最早どうすることもできない。
したり顔で出すには今更すぎて、胸に秘めたままではとても正気ではいられない結論を、十数人からなる警官隊を指揮する男は口の中で漏らした。
災害の報を受けて現場に急行した彼らを待ち受けていたのは、これが人間の生活圏なのかと疑いたくなるほど荒廃し、瓦礫や死体すらほとんど残っていないほど徹底的に破壊し尽くされた区画の惨状だった。
これを前に、自分たちは一体何をすればいいのか。そもそも自分たちにできることなどあるのだろうか。そんな単純な判断すらおぼつかず、あまりの衝撃に停止しそうになる思考を、彼は無理やりに奮い立たせる。
事ここに至っては認める他にない。今や、いいやとっくの昔に、この鎌倉は異常な街に成り果てていた。
不審な事件や事故、あるいは不穏な噂というものは、数週間前から存在していた。暴力団の活性化と街中での堂々とした殺人行為、突如として理性を失い隣人を襲うようになる謎の奇病、時代錯誤の合戦場であるかのような凄惨な殺し合いに、多くの行方不明・死亡事故の数々。
それらはどれ一つを取っても常なら大々的なニュースとなるような一大事件であるはずだった。年に一度あれば大騒ぎになるであろうそれらが余りにも立て続けに発生し、警察署内は今まで類を見ない慌ただしさであったことを鮮明に思い出せる。
そう、昨日までの時点でもあり得ない規模の異常事件が発生していたというのに、しかし今日の鎌倉は端的に言って桁が違った。
材木座海岸の港町の一角が、文字通りに根こそぎ吹き飛んだ。
笛田の街そのものが、大規模な地盤崩落により壊滅的な被害に遭った。
鎌倉駅東口方面の繁華街が、爆撃と言ったほうが的確であるほどの火災により多くの人命と共に焼き払われた。
相模湾沖に停泊していた謎の戦艦が二度に渡り砲撃を敢行、稲村ケ崎と江の島電鉄が区画ごと崩壊した。
鎌倉駅西口方面では突如として謎の大破壊が起こりビル群が軒並み倒壊し、大規模レジャー施設である逗子マリーナは戦艦の砲撃と謎の火炎によって瓦礫も残さず消滅。下手人不明の大量殺戮は最早発生件数を数えることすら億劫なほどで、街路はそこかしこが死体と肉片で埋め尽くされている。事件のいくつかを主導したと思しき暴力団元村組に目をつければ、今度はそこまでも爆発事件によって壊滅する始末。
警察行政が把握していないだけで、これ以外にも多くの死亡事故・破壊事故が起きているのだろう。
率直に言おう。この事態は最早警察の手に負える段階を逸脱している。
未だ記憶に新しい先の大震災や大津波による被災地域が如き惨状が、今やこの街のデフォルトと化しているのだ。鎌倉市警が有する現場レベルから指揮レベルまで含む全人員を動員しても、手の施しようがない。最低限、自衛隊への災害派遣要請が必要だった。それすら、今の鎌倉では焼け石に水でしかなかろうが。
そんな、空襲でも受けたかと思えるほどの大災害の中にあって、鎌倉が街としての機能を失わなかったのは、偏に鎌倉新市長の尽力があったればこそであった。
浅野學峯。新進気鋭の政治家にして、元は教育現場において多大な功績を残した才人。現代の偉人と言っても過言ではないという声もよく聞こえる。それは男も同じ思いであった。
浅野は、陳腐な表現をすれば"天才"だった。早急な解決を求められる事件事故の多発、キャパシティオーバーにも程がある人員と時間の不足、各地に分散してしまう人手、終わらぬ作業へ心身の疲弊のケアから自ら現場に立っての指揮に至るまで、常人ではどれ一つ取っても達成できないであろう作業の全てを、彼はマルチタスクの要領でこなし続けていたのだ。
小規模な現場レベルとはいえ人を指揮する立場にある男には、その異常さがよく理解できた。こんなことができてしまう浅野は普通じゃない。最早人間であるのかどうかさえ。
いつもなら尊敬よりも先に恐怖が勝っていただろう。しかし異常事態に直面する今の状況において、彼の存在は何よりも勝る救いの光として男には映った。そして事実、浅野の存在こそが鎌倉の街を崩壊一歩手前の瀬戸際で食いとめていた最大の功労者であったのだ。
浅野學峯は鎌倉の守護神だ。
しかしそんな彼ですら、街を襲う未曽有の災害を前に散ってしまった。
鎌倉市役所が突如謎の大爆発を起こし消滅したという報が入ったのは、つい数分前のことだ。陣頭指揮に当たっていた男は、それを聞いた瞬間に全身の力が虚脱する感覚を覚えた。腰が抜ける、などという現象が実在したことを、男は生まれて初めて自分の体を以て思い知った。
このことはまだ部下たちには伝えていない。伝えたところでどうなるのか。士気を失うだけならいいが、錯乱して暴れまわられては手の施しようもない。そして恐らく、十中八九そうなるであろうと男には予測できた。
絶望に浸るよりは、目の前の任務に集中したほうがよほど救いとなった。
しかし、遂行すべき"人命救助"という任務すら、彼らには達成できそうになかった。
何故か───そもそも生きてる人間が見当たらない。
見渡す限り目の前に広がるのは死体、死体、死体の山。そればかり。焼け焦げて真っ黒になったものから、バラバラになった人体の部品、砕けて赤い粘性の半固形物になった肉塊まで幅広く、そこは死体の展覧会のような有様を晒しているのだった。
遺体の回収どころか、生存者を見つける作業すら追いつきそうにないほどの、大量の死体。鼻を突く死臭は辺りに充満し、嗅覚はとっくの昔に機能を停止している。あまりの凄惨さに耐えきれず嘔吐する隊員の声が、耳に木霊する。
生存者は見つからない。
見つけたとして、果たして自分たちに何ができるというのか。
警察と同じように病院のキャパシティもまたオーバーしているだろう。いや、そもそも病院は午前の段階で既に消し飛ばされていたか? その記憶すら曖昧だ。
絶望と諦観が、心を支配しかける。
隊員たちの悲鳴すら、どこか遠い世界の出来事のようだった。
───地獄とは、きっとこのようなものを言うんだろう。
そんな益体もつかない思考が、脳裏に掠めた。
我ながら笑える冗談だと、心の中だけで男は笑った。
───しかし最も笑うしかなかったのは、この惨状は地獄の前兆ですらなかったという事実を、この後すぐ思い知らされることになるということだった。
▼ ▼ ▼
突然、鎌倉市内全域、街の至るところで、ガラスを掻き鳴らすかのような甲高い音が鳴り響いた。
程なくして、家々の窓に明かりが灯り、街全体が、人々のざわめきに満たされていく。
───信じがたいことだが、これだけの惨状に塗れてもなお、一切の被害を受けていない地域というのもまた存在していた。
地震や台風のように一定範囲全体をくまなく破壊する災害とは違い、鎌倉を襲ったのは散発的な人災だ。数多の爆発・破壊・倒壊・地盤崩落を招いても、網の目を潜るように無傷で済んだ区画は、確かに存在するのだ。
そして、そんな人々は決して少なくはなかったし、彼らは共通して危機感というものが薄かった。直接被災した者とは対照的なまでに。
そんな彼らの多くは、突如鳴り響いた音に何事かと反応を示す。
眠たい目をこすりながら窓を開け、音の発生源を探す者。
外套を着こみながら家を飛び出し、何も起こってないのに気付いて舌打ちをする者。
反応は様々だったが、人々は一様に甲高い音を掻き鳴らす夜空に不審のまなざしを向け、静かに事の成り行きを見守った。
金切音は、始まった時と同じように唐突に途切れた。
人々は安堵の溜息をついた。
だが次の瞬間、人々の見上げる夜空そのものが、鏡を割ったかのように巨大な亀裂を刻み込んだ。
▼ ▼ ▼
街に住まう生存者の全てが、一様に"それ"を見上げた。
文字通りの天変地異が巻き起こってから優に一分。人々の驚愕が徐々に不安に取って代わり始めた頃、それは何の前触れもなく始まった。
月明かりに照らされた亀裂から、小さな何かが這い出るように飛んできた。
街灯に群がる蠅や羽虫を想起するそれは、見る見るうちに満月の白を黒い影で塗りつぶし、本当に昆虫の群れであるかのように爆発的にその数を増していった。
呆然と見上げる人々の前で、黒蠅の群れは規則正しく煽動し、やがて徐々に大きくなっていった。
徐々に輪郭を大きくする黒い影。それが巨大化しているのではなく"近づいている"ということに気付く者が現れ出したのは、一体いつのタイミングであったのか。
あ、と誰かが声を上げた。
次の瞬間、声を上げた誰かは掻き消えるようにその場からいなくなった。
あ、と隣に立つ女が、呆けた声を上げる。
その女もまた、次の瞬間には最初からそこにいなかったかのように掻き消えた。
ばしゃり、と水をぶちまけたような音が響いた。
声もなく事態を見守っていた男は、自分の顔にかかったそれを、手で拭ってみた。
嫌に暖かく、"ぬるり"と滑るそれ。
口の中にも少し入って、口中に鉄の味が広がる。
まさかと一瞬考えて、恐る恐る振り返る。
ふと後ろを見上げてみれば、そこには何かを咀嚼するかのような音と共に、5mくらいの何かが浮遊していた。
寸胴の、節のない瓢箪のような形の、何か。
それは前方の顔の部分にあたる箇所に付いた巨大な口腔で、しきりに何かを咀嚼し、噛み砕いていた。
それが一体何であるのか、見えないはずなのに男には手に取るように分かってしまった。
"何か"の意識が、こちらに向く。
噛み砕く動作をやめて、昆虫のような無機質さで、こちらを見る。
月光を背にしたそれの口元に見えるのは、ピンク色の肉塊。
小さな悲鳴が上がった。
悲鳴は更なる悲鳴の連鎖を生み、瞬く間に辺り一帯へと広がった。
一人の男が、周囲の人間を突き飛ばし、どこかへ走り出した。
突き飛ばされた女は、血相を変えてその後を追った。
どこかへ、ここではない安全などこかへ。
突き飛ばされた子供が、路傍にうずくまって泣き叫ぶ。
タイルの継ぎ目に足を取られた老人が、人の波に踏まれ、蹴られ、襤褸屑のようになって吐き出される。
最早理性を失った人々は、目を血走らせ、先を争って走り出す。
巨大な"何か"は、そんな人の群れに頭を突っ込んで、千切れ飛んだ肉片が辺りに降り注ぐ。
新たな悲鳴が上がる。
"何か"は無造作に口を開き、歯に付着した汚濁を吐き捨てると、再びその照準を人々に向けた。
そして遠く空の上では、数えるのも億劫なほど大量の"何か"たちが、地上を目指して全速力で降下し始めた。
───地獄が、始まった。
最終更新:2019年06月21日 14:43