例題です。
いいえ、是は御伽噺です。
ただの御伽噺です。
現実であるはずがありません。
……………………。
世界の果て。
世界の果ての彼方にて。漂う、ひとつの意識の残滓があったとする。
それは《世界の敵》ともなり得た少年だ。
消え去るべき幻想として在りながら、生まれ得ぬ可能性たちと共に世界に留まり、自らの導を探し求めた愚者だ。
何をも為せない愚者だ。
それはあるいは、少女を守ることもできただろう。
だが、残せたのはほんの一欠片の力だけだ。
果たして、あれだけで守れたかどうか。
"それ"には、彼には、自信がない。
最早知り得る手段もない。
世界の外に、彼はいた。
世界の果て。嘆きの壁の向こう側に。
現世界において存在する場所のすべてを奪われた彼は、
冥漠回廊を循環することも叶わず、純粋空間の崩壊と共に世界に弾きだされていた。
そして。
今、まさに消えゆく……
その意識に満ちるのは、なにか。
その意識の果てにあるものは、なにか。
けれど、それを確かめる術はどこにもない。
これはあくまで御伽噺。決して現実には存在し得ぬ虚構でしかないのだから。
彼はただ消えゆくのみ。
けれど。
けれど、もしも、あなたが───
▼ ▼ ▼
【青空の詩編:Chapter.1】
「───」
「……また」
「また、ここに来たのかい?」
「ここは……」
「……」
「えーと、そうだな」
「君の名前を、教えてくれないか?」
「……」
「そう。
そうだったね」
「うん、白々しいと思われるかもしれないけどさ」
「君にとっては、あまり意味のないことだけど。
僕たちにとっては、とても意味のあることだから」
「これでも、ずっと待っていたんだ」
「ずっと」
「ずっと、僕たちは」
「完膚なきまでに否定されることも、
大空を見上げることもできたけど」
「それでも君の隣にいたいって、そう思ったんだ」
「……君はどうなんだろうね」
「そういう気持ち。受け入れて欲しいとは言わないけど、
それでも、僕が抱くことを許してくれるなら、とても嬉しい」
「だから、今は」
「アルトタスの心の声の世界でもなく、
廃神として望まれた役割からでもなく」
「僕の意思からでもなく」
「君の、意思で───」
「…………。
……なんて」
「言ってみただけだよ」
▼ ▼ ▼
ひとまず、この少女を落ち着ける場所まで運ぶことにした。
脇から腕を差し込み、体勢を整え腰に乗せ、一気に立ち上がる。
気を失った少女をおんぶして、
結城友奈は辺りを見回した。
「……ぅ」
お腹に力を込めたせいか、意図せず漏れる呻き声。
背に負ぶった少女を落とさないよう気を付けながら、目の前にある廃墟へと足を向ける。
かつては綺麗な白に塗られていただろう壁面は、いたる所で塗装が剥がれ落ち、足元には『■■植物園へようこそ!』と掠れた文字で書かれた看板が、錆に塗れて転がっている。
入口は今にも崩れてきそうで危ないが、それでも外にいるよりはマシだ。今は小康状態に落ち着いているけど、いつまたバーテックスが襲ってくるか分からない。
少しでも身を隠せる場所へ、少しでも急場を凌げる場所へ。
灯りもなく暗い通路を進むこと数分と少し。
友奈たちは、開けた場所に辿りついた。
「……」
そこは、巨大なドームの内部だった。
陽射しを入れるためのガラス張りの天井は無残に砕けている。まるで割れた卵の殻を、内側から見上げているかのようだった。
罅割れ軋むコンクリ壁に、足元に落ちた大量のガラス片。元々は植物園だったというのに、今はもう草木の緑はひとつも見当たらない。
そこは、かつてあった楽園の残骸だった。
こんな自分が迷いこむにはお似合いだな、なんてことを思った。
「……」
近くに未だ無事なままのベンチを見つけた友奈は、負ぶった少女をゆっくりと寝かせた。そして自分もその隣に、ちょこんと遠慮がちに腰かける。
静寂が広がった。
友奈も少女も、誰も声を出さない。鎌倉の街に今も広がる戦火の音も、今はどこか遠い世界のように感じた。
そして。
そして、友奈は少女を見つめて。
「だい、じょうぶ……かな……」
それは恐らく、友奈が喪失者となってから発した、初めての意味ある言葉だった。
伏せる少女を見下ろし、その髪を静かな手つきで撫ぜる。その寝顔は穏やかなもので、少なくとも命に関わる状態ではないことだけが分かった。
自分がこの少女を助けようと思ったのは、なんでだろうか。
あの出来事があって、すべてを失って、もう自分は何もできないのだと思っていた。
外の世界があまりにも遠かった。現実に絶望した自分は内罰することだけに夢中で、外界に目を向けようとはしなかった。
だから、そんな自分を誰が殺そうがどうしようが構わないと、そう思っていた。
はっ、と我に返ったのは、ついさっきのことだ。
全身に強い衝撃が走って、気が付いてみたら目の前にこの少女が倒れていた。見たことのない、今の自分よりほんの少しだけ年下に見える女の子。
自分が救えなかった、あの少女と同じ年頃の子。
そう考えたら、居ても立ってもいられなくなった。
「わたし、この子を……」
助けられたのかな、と呟く。
気を失い完全に力の抜けた人体というのは、見た目以上に重い。
そもそも人体が運搬に全く適していない構造をしているのに加え、手足がてんでばらばらに動くからバランスを取りずらいし落ちやすいのだ。
ともあれ、今回は東郷さんのお手伝いや介護施設でのボランティアの経験が活きたな、と思う。
まさか英霊になった後にまで、そんな経験が役に立つとは思ってもみなかったけど。
「……えいれい。
……ゆうしゃ……か」
英霊。
英雄。
つまるところ、勇者。
自分で言っておいて、なんだか虚しくなってくる。
勇者。勇気ある者。人々のためになることを勇んで実行する者。
かつて自分が憧れた存在や、勇者部で共に活動した友人たちは、確かにその通りの人たちだった。
うぬぼれかもしれないけど、その時の自分もまた、そういう存在であれたのなら嬉しい。
けど今は?
こんなにも無様で、こんなにも何もできなくて。
ばかりか、悪戯に誰かの死を煽った、今の自分は。
果たして、そう呼ばれるに相応しい存在であるのか。
───そんなわけがない。勇者などと、笑わせる。
───
結城友奈は勇者ではない。そんなことはとっくに分かっているはずだろう。
「……」
心の中に木霊する声を否定できないまま、友奈は空を見上げた。
今は穏やかな夜空だった。つい先ほどまで、牢獄のような白い格子が走ったり、この世の終わりみたいな赤い空が現れたりして、それを見るたびに少女をおぶる友奈は強い恐怖に駆られたけど。
それでも今は、綺麗な星空が満天下に広がっていた。まるで聖杯戦争なんて、最初からこの街には無かったように思えてならないほどに。
それは、涙が出るくらいに遠くて、澄み切った空だった。
けれど友奈は知っている。
いくら現在が穏やかな夜の帳に覆われていようとも、起きた事実は覆せない。
多くの者が戦った。多くの者が命を懸けた。
そしてその果てに、聖杯戦争の参加者もそれ以外も、本当に多くの人間がその命を散らした。
自分のマスターもそうだった。
いや、彼女は命を散らせる側か。
どちらにせよ、もう取り返しのつかないことだった。
マスターは死に、マスターが殺した者も死に、今はその死が厳然たる数字と共に目の前に横たわっている。
それは言い訳のできない事実だった。
結城友奈の行動で、多くの人間が死んでいった。
けれど、けれど。
「それでも……」
それでも、この手に届く誰かを助けたいのだと。
そう思う気持ちは、間違っているのだろうか。
───ああ、なんて恥知らず。今さらそんなことを言うなんて。
───そんな資格あるはずがない。本気で言っているのなら、馬鹿を通り越して人の尊厳に対する冒涜だ。
ああ、きっとその通りなのだと思う。最初から何もかも間違っていた自分には、贖罪すら許されない。
そんなことは分かっている。けど、それでも……
「……え?」
ふと。
何か音が聞こえた。それは誰かが走ってくるかのような、ジャンプするかのような。
それは植物園の外から聞こえて、次いで壁面に降り立つように。
割れたガラス天井の縁、僅かな面積を足掛かりにして。
そこに、立っていたのは……
「あなた、は……」
「うそ、まさか……」
月光を真後ろに浴びるその黒髪も。
今は憂いを帯びた、本当は優しげな眼差しも。
かつて見た青空のような、綺麗な青色の勇者服も。
忘れるはずがない。その姿は、友奈の一番大切だった親友のもので。
「東郷、さん……?」
この日、この瞬間。
此度の聖杯戦争において最も多くの人命を奪った二人が、出会うべくして出会った。
二人を観測するは、夜の静けさと満月の輝きのみ。
───ああ。それと。
───小さな紫色の花が一輪だけ、足元に咲いていただろうか。
▼ ▼ ▼
【青空の詩編:Chapter.2】
「日常的でありふれた、意味のない会話」
「僕はそういうものに憧憬を抱く」
「今日の空の色とか。
イチゴ牛乳の味とか。
ラベンダーの香りとか。
その日限りの刹那的な、どうでもいい話題」
「そこに表れるのは、
共通の認識を持って無意識下で繋がったままの、人の精神」
「その繋がりを強く感じていられるから、
誰かと話をすることは好きだよ」
「反発したり、
糾弾されたり、
髪を結ってもらったり、
土をいじってみたり、
傷つけあったり」
「そうやって僕は、可能性と思索の無機質さのなかで、
生きている青さに触れていたかった」
「僕は、生きている青さを縛ろうとは思ってはなかった」
「だから引き出したくて……」
「……」
「人間ってものは、目的を達成するためには手段を選ばない生き物だけど。
それ以上に不合理に囚われてしまう生き物でもある」
「人の青さは不合理のなかにしか表れてくれない」
「知能と知性と理性。
感情と感性。
思考と思想と悟性。
意識と認識」
「スペキュレイティヴなロマンスと、
花と蝶々と楽園と、
煩雑な想いと言動と、
10KB以下の思考領域。
ほしのそらとはれもよう」
「僕達にあるのはこれだけ」
「でも、君の記憶があるから、僕達は瞬間ごとの断面に自我を現し、不合理に囚われることができる」
「君が僕達を生かすんだ」
「青い、人間としての僕達を……」
▼ ▼ ▼
原初の記憶。
それは、私が私であることを形作った、一番最初の思い出。
小さいころ、私は色々な史跡に連れていってもらい、歴史や国に興味を持った。
母によると、私たち東郷の家にも大赦で働く一族の血が入っているとか。
もしかしたら、私にも神樹様にお仕えできる力があるかもしれない。
もしそうなら嬉しいと、私の母は微笑んだ。
目を開けると、そこは暗闇に包まれた夜の病室だった。
私は呼吸器とたくさんのチューブに繋がれて、どうしてそうなったのかも分からないままにベッドに横たわっていた。
ただ、下半身の感覚が無くなっていることと、
右手に見覚えのないリボンが結ばれていることだけが、その時は分かった。
医者が言うには、事故でここ二年ほどの記憶と足の機能が失われてしまったらしい。
記憶が戻ることはなかったが、その二年間もしっかり生きていたと、自慢の娘だと、母は言ってくれた。
「わあ、おっきい……」
車いすでの生活が慣れてきた頃、親の仕事の都合で引っ越しが決まった。
いざ目にした新しい家はとても立派で、うちってこんなにお金持ちだっけ? なんてことを思ったりした。
目に見えるすべてが真新しくて、自分の忘れてしまった世界はとても大きくて、寒々しくて。
言い知れない不安が胸に過っていた。
そんな時だった。
「───こんにちは」
あなたが、私に出会ってくれたのは。
────────────────────────────────────。
「……」
言葉なく、廃墟と化した夜の街を少女は駆ける。
いや、厳密にはその表現は正しくない。彼女の足は僅かも動いてはおらず、その周囲に展開された白布を稼働させることで疑似的な歩行と跳躍を可能にしているからだ。
少女は───
およそ、異質なものを感じさせなかった。
およそ、人倫から外れた気配を持たなかった。
その手には銃を持ち、せわしなく駆動させる白布を含め奇抜な衣服を身に纏ってはいるものの。
およそ市井の少女と変わりない外見と気配を湛えていた。まさか、異形化生の類であるとは。
だがそうではない。彼女は確かに非日常を跋扈する、およそ市井の婦女足り得ぬ存在だった。
超人、あるいは魔人。根源の現象数式により形作られたというその成り立ちを鑑みれば怪物とさえ言っていい。
一般人と彼女を分かつもの。それは殺意だ。
目に映る者すべてを殺し尽くすという意思の現れだ。それがために、今彼女は街を駆けている。
それは奇跡を手に入れるための勝利への渇望か。いいや違う。
彼女にあるのは嘆きだけだ。己が唯一を失おうとして、故に世界のすべてを道連れにしようとする者だ。
「……使えない」
呪詛の如く吐き捨てるは、自らが呼び出した侵略者への失望だった。
少女───
東郷美森の持つ第三宝具、『その願いが、世界を導く(ラグナロッカー・バーテックス)』によって召喚された無数のバーテックス。空を覆いつくし、鎌倉市民の悉くを食らい尽くした、美森にとって何よりも憎むべき「敵」は、今や一匹残らず屠られ消滅していた。
文字通りの全滅だ。沖合に鎮座する戦艦の主が放った爆撃と、何某かの用いた炎熱の固有結界の二重攻撃により、滞空していたバーテックスは火に晒される薄紙よりも呆気なく消し炭となった。召喚元として繋がれたパスを通じて、美森はそれを知った。
そればかりか、サーヴァントの掃討に当たった美森自身も予想外の反撃により、満開によって得た兵装を失っている。
戦力の大半が削られたこの状況。それでも美森には抗わねばならないだけの理由があった。
現世界の破壊という、大願を果たすという理由が。
「やっぱりどこまで行ってもバーテックスはバーテックス、せめて私の役に立つならと思ったけど……。
まさか、こんなに早く全滅するなんて」
結局のところ、邪魔をするか役立たずかの二択。存在そのものに価値のない害虫共。
そもそも元を辿れば、奴らが現れたせいで自分たちは地獄に放り込まれる羽目になったのだ。使い潰されようが恨みはともかく感慨の一つも浮かんではこない。それにしたって、あまりにも役に立たなすぎて溜息が出るけれど。
「それでも、私は……」
続けるべき言葉を口の中だけで噛みしめて、美森は疾走を続ける。
どれだけ絶望的な状況に陥ろうとも、前進を諦めることだけはしない。それこそが勇者としての在り方であり、自分が持つ最大の力に他ならないと、彼女は知っているからだ。
───美森は理解しない。勇者システムの一件についても、同じように諦めなければ、その果てに道は拓いたのだということを。
既に諦めきったその身で、彼女は諦観の打破を謳っているのだと。
反転した彼女は、気付けるはずもなく。
「見つけた」
その視界の先に、先刻取り逃がした獲物の気配を捉えたのだった。
行く手に見える廃墟と化した建築物、崩れ半球形となったドーム型の建物の中。
そこに敵はいる。先刻撃墜し、けれど仕留めるまでには至らなかった残りの二人だ。サーヴァントの気配を感知できなかったことから、恐らくは飛行魔術を備えたマスターか。サーヴァントと戦うことなく二陣営を脱落させる好機である、見逃す手はなかった。
美森は一息に跳躍し、壁面を駆けあがって縁に着地、射抜くように眼下の敵を見下ろす。
「──────」
瞬間、美森は思わず目を見開いた。
果たして、確かにそこには美森の追い求めていた"敵"の姿があった。
数は二人。どちらも今の自分と大して変わらない年頃の少女。快活そうな顔を失意に沈める少女と、その横で眠りに落ちる純朴そうな少女。
そのどちらもが殺すべき敵で、
そのどちらもがこちらを害する手段を持たない弱者であった。
それはいい。いいはずだ。だが。
だが、この感覚は、なんだ?
その二人を見た瞬間、美森は頭の中が真っ白になった。
訳が分からなかった。自分は彼女らと"会ったことも見たこともない"というのに。
ショックを受けるような要素が、一体どこにあるというのか。
「あなた、は……」
誰だ、と問おうとして唇が動かなかった。
驚いたように、こちらを真っ直ぐ見上げる少女。
魔力は感じられない。眠る少女は魔術師ほどの魔力を持っているが所詮その程度で、こちらを見上げる少女に至っては完全皆無だ。
サーヴァントの気配は感じられない。二人ともただの人間だ。神秘も何も持ち合わせない、ただの人間であるはずだ。
「うそ、まさか……」
けれど。
けれど、信じられないといった表情で見上げる少女は、サーヴァントだった。
魔力も気配も感じさせず、その存在はあまりにも矮小に過ぎたけれど。
見てとれる霊基は確かにサーヴァントのもので、そして次瞬に放たれた言葉が、美森を更に混乱の坩堝に叩き落した。
「東郷、さん……?」
──────…………。
今、こいつは、何と言った?
「ッ、動かな……!」
「東郷さん!」
反射的に銃を向けようとして、けれどその声に腕が止まる。突然の美森の挙動に、友奈はびくりと震え、怖々と見つめ返してくる。
そして、恐る恐る手を伸ばそうとして、中途半端な位置まで持ち上げながら、友奈は問うた。
「東郷さん、だよね……?」
「……」
「あ、あはは……なんでだろ。おかしいね、こんなところで、私たち……」
縋るようにこちらを見つめる少女に、何も言葉を返せない。
返さないのではない。思考が絡まり上手く言葉を紡げないのだ。
構えようとした右手が正体不明の感情に震える。これでは照準合わせなどできるはずがない。魔力の粒子に変換して消滅させる。そのまま美森は体ごと少女へと向き合い、真っ直ぐに見下ろした。
「あなた、何を……」
「ち、違うの……東郷さん、これは違って……」
探るような美森の言葉に、身も心も疲れ果てたとさえ見える少女は言う。
見られた、大変だ、誤魔化さなきゃ……しかし必死で何かを言おうとしたが頭は回らず、言葉も見つからず、目を泳がせるばかり。
所作と態度が、言葉よりも雄弁に少女の思考を物語っていた。人間観察など門外漢な美森ですら分かるほどに。
彼女は何かを見られたくなくて、それを誤魔化そうとしているのか。
自分は彼女のことなどこれっぽっちも知らないというのに。
「私、今までいろいろあって……で、でも違うよ、私は大丈夫だから……それより、東郷さんの話を聞かせて?
せっかく会えたんだもん、私は、平気だから……」
東郷さん、と彼女は言った。
自分のことを、彼女は知っていた。
どうして、と思う。諜報に優れたサーヴァントでもいるのか、けれど黄金螺旋階段を下った自分を捕捉できる者など何処にいよう。
疑問符が脳内に木霊する。考えが纏まらず上手く動けない。
分からない。何故、彼女は自分を知っている?
分からない。何故、彼女たちを見ると思考にノイズがかかる?
殺せばいい。相手の言うことなど聞く耳持たず、今すぐ撃ち殺してしまえばそれで終わりなのに。
そうしてしまえば"本当にお終い"であるのだと、理屈ではない直感が警鐘を鳴らして頭が痛かった。
「ね……?」
「……」
だから。
「……え?」
銃器を構える重い音が、友奈にも聞こえるように鳴らされる。
その黒い銃口がぴったりと自分の額を照準しているのだということに気付き、友奈は呆けた声を上げた。
なんで、どうしてと尋ねる声の代わりに呆然と見上げる友奈の視線の先、友奈の親友であるはずの
東郷美森は、ぞっとするほど冷たい声で。
「黙りなさい。私はあなたなんか知らない」
そんな、信じられないようなことを言ってのけた。
▼ ▼ ▼
【青空の詩編:Chapter.3】
「あの頃の僕達は、永遠の向こう側にある明日をずっと望んでいた」
「雨が伝うばかりの天蓋を見つめ、
庭園から、
星海から、
病室から」
「憧憬のまなざしで、誰かが扉を開くのを待っていた。
哀切のまなざしで、誰かが来ないことを待っていた」
「偽物の自分で、本物の君と会って話すことに、後ろめたさと切なさを感じて」
「何も知らないままに、君に恋焦がれていた」
「消え去りたいと思っていた、僕。
何をも知らないままだった、僕」
「世界の残酷さばかりに目を取られていた僕と、
無限の可能性たちと眠りについていた僕と、
世界に疑問を持つことを役割とされた今の僕」
「あるいは、元の世界に残された、未だ物語の途中にある僕」
「果たしてどれが本物の僕なんだろうね」
「君は───」
「───────────────」
「……うん、やっぱり駄目か。特定の文字列は弾かれてしまう」
「けれど、僕は」
「それでも君に、伝えたいと」
「そう、願っている」
▼ ▼ ▼
「え?」
一瞬、美森の言っていることが理解できなかった。
信じられないものを見る目で、美森を仰ぎ見た。
「うそ……冗談、だよね?」
「嘘をついてどうするの」
冷たい笑みが口許に浮かんだ。
自分の言葉に支えをへし折られたみたいな顔をする少女を見て、嗜虐的な喜びを得る。
塗り潰す。塗り潰す。得体の知れない思考のノイズなど、このどす黒い感情で塗り潰してやる。
まともに動かない頭で、唯一考えられるのはそれだけだった。
「どうして……私、東郷さんになにか───」
───闇夜に鳴り響く、一発の銃声。
よろよろと駆け寄ろうとしたその脚を、銃弾が貫く。
突然の凶行に悲鳴を上げることもできず、友奈は引き攣った声と共に前のめりに倒れ込む。
人体が倒れる重い音と、微かな呻き声。
地面に飛び降りそれを見下ろす、美森の視線。
「別に何も。私は最初からこういう人間。そして」
更に一発の銃声が轟く。
友奈の肩口から血が飛沫となって弾け、悲痛な叫びが漏れる。
「あなたたちはここで死ぬの。それだけのことよ」
それは、美森自身すらも呆れるほどの、優しい口調。
痛みに白む思考でそれを聞いて、それでも友奈は「どうして?」と考える。
どうして、彼女は自分のことを忘却しているのか。
どうして、彼女はこんなにも冷酷に誰かを殺せるのか。
理由があるとすれば、それはなんだ?
誰よりも優しくて、誰よりも涙もろかった彼女が人殺しに手を染める───思い当たるものといえば、それはひとつしかない。
「東郷さん、もしかして……」
まさかと思う心が、けどそれしかないと冷静に結論を導き出す。
友奈は一度だけ、美森が破滅的な感情に身を任せた瞬間を見たことがある。
それは───
「"壁"を壊した時みたいに、なっちゃったの……?」
逸話的な再現。
あるいは、ある特定の時期の人格を模倣しての現界。
サーヴァントの召喚システムにはそういうものが存在していると聞き及んでいる。
ならば、この有り様の原因とは。
「……あなた、そんなことまで知っているのね」
ふっ、と浮かべられる、儚げな微笑み。
それを見ただけで、友奈は全てを理解できてしまった。
彼女がどういう状態にあるのかも。
突如として出現したバーテックスの正体も。
そう、全ては……
「東郷さん……!」
それでも、友奈には分からない。
彼女が誰かを手にかけるという、その事実を。
分かりたくなかったし、認めたくもなかった。
「そうね。あなたが誰かは知らないけど、でも私達のことを表面的にでも知っているというなら。
聞かせてあげるわ。そして、問わせてちょうだい」
そして、彼女の浮かべた笑みは、どこまでも酷薄なものだった。
「あの世界には、一体何の意味があったの?」
友奈は、答えられなかった。
「勇者システムを運用する大赦は世界を守るという大義名分を掲げて、それを正しいと言っていたわ。
でも、あなたはそれを"救い"と呼ぶの?
死ぬことも許されず、生の鎖に繋がれて。
未来を失った体を、苦しみと喪失で焼かれ続けて。
戦ってきた理由さえも、理不尽に奪われ続けて。
それでも、あなたたちは言えるの?
それが、正しいと」
その切実な問いに、かつての友奈は確かに自分の答えを言うことができた。
世界を守るということ。それは自分たちを傷つけた者だけでなく、何も知らずに暮らしている大勢の人たちも守るということ。
勇者は何をも諦めないのだから、見知らぬ誰かを守ることだって諦めないのだと。
そう言うことも、できたけど。
「だから、東郷さんはこんなことをしたの……?」
彼女がこちらを見ている。
不審と疑念と、もう一つ。よく分からない感情に染まった目。
それを真っ向から見つめ返そうとして、けれど叶わずほんの少し横にずらして、友奈は問う。
「バーテックスを呼び出して、この街をぐちゃぐちゃにして、そうまでしてその願いを叶えたかったの?
ねえ、東郷さん!」
「その通りよ!」
悲鳴混じりに叫び返して、その手は刑部狸の短銃と不知火の拳銃を構える。
ピンと伸ばされた腕はカタカタと揺れ、その狙いは定まらず。
爆発した感情のままに、
東郷美森は叫ぶのだ。
「棄てられるために私は生かされた!
棄てられるために私達は選ばれた!
勇者という名の生贄、世界を存続させるためだけの使い捨ての道具に!
でも今は死ぬことさえ許されずに、塵になるまで生かされる!
それだけならまだ良かった。みんなと一緒なら怖くなかった。
なのにあいつらは私達の"願い"まで奪おうとする! みんなと笑い合った、あの思い出さえも……!」
それは、かつて耳にした嘆きだった。
友奈自身も、その身を冒され一度は抱いた悲しみだった。
満開は使用者の"輝き"を永遠に奪い去る。もう二度と、何をしても、奪われた大切なものは帰ってこない。
「ねえ、あなたに何が分かるの?
名前も知らないあなた。私を知ってるどこかの誰か。
私には分からない。
もう何も、この涙の理由さえ、私は分からないの……」
そして、友奈は見た。
美森の頬を流れる、ひと筋の水滴を。
それは悲しみの涙であるのか。彼女は何を悲しんでいるのか。
美森自身にさえ、もうそれを知ることはできない。
ただ。
ただ、何故か。
目の前にいるこの少女を見ていると、どうしようもなく涙が溢れ、悲しみが胸を締め付けるのだ。
この感情を消し去るために、この感情の根源を討滅するために、美森は今すぐにでも二人を殺さなければならないというのに。
腕が、指が、そして正体不明の情動が、それを許してはくれない。
「それでも、勇者部のみんなは諦めなかった」
だから。
名も知らぬ少女がそう言った時。
美森は驚愕と困惑と、そして得も知れぬ怒りに見舞われた。
「そのはずだよ。だってみんなは勇者だったから。
みんな最後まで諦めなかった! 東郷さんだって知ってるはずだよ!」
「黙れぇッ!」
半ば反射的に引き絞った引き金が魔力弾を放つ。
それは少女の頭蓋を破壊することなく、見当違いの場所を穿つに終わった。
湧き上がるのは尽きせぬ怒りと拭い難い悔恨と。
そして、この少女を見ていると訳も分からず溢れ出す、悲しみと遣る瀬無さだった。
「黙らない! だって私は知ってる、勇者部のみんなは本当に勇者だったって!
東郷さんはそれを知ってるって私知ってるから、だから言い続ける!」
「あなたが何を知っているというの! いいえ知っていたとしても私を止めることはできない!
みんな傷つきみんなが泣いた! 私はもう、みんなを失いたくない……!」
「確かにみんな傷ついたよ! 涙だって枯れるくらい流した!
だからだよ! だから私達は、傷つき泣いても掴み取ったあの世界を、絶対に壊しちゃいけないんだ!」
───何を今さら正義ぶってるんだ。その資格もないくせに。
頭の中に反響する声に、何も反論できなくて。
いいや、できたとしてもやってはいけない。それは確かな友奈の罪だからだ。
自分のことを棚に上げているのは分かっている。自分がこんなことを言える立場にないのも、また。
けど、それでも。
それでも私は今この場で、大切な友達を助けたいから。
「それでも、今の私はこうせずにはいられない!
筋違いだろうとなんだろうと、世界に銃口を突きつけずにはいられない!
なんで!? 私たちが一体何をしたというの!?
なんでこんな過酷な運命を背負わせる!
私たちに全てを押し付けた連中がのうのうと生き残り、直向きに戦った勇者たちが非業の死を遂げる世界が正しいとでも!?
ふざけるのもいい加減にしてよぉ!」
ああ、溢れる感情が止まらない。鼻の奥につんと刺激が走り、それはたちまち涙腺にまで及んだ。声がうるみ、嗚咽の様相を呈する。
なんでだろう、と美森は思う。
なんで私は見も知らぬ相手にここまでムキになっているんだろう。本当に不思議でならない。
けど、"前にもこんなことをした憶えがあるなぁ"という、ぼんやりとした既知感が、頭を満たして仕方がない。
私は、この少女を知っている?
頭が痛い。
頭が痛い。
思い出そうとすると途端に痛み出す。まるで、私の記憶が戻らないようにしているかのように。
ああ、私はそれに疑問を持つことができないけれど。
そうだけど、でも。
私は、あなたを……
「なんなのよぉ! あなたが私のなんだっていうの、会ったこともないくせに!
分からない、もう分かんないよぉ……! 私、一体何を……」
「例え東郷さんが私を忘れても、私は東郷さんを忘れない!
ずっとずっと忘れない! だってそう約束したから!
私は東郷さんの一番の友達だから、何があってもずっと一緒にいるって!」
深い銃創を足に負い、それでも友奈は一歩を踏み出す。
途端に、美森の顔に緊張と怯えが走った。
「こないで!」
「心配ないよ」
安心させようと、できるだけ柔らかい笑みを浮かべる。
その努力をする。
痛みで頭はいっぱいだし、脂汗が浮き出てそれどころではないけれど。
それでも。
「東郷さんを助ける、勇者の名前だ!」
それでも。
東郷さんの前では、私は格好良い勇者だから。
今、助けに行く。もう何もできないのは嫌だ!
───助けに行く? 何もできないのは嫌だ?
───まだそんなことを言っているのか。
───そうやってお前が動いたから、みんな死んだんだ。
───分かっているはずだ
結城友奈。自分を正当化するな。
───最初から何もしなければ良かったんだ。お前は、最初から何も。
「分かってるよ、そんなこと」
頭に響く声に、けれどもう反発はしない。
あるがままを受け止める。犯した罪は消えないし失われた命は戻ってこない。
───なら何故まだ動く。何を支えに立ち上がる!?
───浅はかな信念とやらか。所詮は耳障りのいい戯言、ただの自己正当化に過ぎない!
───なのに何故立ち上がれる! お前が間違っているということはお前が一番知っているはずだ、だからお前はもうその右手を伸ばすな!
───諦めろ、お前はもう何も為せはしない! 生きながらに死んでいればそれでいいんだ!
「そんなの決まってる」
意識が目覚めたその時から、脳内で囁きかけてきた何者かの声を、友奈は振り払う。
死んだ者は生き返らない。失ったものは戻らない。
例えこの先、友奈がどれほどの偉業を成し遂げても、どれだけの人を救おうとも。
私の罪は決して消えない。この心に刻まれた痛みもなくならない。
けど、それでも。
それでも、罪も痛みも全て背負って、私は私に助けられる人を助けに行く。
罪を償うためじゃない。その死を無駄にしないだなどと、悟った風なことのためでもない。
ただ、心を痛ませ、目に涙を浮かべる友達一人助けられずに諦めるだなんて。
そんなのは勇者なんかじゃないと、そう思った。
それだけなのだ。
「東郷さん、私は……!」
「いやぁ!」
右頬のすぐ近くを、青い魔力の光条が掠める。
構わず、二歩目を刻む。
今度は、左足の傍。
それでも、足を止めない。
「来ないで!」
悲鳴混じりの攻撃が右腕を浅く薙ぎ、手首の少し上あたりが真っ赤に爛れる。
痛い。
痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い───!
本当に痛くて、泣き出しそうになって、今すぐその場に蹲ってしまいたかった。
……ダメだ。
東郷さんが苦しんでいるのに、自分だけ痛がるなんて、そんなの絶対ダメだ。
痛みのあまり、悲鳴を上げそうになる。
それでも、歯を食いしばって、歩き続けた。
彼女の銃弾が当たるわけないと、思ったわけではない。
彼女に自分を殺せるはずがない、なんて都合の良いことを考えたわけでもない。
ただ。
友達が苦しんでいるなら、それを助けたいと思った。
自分と同じグチャグチャの霊基になった彼女。
そんな彼女が、仮に自分を殺すことで救われるというなら、それでもいいと思った。
それは、自分が助けてあげられなかった彼女の持つ、正当な権利だと思った。
一歩、また一歩、友奈は歩き続け。
気が付けば、
東郷美森のすぐ目の前まで辿りついていた。
「あ……」
弱弱しい、彼女の声。
静かに振り上げられた友奈の手に、彼女は反射的に目を瞑る。
けれど、予想していた衝撃がいつまでも来ないことに戸惑い、そっと瞼を開けて。
「……ごめんね」
そっと、頭を抱き寄せられた。
小さく呟かれるのは、東郷と同じくらい弱弱しい、謝罪の声。
「こんなはずじゃ、なかったんだ……」
それだけのことが、ようやく言えた。
「……え?」
呆けたように友奈の顔を見上げる東郷。
「東郷さん、私もね……。取り返しのつかないことをしちゃったんだ。
大勢の人を死なせて……馬鹿だね、私……」
美森がバーテックスを呼び寄せ鎌倉市民を虐殺したのと同じように。
友奈もまた、屍食鬼と化したマスターを放置し感染を拡大させた。
だから友奈には、美森を否定し殴りつける権利などない。それは誰かが行わなければならない罰ではあったが、少なくとも友奈の役目ではない。
だから、かつての時とは違い。
友奈はただ、美森を抱きしめることしかできなかった。
「だから私は何もできない。東郷さんを"めっ"てしてあげることも、東郷さんを許してあげることも、私には……
でも、でもね……」
抱きしめるその手に、力がこもり。
「それでも東郷さんには、こんな私みたいになんか、なってほしくなかったんだ……」
それはたったひとつの、心よりの想い。
美森の体がふわりと崩れ、友奈にもたれる格好になる。小さな両腕が友奈の背中に回され、顔が胸に押し当てられる。
そのまま暫く、二人とも動けなかった。
「わた、し……」
そして、高みにて嘲笑う者の目論みは、ここに外れを見る。
「わたし、は……」
彼らは忘却していた。如何にその魂を玩弄し、心を改変し、時系列を入れ替えようとも。
東郷美森は既に、"世界より与えられた宿業を乗り越えている"のだということを。
故にこれは───
「───友奈、ちゃん……」
「……うん」
……目の前が、くしゃりと歪んだ。
瞳の奥から涙が溢れだし、それはたちまち頬を伝って流れ落ちた。
友奈も、美森も、二人は共にその目に雫を浮かべていた。
そして友奈は、その小さな背中を優しく抱き寄せる。
「友奈ちゃん……友奈ちゃん、友奈ちゃん、友奈ちゃん!」
「うん、うん! 私はここにいるよ。だからもう大丈夫、もう全部終わったから……」
「ごめ、ごめんなさい……! わたし、あなたのことを忘れて……こんな、こんなひどいこと……!
あぁ、うぁ、ぁぁああああああ……!」
「ううん、いいの。東郷さんが私のことを思い出してくれた、今はそれだけで十分」
頬を涙でぐちゃぐちゃに濡らしたまま、二人は互いの存在を確かめるように、その体をかき抱いた。
英雄でも勇者でもなく、ただの二人の少女として。
▼ ▼ ▼
【青空の詩編:Chapter.4】
「あ、これは……」
「……」
「……特定の記憶を呼び覚ましてくれる、そういうものってあると思う」
「たとえば、音や香りとか」
「もっと具体的に言うなら。
シューマンと消毒液の香り。
白い部屋、大きな図鑑、ゆりかご。
くすんだぬいぐるみ。
色褪せた絵本」
「シューマンを聞けば、消毒液のツンとした匂いが蘇るし、
白く清潔な病室のイメージを呼び起こす」
「消毒液の香りを嗅ぐ時はその逆。
この二つは僕の中で密接している」
「それは単に、僕が幼いころ入院していた病院の待合室や病室が、そういう内装をしていた。
それだけの話だけど」
「けれど。
なんだかそれが、それを思い起こされることが。
ひどく尊いものに思えて仕方がないんだ」
「そして、例えば君が。
何かを聞いて、何かを嗅いで、もし僕達のことを思い出すことがあれば」
「それはとても幸せなことだと」
「今、そう思ったんだ」
▼ ▼ ▼
見るも痛々しい傷口にそっと手のひらをあて、少しずつ魔力を流し込んでいく。全神経を手先に集中させ、間違っても皮や肉を引き攣らせないように。慎重に、慎重に、そぉっと、そぉ──────っと……
「あの……東郷さん、そんなに丁寧にしなくても」
「友奈ちゃんは動いちゃダメ!」
友奈の言葉をぴしゃりと遮り、美森は過剰にも過少にもならない適切な量を調整しながら魔力の注入を続ける。大体これくらいかな、というところで恐る恐る手をどけてみると、その下には透き通るくらい白い肌。あれほど深かった銃創はすっかり治っている。傷もなければ赤痣にもなっていない。
「良かった……これで治らなかったら腹を召して詫びるしかなかったわ」
いやそこまでは、と返す友奈を後目にほっと一息。柔らかな二の腕を指先でぷにぷにと突っつく。
「でも、綺麗に治せて本当に良かったわ。サーヴァントの体の便利さに助けられたというのはあるけど……」
そこで、美森は一旦言いよどみ。
「友奈ちゃんの自力じゃ治せないのは、ちょっと……ううん、大分困るわね」
「そう、だね……」
友奈は頷き、元通りになった腕を撫でて。
「今の私は、魔力を全然使えないから……その分、少ない魔力でもこうして元通りにできるんだけど」
「そうね……」
呟き、肌から手を離す。改めて友奈と真っ直ぐ向き合うと、自然と顔が俯き加減になってしまう。
「……本当に、ごめんなさい」
もう何度目かも分からない謝罪の言葉。銃で撃ってしまったことだけじゃない。彼女には、いくら謝っても謝りきれない。
「東郷さん……」
困ったかのような友奈の声。上目使いに顔色をうかがうと、友奈は優しい笑みを浮かべている。
さっきまでは「謝らないで」「私が悪いの」といちいち反論していたのだが、それでもひたすら謝り続ける美森にとうとう根負けしたのか、今は大人しく謝られてくれてる。
「ほら、東郷さん。私はいいから……ね?」
「……うん」
頷いた勢いで顔を上げ、ぎこちなく笑ってみせる。そして友奈の脇に眠る、もう一人の少女へと顔を向ける。
愛おしげな、美森の笑み。
本当に心から安堵しているその表情を見て、友奈もまた心が暖かくなるようだった。
すばるという名の少女は、驚くべきことに元々は美森のマスターだったらしい。
彼女は聖杯戦争への参加を拒み、人殺しを厭い、誰も傷つけることなく元の居場所に帰ることを望む心優しい女の子だと、美森は我が事のように嬉しげに語ってくれた。
何の因果か運命のいたずらか、こうして三人は一つ所に集うことができて。
「……ねえ、友奈ちゃん。聞いてくれる?」
「うん」
「私……私ね、
すばるちゃんを帰してあげたい。
この子の大切な男の子は死んでしまって、それでも生きることを諦めなかった
すばるちゃんを……
私は、死なせたくない……!」
「うん……うん」
「おかしいわよね、今さら私がこんなこと言うなんて。
言える資格、ないのに……こんな私が……」
「それは違うよ、東郷さん」
それは断定的な否定の言葉。
伏せがちであった美森の顔が上げられ、そこには力強い意思の込められた友奈の瞳が見えた。
「私思うんだ、誰かを助けることに理由なんかいらないって。
だから私は東郷さんを助けようと思ったし、それは東郷さんだって同じなんだよ。
資格や理由がどうとか、そんなの全然関係ない」
そこで、友奈は朗らかに微笑んで。
「だって、それが勇者部だったでしょ?」
そう言ってのけた。
「……そうね。ええ、確かにその通りよ」
美森は一旦目を伏せ、しかし何かを決意したように顔を上げる。
そこにはもう、暗い影は少しも落ちてはいなくて。
「私は
すばるちゃんを救いたい。私を友達と言ってくれた、この子を絶対死なせない。
だから友奈ちゃん───お願いします、あなたと一緒に戦わせてちょうだい」
「もちろんだよ! ありがとう、東郷さん!」
手と手を取り合い、どちらからともなく笑い合う。そこには何のわだかまりも無かった。
ああ、ようやく自分はこの笑顔を取り戻せたのだ。
心の中だけで、彼女らは互いにそう噛みしめていた。
「でも、最後にはきちんと責任を取るつもりよ。操られていたとはいえ、これだけのことを仕出かしてしまったのは事実。
聖杯戦争が終わればどの道消えるしかないサーヴァントの身で、どこまで償えるかは分からないけれど」
「そう、だね。私も東郷さんと同じ心算。でもそれまでは……」
「それまでは、できるだけみんなを助けたい。ええ、分かってる」
そうと決まった以上ぐずぐずしていられない。二人は立ち上がり、
すばるの体を抱える。
「まず仲間が欲しいわね……私に一人心当たりがあるのだけど、友奈ちゃんは?」
「……私も何人かは。でも私、酷いことして、もう一度協力してくれるかは……」
「構わないから言ってちょうだい。この状況で協力者は少しでも欲しいから。
それで、私の心当たりは……」
そうして二人は情報交換し、
アイ・アスティンとセイバーの主従が互いの知己であったことに驚き、またキーアと騎士のセイバーや
辰宮百合香というマスターの存在を確認した。
「推定ではあるけど、残存主従から言ってこれだけ味方がいれば心強いという他ないけど……」
「ご、ごめんね。私が余計なことしちゃったせいで、合流できないかもしれなくて」
「ううん、大丈夫。アイちゃんとセイバーには、私からも謝っておくから。そうね、あとは」
と、そこで言葉を切り、美森は難しい顔をして。
「友奈ちゃん、歩きながらでもいいから聞いてほしいの。
私が再召喚された理由、それを行った人物について」
「東郷さん、それって……」
「私にも詳しいことは分からない。分からないままに心を縛られ、鎌倉の街に降ろされたから。
けど、これはきっと彼らを打ち破るための鍵になるはず。どれだけ微かな手がかりでも、その中核を担っているのは間違いない」
彼女が何を言わんとしているのか、友奈にも理解できた。
一度は霊核を破壊され退場したという美森、そんな彼女が何故再召喚されたのかという疑問。
失っていた記憶、反転した性質、マスターもなしに現界を続けていられる理由。
それだけの規格外と異常性を発揮できる者など、想像ですら限られる。
つまり、彼女は───
「私を使役していたのは、裁定者」
彼女の有り様とは。
「未だ舞台に姿を見せないルーラーのサーヴァント、そのマスターよ」
その事実が、友奈に告げられた。
その瞬間だった。
最後の最期まで、二人は"それ"に気付かなかった。
夜闇の向こうに、こちらを伺うかのような視線があることに気付かなかった。
その瞳が殺意に塗れていることにも気付かなかったし、伸ばされた蜘蛛糸が鎌首をもたげ三人を狙っていることにも気付かなかった。
何もかもが突然だった。
美森が「友奈ちゃん!」と叫んだ。
体当たりするようにして、友奈と彼女が抱きかかえた
すばるの体を突き飛ばした。
友奈が呆けた顔で、地面に倒れ込んだ。
転げる
すばるに気を取られて、ようやく事態に気付いた時には全てが遅かった。
───細い刃の糸が、美森の霊核を正確に貫いていた。
最終更新:2019年06月22日 15:06