.



 ───ああ。
 ───視界の端で道化師が踊っている。

 いつもは見ないようにしている。道化師は、いつも悲しみだけを運んでくるから。

 悲しみ───悲鳴と絶望の呻き。
 悲しみ───諦める声さえあちこちで響いて。

 差し伸べた手からこぼれていく、暖かな命。
 小さな命。生まれてこなかった、子供たちの。41の命。

 そして、あたしの。
 キーアという名を持っていたあたしの。

 血。包帯。塞がれた視界。
 何も見えなくて、痛みだけがそこにあって。
 だけど───

「死なせない」

 あたしに呼びかけてくれた声。
 それはあなたの声。

「きみは絶対に」

 ───聞こえていた。
 ───手を差し伸べるあなたの声が。

「僕が助ける」

 ───そう、あなたが言ったから。

 ───こんなに多くの誰もが諦める中で。
 ───こんなに多くの絶望が満ちる中で。
 ───あなただけが。

 ───だから、あたしは。
 ───あなたに、問いかけようと。




「……ううん」





 ようやく分かったと、キーアは立ち上がる。
 血も包帯もなくなって、全身を襲う痛みさえ引いて。キーアは、目の前に蹲る男を見る。
 決して諦めなかった彼。ずっと、ずっと探していた。

 ───ギー。
 ───あたしを助けようとしてくれた、お医者さん。

「あたしね。ずっと、あなたに聞いてみたかったの。尋ねてみたいことがあったの。
 でもいいわ。だってここは夢の中で、あなたは本物ではないから」

 薄っすらと微笑んで、キーアは告げる。

「あたしの願いはあの都市で。
 ええ、本物のギーと一緒に」

 そう告げられた、蹲る男は。
 何か眩しいものを見たように目を細めて。

「───ああ。それでこそ、キーアだ」

 ………。

 ……。

 …。

 ────────────────────────。



「なんですばるさんがここにいるんですかー!」

 目を覚ましたキーアの耳に最初に届いたのは、そんな困惑と驚愕とあと色々が混じり合った悲鳴だった。

「本物ですか!? 本物ですよね!? 今度こそ夢じゃないんですね!? ここまで来てまた振出し最初からなんてあんまりですよ!」
「え、えっと、アイちゃん何言ってるの?」
「こっちの話です。ですがすばるさんこそ何をやってるんですか! お留守番しててって私言いましたよね!?」
「お、お留守番って、わたしそんな子供じゃないもん! そもそもアイちゃんこそセイバーさんはどうしたの、やっぱり危ない目に遭ってるんじゃない!」
「私は別にいいんですよ!」
「アイちゃんが良くてもわたしは良くないの!」

「え、えと……」

 おずおずと上げられた声に、アイとすばるはピタリと口論を止め、キーアのほうを振り向いた。
 ぐりんと首だけを動かして凝視する二人。
 ……正直、ちょっと怖い。

「ご安心を。私達は敵ではありません」
「あ、あのね! わたし、セイバーさんに……あなたのサーヴァントの人に頼まれて!」
「セイバーに?」

 わたわたとジェスチャーで慌ただしいピンク髪の少女を後目に、キーアは内心で首を傾げる。ハチマングウというところに入ってからの記憶がないが、この状況を見るに自分はずっと気を失っていたのだろうか。手がかりが少なくて判断に困る。

「そこのところは私も聞いておきたいところなのですが……ともあれ、このまま放っておくわけにはいきませんし……」
「あ、アイちゃん?」
すばるさん、ちょっと頼みたいことがあるんですが」

 ………。

 ……。

 …。

 ────────────────────────。





   ▼  ▼  ▼





 そこはかつて、八幡宮の本宮があるはずの場所であった。
 けれど今は無残にも倒壊して、夥しい数の"何か"が縦横無尽に突き出していた。

 それは、"樹"だった。

 巨大な樹木が、まるで霊峰であるかのように真っ直ぐ空へと向かって聳え立っていた。
 全長は何十メートルになるだろうか。周囲に群生する草々の茎の太さは三十センチほど、枇杷にも酷似した葉は一枚一枚が四、五十センチほどあり、その葉の所々から、様々に発光する風船のような球体を静かに揺らめかせていた。
 それらは空気を孕んでいて、その浮力でこの巨大な草が折れることなく大地に真っ直ぐ屹立できていられるのだと、容易に推察することができた。
 そのような葉が、細長い茎へと無数に群生していた。その総数は数十か数百か。それぞれがゆらゆらと揺らめきながら発光し、辺りを仄かな七色に照らしている。

 幻想的な光景ではあった。
 しかし、それに見惚れるだけの余裕を、セイバーは持てなかった。

「そうか」

 波間に漂うジャイアントケルプめいた草々に囲まれ、その仄かな七色の明滅の中に、これもまた七色に美しく輝く巨大な花のようなものがあった。大きさは五メートルほどはあるか、根のようなものを辺り一面に張り巡らせている。
 それは花びらのようであって、ヴェールのようで、あるいは羽根のようでもあった。それが幾重にも重なり、幻想的な透けた色合いを見せている。その羽のようなものの表面を、七色の輝きが次々と滑り落ちていた。後から後から零れ落ちる小さな泡のような、粉のような粒子。それがヴェールの上で生まれては滑り落ち、七色に煌めいては消えていった。
 セイバーは射抜くかのような視線を、中空のただ一点へと向けた。

「そこが、本体か」

 視線の先、幾重もの花びらに覆われて、人がいた。人と言っていいのだろうか。その肌の色を何と言おう。薄葉の淡い緑のようで、滑らかな真珠色のようで、紅潮にも似た紅水晶のようで、そんな様々な色がオパールのように輝き、夕陽に燃えているようだった。その中で、濃淡の瞳が夢見るように瞬いた。ほんの少し身じろぎするだけで、光の粒子が煙の如く揺らめき、いくつもの虹が周囲にかかったようにも見えた。深みを増した月の銀光を受けて淡く輝く姿は、今ここに存在しているのかすら疑いたくなるほど幻想的で、非現実的で、夢のように危うかった。
 あまりに形容しがたい存在感。
 手を伸ばせば消えてしまいそうな儚さ。
 それは、ただ光の屈折で出来上がった幻のようだった。例えば、そう。虹のように。

『……さあ……行きましょう……』

 その声は絢爛に奏でられる幻想曲のような響きだった。言葉ではなく、意味がそのまま音となって発せられたような心地がする。

『争いもなく……悲しみもなく……痛みもない……
 私は……そこへ至る道を知っている……連れていってあげられる……』

 心に降り注ぐように、染み入るように聞こえた。今すぐ踏み込んで斬り捨てねばならない相手だというのに、その音と意味は思わず耳を傾けてしまう魔性の魅力があった。

『冬が終わって……春が来る……暖かい雨が大地に降って……花が咲くわ……その周りを……天使の羽根が舞っている……春の香りが、匂っているわ……』

 『幸福』が一言発する度に、その体中を覆う光が瞬いた。明滅する美しさが言葉と相まって、いっそう余人の胸を打つ音となって響いた。

(人を堕落させる化生の類か……しかしこれでは、誰もが魅入られる……)

 ぼんやりと思考して、しかしセイバーはハッと気付く。
 今、自分は何を考えていた?

 一瞬前まで、自分の思考は磨滅していた。かの美しさは地上の一切に在り得ざる特異なもの、故に感嘆の息を漏らすのは"当然である"などと、いつの間にかそう"思わされていた"。
 大脳と精神をも麻痺させる、天上の美。
 視覚的、聴覚的なものを越えた、最早意味概念の域にある美しさ。
 それを前にすれば人はどうなる? セイバーのように一瞬見惚れるだけで終わる者などむしろ希少種だ。多くの者はその時点であらゆる闘争心と悪徳を失い、永遠の忘我に包まれるだろう。
 そして仮に、"それ自体が罠であった"とするならば?

(まさか!)

 気付いた時には、もう遅かった。"身体が言うことを聞かない"。
 呆然と立ち尽くしたまま、セイバーの体はまるで『幸福』の詩に聞き惚れるように、一切微動だにしない状態にあった。

「不動縛、いや、これは……!」

 その時点で、もう言葉も出なくなった。霊的なことでもなく、精神的なことでもなく、肉体的に身体が反応しなくなっているようだった。

『鐘の音が溢れている……光が溢れている……草原を風が吹きぬけていく……空は青くて、陽射しは暖かいわ……歌が聞こえる……とても素敵な歌が……』

 足元の地面が、『幸福』を中心に捲れ上がるように次々と消失していく。その美しさは、その美がもたらす夢の波動は、今や心を持たぬ無機物にさえ影響を及ぼしつつあった。
 そう、波だ。波のような何かが『幸福』から放たれている。
 それは、果たして───

『人は誰でも、そこへ還っていく……人は誰でも、それを願っている……それは、過ちでも、罪でもないの……それは一つの……たった一つの……祈りなのよ……』

(そうか。これは、『快楽』か!)

 そう分かっていても、セイバーの体中がそれを求め、頭の中は今にも真っ白になりそうであった。

 「悦楽」「快感」「快楽」。人が気持ちいいと認識する感覚は、暗い欲求から健全な喜びまで様々で、それを得る方法はいくつもある。しかし、真に純粋な快感というものは、普通の人間にとっては一生涯得ることのない感覚だ。得る機会がない、というよりは、感じることが不可能なのだ。何故ならそれは、特別な精神修行をしている時にしか起こらない感覚であり、そしてあまりにも純粋すぎる感覚は、普通の人間にとって下手な傷害などよりもよほど危険なものとして機能する。いわば強烈すぎる薬効のようなもので、精神や肉体がその負荷に耐えられないのだ。
 『幸福』の発する「純粋な幸福感」は、劇的な快感となって肉体を麻痺させていた。傾城の反魂香どころの話ではない、これは最早国すら越えて星そのものを傾ける対星の快楽である。
 最高レベルの対魔力を有するセイバーですら、その波濤に抗う余地などない。サーヴァントは愚か通常人がこれを受けた日には、快楽物質の過剰分泌により即座に脳の活動が停止し、死んでしまうかもしれない。

 荒れ狂う快楽の波が、ついには物理的な破壊力さえ伴って周囲を薙ぎ払った。木々は倒れ建物は崩れ、その破片が竜巻となって巻き上げられる。荒唐無稽な光景だが、その光景は『幸福』の放つ幸せというものがどのような意味を持つのか如実に表しているかのようだった。
 セイバーは、アーサー・ペンドラゴンは幾多の戦場を駆けぬけ、幾多の強者を目にしてきた。星光を放つ聖剣や世界を繋ぎとめる錨の聖槍、音撃で首を狩る魔業に太陽の如き燃え盛る聖剣、巨人の力に決戦術式と様々な暴威が彼の人生にはあった。
 そのいずれもが、敬意と畏怖を捧げるに足る強大なものだった。
 しかし目の前のこれは、そのいずれとも在り方を異なものとしていた。
 これには何の力もない。本来的には何を壊すこともない。何故ならこれには敵意も害意もなく、ただ相手を思いやり幸せにしてやりたいという願いしか含まれないからだ。
 にも関わらず、これはアーサーが目にしてきた数多の危機の中にあって、特級の危険度を示していた。人はこれに耐えられない。こんなものが支配する世界で生きられるはずもない。
 この存在は美しい。恐怖と絶望さえ感じさせぬ幸福の中にあって、その肌は尚も輝きを増し、地獄美と言っていい美しさは文字通り世界を狂わせている。
 そして、彼女に触れた物は必ずこう感じる。殺されてもいい、もう消えてしまって構わないと。思うのではなく存在としての在り方そのものを蕩かされ、自ら自死を選んでしまう。本来破壊をもたらさない快楽の波が周囲の物質を崩壊させているのは、つまりそういうことだ。

 故に、最早アーサーに為す術はない。この存在が支配する領域に足を踏み入れたというその時点で、この聖杯戦争に属する全ては敗北を確約されているのだ。例えそれが黄金に侍る大隊長であろうとも、全てを解する英雄たちの王であろうとも、遍く奇跡を手繰る稀代の魔女であろうとも。
 だから順当に、真っ当に、彼は迫りくる滅びに抗うことさえできずに───


【今です、セイバー殿!】


 頭に響いた声と同時に、彼は全霊の力を解き放った。その声が何を示唆しているのか、どのような絡繰りで引き起こされたものかなど、考えていられる余裕はなかった。

「───風よ、吹き荒べ!」

 右手に握る不可視の刃から、旋回する烈風として魔力が吹き荒れた。足元の地面が砕け、アーサーの身を押し潰す魔力を周囲の白霧ごと吹き飛ばす。
 姿を現すは輝きの聖剣、その周囲に渦を巻くは万象切り裂く風の結界。

 ───風王結界。聖剣エクスカリバーを拘束する鞘の一つ。
 轟々と鳴り響く風の音が耳に届く。今やアーサーはその身を荒れ狂う風の化身とし、その手に光剣を構えるに至っていた。

【どうやら間に合ったようですね。仔細はまた後ほど、今は楔の討滅を!】
【諒解した! 助力に感謝する!】

 言うが早いか、アーサーは下段に構えた剣を横一文字に薙ぎ払った。破壊力を伴った暴風が『幸福』の快楽波と衝突・拮抗し、あろうことか不可視の波を諸共に打ち砕く。

 ───『幸福』のもたらす快楽とは、極論してしまえば波としての指向性を得た魔力の奔流である。
 『幸福』本体の快楽波は、端末のもたらすそれと比較すれば確かに強制力の強い代物ではある。現に端末の見せる夢を難なく打ち破ったアーサーですら、本体を前にしては陥落一歩手前まで追い込まれた。
 しかしこの性質変化は効能が強化される代わりに、新たな欠点とも言うべきものを抱え込んでしまっていた。
 端末のもたらす幸福とは、視覚や精神に訴えかけるいわば精神的なものである。しかし本体のもたらす幸福は、肉体に影響を及ぼす物理的な代物なのだ。
 つまり如何に不可視で形がないとはいえ、確かな"魔力"として実体を持つに至っている以上、同等の魔力を用いれば弾き打ち払うこともまた可能ということだ。
 アーサーは襲い来る快楽の波を、吹き荒ぶ風の波で以て押し返したのだ。

「決着を付けよう、幸福の妖精よ───!」

 力強く一歩を踏み込み、逆袈裟に剣を振り下ろす。風の刃が幸福満ちる空間を引き裂き、アーサーが歩を進められる隙間を生み出す。
 剣を一つ揮う度、衝撃音と共に更なる一歩を成し遂げる。ゆっくりと、だが着実に、アーサーは『幸福』の下へと突き進む。
 快楽の影響は完全に無くなったわけではない。流動する気体のように纏わりつく強刺激の感覚は、風の刃を以てしても完全に打ち払うこと叶わない。アーサーの肉体は今も常人が狂死するほどの強感覚をもたらして、けれどその精神は屈服することなくひたすらに前進を続ける。

 狂楽のあまり、ついに神経が焼き切れる。
 歯を食いしばり、それでも歩き続ける。
 彼らの相対距離は今や半分ほどが踏破され、到達は最早時間の問題であった。

 何という精神力、何という不屈の意思であろうか。
 現状の構図を生み出したというそれだけで、普通ならば考えられない偉業だ。例え尋常ならざる英霊であろうとも『幸福』本体に抗える者はそういない。ましてその呪縛を打ち破り討滅のために肉迫するなど、並みの英霊では絶対的に不可能な所業である。
 だが此処に在るは稀代の大英雄、セイバーというカテゴリにおいて最上に位置する聖剣携えし騎士の王なれば。
 光明が存在した。あるいはこの男ならば、『幸福』にさえ手が届くのではないかという、そんな微かな光明が。

 しかし。

『幸せになって』

 突如、空間が震動した。
 七色の粒子がその輝きを劇的に増して、溢れんばかりの光が周囲一帯を満たした。
 アーサーは押し潰されるように、片膝をつく。押し返す幸福の圧力が、飛躍的にその力を増したのだ。

『暖かな陽光の中で、私が歌を歌ってあげるわ……繰り返し、繰り返し、歌ってあげるわ……』
「ぐ、おぉ……!」

 今にも押し潰されんばかりの総身に、アーサーは更なる力を込めた。拮抗する魔力嵐がバリバリと音を立て、体中が過負荷に軋みを上げた。
 限界点は越えている。余人であるなら立ち上がれる道理などない。英雄譚はここに潰えるのだと、仮に傍観者がいたならば誰もがそう思ったであろう。
 けれど。

「───まだだ」

 けれど、之に立ち向かいしは誉れ高き英雄である!
 爪は罅割れ血飛沫が飛び、内部負荷に耐えきれず両眼から血の涙を流そうとも。
 騎士王は倒れない。その歩みは止まらない。英雄とはそれすなわち、決して諦めない者の称号であるのだから。

「オオオオオォォォッ!!」

 騎士が吠える。その叫びを力とし、その歩みを偉業として彼は更なる剣撃を揮う。切り裂かれる快楽の波濤、しかしその奥から、次々と襲い来る無限の連鎖。
 手が足りない。絶えず押し寄せる大波が如き流れを押し留めるには、一つの刃だけでは到底足りない。
 風の刃、幸福なりし徒花の化身打ち破るに足りず。
 聖剣の騎士王、極大域の流れ堰き止めること能わず。
 一人では勝てない。
 共に戦う新たな勇者が必要である。

 ───故に、その閃光はやってきた。

「形成───戦雷の聖剣よ、奔れッ!」

 構えるアーサーの背後より、一筋の流星が飛来した。それは魔力満ちる空間を引き裂き、地面へと突き立つと莫大量の雷電を放出する。放たれる輝きは悦楽の波さえ焼き、アーサーの眼前に進むべき道を指示した。
 風王の鉄槌ですら表層しか払えぬ魔霧、大海を割るが如く一斉に両断されて。

「行け! そして倒せ! 露払いは俺が全部引き受ける!」
「───感謝する!」

 叫ぶ誰かに振り返ることもなく、アーサーは地を蹴り跳躍する。今や彼を阻む壁はなく、空を切り舞い上がった彼の目の前には、『幸福』本体の姿。
 すぐ目の前で視線がかち合う。一瞬の交錯が生じ、加速する体感時間の中、呆れるほどゆっくりと流れる視界の先で、『幸福』はにっこりとほほ笑んでいた。
 視界いっぱいに、彼女の笑顔が溢れる。この状況に至って尚、『幸福』は敵意も害意も欠片すら抱いていなかった。

『さあ、おいで……』

 そうして、まるでアーサーの到来を歓迎するかのように、彼女は抱擁する腕を差し伸べて。

「……真名解放、疑似宝具展開」

 それに叩き返すは、ただ撃滅するのみという意思一つ。

 ───アーサー・ペンドラゴンの持つ約束された勝利の剣には、二重の拘束がかけられている。風の鞘たる風王結界の他にもう一つ、その強大すぎる力を封じ込める機構が存在するのだ。
 彼が生前に束ねた円卓の騎士たちによる議決。合計で13存在する条件の内過半数を満たすことで、星の聖剣はその真価を発揮するに至る。
 しかしこの『幸福』に対して、円卓の制約は条件を解除するに至らなかった。
 「心の善い者に振るってはならない」「是は邪悪との戦いである」「是は精霊との戦いではない」
 それら条件は『幸福』に対して満たされない。彼の者は真に善良であり、それを討ち果たす戦いは「誉れ高きもの」であるはずもなく、また自身が「生きるため」のものでもない。
 故に過半数の可決は満たされず、聖剣は究極の斬撃を放つこと叶わない。

 しかし。

「最果てに至れ、限界を越えろ。彼方の稀人よ、この光を刻みこむがいい!」

 しかし!
 それでも為せる業がある。それでも押し通すべき誓いがある。
 今この時、この瞬間を以て、騎士王アーサー・ペンドラゴンは新たな伝説を成し遂げる!

 その手、振るわれるは星の聖剣。今やその輝きは、偽りの救済を断絶する光なれば!

《是は、己より強大な者との戦いである》───ベディヴィエール承認
《是は、勇者なる者と共する戦いである》───ガレス承認
《是は、人道に背かぬ戦いである》───ガヘリス承認
《是は、真実のための戦いである》───アグラヴェイン承認
《是は、私欲なき戦いである》───ギャラハッド承認

 十三拘束解放───円卓議決開始。
 その承認は、やはり半数にすら遠く及ばぬ数であり、真価を発揮するには至らない。
 星の理、地に顕現させること叶わない。

 しかし、しかし。
 光は既に、彼の手の中にある!
 星の聖剣、その輝きを露わにして!

「───縛鎖全断・過重星光(エクスカリバー・オーバーロード)!!」

 ───切り裂き、融かして消し飛ばす。
 ───極光纏う断罪の一閃。
 ───それは、触れる全てを切り拓く王の一撃。

 光の斬撃となる魔力を放出することなく、対象を斬りつけた際に解放する剣技に寄った一撃。
 それ即ち人が修練の果てに至る極み。世界の外より来たる敵を討滅する極光たる《星の理》ではない、ただ当たり前の技を突き詰めた《人の理》である。

『私が、みんなを抱きしめるから……』

 慈愛の笑みを浮かべる『幸福』を前に次々と迫る快楽の波を、多重展開された魔力の結界を、その悉くを聖剣は切り拓く。薄絹のヴェールのように周囲に広がる魔力の多重層が、砂鉄の絨毯に磁石を走らせたように断割された。最早その剣に敵はなく、阻める物など存在するはずもない。
 人が振るう刃の煌めきを、現実に在らぬ幻想が阻めるはずもなし。『幸福』はただ為す術もなく、一刀の下に斬り伏せられようとしていた。
 そのはずだった。少なくとも、直前までは。

「ぐッ!」

 けれど、敵手は条理を逸脱する特異存在である。
 振り下ろされた剣閃は、しかし『幸福』の頭頂を薄皮一枚隔てた地点で堰き止められた。ビデオの再生を一時停止したように、あるいは緩やかに受け止められるように、全ての動きが止まる。鈴のように澄んだ金属音が辺りに木霊する。
 それは『幸福』の最後の抵抗か、それとも秘めたる最大の力であるのか。次瞬、静止していた空間から多量の魔力が激発し、大気が激しく振動した。
 両者の衝突によって、七色の粒子が炎のように舞い上がる。その粒子一つ一つの間に黄金の放電が発生し、『幸福』とアーサーは光の渦の中にいるようだった。
 奇しくも最後の鍔迫り合いとなる交錯に、アーサーは息を呑む。黄金の光の塊となった『幸福』はいっそう美しくて、彼すらも震えが来るほどだった。

 剣閃が軋む。金属の悲鳴が辺りに轟く。激震する空間が激動する粒子群の流れを伴って大気を激しく震わせる。
 『幸福』の抵抗はこれまでに倍する力を以て、アーサーの一撃を押し返そうと溢れ出る。刃を押し込むことが、トドメを刺すことが、できない。

 両者の出力は全くの互角。拮抗する押し合いの形は、しかし徐々にアーサー側の不利となって表れ始めた。
 剣筋がブレる。聖剣の光が明滅する。敵手を両断するはずの力が、少しずつ弱くなっていく。
 それも当然の話であろう。何故なら両者の持つ"魔力"という厳然たる貯蔵量には明確な差があるのだから。
 『幸福』は規格外の魔力をその身に宿す。単独顕現による魔力の消費は既に癒え、地脈から汲み出した魔力は潤沢を越え無尽蔵。およそエネルギーという事象に陥ることはない。
 しかしアーサーは真っ当なサーヴァントだ。彼を使役するマスターは魔術の薫陶なき少女であり、矮化したアーサーの魔力適性は並み居るサーヴァントたちの中にあって尚低い。長時間の戦闘はほぼ不可能であるのが現状である。
 故に、互角の拮抗に陥った場合、軍配が上がるのは『幸福』の側であることは明白であった。

『怖がらないで、怖がらないで。幸せを、光から目を背けないで……
 私があなたを救うから……私がみんなを包むから……』
「……ッ!?」

 拮抗し停滞するアーサーを捕まえるように、二本の腕と無数の繊手が彼を包む。いや、捕まえようとか動きを止めようという意思は彼女にはないのだろう。彼女はただ、抱きしめたいだけだ。抱きしめ、慈しみ、心からの幸福を感じてほしいという、それは抱擁の腕だ。
 しかしそれは、この場この瞬間において最悪の事態を招いていた。直接取り込まれてはさしもの騎士王とて一たまりもなく、そして彼は千載一遇にして二度と現れないであろう撃滅の機会を前に撤退は許されていない。
 腕が、繊手が、アーサーを中心に繭を作るように閉じていく。星光の輝きごと、その身を己の内に取り込もうとしている。

 仮に、アーサーのマスターが優れた魔術師であったならば。
 仮に円卓議決の承認があと一つ外れていたならば。救援に来た雷剣のサーヴァントがその身に多大な消耗を抱えていなかったならば。百合香による楔の抑え込みがあと少し強力であったならば。この場にもう一騎戦えるサーヴァントがいたならば。
 きっと話は違っていただろう。その内のどれか一つさえあったならば、既にアーサーはその手に勝利を掴み取っていたはずだ。それほどまでに、両者の拮抗は危ういバランスで成立している。

 しかし現実はそうではない。ここにそれら要素が成立し得る道理はない。
 故にアーサーは、彼らは、極めて順当に敗北へと突き進むのだ。
 騎士王は勝てない。傾星の魔性を前に、ただ敗残を晒すのみであると───



『───あ……』



 あるいはその通りだったのかもしれない。
 "その二撃が無ければ"の話ではあったが。

 瞬間、飛来する二つの力が、『幸福』に直撃した。嫋やかに揺れていた『幸福』の体は弾かれたように体勢が崩れ、押し返していた不可視の波が霧散する。『幸福』の外縁部に突き立つ、漆黒の巨矢と煌めく宝剣。
 飛来した二つの力は、聖剣の一撃や交差する雷電に比すれば微々たるものではあった。しかし際どいところで成立していた拮抗を崩すには、余りにも十分すぎる代物だった。

 故に。

「叩き斬る───ッ!」

 そして、宣するアーサーの叫びと共に、遂に決着の時が訪れて。

 ───真っ直ぐに振り下ろされた光輝の一閃が、『幸福』の本体を二つに両断した。



 ***



 『幸福』の体、ヴェールとも花びらともつかない重なり合いの間から、血飛沫のように大量の光が溢れ出ていた。
 美しい光だった。様々に変色する光の中で、夥しい量の粒子が星のように煌めいた。

「終わった、のか?」

 アーサーの後ろから、足を引きずる音と共に声がした。アーサーは無言で首肯するように、隣に立つその男を横目で見やった。今に至るまでの間、アーサーに襲い来る快楽波の全てを雷電で焼き払い続けた男だ。この者がいなければ、アーサーはもっと早くに敗北を喫していただろう。
 それ以上は言葉もなく、美しい光の中で、二人は薔薇の花が咲いたかのような『幸福』の姿を見つめた。

『どうして拒むの……幸せになれるのよ……?』

 『幸福』の声は、今やただの声だった。心を震わせるような響きは、もうなかった。

『幸せになることは罪じゃないわ……幸せになってもいいのよ……?』

 無言。ただ黙ってその声を聴く。

『幸せになるのに……理由なんていらないわ……躊躇いなどいらないわ……あなたの中に、どんな迷いや、戸惑いや、疑問があっても……すぐに全てが消えてなくなるの……そこは、そういう世界なの……』

 とてもいい話に聞こえた。事実、彼女にはそういう力があるから尚更だ。人の世は、苦しみと悲しみに満ちている。誰だって、苦しんだり悲しんだりなどしたくはない。誰だって、幸せになりたいと願っている。

『私が全てを取り除いてあげる……私が全てを与えてあげる……あなたの望むもの……あなたの夢……過去も、未来も……永遠も……』
「お前から与えてもらうようなものなんざ、俺にはない」

 右半身を庇うように立つ、その男───藤井蓮は吐き捨てるように言った。心底から侮蔑して、見下げ果てたような瞳をしていた。

「お前の言う永遠は幻想だ。結局は逃げ込むだけだろう? 目の前に現実に耐えられなくなってな。だからお前は、そんな風にいつまでも一人きりなんだ」

 それは彼なりの哲学から放たれる言葉であるのだろうか。アーサーには分からなかったが、言えるとすれば一つだけ。

「人間は、結果だけでは報われない」

 それが手向けであるように、アーサーは告げる。

「君のそれは幸福という結果だけを人にもたらす。逆に言えば、結果以外の何も、君は誰かに与えることはない。
 過程と結果はワンセットじゃない。結果を出せない過程に意味はないと君は言うが、愚かしい詭弁だよ。
 努力や困難という過程と、得られる幸福という結果はそれぞれ独立したものだ。"結果"そのものである君に、それを説く意味があるかは分からないが」

 『幸福』から漏れだす光は空気へと溶けて消え、赤く燐光する様はまるで巨大な炎に包まれているかのようだった。事実、彼女は燃やされているのだろう。生の鼓動が段々と弱まり、火刑に処されているかのように徐々に光が細々としたものになっていく。

『分からないわ……』

 ラピスラズリの瞳が、ゆっくりと閉じていった。薔薇色の光の中で、炎のように瞬く光が段々と数を減らしていく。

「……ならば、もう君に言うことはない。君は、恐らく永劫分かることがないのだろう。何故なら君は、怒りも悲しみも憎しみも、そして喜びや愛さえ持たないから。
 君にあるのは幸福だけだ。それしか、君にはないのだから」
『……わたしは……』

 『幸福』は何重もの羽をたたむかのようにして、小さく小さくなっていった。
 恒星の死であるように、皆を照らす太陽とは成り得なかった偽物の恒星が、小さく小さくなっていって。
 そして、弾けた。

 光が、粒子が、小さな玉となった『幸福』から解き放たれて。まるで何処かへ手を伸ばすかのように、弾けて消えた。
 古都の天蓋に命の欠片が舞い上がる。仄かに紅く光る粒子は、その刹那まで幻想的で───

 その光景は、散りゆく薔薇の花弁を連想させた。
 麗しくも、儚い。現実には根を張れない……幻想の華を。





   ▼  ▼  ▼





「終わったか」
「ああ。抜錨は無事に済んだらしい」

 対峙する二人の王は、しかし今は共に右手を伸ばし、並び立つように彼方へと目を向けていた。
 ストラウスの右手からは漆黒の瘴気が如き魔力が、ギルガメッシュの右手からは黄金光が如き空間断裂が。
 銃口から立ち上る硝煙であるかのようにして揺蕩い、まさにたった今攻撃を放ったのだと如実に伝えていた。

 その場にいた二人以外の全員は、何が起こったのか分かっていない表情をして。けれどただ一人アストルフォだけは、何を言うこともなくじっと二人のことを見つめているのだった。

「世界の箍が外された。夢を構築し根本を為す土台、そうなるために呼び出された第八等だ。
 故に事態はもう止まるまい。あとはただ、崩れ落ちるのみ」
「そんなことは当の昔に諒解している。全て分かった上でやったはずだ。私も、そしてお前も」
「違いない」

 鷹揚に笑う英雄王に対して、赤薔薇王はどこまでも石のような無表情を崩さない。それは彼らの覚悟の現れであるのか、あるいは運命やその類に対する思いの違いであるのか。
 ともあれ、黄金の男はやるべきことは終えたとばかりに踵を返し、場から立ち去る意思を見せた。黒衣の男はそれを止めることもなく、ただ無言で返すのみ。
 一歩を踏み出して、止まる。「ああそうだ」と、何気ない世間話でもするかのように。

「アレは倒されるべくして倒された。人の内より生まれ、故に人が滅ぼさねばならない悪逆の一。他ならぬ人間自らが乗り越えるべき試練に過ぎん。
 分かっているだろう。何故なら我も貴様も、本来"人間"によって倒されねばならない存在である故に」

「同じことを二度言われる趣味はない。言っただろう、分かっていると」

 威圧的を通り越し、最早凶眼と言って差し支えない視線で以て、ストラウスは応える。
 その両眼は恒星が如き意思の燃焼に満ちて。己の命運も末路も応報も全て承知であると、その上で選んだのだと豪語して止まらない。
 彼は───

「私はいずれ殺されよう。月がある限り、夜がある限り。他ならぬ人の手によってだ。
 しかしそれは我が罪に起因するものではない。そしてお前も世界蛇の逸話とは異なり、その傲岸の報いに起因はしまい。
 それだけのことだ。どこまでも単純に、ただそれだけのことなのだ」

 聞き届けたギルガメッシュは愉快気に笑い、あとは言葉なくその場を後にした。金色の男と白銀の少女の姿が、夜の帳から姿を消した。




 ……………………。



 さあ────────────っ、と木の葉のこすれ合う音が、夜の広場に広がった。
 木の葉の音と闇が、そのがらん、とした空間いっぱいに広がった。

 「はぁー……」と気の抜けた声を出すのはアストルフォだ。彼は殊更に肩の力を抜いて、次いで聞こえるのはどさり、という尻餅をつく音。ヤヤが、完全に腰を抜かしていた。

「い、今のって……」
「英雄王ギルガメッシュ。遥か紀元前のメソポタミア時代、人界の王として世界に君臨した男だ。原初の英雄にして、神代の終わりをその目で見届けた人類の裁定者。
 その精神性は常人に理解の範疇を超えている。圧倒されるのも無理はない」

 呆然と呟くヤヤの手を引いて、ストラウスが答える。その言葉にヤヤは二度驚いた。ギルガメッシュと言えば、神話にさほど詳しくないヤヤでも名前くらいは聞いたことのある人物だ。アストルフォとかいうよく分からないサーヴァントを引いたヤヤにとって、サーヴァントとは過去の偉人であるという事実を実感として認識した初めての瞬間だった。

「つまり、君らはゆっくり休むべきってことさ!」

 ストラウスの後を引き継ぐように、割って入ったアストルフォが明るく声を出す。
 わっ、とヤヤ。虚を突かれたようにぽかんとした表情をして、同じく手を繋いで引っ張られてきたアティと一緒に呆けた声を上げる。

「僕らはみんな頑張った。そしてもう夜だ。ぐっすり寝て英気を養って、あとのことはそれから考えればいい! 急いては事を仕損じる、昔の人は良いこと言うよね!」
「その諺が成立したのは君が生きた時代よりもずっと後の話だけどね」

 あれ、そうだった? とアストルフォ。あははと能天気に笑う彼だが、場に満ちた陰惨な空気はいつの間にかすっかり晴れているのだった。
 さあ早く早くと二人の少女の背を押して、彼は振り返ることなく。

「でも君も悪い奴だよね。僕らに相談の一つもしないでさ……って、まあ今回のは偶々出会っちゃっただけっぽいけど」
「その点はすまないと思っている。別に私が君達を信用していないというわけじゃないんだ」
「ホントーかなー? ホントに悪いと思ってる?」
「随分と信用がないな、私は」
「べっつにー?」

 そこでアストルフォは、何でもないと言った風に。

「ただ、昔から変わらないなと思ってさ」
「……」

 二人の歩みが、止まる。
 ヤヤとアティとは、既に結構な距離が空いていた。声を届けようと思えば届けられる距離だが、大声を上げねばまず聞こえまい。
 アストルフォが振り返り、何の邪気もない笑顔で言う。

「いつも一人で抱え込んで、誰にも言えませんって顔してる。それはとても強くて気高いとボクは思うけど、残される方としては結構悲しいんだよね」
「……」

 シャルルマーニュ十二勇士が一人アストルフォには、幾多の逸話が残されている。
 翼持つ幻想種を駆り諸国を巡り、時には樹木に姿を変え、時には有翼種の群れを討伐し。そんな彼の逸話でも、特に有名なものの一つに以下のようなものがある。
 叙事詩「狂えるオルランド」。それは、月への旅行。

「ねえ、赤バラさん」
「何かな」
「国を滅ぼし……かつての仲間をみんな敵に回し、千年以上もたった一人で世界を彷徨って───……
 時々こう、叫びたくならない?」
「それは───」

 俯きつつあった彼の顔が起こされた。
 その目は真っ直ぐアストルフォを貫いて、困ったように頬を掻いて。



「───恥ずかしいから秘密だ」


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最終更新:2019年06月05日 17:53