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【奪われた者】
「……不条理に対する私の怒り」
「身を焦がす怒り。
何にも気付けなかった私と、世界のあらゆるものへの怒り」
「たったひとつだけ残された私のすべて。
無力さと残酷さへの怒り」
「……それが、熱く燃え滾る」
「それだけが私の全身を突き動かす。
ひとつきりの感情。ひとつきりの記憶」
「これこそが私を破滅へと向かわせる。
私以外の全てを破滅へと向かわせる」
「私が私であることのすべて。
私を滾らせ突き動かす衝動の源」
「……私は、考えないようにしている」
「この身を突き動かす激情。それが一体何を意味するのか」
「この嚇怒は、私と私以外のすべてに向けられたもの。
けれどその根源は、一体何であったのか」
「勇者システムの悲劇。神樹が課す勇者たちへの災厄」
「ああ、けれど。私は、誰にその不条理を味わってほしくなかったのだろう」
「……私が忘れているのは、誰?」
◆
───仕留めた。
夜天を飛ぶ鳥馬から五人の人影が墜落し血の花を咲かせる一部始終を見届け、美森は誰ともなしに呟いた。
彼女が"それ"に気付いたのは偶然の産物だった。
地表付近に降り、自分もまたサーヴァントを索敵しようとした時、そう遠くない空の上を何かが飛んでいるのを目撃した。
最初は星屑かと思ったが、注視するとどうにも違う。鳥のような翼があり、星屑のように丸くはなく、そして二つの影が並び飛んでいる。
そのような芸当ができるとすれば、それは聖杯戦争関係者だろう。
仮に無関係な人間や使い魔であろうとも、この街の住人を根こそぎ殲滅する以上は一切の区別なく撃墜するのみ。
どちらにせよ美森の取るべき行動は一つである。
そう判断してからは早かった。
砲台の上よりシロガネを顕現、スコープから瞬時に狙いをつけて引き金を引く。
両腕で構えられた長銃から放たれた一撃は、違うことなく標的に着弾。標的がバラバラに墜落を始める。
視認できた人影は五人、サーヴァントは一人。内二人は制御を失った軌道を描いてビルの向こうへと落下。
あの高さでは助からないと思うが、しかし完全に飛行能力を失った上での墜落ではないため不安が残る。
ビルに遮られて状態を確認できないのも痛いが、サーヴァントが含まれてないため確認の優先順位は低い。
そして残りの三人は、一際眩い光に包まれて地上へと転送された。
恐らく令呪による転移か。初撃で仕留められなかったのは痛いが、しかし射程内から離脱されていないのは好都合。マスターを運び出そうとするサーヴァントを追撃する。
果たして目標のサーヴァントは胸から大量の血液を撒き散らす。明らかな致命傷だ。確かな勝利の感覚が流れ込み、知らず笑みをこぼす。
そしてそのまま残る二人のマスターへと照準を移し、確実に敵手を討滅するために更なる引き金を引こうとした。
その瞬間。
「……まさか」
スコープ越しの視界の彼方、既に死にゆくだけの騎兵の目が、一直線に東郷を射抜いたのだった。
▼ ▼ ▼
【騎士】
「……ヤヤ。当世を生きる輝かしいキミ」
「ボクはヤヤが好き。
綺麗な顔と黒髪が好き。
細いのに柔らかくて、それでいて格好良いところが好き」
「一生懸命なところが好き。
そのくせ努力の痕を隠しちゃう、ちょっと素直じゃないところも好き」
「サーヴァントなんて幽霊じゃないのー、なんて。
そう言ったのに、なんだかんだ手を繋いでくれたキミが好き」
「可愛い子、ヤヤ。
どんな時も強がってみせるキミが好き。
こんな怖いところに引きずり込まれて、
それでも笑顔を失わないキミが好き」
「そう。
だからボクは声に応えた。
今この時代、ボクらが紡いだ明日を生きるキミの声に」
「だから安心して、ヤヤ。
たったひとりのボクのマスター」
「たとえ、何があろうとも。
たとえ、世界が終わっても」
「ボクは、キミを───」
◆
胸の中心を穿った巨大な穴は、どう見ても明らかな致命傷だった。
少なくとも、大量の鮮血をその顔に浴びてそれでも瞼を閉じることもできずに目を見開くヤヤには、そうとしか見えなかった。
「……ら、ライダー……?」
やっとの思いで絞り出した声に答えることなく、
アストルフォは苦悶の表情で左手を地につける。
そしてその姿勢のまま右手だけを振りかぶり、背後の空間を真横に一閃した。
響き渡る、甲高い金属音。
鼓膜を突き刺す鋭い音に、思わず顔を手で庇い、目を瞑る。
恐る恐る瞼を開けば、アストルフォの右手にはいつの間にか現出した黄金の馬上槍が握られていた。
「ライダー、それ……」
「……下がって」
ふらり、と身体を引きずるように立ち上がる。
瀕死の脱力しきった体で、それでも大きく槍を振るい、再度鳴り響く金属音。
そして同時にアストルフォの体が揺れ、飛び散るいくつもの血飛沫。
(……あ、そっか)
ここまで見てようやく、ヤヤは目の前で何が起きているのか、自分たちはどのような状況に置かれているのかを理解した。
───遠距離からの狙撃。
今だけではない、きっとヒポグリフを撃ち落としたのも同じものだ。何処とも知れぬ遠くから自分たちを狙っている狙撃主は、ずっとその殺意をこちらへ向けていたのだ。
そこまで理解が及んだ瞬間、ヤヤの身を襲ったのは純然たる恐怖だった。
炎や雷を操るような、フィクションめいた超常のものではない。
音もなく襲い来る、それは彼女のよく見知った現実的な死の恐怖だ。
故に恐ろしい。なまじ現実の延長として存在する殺害手段であるために、それによって殺される自分の姿が容易に想起できてしまうのだ。
そして、そんな凶弾に倒れるアストルフォのことも。
「……いや」
血だまりに伏せるアストルフォ。
そんな最悪の想像が、頭にこびり付いて離れない。
恐怖と混乱と忌避感とがないまぜになって、考えや言葉が纏まらない。
吐き気と息苦しさに苛まれ、自然と呼吸が荒くなる。思考は熱く沸騰しそうで、それと反比例するかのように肌は冷たく汗ばんでいた。
「ライダー……」
呟く間にも瀬戸際の攻防は継続し、アストルフォは幾重にも迫る死を右手だけで弾き返している。
何かを話す余裕もなく、ヤヤを顧みる余地もなく。
その姿はあまりに悲壮で、鬼気迫って、ヤヤは何も言えなくて。
ぐるぐる、ぐるぐると脳内を駆け巡る一つの言葉。
それは場の状況や文脈など関係なく、ただ一心にヤヤの望む事柄だった。
緊張と恐怖に喉を潰されて、か細い掠れ声しか出なくとも。
それでも、どうしても"そうなってほしい"という、それは少女の心からの願い。
すなわち。
「ライダー───【死なないで】!」
「ぁ……ああッ!」
助けを求める少女の声に。
確かな力強さを伴って、返される叫びがひとつ。
思いは今、力となって湧き上がり、両の脚で大地を踏みしめる。
呆然と顔を上げるヤヤの前に、その背中は真っ直ぐ立ちふさがって。
「任せろ。ボクは───キミを守る、英雄だ!」
黄金槍を旋回させ、アストルフォは一挙動に地を蹴った。
◆
死にかけた体が力を取り戻す。
血に塗れた四肢を伸ばし、アストルフォは一陣の颶風と化して跳ねあがった。
大気を切り裂く銃弾を打ち払い、一気に狙撃主との距離を詰める。
死に体となった彼が復活した理由は至って単純、ヤヤに刻まれた絶対命令行使権───令呪の恩恵である。
単なる命令の強制のみならず、宿る莫大量の魔力はサーヴァントの行動を強化したり、純粋魔力に変換して駆動燃料とすることもできる。回数制限こそあれど文字通り「万能」の補助手段だ。
恐らくヤヤは意図して使用したわけではあるまい。無意識によるものか、あるいは強い願いに呼応したか。
ともあれ一画の令呪に込められた魔力は、アストルフォに再びの戦闘に耐え得るだけの活力を与えた。この状況を構築した理屈はそれだけのことである。
「行くぞ、姿を見せない卑怯者め!」
射線は変わらず。つまり間に存在するアストルフォが倒れなければ、背後にいる二人の少女が死に瀕することもない。
説得は不可能。この距離では声が届かないし、こちらに届くものは銃弾以外には殺意しかない。
姿さえ見えない狙撃主の狙いはこの場にいる全員の皆殺し。自分たちが生き残るには相手を打倒する他にない。
何故なら───
「ライダー、逃げるわよ! 【令呪を───」
「駄目だマスター! それじゃ"そもそも逃げ切れない"!」
我を取り戻し叫ぶヤヤに、負けじと叫び返して令呪の行使を制止する。
二度に渡る実践で、彼女のマスター適性の程は白日のもとに晒された。
つまりは落第。
笹目ヤヤは聖杯戦争のマスターとしてこれ以上ないハズレである。
それは最初から分かっていたことだ。魔術師どころか伝承保菌者や先祖返りの魔術回路を持つわけでもなく、真実ただの一般人であるヤヤにまともな魔力などあるはずもない。
アストルフォ自体が大して強力な英霊ではなく負担が少なかったこと、単独行動のスキルにより消費が抑制されたことにより、今までは何とかやりくりすることができていたが。
しかしそれにも限度がある。アストルフォ自身の継戦能力の問題ではない、ヤヤの持つ令呪の効力についてだ。
令呪とは宿主の魔力回路と一体化することで命令権として成立する代物である。術者の魔力に相応して効力は強まり、より強大な魔術師であるほどその強制力は絶大なものとなる。
故に当然、ヤヤの行使する令呪の力は極めて弱い。
それでも切り札と呼ぶに相応しい力は持ち合わせるが、単純に出力が弱いのだ。例えば一画目の令呪、逃走と着地を補助する命令を仮に一般的な魔術師が使っていたなら、直下の地面ではなく自分の望む地点への移動を果たしていただろうし、アティが気絶するほどの衝撃も伴わなかったはずだ。
故に三画目を逃走に使ったとして、大した距離は稼げまい。狙撃主の射程距離から抜け出せないか、抜け出せたとしてもすぐに追いつかれる。最早余力もなくヒポグリフもまともに召喚できず、更に気絶したアティまで抱えてとなれば当然の話だ。
さらに付け加えるとすれば、今ここで自分が戦闘を放棄した場合、狙撃主の矛先は未だ姿の見えぬ
すばるたちに向く可能性が高い。彼女らが無事に着陸していたとして、一部始終を目撃した狙撃主がその着地ポイントを見逃しているわけがない。サーヴァントのいないすばるたちでは、狙われた場合一たまりもないのだ。
この場でアストルフォが迷わず迎撃を選択した理由はその二つである。どのみちここで敵手を倒さねば自分たちに未来はない。ならば少しでも可能性の高い選択をと、そう考えて彼は死地へと飛び込んだ。
「─────────」
そして無論のこと、相手もそれを承知で攻撃を重ねている。
逃走の気配を見せず、遠距離の攻撃もなく、ならば多少は抵抗されようともここで仕留めるのが最良。
銃撃音の間隔は次第に狭まり、辛うじて捌くアストルフォの足はいつしかその勢いを失い、一箇所に釘づけにされているのだった。
───肩を狙った弾丸に、左腕が後ろに弾ける。
───右脚を掠った銃傷に、膝が折れかかり体勢が崩れる。
───脇腹を抉る傷から、大量の血が噴き出して止まらない。
一歩を進むごとにそれに倍する傷が体を覆って、もう見ていられずにヤヤが叫ぶ。
「ライダーッ!」
「心配、いらないさ……!」
唸るようなアストルフォの声。しかし彼が劣勢に陥っているのは素人目にも明らかだった。
狙撃主はアストルフォではなく、背後のヤヤたちを狙っている。細かな狙撃ポイントの変更も相まって、対応するアストルフォは完全に後手に回らざるを得ない。
微力ながらも機能する直感と、類稀なる幸運とが合わさって拮抗状態に持ち込んではいるが、それも時間の問題だ。
時が経つにつれ、こちらは不利な状況に立たされる。
生き残るためには勝たねばならない。けれど、勝ちに行くことができない。
敵の正体が不明瞭な以上、相手の魔力切れを狙うのは愚策。そもそも魔力量の少ないヤヤのほうが先にへばりかねない。
相対距離は約300m。サーヴァントたるアストルフォなら数瞬で駆け抜けられる距離だ。しかし今はその僅かが何よりも遠い。
今ここに立つ自分、アストルフォの両肩に少女の命が懸かっている。
その重要性を熟知しているからこそ、揮う槍はあまりに重く、重圧がのしかかってくるけれど。
「言ったろ、ボクはキミの英雄だって」
笑う。できるだけ不敵に、余裕綽々だと見えるように。
この程度の逆境がどうしたと。ヤヤが心配することのないように。
「ボクを誰だと思ってる。シャルルマーニュ十二勇士がひとりアストルフォ! 世界の果ても月世界も踏破した、騎士にして英雄だ!
このくらいどうってことない、ボクはともかくボクの経験した修羅場の数を甘く見るなよ!」
次第に激しさを増していく銃弾の反響音に、無数の火花を散らせながらアストルフォは吠え猛る。
正面より襲い来る数百の死の弾丸を前にして、それでも心は折れることなく。
その全てを、彼は防げているわけではない。頭部や胴体、関節に利き手───そうした重要な箇所を除けば、もう彼の体はボロボロだ。全身は血で濡れ、痛みは脳内でスパークしてまともな感覚など残っていやしない。
それでも、彼は止まらない。
一歩、また一歩。その歩みは遅々として、けれど一瞬足りとて止まることはなく。
近づいている。敵手へと、勝利へと。その歩みは不撓不屈のものとして。
「──────ッ!」
殺意の源たる敵手から、息を呑むような気配が伝わる。
しかしそれを何より驚いているのは、他ならぬ狙撃主本人。
なんだこれは、理解不能。私の身体が震えている?
引き金を引く指先を統制できない。額からひと筋の汗が流れ、静寂にあるはずの鼓動が耳元で煩く高鳴っている。
まさか、まさかあり得ぬ不可思議───願いに全てを捧げたこの身が、恐怖に逃げようとしているなどと。
───認めない。我は修羅に身を窶した勇者なり。
何人だろうと何があろうと、この想いだけは譲らないし覆させない。
絶望を、絶望を絶望を───勇者たちの悲嘆と共に断崖の果てを知るがいい。
故に。
「倒れろ、サーヴァント……!」
未だ"最初の傷さえも完治していない"手負い風情、恐れることなど何もないのだと。
我知らず逸った指先が更なる熱量を投下し、その弾幕は激しさを増すけれど。
「……倒れるもんか」
そんな敵手の思考を読み取って、なおも笑みを口許に浮かべる。
倒れるものか。この身は所詮弱兵なれど、敗北は決して許されていない。
死んでも勝利せよ、と。
たとえ我が身が滅びても、眼前の敵に必ず勝利せよ、と。
その覚悟さえ持たないで、一体何が英雄か。
「一瞬だけでいい、この戦いが終わるまで───
絶対、倒れてなんかやるものか!」
英雄は覚悟を叫び。
勇者は恐怖を知った。
だから、"それ"が来るのは至極当然だったのだろう。
「……え?」
夜闇に沈む視界の中、辺りを照らすほどに眩い巨大な光。
三人を呑みこんで余りある膨大な光条が奔流となって、アストルフォたちへと殺到した。
◆
「ライダー……」
彼の叫びが聞こえる。
彼の悲痛な声が分かる。
「なんでよ……」
我知らず声が漏れる。
それはヤヤの思う、紛うことなき本音。
もういい、もう逃げよう。だってこんなの勝ち目がない。立ち向かったって死ぬだけじゃない。
そんなに格好つけないでよ。無様でも見苦しくても格好悪くても、アンタが傷つくところなんて見たいわけないじゃない。
傷ついて。
ボロボロになって。
なのに自分はつらくないよって、アンタは笑うばっかりで。
ズルい、卑怯だ。私だってアンタのマスターなのに。
結局、全部アンタに背負わせちゃって。
「なんで、アンタはそこまで頑張るのよ」
自分のような木っ端のマスターなど放っておけばいい。
死のうが生きようがどうでもいいし、本当はそうするのが一番頭のいい選択だ。
なのにアイツは軽薄に笑って、いつも私を助けてくれる。
あの時もそうだった。
赤いアーチャーに襲われて、勝ち目のない戦いに少しも迷わずに突っ込んで。
「バカよ。本当に、バカ……」
本当は逃げたいのに。
今すぐここから逃げ出したくて、ライダーにも逃げようって言いたいのに。
でもそんなこと言えない。こんな自分を守るために命を懸けて戦ってくれてる、あの後ろ姿を裏切るなんてできない。
だから、私は……
「……勝って」
私は。
───私は、アンタを。
「【絶対に勝ちなさい】! ライダー!!」
勝敗はもう分かり切ってる、奇跡でも起きない限りどうにもならない。
そんなことは分かっている。けど、けど!
たとえどんなに無様で、見苦しくて、格好悪くても。
こんなに強くて格好良いアンタを、私は勝たせてやりたい!
だから!
「──────応ッ!!」
───そう。
相性や時の運など容易に消し飛ばす圧倒的な実力差を前に、勝敗は既に決定されたも同然でありそれが覆ることなどありえない。
為し得るとすればそれは奇跡くらいだが、奇跡とは平時では起こらぬからこそ奇跡と呼ばれる。
故に、彼らの敗北は決定事項であるのだと。
「真名解放、魔術万能攻略書───いいや!」
だが。
だが、奇跡とは。
「───破却宣言!」
───奇跡とは。
───本来このような時に起こるからこそ、奇跡と呼ばれるのではなかったか?
「そんな、嘘でしょ……!?」
信じがたい光景を前に、美森は思わず驚愕の声が漏らす。
舞い散る無数の紙片が標的たちを覆い、敵を殲滅するはずだった光の洪水の悉くを受け止め、押し流していた。
それはまるで、彼らを守る盾であるかのように。
砕かれてもなお押し寄せる、光を阻む壁として。
美森の持つ最大火力、満開の放つ極大の破壊光にさえ耐えていた。
「おおおおおおおおおォォォォオオオオオオオオオオオオオオオっ!!!」
猛るアストルフォの右手からは既に槍は消え失せ、代わりに古びた書物が携えられていた。
それが一体何であるのか。美森には推察することもできないしするつもりもない。
やるべきことは、変わらずただひとつ。
例え敵が何を繰り出そうとも、今ここで叩き潰すというその一念だった。
「……死ね」
ぽつり、漏らされる怨嗟の声。
「死ね、死ね、死ね!
いい加減に死んでよ、私の手を煩わせないで!」
次瞬、破壊光を放出する砲台の出力が爆発的に増大する。
威力を増す光条、爆散する着弾点。しかし光の向こうに見える敵手の姿は健在で、その事実が美森の神経を逆撫でる。
「私の"願い"を、邪魔しないで───!」
願いを叫ぶ彼女の祈りは、物理的な破壊力として地を削り、遍く敵を撃ち滅ぼそうとするけれど。
「負ける、もんか!」
それでも。
それでも、前へと掲げられる彼の手を、沈ませることはできない。
絶望も、失意も、諦観も、一切を知らぬままに希望へと伸ばされた彼の腕。
それは卵の殻を破らんとする生命の荒々しい脈動であるかのように。
進む。進んでいく。
巨大な、膨れ上がり続ける光の中へと。
一切を恐れることもなく、一切を諦めることもなく。
ただ、勝利のために。
ただ、主を守るために。
彼の右手は、前へと伸ばされる!
「言ったはずだ! ボクは主命を果たす騎士、マスターを守る英雄だと!
この光景の彼方で今もボクを見据えるか狙撃主、勝利者めいてボクらを嘲笑うか反英雄!
お前がいくら絶望たる暴威を揮おうとも、その思惑だけは叶わない!
諦めろ、ボクに諦めさせるというその徒労を!」
光と紙片が拮抗する。
世界は今二分され、輝く洪水とそれを阻む盾とで分かたれる。
轟音は最早震わせる大気すら消し飛ばして、臨界点を超越した凪が如き静寂を保つばかり。
永遠とも思えるような一瞬、されどその光景にも終わりは訪れて。
「……届いた!」
戦いが始まって以来、一瞬足りとて止めることのなかった歩み。
未だ狙撃主との距離が開けられているにも関わらず、騎兵の顔には微塵の敗北感も浮かんではいない。
彼は確かに目的を成し遂げた。だが。
同時に、彼の口から大量の血液が溢れ出る。
「が、は……!」
アストルフォの肉体は限界だった。
二画の令呪による補助があれど、度重なる魔力の消費に無数の銃創、失った血液に完治せぬ致命傷、彼を地に伏せさせるだけの要素は数多く存在した。
それでも倒れなかったのは単に意思の力あってこそだ。既に半ばまで死に絶えた肉体を、それでも尚と駆動させる眩いまでの意志の輝き。
だが、それも限界を迎えた。
口も目も鼻も耳も、顔中の穴という穴から鮮血が噴き出す。膝は崩れかけ、前のめりに体が傾ぐ。
───ああ、やっぱりボクは弱いな。
右腕が力を失う。
古書が、ゆっくりと手から滑り落ちていく。
力は尽きた───このままでは死んでしまう。
やり過ごしたとて自分を失ったマスターはこれからどうなる───戦の道理を分からぬほど、自分は馬鹿ではない。
ああ分かっている。自分が最早助かる身ではないことは。
ボクは負けて死ぬ。
ボクは、出来損ないの英霊だ。
───だけど
「ボクは……!」
それでもボクは───
「マスターを絶対死なせやしない!」
それでもボクは、彼女を守れる騎士でありたい。
「ヒポグリフ! 誇り高き我が愛馬、駿足なりし無二の戦友よ!
キミにも騎士の誓いがあるならば、一度でいい。今この時だけ立ち上がってくれ!」
右腕が力を取り戻し、破却宣言を強く握る。
今一度奔流を弾き返し、あらん限りの声で叫ぶ。
見据えるは狙撃主、込めるは魔力。
過剰な力の放出に耐えきれず内側から崩壊していくが気にしない。
アストルフォは血の涙を振りまいて、それでも尚と手を伸ばす。
「あれこそ我らが最期の敵、無辜の民を殺さんとする非道卑劣の射手なれば!
走れ、疾れ! 見敵を必殺しろ!
少女の生きる道を切り拓くために───どこまでも、駆け抜けろぉぉぉぉおおおおおおおおおおお!!」
今や死に体となり、何の力も残っていないはずの肉体。
ついには、その全身は溢れんばかりの光を放ち、現出するはこの世ならざる幻馬。
彼の持つ真の力、それこそが「次元跳躍」。世界の裏側へと跳躍し、あらゆる観測とあらゆる干渉を免れ、全力の解放を以て致命の一撃と為す。
その威力、Aランクの攻性宝具の一撃にすら達するものなれば、如何な回避も防御も無意味と堕する。
目視しての超高速回避───無意味。
盾を張り撃ち落とす防御───無意味。
故に、視界の彼方で防御姿勢を取らんとする敵手の姿。今や遅きに失している。
彼が今まで歩みを進めていたのはこのためだった。
レンジ、すなわち有効射程距離。ヒポグリフの一撃を見舞うには、最初の位置はあまりに遠すぎたから。
世界の果てまでをも駆け抜ける相棒、その後ろ姿を見て、アストルフォは束の間笑みをこぼす。
───これでボクの役目は終わりだ。あとは……
全ての力を使い果たし、後ろ向きに倒れる刹那。彼は背後の少女を見て。
───キミは、どうか……
あらゆる音が、そこで途絶えた。
▼ ▼ ▼
【道化の仮面】
「───破却宣言とは」
「シャルルマーニュ十二勇士がひとり、アストルフォが保有する宝具のひとつ」
「さる魔女から譲り受けた、全ての魔術を打ち破る手段が記載されている書物」
「遍く魔術を破却する機能が備えられ、ただ所有しているだけでもAランクの対魔力に相当する対魔術防壁を取得可能」
「しかしその真価は真名を解放した際に発揮される【可能性の発露】にある」
「古書からは対魔術に特化したあらゆる打開の可能性が引き出され、舞い散る紙片が通常時を遥かに超える防壁を展開する」
「その効力は凄まじく、固有結界かそれに極めて近い大魔術ですら破却の可能性を掴めるという」
「ただしアストルフォは普段、この宝具の真名を忘却している。蒸発した理性が狂気となって、記憶の想起を妨げているからだ」
「彼の狂気の源泉となる月が隠れる夜、すなわち新月の晩にのみ、彼はこの宝具の真の力を扱えるようになる」
「繰り返す」
「新月の晩にしか、真名を解放することはできない」
◆
「ライダー!」
悲痛な叫びが辺りに木霊した。
それがヤヤの叫んだものなのだと、アストルフォは認識するまで数瞬の時間を必要とした。
「……やあ……無事みたいだね、マスター……。
どう、怪我とか……ない、かい?」
「なに、言ってんのよ……」
どしゃり、という音が聞こえた。崩れるように膝をつき、ヤヤはアストルフォの手を取る。
「みんな無事よ。私もアティさんも、掠り傷ひとつだってないんだから」
「……そっかぁ。良かった、ボクは今度こそやり遂げられたんだな」
彼の声は、酷く穏やかなもので。
怒りも悲しみも憎しみも、あるいは痛みや不快感めいたものすら感じることができなかった。
「ボクは……ちょっと、限界っぽいけど。
まあボクにしては、結構頑張ったんじゃない、かな……」
言葉が掠れる。思うように声が出ない。
あれだけ燃え滾っていた命の炎が、もう何の熱も感じられない。
血潮は流れきって指先から冷たくなっていくし、痛みはとうに限界を突破して感覚は喪失し。
そんな、もう死ぬしかないような状態になっても、およそ負の感情らしきものは微塵も浮かばずに。
だから。
「……なんでよ」
ぽつり、と呟かれる。
「なんで……」
それは、絞り出されるような。
か細く、慟哭のような響きを持って。
「なんで、笑ってるのよ、ライダー……!」
あるいは縋りつくように。
ヤヤは、そんなことを叫んでいた。
「……」
「なんでよ、なんで笑ってられるのよ……!
アンタ死ぬのよ、消えちゃうのよ! そんなに傷ついて、ボロボロで、すっごく痛くて苦しくて、なのにアンタは何ももらってないじゃない!
報われて、ないじゃない……叶えたい願いだって、あるって言ってたのに……」
ヤヤの手が震える。
アストルフォの手を取って、今にも消えゆくそれを両手で包んで。
叫んだ。
「なんで、そんなに嬉しそうなのよぉ……!」
アストルフォは、ぽかん、とした表情で。
次いで、ああなんだそんなことか、なんて顔をして。
「悲しいよりも嬉しいからさ。笑う理由なんて他にない」
何でもないことのように。
あくまで軽く、そんなことを言ってのけた。
「報われないって、勝手に決めないでよ……そりゃボクにだって願いはあったけどさ……。
それでも、ボクはライダーである前にアストルフォだ。サーヴァントである前に……英雄だ。
だからボクは、キミを助けた……理由も報酬も、それで十分じゃない……?」
得られずとも救いはあった。
今ここに当世を生きる少女たちがいる。
それだけで、報われることもあるのだと、この小さな騎士は言っていた。
「そんなの、詭弁じゃない……。
だって、私は……私は、アンタに何も……」
「してもらった。ボクは、返しきれないほど、キミにたくさんのものを貰った。
暖かくて、眩しくて……そんなものを、たくさん……」
だから、と続ける。
「泣くな、ヤヤ。出会いがある以上ボクらは別れて死ななきゃならない。
それは必然だ。ボクたちが出会った時から決められている事柄だ」
サーヴァントを召喚し、聖杯戦争に挑んだ時から。
いいや。笹目ヤヤが鎌倉に生を受け、アストルフォが中世フランスに生を受けたその瞬間から。
それは定められていた。生きとし生ける者すべて、出会いと別れから逃れることはできない。
「だから泣くな。別れはいつも悲しさを運んでくるけれど……」
ヤヤの手を握り、安心させるようにほころんで。
「笑ってくれると、その悲しさが、少しだけ和らぐんだ」
その言葉に、ヤヤは一体何を返せただろう。
あるいは彼の言うように、笑顔を返せたら良かったのだろうけど。
出てくるものは嗚咽ばかりで、今にも泣き叫びたい衝動を抑えるのに精いっぱいだった。
「キミもそう思うだろ?
ねえ、アーチャー……」
「ああ、そうかもしれないな」
だからこの時まで、ヤヤはその影に気付けなかった。
虚ろに振り返る視線の先、そこには今までいなかったはずの男が、月を背に立っていた。
手には眠るアティを抱きかかえ、顔は陰になってよく見えず。
けれどそれが、自分たちのよく見知ったアーチャーであると、何となく察することができた。
「アーチャー、ボクはさ……ようやく、ようやく気付けたんだ。
使えたんだよ。本当は無理なはずなのに……」
「……」
「空恐ろしいくらい、頭が冴えてさ……。
蒸発なんてしてなかった、ここは最初から暗夜だった……今もボクらを見下ろしている、あの月は……」
「ああ、分かっている」
アーチャーは歩み寄り、ヤヤとは反対側に片膝をついて、アストルフォの手を取った。
力強く、安心させるように。もう心配はいらないとでも言うかのように。
「お前の献身を無駄にはしない。その気づきも、虚構が虚構たる事実も、一切は私が引き継ごう」
「……うん、ありがとう。それと、最後にもう一つだけ、お願いしてもいいかな……?」
「笹目ヤヤのことか」
名を呼ばれ、ヤヤはぼんやりと顔を上げてしまう。
アストルフォは無言で頷き、言葉を続けた。
「彼女はさ、普通の子なんだ……どこにでもいる、普通の……英霊(ぼくたち)が愛した無辜の民だ……。
だから、お願いだ。どうかヤヤを、元の日常に帰してやってくれ……!」
「それが、お前の最後の"願い"だというならば」
更に強く、その手を握り返して。
「請け負った。必ず、私がそれを果たしてみせよう」
「……良かった。これでもう、思い残すことはないや」
目の前が、とうとう暗闇に包まれる。
もう、なにもわからない。
なにも感じない。
「バカよ。アンタは、本当にバカ……」
ヤヤの声は震えていた。
抑えようのない悲しみが、そこにはあった。
「でも、そんなの最初から分かってたことだったのよね。
そんなアンタと一緒だから、私は今まで頑張ってこれた」
掠れる視界の中で、少女の黒髪が揺れた。
ぽたり、ぽたりと何かが顔に当たって、熱い。
涙。
そんな言葉が、アストルフォの心に浮かんだ。
そして。
「アンタが私のサーヴァントで、本当に良かった……」
笑顔。
もうほとんど残されていない視力で、彼は確かにそれを見た。
その笑顔も、流れ落ちる熱い雫も、そのどちらもが本当だった。
「……ボクは涙が嫌いだ。キミをそんな顔にさせたくなかった。
だけど、それでも……」
力も感覚も残されていない手を、それでも必死に持ち上げる。
少女の頬へ。熱いものが零れ落ちるその目元へ。
そっと、指先で拭うように。
「それでも、今、キミの頬に流れる涙を。
ボクは、嬉しく思う」
泣き笑う少女に向けて、彼はいつもの笑みを返す。
果たして、それはちゃんと届いたのだろうか。
それを確認する時間は、もう残されていないけれど。
「それじゃあ、赤バラさん。みんなが待ってるから、先に行くよ」
意識が闇に沈むその間際、彼は確かな感慨を伴って。
「ヤヤ。死者の分まで、どうか幸せにね」
それが、本当に、最後の最期だった。
アストルフォと呼ばれた小さな騎士は、二人の友人に看取られて、この世界から消滅した。
【ライダー(アストルフォ)@Fate/Apocrypha 消滅】
◆
ヤヤはじっと目を閉じ、目を開け、立ち上がった。
涙が際限なく溢れそうになるのを、必死にこらえた。
しっかりしろ、と自分を叱咤する。
まだ自分がやらねばならないことがあると、ヤヤは知っていた。
向かい側で、アーチャーがゆっくりと立ち上がる。
ヤヤは一歩下がって、向き直り、真っ直ぐ彼と向かい合った。
「ごめんなさい、私は……」
「いや、君が謝る必要はない」
静かな声で、ストラウスはそう返す。
「私はただ、彼の遺志を尊重するのみだ。
これから先、例え何があろうとも。君を必ず君の居場所へと送り返す」
「……うん、ありが───」
「だから」
ありがとう、と言おうとして。
その瞬間、周囲の空気が変質していることに、ヤヤはようやく思い至った。
「な、なに……?」
言い知れない悪寒が、全身を包んだ。
それは今まで感じてきた殺意であるとか悪意であるとか、そういうのとは全く違うはずなのに。
何故か、嫌な予感が止まらない。
「もう終わりにしよう。できることならば、少しでも長く"君"という個我を保っていて欲しかったが」
「───ッ」
「けれど、それも欺瞞でしかなかったのだな。無事に帰還させるには、最初からこうするより他なかったのだから」
身体が凍り付いて、言葉が出なかった。
ゆっくりと近づいてくるストラウス。その歩みに、ヤヤは何の抵抗もすることができずに。
「君の名は、笹目ヤヤ」
ただ黙って、その言葉を。
「"ではない"」
ただ、受け入れて。
「本当の君はなんだ?
君の本当のカタチは君しか知らない。
誰も君のカタチを縛ってなどいない」
言葉の意味も理解できずに。
滾々と耳に染み入って。
いいや、いいや、そうではない。
分かっていたのだ。最初から分かりきったことだったのだ。
私たちは最初から、全てがそういう存在で。
あるいは、全てが幻なのかもしれなくて。
見たいものだけを見て、信じたいように信じて。
今まで目を背けていた、これこそが真実であるというのなら。
私は、きっと───
「変われ」
───けれど。
───けれど、もしもこの身が夢ならば。
最終更新:2019年06月21日 22:06