すばるという名の少女、もしくは桃色の髪をした無手のランサーに覚えは?」

 『幸福』の消滅を確認し互いに剣を収めたところで、騎士のセイバーはそんなことを聞いてきた。
 互いに敵意はなく争う気もない、というのを確認した矢先のことだった。蓮は半秒ほど考え、やがて納得したように返す。

「どっちも知り合いだ。じゃあアンタがランサーに協力するっていうサーヴァントなんだな」
「ああ。ここに赴いた理由自体は別にあるが、彼女に請われ協力した事実は間違いない」

 誠実毅然に返す騎士を目の前に、蓮はなるほどと納得の念を覚えた。
 このセイバーは、清廉潔白な騎士道の体現のようなサーヴァントだ。ならば多少の打算もあるのだろうが、弱者の懇願を受け入れても不思議ではない。
 しかし気になる点が一つ。こいつは何故すばるのことも知っている?

「君達の後を追ってきたそうだ。サーヴァントもなく、たった一人で。勇敢な少女だよ」

 勇敢じゃなくて無謀だろ、という言葉を何とか喉元で飲み下す。無為に強い言葉を使う必要はない。
 彼の話ではこの霧の中でも正気を保っていたそうだ。ならその時点で、あのランサーよりはマシだろう。
 説得が不可能と判断して元凶を先に討滅したわけだが、これで奴は正気に戻っているかどうか。

「だが、それなら話は早い」
「何の話だ?」
すばるを頼む。僕のマスターも、恐らくはそこにいるだろうから」
「はぁ!?」

 いきなり何を言ってるんだ、このセイバーは。
 会ったばかりのサーヴァントに頼むには、あまりに無防備に過ぎるだろう。
 そんな顔を察してか、騎士のセイバーはただ一言。

「"直感"だ。そう馬鹿にしたものでもない」
「勘って、お前な……」
「それよりも」

 小言を無視し、彼は続ける。

「嫌な予感がする。何かが、まだ続いているような気がしてならない」





   ▼  ▼  ▼






 白い結界が、まるで風船でも割れるかのように呆気なく「ぱりん」と消えた。

「……あ」

 怪物たちとの交戦から全力で離れ、木陰で体を休めていた友奈は、それを目撃した。
 突如、天が罅割れるように大きな亀裂が走り、次の瞬間には甲高い音と共に砕け散った。同時に白い霧も急速に晴れていき、物の数秒程度で境内は元の穏やかな夜の景色を取り戻したのだった。

「良かった……元に戻ったんだ」

 友奈は安堵の息を吐く。これで当面の危険は無くなったというわけだ。
 恐らくはセイバーと百合香が何とかしてくれたのだろう。できれば自分もそれを手伝いたかったが、一人でも助けられたのなら上出来だ。
 そう、助けることができたのだ。例え一人だけだったとしても、友奈は誰かを助けられた。
 一度は見捨ててしまった子を、友奈は救えた。
 誇らしい気持ちが胸いっぱいに広がるようだ。

「そういえば、まだ名前聞いてなかったっけ」

 ふと思い出す。激動続きで自己紹介の暇さえなかったのだ。
 でも、まあいいだろう。時間はこれからいくらでもある。
 まずはセイバーたちと合流して、次はマスターの救出だ。やるべきことはまだまだたくさんあるのだから、いつまでも休んではいられない。

「霧が晴れたよ。もう大丈夫みたいだから、一緒に……」

 行こう、と声をかけようとして。

「……あれ?」

 振り向いたところで、気付く。

 あの子がどこにもいない。

 さっきまで友奈の傍にいた。手を握れるほど近くに、けれど今はもういない。
 あれ、あれ? と周囲を探して。ほどなく、少し離れたところに立つあの子の後ろ姿を見つける。
 何をしてるんだろう、とちょっとだけ思ったけど。でもそんなの関係ないから、その背中に声をかけようと───


『どうして?』


 ぴたり、
 と、友奈の動きが止まった。
 何を言われたのか、一瞬分からなかった。
 友奈は身体を硬直させて、手を伸ばそうとしている中途半端な姿勢のまま固まっていた。
 虚を突かれたような気分だった。
 直視したくない現実を突き付けられたようで、身も心も強張らせることしかできずに。

「な、なにを……」

 振り絞るように声を出して、けれど後ろ向きの彼女は無言。
 いいや、違う。よく聞けば彼女は何事かを呟いている。ぶつぶつ、ぶつぶつと何かを呟いて、けれど明確な声は聞こえない。
 低い呟きの声に交じるのは、時折泡を噴くような、くぐもる音。
 そして、

 ひゅーっ、

 と口の端から溢れる、息の漏れる、劣化した蛇口が立てる、笛のような音。
 同じ音を、友奈は聞いた覚えがある。それは生前や、あるいは今日の昼ごろに。

 ひゅーっ、
 ぶつっ、ぶつっ、ぶつっ、

 目の前の"人間"が、異様な音を立てる。
 確かに、その音には聞き覚えがある。
 例えば、それは今日の昼ごろ、この手で看取ったあの子のように。
 "死に瀕した人間が立てる異常な呼吸音"に、酷似した音だった。

 そして、異常はそれだけではない。

「あ、あのね……」

 夜の闇で見えづらかったが、目の前の少女は友奈の記憶とは異なる点がいくつもあった。
 まず第一に"髪が白い"。くすんだ骨色の髪は夜闇に黒く染まり、けれどかつてとはまるで違うのだと一目で分かる。
 頭頂から何かが生えている。後ろからでは分かりづらいが、恐らくは角のようなもの。角、頭から生えている?

「ねえ、いったいどうしたの……?」

 問いかける。その声は縋るかのように、信じたくないとでも言うかのように。
 いやいやと、そんなのはあり得ないと、頼むから嘘だと言ってほしいと。
 そんな友奈の嘆願に、少女は変わらず何事かをぶつぶつと呟き続けるだけで。

『…………………で…』

 辛うじて言葉だと認識できる、言葉としての形の最底辺。そんな声を呟きながらほとんど動かない体から、ぽつりぽつりと何かが滴っているのが見える。
 涙、涎? それは顎を伝ってか、足元にぽつぽつと滴り落ちる。
 だが友奈には分かった。分かってしまった。そのどうしようもなく覚えのある鉄錆の臭い。雫にしては粘性の強い、特有の音。
 いやだいやだ、そうあって欲しくないと凍った体と心で唱え続けるけれど。
 いずれにせよ、少女は口の中を咀嚼するように動かしながら、泡を吐くような呟きを、淡々と続けていた。
 よく聞けばその口の中から聞こえる、歯が噛みしめられているらしい、軋んだ音。
 そしてそんな壊れた言葉の滓のように溜まり続けた血の泡は、やがて限界を迎えて口の端からこぼれたのか、これまで以上に大きく地面へと落ち、ぽちゃんと湿った音を立てた。
 それまで泡でくぐもっていた声が、微かに聞こえた。


『ねえ』

『どうして助けてくれなかったの?』


 少女は、ぶつぶつと、口の中でそんなことを呟いていた。


『どうして』


 低く小さく淡々と呟く。


『どうして』


 木々の間に見え隠れする月明かりだけが、僅かな光源の暗い境内で。
 ぼんやりとした白い光が少女の後ろ姿を薄く照らし、骨色の髪が同じ光を鈍く反射する。


『どうして?』


 誰のことを言っているのか、今や明白だった。
 彼女がどういう状態にあるのかすら、最早明確だった。

「……やめ……て……」

 友奈はか細い悲鳴のように、恐怖に絞られた声で少女に言った。
 何を? 言葉を? それとも現実を?
 分からない。とにかくやめてほしかった。安堵に暖まったはずの心が、徐々に不安へと天秤を傾けつつあった。
 その声が聞こえたのか、少女の成れ果てが首だけで、ぎしっ、と軋むような動きをして、友奈のほうを振り向いた。
 そして何かを言おうとするかのように、微かに口を開いた。

 だが──────どっ、と口の隙間から溢れだしたのは言葉などではなく、蟲卵と見紛うほどの大量の真っ赤な泡を大量に混じらせて糸を引く、頭蓋の中身が全て溶けだしたのではないかと疑うほどの、恐ろしい量の血液だった。



「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」



 夜の境内に、自分の耳が壊れるかと思うほどの、凄まじい悲鳴が響き渡った。
 悲鳴の爆発する境内で少女の口から大量に溢れだした粘性の血液が、ぴちぴちと音を立ててまき散らされて、薄く開かれていた口は弛緩したように顎が外れて広がった。ぱっくりと開いた口から更に量を増した血液が吐き出されるにつれ、首が内容物を失ったようにゆっくりと傾ぎ、口が、下顎が、中身が溢れだす皮袋のように重力に従って引き伸ばされた。
 がくり、と頭が自重で下を向いた瞬間に、ぼきりと聞こえる骨折の音。それがかつて自分の手折った首を想起する暇もなく、容器を傾けたかのように泡混じりの血が、鼻から、目から、噴き出した。
 そして大きく見開かれた眼窩から、まるで内側からの圧力で栓が抜けるように、流れ出す血泡に押し出されて、ごろりと両の目玉がまろび出て、粘つく血液に絡め取られるようにして、ごろごろと泡と共に流れ出していった。

「────────────────────────────────────!!!!」

 絶叫した。
 全てが悲鳴で埋め尽くされるほど絶叫した。
 顔中の穴という穴から血と泡を吐き出す少女と向き合ったまま、身動きもできずに全身を震わせて絶叫した。
 身体ががくがくと痙攣するように揺れて、目の前の現実さえ輪郭がぼやけるように視界が白んで。


「──────あ」


 そんな恐怖すら過去と思えるような"喪失感"が、友奈の総身を襲った。
 何もかもが、途切れた。

 暗転。
 暗闇。

 ………。

 ……。

 …。

 ────────────────────────。



「まあこんなモンだろうよ。ちっとばかし順当すぎる結果じゃァあるがな」

 ポンポンとボールめいたものを片手で投げ、弄びながら、中空に立つドフラミンゴは嘲笑の響きでそう言った。
 彼はずっと待ち続けた。自分では何もせず、ただただ事態の推移を見守っていた。死地に飛び込む不用意などせず、自分以外の諸々が奮戦する様をずっと嗤いながら待っていたのだ。
 ランサーをここまで放っておいたのは、単純に戦力として期待できたから。
 そして事態の元凶が討たれた以上、やるべきは一つである。

「だが、しかし……フフフッ! その顔は傑作だなァランサー!
 死体抱えて逃避行たァ泣かせる話じゃねェかよ! おれはンなもんごめんだがな、死体なんざ気色悪くて仕方ねェ」

 心底気持ち悪いとしか思っていない物言いで、ドフラミンゴは手にした"それ"をゴミを投げ捨てるかのように放り捨てた。歪な球体はボールのようで、しかし「ドサリ」という弾力性の欠片も見当たらない音を立てて転がり、"それ"は茂みの向こうへと消えていった。

「若様! ご無事でしたか!」
「おいおいそんな血相変えてくんじゃねェよ。馬鹿共みてェに鉄火場行ってたわけじゃねェんだ」
「し、しかしこれほどの異常事態、我々は見たこともなかったもので……」

 おろおろと狼狽する黒服に、ドフラミンゴはただ鼻を鳴らすだけだった。黒服はドフラミンゴが曲がりなりにも命を懸けた闘争に赴いたものだと考えていたが、当の本人はただの様子見、安全席から大上段で見る観覧程度にしか思っていないという、その違いが現れていた。
 ドフラミンゴは己の命を賭けない───そうするメリットが薄すぎるからだ。
 ドフラミンゴは誰とも対等な目線で立ち会わない───彼は己を人間などとは比べものにならない高みの存在であると定義しているからだ。
 そして彼は───

「まァ、確かに異常事態ではある。まさかあの小娘、揃いも揃ってゾロゾロと連れ出してくるたァ思わなかったからな。
 最低でもセイバーが二騎に、他のマスターが更に二人。ちっとばかし目を離した隙にワラワラと群れやがって目障りったらありゃしねェ……!」
「わ、若様……?」
「だが、逆に良い機会だったのかもしれねェなァ。人手は足りちゃいたが所詮は表に出てこれねェゴロツキの屑共ばかり、支配してやるのは楽だったが使い勝手がよろしくねェ。
 最低限の間引きと隠れ蓑にはなったし、他のアテもついた。どうせここまで残ってる連中なんざ、つまらねェ小手先じゃ狩れねェ奴らばかりだろうしな」
「若様、一体何を……先ほどから言ってることが、よく……」
「……ああ、悪ィ悪ィ。つまりだな」

 彼は、口だけを動かして笑みを浮かべ。

「もう潮時ってことだ」

 瞬間、噴出する大量の血が夜空を赤く染めた。
 悲鳴とどよめきが黒服たちの間を伝播する。それもそのはず、何故なら今までドフラミンゴと話していた黒服が"突如として首を切断され血を噴き出した"のだから。
 ホースから飛び出す水のように、勢いよく飛び出る血液。頭部を失った体は支えを無くして地に倒れ込み、後には物言わず水音だけを出す肉塊が転がるのみだった。

「ひ、ひィ……ッ!」
「怯えるんじゃねェよ。まあアレだ、先延ばしになってた死刑の期日が今来たってだけのことだ。別におかしな話じゃねェだろ?」

 ドフラミンゴが元村組を訪れたあの日、あの時。
 確かに彼は言った。ナワバリを追われた者がどうなるかと。
 その時既に彼らの命運は決まっていたのだ。あとはその末路を迎える時が早いか遅いか、その違いしかない。

 怒号と共に、誰かが発砲した。
 最初は一人、次に二人。悲鳴と発砲音はすぐさま黒服全員に蔓延して、何丁もの銃が火を噴く。
 けれど銃撃を受けたはずのドフラミンゴに一切の傷も流血もなく、それは彼ら全員が最初から分かっていたことだ。
 分かっていてなお、もしかしたらと縋るしかなかったのだ。
 嗚咽をかみ殺す声が、そこかしこで木霊した。

「それじゃあアばよ人間(ゴミ)共。フフフッ、少しは役に立ってくれたぜ?」
「ひぁ、うわぁ!?」

 皆一様に銃を構えていた黒服たちは、突如としてその銃口を互いの眉間に照準し合った。
 その行為は彼らの本意ではなく、その首に纏わりついた寄生糸(パラサイト)の特性によるものである。

 ゆっくりと歩み去るドフラミンゴの背後で、発砲音と微かな発光が何度か続いた。
 彼の姿が完全に消え去った頃、その場に動く者は一人として存在していなかった。





   ▼  ▼  ▼





 自分に何が起こったのか、分からなかった。
 目を開けるとそこは真っ暗な木々の間で、友奈は酷使した肺から荒い息を吐きだしているのだった。
 周りを把握しようとして、膝が砕ける。激しい眩暈に、額を押さえて呻く。どうやら、自分でも分からない内に逃げ出していたらしい。
 でも、でも、あれ?
 私、なんで逃げてるんだっけ。

「……私、一体何を……」

 一瞬訳が分からなくなり、しかし次の瞬間には全てを思い出していた。
 目の前に霧が広がった瞬間、自分が覚えたのは昂揚と幸福感と、誰かを救わねばという強迫観念。そして助けられなかった少女を助けて、助けたのだと思い込んで、そして……
 そして、あの子を前に、私は……

 マスターを、失った……?

「はぁ……はぁ……ぐぅッ」

 自覚した瞬間に、蓄積されていた不快感が一気に襲い掛かってきた。ぐらりと体がよろけ、必死に悲鳴をかみ殺す。
 吐き気、などという生易しいものではない。
 壊れた脳の壊れた命令に従って、壊れた心と壊れた体が自分を攻撃している。
 空っぽの胃は止め処なく胃液を吐き出し、あまりの苦しさに涙が滲む。三半規管は滅茶苦茶で、自分が真っ直ぐに立っているのかすら分からないほど。
 魔力の欠乏は深刻で、既に手足の末端から消滅しつつある。

 いっそ倒れてしまいたいのに、倒れてはならないと心が叫ぶ。
 言うことを聞かない体を無理やり動かし、とにかく前を目指した。参道を抜け、林の中へ。ここではないどこかへ逃げられるならどこでも良かった。
 荒れる息と霞む視界。走馬灯のように浮かぶのは聖杯戦争の記憶。行けども行けども死屍累々が積み重なる地獄の光景、咽るような血臭と肺にへばり付く脂の臭い。その全てが自分の生み出したものなのだと、今更になってようやく友奈は自覚した。

「う、ぅぶぇ……ッ」

 今も鼻の奥にこびり付く強い死臭に、立ち止まっては血の混じった胃液を吐き出した。今までなら耐えられた。でももう無理だ。最早周りの景色も見えなくなって、とうとう自分がどこにいるのか分からなくなった。霧の中を、朧気な意識のままに彷徨い続けた。

 私は何のために戦ってきたんだろう。
 ……何かのために戦えた?
 ……どうだろう、分からない。

 辿りついた場所は、円形に開かれた林の広場。
 木々に囲まれ月明かりに照らされた、夜の底のような空間。
 そこが、終着駅だった。

 友奈以外には一人として、そこには誰もいなかった。
 辿りついた先に、友奈を待ってくれている人などいなかった。

 諦観が体の隅々を満たしていくような感覚を、友奈は覚えた。友奈は空っぽの心で、半ば条件反射的に肉体を動かす。
 わたしは、何をしているんだろう。そんな疑問が頭に浮かんだ。もう、守るべき人なんていない。自分の闘いも、マスターの願いも、あの子の死も、このままでは全てが無意味なものになってしまう。
 マスターは死んだ。あの子もそうだ。このままでは私も消えてしまって、そうなったら後には何が残る? 生き返ったと思いたかったあの子は異形と化して、私はマスターの願いすら碌に聞けてあげられないまま。
 そんなのは、認められない。
 そう考えている間にも、体は休むことなく生存に向けて動かされる。

 ───讃州中学勇者部五箇条……なるべく、諦めない……

 かつて自分を支えてくれた矜持として在る想いを、心に再び刻み込む。
 諦めない。諦めない。勇者になりたいと願った自分は、もう二度と諦めないと決めた。

 崩れそうになる足を、それでも踏みとどまって進む。
 力を失ったはずの右腕が、僅かに持ち上がる。
 私は、色んなことを間違えた。
 私は勇者失格だ。
 ───だけど。

 ───それでも、私は……
 ───私は、勇者に……










『勇者になれるって、本当にそう思ってるの?』










 耳元で、笑みを含んだ暗鬱な声が囁いた。
 びくりと体が竦んで、忘我にも似た表情に、友奈は顔を凍りつかせた。
 それは脈絡なく訪れた声に驚いたようにも見え、あるいは何か得体のしれないモノへの警戒のようにも見え、そのいずれにも似た感情の正体は、恐怖。

 その声を聴いた途端、夜闇の鬱屈した気配が一人の人間の形へと集約した。
 友奈を見上げるように佇む、機械の少女。
 鉄錆色のドレスと白熱電灯の顔が、形を取る。

『───可哀相』

 機械の少女。
 鉄錆の臭いを纏わせて、夢のように、幻のように、現実味も伴わぬままに彼女は現れる。
 月の向こうから、女は来る。
 何処とも知れぬ場所から、女は来た。

 そして、その女は告げるのだ。
 人間め、恐怖の生贄よと嗤いながら。
 人間め、悪質な装置だと嗤いながら。

 空間さえ捻じ曲げて。
 月の見ている場所ならどこにでも。

『あなた、そんなに怯えて』

『暗いからそんなことになるの。
 暗いから、見えないすべてを怖がるの』

「え……?」

 頓狂な声をあげる。状況、まるで分かっていない。
 この少女は誰? 少女、異形? 目の前のこれは何?

 突然現れて、空間、時間さえ無視したように。
 知らない。知らない。私はこんなもの知らない。
 ああ、でも。何故だろう。私はこんなもの知らないはずなのに。
 その声に、耳を塞ぐことができない。
 その光に、目を閉じることができない。

『光が欲しいんでしょう?
 なら、あげる。あなたにあげる』

「い、いらない……」

 震える声を出す。言葉、振り絞るように。
 耳は塞げない。
 目は閉じられない。
 それと同じように、口、止めることもできずに。

「そんなのいらない……だって、私、暗くなんかなってない……。
 こないで、こっち、こないで……!」

『あなたはずっと暗闇の中よ』
『幸福にも考えものね。あんなもので人は恐怖を忘れ去る』
『何度も何度も、夢の中で夢を見るなんて。やっぱりあなたには光が必要ね』

「なにを……!」

『必要でしょう?
 ほうら、明るい明るい』

 その身に灯るものを、女は見せる。
 その身に灯る白熱電灯。

 それは照らすだろう。
 恐怖を、長い長い影としながら。
 それは呼び起こすだろう。
 恐怖を、メモリーに繋ぎながら。

 耐えきれない現実と共に。
 耐えきれない過去と共に。
 刻み付ける、影を際限なく伸ばして。

 力を失った少女では、
 光は、避けられない───

 ただ、浴びて───

『照らしてあげる。
 照らしてあげる。
 ほうら、これであなたは明るくなった』

 光、ただ一身に浴びて。
 苦痛もなく、恐怖もなく、ただ友奈は。

「───あ、ああ、え……?」

 困惑、していた。
 何が彼女をそうさせるのか。何が彼女を惑わせるのか。
 それは───

「これ、あの子の、記憶……?」

 映し出されるのは、何処かの光景か。
 今や友奈の視界には、この場所ではない別の場所の光景が映っていた。夜ではなくまだ明るくて、林の中ではなく人工的な壁と通路が見える。

 それは記憶だ。友奈のものではない、これは既に死んだとある少女の記憶。
 友奈が救えずこぼれ落とした犠牲者の記憶。

 最期に「ありがとう」と言ってくれたはずの、あの子の記憶。

 そして、その中で彼女は。
 屍食鬼に、体を、貪られて。

「うそ、うそ、うそ、うそ……。
 だって、そんなの、なんで、私は……!」

 ───そして、友奈は全てを見た。



【───ありがとう】

 それは、幼い少女が勇者に抱いた憧憬。

【───え?】

 それは、幼い少女が勇者に抱いた疑念。

【───違う、違う、違う。そんな言葉なんて欲しくない】

 抱いた希望は砕け散った。お前は救われないと告げられた。
 後に残ったのは虚飾だけ。お前は救われないからお前以外を救うという、少女にとってはどうしようもない死刑宣告。

【───いや】
【───いやだ。死にたくない。死にたくない!】

 そうして、彼女は目の前の存在に最後まで助けを求め。
 救いと信じたその腕で。

【この】
【嘘つき】

 ───首を、折られた。

 ………。

 ……。

 …。



「いや……いやあああああああああああああああ!!!」

 絶叫が迸る。友奈は、恥も外聞もなく、ただ感情のままに叫んでいた。

 信じられなかった。
 友奈が信じてきたものが、根本からぶち壊されたような気がした。

「うそ、うそ! そんなのうそ! あの子にありがとうって言われて、だからこれが正しいんだって考えて! なのに!」

 少女は決して、友奈に感謝などしていなかった。
 最期まで願っていたのは自らの生存。友奈に求めたのは自らの救済。
 助けて、助けてと懇願する声が木霊する。自らの運命を悟り気丈に振る舞う健気な少女の姿はどこにもなかった。そこにいたのは、ただひたすらに生きたいと願うありふれた人間だけだった。
 ありがとうという末期の言葉は、友奈が勝手に聞き間違えたものでしかなかったのだ。

「それが嘘なら、わたし、今まで何を……」

 機械の女は答えない。ただ、嗤いを深めるだけで。

『明るくなった、明るくなった。
 これで何も怖くないわね』

『光があれば、いいんでしょう?
 光、希望、あればいいんでしょう?
 あなたたちは、嬉しいんでしょう?』

「なんで!?」

 言葉を遮るように叫ぶ。その声は、最早肯定でも否定でもなく、単なる感情の発露でしかなかった。

「何なの、何なのこれ! 私はただ助けたくて、せめて苦しまないようにって、それだけで!
 私頑張った! いっぱいいっぱい頑張ったよ! でもどうにもならなかった! 私一生懸命頑張って、でもどうしようもなかったの!」

 友奈の心は、もう限界だった。
 彼女はずっと追い詰められていた。マスターが会話のできない屍食鬼であった頃から、彼女が無辜の民を傷つけた時から、天夜叉のライダーに良いように使われた時から、幼い少女を手にかけた時から。
 ずっとずっと、友奈は心をナイフで串刺しにされ続けていた。

 それでも頑張ってこれたのは、それが自分以外の誰かのためになるからと信じていたからだ。
 マスターのため、あの子のため。救うのだと、報いるのだと。
 ありがとうと言われたならば、つまりそれは願いを託されたということだったから。
 マスターはもう死んでしまったけど、でも、だったらせめてあの子の最後の願いだけはと。
 そう信じて、ずっと頑張ってきたのに。

「マスターは最初から狂ってた! あの子は私が来た時には手遅れだった!
 私はみんなの願いを叶えたかった。私は勇者になりたかった。でもマスターは誰かを殺すだけで、あの子は怪物に成り果てて!」

 くしゃりと歪む。ぽろぽろと、涙が落ちる。

「私に、どうしろって言うのよぉ……!」
『でも殺したのはあなたよ?』

 すとん、と投げかけられる言葉。
 一瞬何が何だか分からなくて、慟哭の声さえも思わずぴたりと止んだ。
 友奈は不出来な機械のように、ぎぎぎとぎこちなく振り返る。

「……あなた、なにを、言って……?」
『殺したのはあなたよ。
 屍食鬼の蔓延を防がなかったのは誰?
 あの子がその屍食鬼に襲われる原因を作ったのは誰?
 まだ生きていたあの子の首を折ったのは、誰?』

 問われ、けれど考えるまでもなく答えは明白だった。

 殺したのは、友奈。
 全部全部、友奈。
 間に合わなかったとか、力が及ばなかったとか、そんなこと以前に。
 全ての悲劇を引き起こした原因は、友奈。

「で、でも、でも!
 マスターは最初から屍食鬼だった! その原因は私じゃない!
 私だって、そんなマスターを助けたくて……」
『そのマスターさんが他の人を噛むのを黙って見てたのは誰?
 知ってたのに、止めることもできたのに、黙って見過ごしていたのは誰?
 マスターに逆らえなかった? アレは令呪を使うこともできなかったのに?』

 女の言葉に、友奈の頭にかつての記憶がリフレインする。

【マスター……】
【お願い――こんなことはもうやめてください】

 確かに、自分はそう言っていたと思う。
 けど、あれ? 私は、マスターを止めた?

 口を血糊で濡らす彼女を、私は悲しい気持ちで見つめて。
 ああ、また咬んで来たんだなと。遣る瀬無い気持ちになって。
 止めることはできたはずだ。令呪の強制がない以上はサーヴァントの行動を縛るものはない。
 何も殺す必要なんてない。腕を掴んで押し留めて、行動を制限するだけでいい。
 たったそれだけで、都市を襲った未曾有のパンデミックは防ぐことができたはずなのだ。

 でも私はマスターのために……
 あれ……あれ?
 私、一体、何を……?

『あなたは何を考えていたの?
 えっと、確か……勇者になる、だったかしら?』

 女の言葉に、逡巡していた思考が現実に引き戻される。
 怯えた目で女を見る。後に続くであろう言葉が、今の友奈には何かとてつもなく恐ろしいものに感じた。

『あなた、そんなもののために沢山沢山殺したのね』

 決定的な何かを、突きつけられた気がした。
 友奈は言葉もなく、震える息を吐くだけだった。自分の仕出かしたことが、それが客観的な事実として語られることが、底冷えするほどにおぞましくて仕方がなかった。

『みんなのために? あの人だけは守る? 報いるために? 慈悲の死を?
 ねぇねぇねぇねぇ───どれがいい?』

 挙げられた四つの言い訳は、全部友奈が口にしてきたこと。

『どれもみぃんな同じよ。だって最後には殺してるもの!
 情状酌量? なら殺された人たちに聞いてみるといいわ。頑張ったから仕方ないの。殺した後で泣いたり悲しんだりしてあげるから、私が勇者になるために大人しく死んでくださいって!』

 勇者。
 その名の響きが、今は何故だか異質なものにしか聞こえなかった。

「やめ、て……」

 か細い声が漏れる。それが、今の友奈にとっては精一杯だった。

「やめてよ、お願い……」

 ───古今、英雄というものは何かを打倒することでそう呼ばれる。
 強大な敵を倒し、戦争を勝利へと導き、あるいは優れた武功を以て英雄と祭り上げられる。
 英雄とは、時として人殺しの代名詞でもある。

 その意味で言うならば、今の友奈は───

『おめでとう。あなたは確かに殺戮者(ゆうしゃ)になれたんだわ!』
「黙れえええええッ!!!」

 その言葉を止めさせようと駆けだして、しかし友奈の拳はつまずくように空回る。意識と肉体の動きがズレて、上手く合わせることができない。

「なんで……なんでぇ……!」

 信じられないといった表情で、友奈は己の両手を見下ろす。何ということだろう、友奈の力の象徴たる薄桃色の勇者服が、何故か急速に消失しつつあった。
 マスターを失ったが故の魔力欠乏───それだけではない。それだけでは、友奈自身ではなくその力だけが失われることに説明がつかない。
 その原因は、先刻刃を交えた藤井蓮の特質にあった。
 彼のスキルに神殺しというものがある。全宇宙を掌握する覇道の神格を打ち倒した彼の一挙手一投足には、その全てに神性に対する特効が付与される。物理的な干渉力とは別個に、神性という概念そのものを破壊する力が付随するのだ。

 結城友奈、ひいては"勇者"とは、八百万の神々が集いし神樹より力を与えられし存在。彼女らが纏う力とは神の力そのものであり、逆に言えば神性を除かれた勇者は只人でしかない。
 先刻の戦闘、最後の交錯において、友奈は藤井蓮により掠り傷程度の斬撃を食らっていた。
 その程度では、本来何も影響が及ぶことはない。如何に強力な神殺しであろうとも、蚊の一匹すら殺せない小さな傷では何をも殺すことはできない。

 けれど、今はどうか。
 マスターを失い、魔力を失い、全快時とは比ぶべくもないほどに弱体化した今の友奈なら、どうか。
 本人も気づかないほど小さな傷に残留した神殺しの概念は、遅行性の毒のように弱った彼女を蝕んだ。
 その結果がこれだ。ボロボロの外装は魔力の粒子となって溶けて剥がれ、後に残されたのは何の力もない無力な少女のみ。
 抜け殻の死骸を守るために刃を向けて、要らぬ戦いを相手に強いた。相手は自分に本気で攻撃できないと、心のどこかで甘えていた末路がこの有り様だった。


「うあ、ああ、ああああああああ、ぁぁぁあああああああああああああああ……!」


 友奈は叫んだ。身体が泡となって消えてしまいそうだった。
 心が消え、思いが消え、肉体さえも消えていくかのような喪失感が全身を叩いていた。

「取り消して、取り消してよ!
 やだ、そんなのやだぁ! 私は、誰かのために……!」

 我武者羅に腕を振り回して、けれども機械の少女はひらりひらりと舞うように。
 当たらない。当たらない。腕は悉く空を切って、少女はただ哂うだけ。

「マスター、マスター、マスターッ……!」

 友奈にマスターはもういない。佐倉慈は最初から死んでいた。そしてその残骸さえ、今は主としての機能を無くして真実ただの塵屑となった。

「助けてくれって、ありがとうって、そんなの……全部、うそなんて……!」

 あの少女はもういない。他ならぬ友奈が殺した。死者蘇生の奇蹟なんてあるはずもなく、友奈は自分が殺した亡骸に縋りついていただけだった。

「私は……」

 もう何度目かになる空振りと共に、足元に躓いて、友奈は顔面から地面に倒れ込んだ。
 滲む涙を拭うこともできず、瞼と歯を食いしばって、友奈は懇願するかのように。

「私は───誰かを助けたかっただけなのに……」

 最早立ち上がる気力さえなく、無力な少女がさめざめと泣きわめく。
 傍で見下ろす機械少女は、喜びも悲しみもなく、ただ嗤うだけで。

『笑いなさいよ。笑いなさいよ!
 泣くのは駄目。泣くのは駄目!
 チク・タク。ほらチク・タク!』

『チク・タク。刻むの。
 チク・タク。刻むの。
 イア・イア。喚ぶの……!』

『あははははははは……!』

 嗤って、笑い声だけを残して、跡形もなく消え去った。
 まるで最初からいなかったかのように。まるで最初から、友奈一人が虚しく押し問答をしていただけであるかのように。

 そして、入れ替わりに現れたのは。


『ァ、ガ、ガァ、ギィイイイィィイイィイイ……!!』


 ───本物の異形が、そこにはあった。

 機械の少女のように、人の輪郭を保っているような生易しいものではない。これは本物の、人でもなければ人外とさえ呼べはしない、異形としか形容のしようがないものだった。
 そんなものが、倒れる友奈の目の前に立っていた。

 一言で言ってしまえば、それは粗雑な金属をこね合せたグチャグチャの球体だった。
 鉄材や鉄鋼、歪んだ砲塔が至るところから突き破る歪な球体から、辛うじて人のものだと分かる四本の手足が生えていた。しかしそれも左右非対称のバラバラな位置で、足など二足歩行できていることそれ自体が不思議なほどに歪んで、鉄に埋もれて。
 垂れ下がった頭部は、内側からいくつもの鉄材に貫かれ膨れ上がって。戯画的に裂け広がって。
 滅多刺しにされたズタ袋。
 それが、その異形に対する第一印象だった。
 そして、この塊から感じられる感情は、純粋なまでの怒りと憎悪。

「あ、ああ、あああ───」

 友奈には、その醜悪な鉄塊が何なのか、分かった。
 見る影もなく凌辱され尽くして、変質し尽くして。
 けれどもそれが、あの少女であるのだと、友奈にはどうしようもなく完璧に分かってしまったから。

 絶望がゆっくりと心を絞めた。

 ───結城友奈は誰も救えない。
 その事実が確たる現実となって目の前に現れた。

 ───結城友奈は誰も救えない。
 それは動かすことのできない絶対的な証明。

 ───結城友奈は誰も救えない。
 信じていたものは全てでたらめで、自分の努力なんて何の意味もなかった。

 ───結城友奈は誰も救えない。
 最初から何もかも間違えていた哀れな子供は、ただの一人さえ助けることもできずに。


 ───結城友奈は、
 ───勇者などでは、


「あ、うっ、あぁぁ…………。
 ああ、あ、ぁぁああああああああああああああああッ──────」


 ………。

 ……。

 …。

 胸に宿る遠い日の記憶。憧れた輝かしい背中。
 勇者は何をも諦めない。
 私はそれが格好良いと思ったから勇者に憧れた。
 弱きを助け強きと手を取り合い、みんなに笑顔を届ける暖かな人。
 私もそう在ろうと思って、ずっと頑張ってきた。


 白痴のマスターを助けるため、友奈は頑張って走り続けた。
 天夜叉のライダーが襲撃してきた時も、友奈はずっと諦めなかった。
 法外な契約を取り付けられても、複数のサーヴァントに囲まれても、釘バットのバーサーカーに襲われても、騎士のセイバーに不信を向けられても。
 多くの人を見殺しにしても、あの子の手を掴めなくても、幸福のサーヴァントに何もできなくても、誰からも理解されなくても。
 流す必要のない血を流し受ける必要のない傷を負い。痛みと苦しみに歯を食いしばり喪失の悲しみに心をズタズタにし。
 打ちのめされてボロボロになって、それでも守れるものがあるなら構わないと戦い戦い戦い抜いて。
 あきらめないで。
 がんばって。
 ずっとずっと、ひとりぼっちで走り続けた。


 勇者は何も諦めない。
 だから私も諦めない。
 諦めない、諦めない、諦めない。
 諦めない、諦めない、諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない諦めない───。


 けど。
 そうだけど。



「わたし、なにを、あきらめないんだっけ……?」


 すぐ目の前に迫る黒腕を見つめて。
 友奈は泣き笑いのような声で、己の為した全てを嘆いた。

 ───水をぶちまけるかのような撒血の音が、辺りに木霊した。





【ランサー(結城友奈)@結城友奈は勇者である 霊基喪失】





   ▼  ▼  ▼





「あの子は人形だよ。彼にとっては壊れた人形。勇者の器なんかじゃない。ただの死に損ないさ」

 ───視界の端で魔女が嗤っている。

 何処かで少女の声がする。あの緋色の瞳だけが記憶に強くこびり付く。
 時計の音に紛れ込んで、零時示す黒き秒針さえ遮って。
 それは少女であって少女ではない。魔女へ堕ちた声だけが、少女の残骸を今に遺す。

「この物語はエンドロール。流れる文字の背後に映される、細切れになった過去の追憶。
 誰もが信じている。諦めなければ夢は叶うと、手を伸ばせば何かを掴めるのだと。
 けどそれは誤りだ。全てはもう終わってしまって、取り返せるものなんて何もない。だからこそ、この聖杯戦争は幕を開けた」

 そこは紫影の塔。神々の玉座に連なる世界の果ての塔、その階段。
 黄金螺旋ではあり得ない影の連なり。
 魔女はそこから全てを見下ろし嗤っているのだ。今も、今も。

「君は分かっているはずだよ。最初から全て分かっていたはずだ。アレらはとっくに壊れていて、君が願うような尊さなんて何処にもない。
 さっきのがいい例さ。自分が壊れているとも気付かないまま滑稽に踊り続けた人形。あんなものがオルゴンだって? 勇者にもなれず潰えていったあんなものが?」

「黙れ」

 挑むかのような声に、魔女は嗤う。
 馬鹿だなぁ、分からないなぁと口許を弦月に歪めて、ただ諦めろと囁く。

 少年はただ、それを真っ向から否定するように。

「黙れ、黙れ、黙れ。
 自分の手で歪めておいてそれを偽物と嘲笑うか。自ら突き落としてそれを愚かと、お前は嗤うのか。
 滑稽に過ぎるぞ西方の魔女。囁くだけが能のお前が、根源なりし無貌の道化を気取るか」

 否定の声は憤怒に満ちて。
 嚇怒の念は憐憫に満ちて。
 惻隠の情を以て紡がれる。なんと哀れな女であることかと。
 自嘲と悔恨さえ伴って、声はただ過去の残影に向けて。

結城友奈は勇者じゃない? 馬鹿を言え。
 逆だよ。結城友奈が堕ちたんじゃなく、アレが最初から結城友奈じゃなかっただけだ。前提そのものをはき違えた、ただそれだけのことだろう」

「ク───フフ、ふふふふふふふふふ!」

 堪えきれないと声を漏らし、魔女はただ嗤うのみ。
 壊れた亡霊。偽りの支配者。世界の境目を越えてきた者。
 ───世界の破壊者にして、観客にして、自らもまた演者。

「───成る程」

 魔女の声には嘲りが含まれている。
 対する少年は、無言。

「そういうこともあるのだろうけど、そうでないこともあるのだろう。
 さあ、ボクの愛してやまない世界救済者の皆々様。どうか御笑覧あれ!
 是なるは既に終わりし物語、大いなる正午の腕に抱かれた夢の残骸なれば!」

 それは何かを尊ぶように。
 それは誰かを慈しむように。
 果て無き希望を叫ぶ。退廃満ちる都市を見下ろし、それでも尚と叫ばれる。
 少女であった魔女はただひたすらに、彼らの救済を願うだけで。

「───これこそ、我が愛の終焉である!」

 だが、しかし───喝采はない。


NEXTそして終わらぬエピローグ

最終更新:2019年10月20日 14:44