らえば一時昏倒するのが妥当であるはずなのに。
特殊な防御能力を持ち合わせているのではない。蓮のように自己回復能力を強化されているのでもない。
それは単なる意地と執念。有体に言えば「根性」というありふれた精神論でしかない。
そんなものでも突き詰めれば、このように立派な武器になるのだと、猛る勇者の姿は語っていた。
しかし。
「私は負けない! 私は勇者だ! 二度と誰も死なせたりしない!」
しかし、何故だろう。
勇者であるという自負も、誰かの命を守るという矜持も。
その口から語られる全て、善性や正義に基づくものであるというのに。
そこに嘘は含まれていないはずなのに。
「私は勇者になるんだぁぁぁぁあああああ!! 救えなかったんじゃない、私は願いを託されたんだ! ありがとうって、その言葉を嘘になんかさせない!」
それは心の奥底から来る信念の発露というよりは、追い詰められた子供が心の支えに繰り返し唱えるような、切迫した余裕の無さが感じられた。
勇者だから戦うのではなく、戦うことで勇者足らんとしているかのようだ。端的に目的と手段が逆転している。その有り様は何某かの直視したくない事柄から、必死で目を背けているようでもあった。
「……別に、それを悪いとは言わねえけどよ」
肉迫し乱撃するランサーの拳から逃れて蓮が呟く。
錯乱しているとはいえ、ランサーの正義は間違っていない。現実がどうであれ、彼女は自分の目に映る無辜の少女を救おうとしている。そのための足掻きも、語られる決意も、頭ごなしに否定していいものではなかった。
現実逃避と詰るのは簡単だが、その根底にあるのは正義だ。蓮は我欲のみに根差した現実逃避の愚者たちを知っている。あの黒円卓の塵屑に比べたら……いや、比べるのもランサーに失礼なほど、彼女は真っ当な倫理観を持っている。
ランサーは悪ではない。
けれど、いいやだからこそ。
「だったら尚更、こんなことしてる場合じゃないだろ。お前が本当にやるべきことはなんだ? 残念だが、こいつはもう……」
とっくの昔に手遅れだ。そう言う蓮の口を塞ぐかのように、絶叫と共にランサーは突貫した。
「私は守る! 私が助けられる全員を!」
その願いは間違っていない。この場に助けられる誰かが一人もいないことを除けば。
「私は負けない! あの子に託された言葉を果たすまで!」
その願いは間違っていない。振るう拳を向ける相手を見間違ってることを除けば。
「私は諦めない! もう二度と、何もかも!」
その願いは間違っていない。彼女が自分を見つめ直す機会さえあるならば。
「私は、マスターの願いを───」
彼女が語る全て、決して間違いではない。ただボタンの掛け間違えのように、ほんの少しだけ何かがズレてしまっただけだ。
彼女は何も間違えていない。
ただし。
「死んでも諦めなかった夢を、絶対に叶える!」
全ては"ランサーが加害者ではない"という前提があればの話だが。
「……おい。今なんて言った?」
自分でも驚くほど冷たい声が、蓮の口から漏れ出た。
「お前のマスターはまだ生きてるだろう。でなきゃお前はここに来ていない」
ランサーがこの八幡宮を訪れたのは蓮たちとの連携のためだが、その前提となるのは「ライダーに囚われたランサーのマスターの救出」である。
一帯を牛耳るライダーの存在は蓮の側でも認識済みだし、その手口や行動もある程度は知っている。前後の状況から鑑みてもランサーのマスターがライダーに囚われたことは疑いようもない事実だろう。
だが、"死んでも"とはどういうことだ?
ランサーに曰く、彼女のマスターは聖杯戦争が始まるより前から"気が狂っていた"という。気が狂う、精神状態がまともではない、それは一体"どれ"を指している?
そして彼女はアイと蓮との遭遇に際し、いくつか奇妙な点が見受けられた。明らかにサーヴァント以外の返り血を大量に浴び、徘徊する「まともではない」マスターを野放しにした。令呪による拘束もなく、全てはランサーの自由意思の下に。
それは一体、何を意味している?
今のランサーは
『幸福』の夢にいるのだから、文字通りの寝言でしかないと、確かにそうだろう。普通なら蓮とて寝ぼけているだけと聞き流すところだ。
しかし聞き流すにはあまりにも符号が多すぎた。そしてその符号を偶然と切って捨てるには、ランサーにはあまりにも疑念が多すぎた。
一連の矛盾に不可解な点。確定でこそないが、しかし彼女のマスターが「アレ」であると仮定すれば、恐ろしいことに一切の辻褄が合ってしまう。
マスターが最初から意思疎通できなかったことも。
一般人の返り血を浴びていたことも。
徘徊するマスターを放置していたことも。
手練手管を主とするライダーがわざわざ彼女のマスターに目をつけたのも。
それら全ての根本的な部分を、ランサーがひた隠しにしていたことも。
全部が全部、簡単に説明がついてしまう。
ああ、つまり、彼女は。
「なあ、おい。答えろランサー」
返事が返ってくるはずもない相手に、それでも問いかける。
「お前のマスターは、屍食鬼か」
ランサーは答えない。蓮の言葉など聞いてもいない。
ただ無言で拳を構えるのみ。彼女はあらゆる一切に耳を傾けない。
「この街に屍食鬼を蔓延させたのは、お前か」
街に蔓延る屍食鬼に咬まれ、自らもまた屍食鬼に変貌してしまったのではない。
ランサーのマスターが、この街に来るより以前から「そんなもの」であったとしたら。
「答えろ、ランサーッ!!」
「私はッ!」
言葉さえ飛び越えて、夢想の拳士は拳を揮う。
飛びかかるその姿は勇壮で、剛毅で、勇気と決意に満ち溢れているように見えて。
「私は、勇者になるッ!」
───そんな虚飾に覆い尽くされた、ただの哀れな子供でしかなかった。
「形成」
だから蓮は、この時になって初めて、殺意と共に武装を形成し。
「戦雷の聖剣!」
迫りくるランサーの拳諸共、その総身を両断しようとして。
「───ガッ」
瞬間、蓮の右半身が割れるように砕け散った。
何の予兆も流血もなかった。鏡が罅割れるように、それは突如として彼の体を襲った。
攻撃による負傷ではない。
金属疲労に陥った鉄がある日自然と砕けるような、それは蓄積されたダメージが限界点を超えた故に生じた、必然の結果であった。
死想清浄・諧謔による自壊の痕と、無抵抗にランサーの拳を受け続けたがために負った過負荷。その二つの要因が、今この瞬間に結実したという、ただそれだけの話であった。
蓮の動きが一瞬止まる。
肉体の崩壊に攻撃の手が止まる。喉元に迫らんとしていた剣閃、骨肉を断つこと叶わず薄皮一枚を斬るのみに終わる。
その一瞬の隙を、逃がすことなく。
───蓮の胸を、ランサーの拳が穿ち貫いた。
▼ ▼ ▼
砲火に満ちた白亜と漆黒の空をアーサーは駆ける。不可視に揺らぐ剣を駆り、雨霰と降り注ぐ弾丸の間隙を掻い潜り、濃青の外套を翻して夢幻の大気を跳躍する。
参道を覆うようにして立つ朱塗りの巨大な壁面に音もなく着地し、僅かな継ぎ目を足がかりに疾走を開始。垂直に切り立った壁の上を重力方向を無視して駆けるアーサーの後を追い、壁面に突き刺さった無数の銃弾が足跡のように火花を散らす。
視界の先に浮かぶ戦艦級の砲塔が火を噴き、射出された誘導弾体が行く手を遮るように迫りくる。命中の直前で重心を一気に下に傾け、壁に対して平行な姿勢まで倒れこむその勢いを利用して剣を振りぬく。騎士剣の長大な刀身が1mを越す巨大な弾体の表面を捉えた瞬間、刀身を覆う風の檻を瞬間的に放出。一挙動に粉砕され細かな破片と散る弾体と共に一直線に降下する。
地表に叩き付けられる寸前で未を翻し、機関銃を揃えた駆逐級一個小隊の前に着地。目の前に迫った数百の弾丸を騎士剣の一閃で叩き落し、頭上から射出された数発の誘導弾に気付いて地を這うように駆け出す。
「随分と群れるな」
戦闘開始から既に5分と20秒。延々斬り倒せども湧き出る敵の底が見えない。魔力放出による戦闘強化は、瞬間的な消耗が激しくマスターに大きな負荷をかける。アーサー自身に内在する魔力もそう多くはない以上、長時間の戦闘は自殺行為になりかねない。
周囲一帯に集結した異形の軍勢は既に数百の規模に達し、現在も少しずつ増えつつある。マスターたちを逃がすため敢えて陽動兼囮として残ったからには全戦力がここに集うのはむしろ好都合ではあるのだが、それにしても状況が好転したと断言できないところがつらい。
だが、それだけならどうということはない。かつてブリテンを蹂躙せんと迫った巨獣の数々、悉く打ち倒した逸話に偽りなく、この程度の雑兵物の数ではない。
真に厄介なのは───
『ココデ、シズンデイケ……』
足を強く踏み出す反動で速度を殺し、反転すると同時に不可視剣を一閃する。金属音を示す空気振動が鼓膜を揺らし、両腕に圧し掛かる衝撃に抗しきれず一歩後ずさる。
目の前には、人の形を模った異形の鉄塊。
両腕に携えられた主砲塔が火を散らし、弾丸が喉元めがけて弧を描いてねじり込まれる。
側方に大きく跳躍してその攻撃をやり過ごし、地を蹴った足が再び地に触れるより速く背中越しに"直感"が告げる警告。遥か頭上より落下してくる新たな敵影が真っ直ぐこちらを照準し、それと同時に背後からも複数の射撃音。瞬時に旋回させた剣で頭上の敵を打ち払い、次いで背中に回した騎士剣の刃で攻撃を受け流し、衝撃を利用して左側方へ逃れ出る。
土煙舞う地面に一転し、立ち上がった視界の先に煌めく更なる銀光。
巨大鉄塊を振りかぶった異形醜女の姿は、既に目の前にある。
考えるより速く体が動き、振り下ろされた鉄塊を紙一重で躱す。
地を這うが如き下段の回し蹴りを浴びせつつ、回転する勢いを利用して後方へ飛び退る。着地と同時に剣を構え、前を見据えればそこに在るのは二桁を越える数の異形の女たち。
死人のような白い肌、赫や蒼に濁った光を放つ両眼、体の節々から生えるできそこないのような鉄の塊。
完全に畸形としか呼べない奇怪生物たちとは異なる、中途半端に人の形を残した者たち。人体部分は作り物めいた美しさがあって、しかし半身を覆う異形は尚おぞましく、半端にこびりついた美は彼女らの放つ醜悪さに拍車をかけるばかりであった。
深海棲艦・鬼/姫/水鬼
型番で括られる有象無象とは一線を画す、それぞれ固有の忌み名を与えられた存在たち。
その存在規模は最早使い魔や粗悪な分身を遥か逸脱し、デミサーヴァントの域にまで手をかけていた。そのような者らが一つ所に群れて、ただアーサー一人を殺そうと迫りくる。
「……まだまだ未熟だな」
自嘲するように呟かれる。何とも不甲斐ない我が身が情けないと。
トリスタン卿ならば、音の刃を以て一息に彼女らの首を狩るだろう。
午前の数字を身に宿すガウェイン卿ならば、この程度文字通り造作もないはず。
彼のランスロット卿ならば、特に何の小細工もなしに淡々と斬り倒し続けるだろうか。
対して自分はというと、諸々のしがらみに束縛されて、相手に有利な土俵で延々と一人相撲を繰り返すばかり。力づくで拮抗させてはいるが、本当の戦上手ならばそもそも最初からこんな戦場で戦う展開そのものを回避できるはずなのだ。
故に未熟。これで誉れ高き騎士達の王とは笑わせる。
「だからこそ、此処は押し通らせてもらうとしよう」
未熟───故に。
我が身には為すべき使命があり、我が身には守るべき主君がいる。
故にこんな場所で、こんな戦場で、倒れていられる道理などない。
再び戦列の前に飛び出した目標めがけて、異形達が一斉に銃火砲の引き金を引く。秒間数十発の単位で撃ち出される銃弾が雪崩を打って襲い掛かり、衝撃波を表す空気振動が波紋となって視界の中に緩やかな紋様を描く。漂う弾丸と弾丸の僅かな隙間に身を滑り込ませた刹那、頭上から飛来した数十条の爆雷がその間隙を埋めるように降り注ぐ。
思考と直感が脳内を駆け巡り、瞬時に解を導き出す。騎士剣の刀身が空を裂き、風王の衝撃が目前まで迫った爆雷の熱量を方々に飛散させる。飛び散った爆雷の破片がアーサーの頬を浅く裂き、傷口から鮮血が飛び散るよりも速く爆風が周囲の銃弾を薙ぎ倒す。それは連鎖反応のように別の弾丸、更に別の弾丸へと広まり、次瞬には弾幕の全域にまで拡散する。
騎士剣を引き戻しアーサーは地を蹴り跳躍。大きく軌道を逸らされた銃弾の雨を見事掻い潜って降り立ち、行く手を阻む駆逐級3体を有象無象と斬り捨てる。
鬼/姫/水鬼たちはここでようやく反応が追いつき、その砲身をアーサーの方へと向ける。しかしその瞬間には既に彼は疾走を開始しており、放たれる無数の弾丸は後追いに周囲の深海棲艦たちを穿つに終わった。
同円心上をぐるりと回るように駆ける、アーサーの姿。女たちはその速さに追随すること叶わず、闇雲に武器を振り回しては翻弄されるばかり。
そして。
「捉えたぞ」
一息に飛びあがったアーサーが、眼下を見下ろして静謐に告げる。
彼の攻勢に翻弄され、右往左往と誘導された彼女らは気付いていない。密集した軍勢はその体積を一点に集中させ、上空のアーサーから迸るは清廉なる魔力の奔流。
そして彼の騎士王は、眼下の異形たちに何の行動を起こす暇も与えず。
「───風王鉄槌!」
───吹き荒び、殴り飛ばす風の鉄槌。
───それは、敵勢皆諸共に粉砕する巨大な塊。
───御伽噺の、風の王の力。
振り抜かれた刃から迸った風の魔力は、超高密度の質量を伴って異形の全てを叩いて砕く。瞬時に破壊する。
風に吹かれて崩れ去る砂像のように、不可視の力が通り抜けていった異形の全てはバラバラに砕け散る。崩れ、粒子となってばら撒かれる。
後に残るは静寂のみ。風が吹きぬけた後のように、ただ凪いだ静けさだけが残るのみだった。
▼ ▼ ▼
「やった、やった、やった……!」
霧に煙る森の中を駆け、友奈は歓喜と達成感に震えていた。
走りながら、自分の小脇に抱えているものを見る。何度もそれを確認し、脈動を確かめ、その度に友奈は笑った。
「助けられた、今度こそ私は助けることができたんだ!」
あの子を殺そうとする怪物は追い払った。
一匹はすぐに逃げて、もう一匹はこの拳で殴り飛ばした。
あとは安全な場所に逃げるだけだ。それで友奈の贖罪は完遂される。
化け物を倒して───本当に?
二匹の化け物を───"二匹"じゃなくて、"二人"の間違いじゃないの?
死んでなかったあの子を───死んだ人は生き返らないって、そんな当たり前のことも分からなくなった?
「違う、違う、違う!」
激しく首を振る。そんな幻聴は知らないし聞こえない。
そんなのありえない。そんなのあり得ないのだ。
だから、奔り続けよう。一心不乱に、ただ誰かのために。
友奈はただ喜び続ける。
心の底から、笑みを浮かべて。
だって、ほら、ここにいるじゃないか。
血に汚れた死に顔じゃない、まっさらなあの子の顔が!
ほら、見える。
死んでなんかいない、まだ生きているあの子が笑っている。
自分が助けることのできた、あの子の顔が笑っている。
「良かった……」
それは全ての心を吐き出したかのような、とてもとても、安堵したような呟きだった。
「……」
そんな友奈を見つめて、少女の姿をした誰かは、言葉なく薄い笑みを浮かべていた。
ずっとずっと、笑っていた。
▼ ▼ ▼
凪いだ風だけが、その周囲を満たしていた。
音はない。動く者は一人としていない。蒼銀の騎士王、遍く敵を打ち倒して。最早彼以外の誰一人として、その場に動ける者などいるはずもない。
そのはずだった。
けれど、彼の対面に一人、小柄な体躯の少女が立って。
『そう、みんないなくなってしまったのね』
「……」
何時から現れたのか、そもそもこの少女は一体誰であるのか。
白いドレス、亜麻色の髪、紅潮した頬。
現実に在らざる儚さを持つ少女。何処からともなく現れて。
アーサーは少女が誰なのかを知らない。しかし、感覚として其れが何者であるのかを識っていた。
幻想めいた不確かな輪郭、肌を突き刺す多幸感。
間違いない。これは、
壇狩摩の言っていた───
『だから。ええ、だから。
私が謳うわ。その続きを、私が唄ってあげる』
綺麗な声で。
綺麗な、きらきらした、輝くような声で。
少女は語り出す。それは旋律に在らぬ詩として。
何某かの想いを代弁するかのように。
《これは海色の詩編。仄暗い水の底に沈んだ少女の寓話》
《誰にも知られない。そう、誰も知ることのなかった血だまりの詩》
《それは哀絶の詩ね。最も哀れで最も愚かな、けれど最も強き人の意思》
《死にたくない。生きていたい。それは誰もが思う一番の願い》
《だからこそわかる。消えてしまった命が、意思が、消されてしまった願いが何を生むのか》
《それは胸のうちで黒く渦巻き、深く、深くに突き刺さってしまう》
《どうしようもないほどの》
《怒り───》
《だってそうでしょう? そんなの怒って当然だもの。素敵なもの、奪われてしまったなら》
《悲しみと、寂しさと。怒りを込めてしまう。どうしようもない理不尽への怒り》
《命を、想いを、願いを。その手で手折ってしまうなんて》
《そんなのだめ。そんなのだめなのよ》
《物語、途中でやめるなんて。
命を、途中でやめるなんて》
《そんなのだめ。
そんなの許さない》
《怒りを込めてあの子は思うの。
皆も、きっと、きっとそうなのよ》
《怒りを胸に》
《滾らせて───》
少女は滔々と語る。歌うように、舞うように。それは出来過ぎた一枚の絵画のような光景にも見えて。
だが、それは一体誰のことだ。一体何を、彼女は言っている。
怒り───
悲しさと、寂しさと。それと。
どうしようもなく胸の奥に湧き上がってくるもの。
言わんとしていることは理解できるが、しかしそれをここで語る意味が分からない。
だがしかし、少なくともそれは少女自身の感情ではあるまい。そうでなければ、ここまで他人事のように語れまい。
だとすれば、少女は誰かの想いを代弁している?
何故───その誰かは、もう語れないから?
『黒い塊たちは、彼女の防衛心そのもの』
『どうか、怖がらないで』
詩を終えて、少女はにっこりとほほ笑みながらそんなことを言う。
対するアーサーは言葉なく。一切の油断もしないままに少女と向かい合う。
険しさの多分に混じった視線に、けれど少女は何を思うこともなく無垢なままで。
浮かべられる笑顔は、キーアや記憶の中の彼女のよう。
同じものをアーサーは思う。輝いて、眩しくて。
なのに。
なのに。
この儚げな少女は何かが違う。同じものを浮かべても、その内実は存在を異なものとして。
「君は───何だ?」
誰だ、ではなく。
『何だ』と彼は問うた。名前や出自よりも、根本的なところでこの者は異なる存在だと直感したのだ。
人ではない。
サーヴァントでもない。
英霊でも、魔物でも、あるいは精霊種や神霊でも。
究極の一たる原初の存在でも真性悪魔でもない。
これは───
なんだ───
『なんでもないよ。私はただ、そこにいるだけ』
彼女は笑う。笑う。戦うことも感情を高ぶらせることもなく、ただ笑うだけ。
花の妖精は、幸せそうに微笑むだけで───
『幸せにしてあげるわ。あなたも、みんなも。
だからおいで、私の愛の晩餐へ』
少女が最後の言葉を紡いだ刹那、一陣の風が霧を薙ぎ払った。
吹き付ける雫に一瞬目を閉じたその直後、アーサーの目の前から、少女の姿は忽然と消失していた。
「……」
少女の喪失に伴って、がらりと空気が入れ替わった。今までの閉塞していた空気ではない、もっと正常なもの。この場に満ちていた異様な気配が、まるで破裂するような消え失せていた。
アーサーは無言で、ついさっきまで少女が立っていた場所に屈んだ。そこに落ちていたものを拾い上げ、顔の前に持って検分する。
ガラスのように煌めく、きめ細やかな粒子だった。
「……原理や由来は分からないが」
おもむろに立ち上がり、きっと前を見据える。
今彼の手の中にある砂粒と全く同じものが、転々と落ちているのを確認して。
「その先にいるのなら。行こう、そして討ち果たそう。例えそれが何者であろうとも」
決意は重く、甲冑の足音として鳴り響いた。
▼ ▼ ▼
空より空想の根が落ちる。
現実に在らぬ幻想が沈殿の版図を広げていく。
『チク・タク、チク・タク。
イア、イア。■■……』
源平池と呼ばれる場所。
軽やかにして舞うように、その影はあった。
奇妙な光景であった。そこは八幡宮の只中にあって、けれど全く霧がない。煌々と照らす月明かりは白く、夜空と空間を占める闇は黒く、ガラスのような無機質さに満ちた、そこは市井と変わり映えのしない普通の夜であった。
池は音もなければ波もなく、暗闇に満たされて鏡のように広がった。
水面には何も見えず、ただそこには空に浮かぶ、真円を描いた月だけが映っているのだった。
『素に揺蕩う長笛と太鼓の音色。祖に微睡み痴れる鴻鈞道人。
昏き宵には至福を。崑崙を桃に染め、紫禁の城へ座し、楽園に至る虚夢は循環せよ』
希望を奏でるように、それは微睡みながら紡がれる。
鏡のように張りつめた水面を、"それ"は本当の鏡張りの地面であるかのように歩き、跳ね、踊っていた。あるいは妖精が風に舞っているかのような、見る者に重さや質量といったものを感じさせない、決して現実には在り得ない光景でもあった。
"それ"は謳う。救われてくれと。
"それ"は奏でる。愛しているからと。
その内にあるのは純粋なまでの人類愛。人類を讃える冒涜の言辞は絶えずふつふつと膨れ上がり、下劣な太鼓と呪わしきフルートの連打さながらに、あまりにも愚かしすぎる人のユメとはなんたる愛しさであることかと喝采を上げていた。
『閉じて。閉じて。閉じて。閉じて。閉じて。
繰り返す都度に五度。ただ、満たされる刻を夢想する』
あなたたちは盲目だ。等しく何も見ていない。
他者も、世界も、夢も、現も。全ては自分の中だけに。閉じては包まれる心の殻の中だけに、あなたたちの真実は存在する。
見たいものだけを見て、信じたいように信じる人間は、それによってのみ救われる。
理性的に育まれた狂気が行儀よく回転し始める。壊れた歯車がそれでも動き続けるために何かを生贄にし始める。発狂した時計が過去をバラバラに切り刻んでひとりでに回転し始める。
始まり、終わる。何かが狂う。
曇りなき慈愛と献身が、狂気となって押し寄せる。
『閉じて。
汝の身は我が望みに、我が命運は廃せる汝に。
仙境の寄る辺に従い、この夢、この愛に応えるならば目覚めよ』
その言葉は何かに語りかけて、しかし紡がれる位相が明らかにズレている。
それはいわば呼びかけであった。ここにはいない誰かを、ここにはいられない何かを引きずり出すための、呼び水だった。
ざわざわと、俄かに空気が震えはじめる。
"それ"の紡ぐ言葉に呼応するかのように、空間自体が鳴動を始めたのだ。
『誓いを此処に。
我は羽化登仙に至る者、我は永遠の幸福に沈む者』
祝詞が重ねられる度、目に見えない"何か"は凄まじい勢いで噴出した。
その音、叫び、あるいは歌か。空間それ自体が奏でる絶叫が爆発的に広がり、空気の全てが塗り潰されるようにして、世にも非人間的なものへと変貌していった。それは言葉として意味を持ちながら、しかし通常の次元では理解できない不協和音として吐き出されていた。その"音"は空気を、闇を、空間を、時間を震わせて、世界を本質から揺さぶり、軋ませ、狂わせ、塗り潰していった。
その小さな影から、世界が"変質"していった。
音は池の全ての空気を呑みこむとそこから急速に広がっていき、まるで地球上ではない別惑星のような、別の生き物が住む空気のような異質なものへと夜を変貌させていった。
狂った音が、世界を捻じ曲げていく。
まるで帝王がやってくることを告げる先触れの使者が、先んじて帝王の過ごしやすい場を作るために、全てを作り変えているかのように。
『汝廃せる御霊を抱く八等。夢界の輪より来たれ、桃源の担い手よ』
それは遥か高みへ呼びかけて、未だ深い眠りにある者を呼起こすように。
語りかけるように響く。それは懇願でもあり、願いでもあり、あるいは英霊召喚にも酷似した、しかし全く別種の何かであった。
それは、《神降ろし》だった。
『太極より両儀に別れ、四象に広がれ万仙の陣───終段顕象』
ぶつっ、
と、言葉が切り離されたように消え失せ、同時に全ての音という音が、この世界から消失した。
────────────────────────。
世界が無くなったかのような静寂が、突如、浮島に落ちた。
耳が聞こえなくなったのかと疑うほどの無音が、その一瞬にして、それ自体が密度でも持っているかのような凄まじい緊密さで、浮島のある水辺へと張りつめた。
ぴん、と耳鳴りがするほどに張りつめられた無音は、肌に触れているかと錯覚するほど、冷たく空気に満ちていた。空気の動きが凍ったように止まり、冷たく鋭く密度を増して、まるで空気がもっと透明で硬質な、例えるなら"鏡の向こうに見える大気"と入れ替わったかのような、それほどの凄まじい静謐を、この空間へともたらしていた。
凍った、静寂。
氷原のような空間で、『幸福』は尚も幸せそうにほころんで、くるくると廻り続ける。
壊れた踊り人形の舞う水面は波一つなく張りつめ、鏡のように動かない。そしてその巨大な"鏡"の中心には、空の上にあるもう一つの"鏡"───大きく丸い月が、しん、と静かに映り込んでいた。
「──────なるほど」
抑揚の欠けた女の声が、源平池に響いた。
「象徴として『月』は鏡、『水』も鏡。天と地の巨大な合わせ鏡ということですか。
貴方のような異界の存在を呼び込むには、確かにうってつけの環境なのかもしれませんね」
『あれ?』
突如静寂に響いたその声に、池の真ん中の月に立つ『幸福』は、静かに笑って答えた。
『こんばんは、初めまして。貴女も救われたいのですか?』
「さて、どうなのでしょう。与えられるものは数知れず、けれど欲しいものは一つだけ。それが救いを欲しているというのなら、確かにその通りなのかもしれませんが。しかし」
声は淡々と、童子のように笑う影へと向けられる。
百合香は、その"黒い燕尾服を着飾り紅顔を花のような笑みで彩る少年"に、明確な敵意と共に向き合って。
「残念ながら、その救いをもたらすのは貴方ではないのですよ、現世界を繋ぎとめる幸福の楔よ。
貴族院辰宮と神祇省の盟のもと、厄災齎す貴方にはここで潰えていただきます」
その身に宿す反魂の香気を、過去に類を見ない域の強度と密度を以て、彼女は解き放ったのだった。
最終更新:2019年06月05日 17:43