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 恋をした。
 誰よりも幸せな恋をした。
 でも、ボクは灰かぶり姫ではなく───

 ハッピーエンドは失われた。










   ▼  ▼  ▼





 崩れた螺旋階段を昇る。昇る。昇る。この先に「愛のかたち」があると誰かが言った。
 息を切らせ足取りは重く、疲労の色は濃いけれど諦めの意思を持つことなく。

 暗闇に染まる世界。眼下に広がるのは漆黒の雲海。空気が薄く呼吸が苦しい。
 未だ見えぬ螺旋の果てをそれでも見上げ、少女は一歩また一歩と階段を昇る。

 頂上を目指して。
 いと高きに在るものを、目指して。

 何のためか。
 それは願いのためだ。

 少女にはささやかな願いがあった。きっと、それは口に出すことはないと思っていたけれど。
 もしも奇跡を掴むことができたらと、考えていた願いは確かにあった。

 けれど今は違う。
 そんな夢想よりも何よりも、今まさに求める奇跡はただひとつ。

 それは───

「もう少しだよ、アリス……!」

 肩を貸して懸命に呼びかける。それは、少女に寄りかかるようにして瞼を閉じる少年の姿。
 その事実を認めたくなかったから、何度も何度も呼びかけ続けるのだ。

「きっと、あそこに行けば全部大丈夫だから」

 応えはない。彼はただ瞼を閉じるばかり。

「全部全部、無かったことになるんだから」

 応えはない。彼はただ血を流すばかり。

「そうだよ。こんなに頑張ったアリスが報われないなんて、そんなことあっていいはずがない。
 アリスはずっとみんなのために戦ってきたんだから、今度はアリスが願いを叶えるべきなんだ」

 声が掠れ、途切れがちになる。喉はとっくに枯れ果てて、疲労と渇きでべったりと張り付いている。
 重い。ずしんと芯に来る重さは少年のもの。華奢で小柄な少女では引きずるだけでも一苦労だろう、そんな彼をここまで連れてきたのだから体はもう限界を訴えて悲鳴を上げている。

 それでも、少女は懸命に進み続ける。
 それでも、少女は誰かに助けを求めることはしない。
 だって、助けてくれる誰かなんて、もうどこにもいないと知っているから。

 少年のサーヴァント、数多の英霊を屠った雷電の王は、拡大変容を起こした最後の敵を道連れに果てた。
 少女のサーヴァント、囁きかける水銀の影は、今も少女の足元を這いうねるだけだ。

 ここにはもう、少女以外の誰ひとりとして存在しない。
 だから、少女がひとりでやり遂げなくてはならないのだ。

「二人で帰るんだ。元の場所へ、三年四組のあった世界へ。だからさ……」

 そんなことは、分かっているけれど。

「死んじゃ嫌だよ、アリス……!」

 その事実だけは認めたくなくて。
 すぐ横にある現実から目を逸らしたまま、少女は螺旋の果てを目指し続けるのだ。



『では、諦めるときだ』



 ───ああ。

 ───視界の端で水銀の影が嗤っている。

 そこは黄金螺旋階段の果て。
 万能の奇跡が降り立つ、世界の最果ての場所。

 彼はどこにでも在ってどこにもいない。だからきっと、その声も姿も幻であるはずなのに。少女の耳に届く暗鬱な響き。
 その声は少年にも老人にも似て。そのどちらでもなく、どちらでもあった。
 しかし支配者の響きはない。
 たとえて言えば、すべてを嘲笑する響き。
 涙を流して笑いながら、心から焦れて願う声。

 ───たとえて言えば。

 ───狂った無貌が何かを囁くような、声。




『魔女に成り損なった哀れな子』

『すでに、お前は諦めているはずだ』

『……それ故に』

『それ故に、お前は想いの果てに至ることがないだろう』



「うるさい黙れ!」

 叫ぶ。
 堪えきれずに、我慢がならずに。
 ありったけの感情を込めて、今すぐ消えろと言わんばかりに。

 叫んで、そして唸るように。

「ボクたちを導いた、姿なきヘルメス=トリスメギストス。
 ボクはキミを絶対に許さない」



『ならば話は簡単だ』

『見せるがいい。お前たちの《渇望》を』

『封印された都市に訪れた15年の意味。
 お前がその手を赤色に染め続ける意味。
 如何なる理由と願いとが、その根源か』



「……黙ってよ」

 少女の声には嗚咽があった。
 対する影は、ただただ無言。

「影法師。たとえキミが、ボクたちのア・バオ・ア・クーだったとしても。
 結末を決めるのはボクたちだ。キミなんかじゃない」



『ならば、《美しいもの》を見るがいい』

『お前たちのための"それ"が、用意されている』



 螺旋階段の最後の一段。
 それを今、昇りきる。



 ………。

 ……。

 …。

 ────────────────────────。










 何もなかった。

 そこには、何も、無かった。



「…………え?」



 そこは黄金螺旋階段の果て。
 万能の奇跡が降り立つ、世界の最果ての場所。

 そのはずだ。昇りきった者は永遠が手に入るのだと。
 愛のかたちまでもが、その場所にはあるとさえ。

「なん……なの、これ……」

 何もない。
 誰もいない。

 伽藍堂の、石榑と暗闇だけが虚しく転がっているばかり。
 風化し崩れた玉座が、主さえも失って寂しく佇むばかり。

「こんなもののために、ボクたちは今まで……
 命を賭して、苦しんで、痛めつけられてきたっていうの……?」

 こんなものが、約束された《美しいもの》か。
 こんなもののために、階段を昇らされたのか。

 数多の願いを踏み躙り、時には人さえ殺めてきた。
 すべては、ただひとつの願いのために。

 ───命すら手にかけた願いの果てが。
 ───これだと言うのか。

「何とか言ってよキャスター!
 こんな茶番のために、ボクたちは今まで……!」

 誰もいない。
 嘲笑う水銀の影は、既に、どこにもいなかった。
 いいや。もしかすると、そんなものは最初からいなかったのかもしれない。

「───ぁ」

 そこでもう、気力も何もかも尽き果てて、少女は膝から崩れた。
 心も体も限界だった。少女の意思を繋ぎ止めていた最後の一線が、ぷっつりと断ち切られてしまった。

 あらゆるものに意味はなかった。
 自分達の戦いも、覚悟も、願いも、苦しみも悲しみも、愛も夢も憧憬も何もかも。それらが実を結んだ結果として、「何もなかった」という終わりだけがもたらされた。

 命を奪った意味は。
 命を喪った意味は。
 もう、どこにもなかったのだ。

 少女の体が冷たい石榑の床へと投げ出された。張り付いた頬から石榑のひんやりとした感触が伝わってきて、熱に火照った体に気持ちが良い。
 なんだかもうそれだけで、何もかもどうでもいいやと思えてしまって。ふと、隣に目をやった。
 そこには、同じく倒れるアリスがいた。

「……ああ、そっかぁ」

 アリスと横並びだ、と思った。
 今までずっと後ろ姿を追いかけるばかりで、懸命に走っても追いつけなくて。
 でも今は、今だけは同じ場所に来れたんだって思ったら。
 なんだか、少しだけ嬉しかった。

「……ねぇ、アリス。この場所に来て、ほんのちょっとだけ分かったことがあるんだ。
 きっとね、美しい思い出を持ってる人だけが、願うことを許されるんだ。あの頃が永遠に続いたなら、今もあの頃のままだったらって」

 ううん、それは嘘。だってそんなことは最初から分かっていたことなんだから。
 道筋は最初から決められていて、結末は最初から必然でしかなくて、ボクたちは単にそれをなぞらされていただけだった。
 でも、ここにたどり着いたのがボクなんかじゃなく、アリスだったなら。
 きっと何もかもが上手くいって、ふたりで笑いながら「良かったね」って言える未来があったんだろうなって。
 そう思う心は、止められなかった。

「好きな人と二人きりなら、どこにいても暖かいって、ホントなのかな」

 ごろんと仰向けに転がって、空を見上げた。雲を突き抜けてきたはずなのに、空は一面が真っ黒に染まって。まるで雨の中にいるみたいだった。
 そっとアリスの手を握る。今までどんなに勇気を振り絞ってもできなかったそれが簡単にできてしまう事実が、なんだか無性に悲しかった。

「……きっと嘘だよ。だってボクの手、こんなにかじかんで」

 ───崩落の音が耳に届く。

 きっとこの場所も、長くはないのだろう。少女にはその資格がなかったのだから。
 断続的な震動に視界が揺れて、でも立ち上がる力すら残されていない。少女はただ、穏やかな顔で空を見上げるばかりで。

「ね、アリス。
 最後くらい、ふたりで空を……」

 終わりまで言うことはできなかった。

 倒れるふたりを引き裂くように、螺旋階段の崩落が襲って。

 繋いだ手は解かれる。離れた体は、ガラガラと崩れ落ちる瓦礫の向こうに消えていった。

 そうして、ボクの意識は闇に墜ちて───

 …………。

 …………。

 …………。





 そうして俺は墜ちていく。

 死者に生者は掴めない。死者は所詮、生者の足元に掴まる影でしかなく。

 ア・バオ・ア・クーになれなかった俺は、色も輝きも何もかもを失って。

 ただ、ただ、真っ逆さまに墜ちていくんだ。





   ▼  ▼  ▼










「夢の終わりだよ」

「悪い奴らは全員死んで、世界に平和が戻った。これでお話はおしまい」

「全部全部、嘘っぱちだったのさ」










   ▼  ▼  ▼





 ───欠けた夢を見ていた。

「……」

 玉座にひじかけ凭れていた頭を、億劫気に持ち上げる。

 そこは黄金ならざる影の連なり、その最果て。王の夢の残滓が眠る、暗闇の幽閉の間。
 元は黄金だったのだろう。けれど資格なき者が坐する故に、その者の観測下において黄金の輝きは放たれない。
 かつて少女であった魔女はたった一人玉座に腰掛けて、眼下の全てを睥睨しているのだ。今も、今も。

「くだらない感傷だ」

 夢は、所詮夢だ。
 目を覚ましてしまえば輪郭はぼやけ、すぐに忘れて無くなる。

 聖杯戦争の趨勢を見ようとして、やめる。
 これも所詮は夢でしかない。たとえどのような変遷を辿ろうとも、最後にひとりだけが残ればそれでいい。
 聖杯に捧げられる《願い》を呼び水として、月に眠る《仙王》は真に降り立つだろう。

必然(フェイト)なんてない。この世の全ては偶然(フェイク)の産物。
 全て、そう全て。あらゆるものは意味を持たない」

『ならば君が抱く心よりの願いもまた、無意味であるということになるね』

 声。それは、まるで鉄のような響きを湛えて。
 水銀の影にも似た響き。けれど根底の部分では真逆の性質を持つ声。

 現れる人影があった。背の高い、仕立ての良い白色のスーツに身を包んだ男。
 全身を白の服装で固めているというのに、印象は、ただ、黒。
 男の膚は黒かった。
 けれども、アフリカ系の人種が有する膚の色とは異なるように見える。
 それは深淵の黒だろうか。
 髪は白い。白髪。
 そして、瞳は赫い。昏く、澱んだ、けれども夜闇の中で浮かび上がる輝きの赫。

 ルーラーのサーヴァント、ロード・アヴァン・エジソン
 彼の有名な発明王の名を、この男は冠していた。そして事実、彼は人々より讃えられる者ではあった。

『愛なるものを形にすること。それが君の願いだったはずだ。
 ならば君は、その愛さえも裏切るつもりでいるのか』

「黙れ。心の何たるかも知らないお前が、賢しげに口を開くな」

 返答はない。黒い男は、ただ笑みを顔に張り付けていた。

 黒い男には感情の類がない。
 およそ彼は人間ではなく、祝福された者であると讃える人々もあるという。だが、それが致命的な誤りであることを魔女は知っていた。
 祝福。神の祝福。何とも笑える話だ。そういった言葉が最も似つかわしくない、どころか、皮肉にすらならないことを魔女は知っていた。かの黒い男、ロードたる彼に対して、神などと!

 感情などある筈がない。
 表情などある筈がない。
 時計仕掛けの機械がチク・タクと鳴り響くさまに、心など見出すものか。

『ではひとつだけ尋ねよう。
 君は永劫の狂いを受け入れてまでして、彼という偶像に縋るのかな?』

「黙れ」

 魔女の声には怒気が含まれていた。
 黒い男の貌には、ただただ嗤いが張り付けられているばかり。

「狂っているのは世界だ。
 だからボクが狂うことも許される」

『良い返答だ』

 偽物の微笑を貼り付けたまま、黒い男が言った。
 怯える子供をあやすよう、牙を剥いて唸る獣をなだめるよう、静かに。穏やかに。
 まるで“機械仕掛けであるかのような”奇妙な声だった。
 チク・タク。
 チク・タク。

『君の願いは叶うだろう。ディー・エンジー・ストラトミットス、《西方の魔女》として囁きかける者よ。
 ただし。そうとも、ただし───』

 ただし───

 残酷な神は告げる。
 声に、感情の色を混ぜることなく。

 冷酷な神は告げる。
 声に、凄絶なまでの傲慢を込めて。

 無慈悲な神は告げる。
 声を、断罪が如く少女へと。

『愛なるものが夢幻ではなく。本当に、実在すればの話だが』




 …………。

 …………。

 …………。





   ▼  ▼  ▼





 セピア色の空間。
 もう誰もいなくなってしまったその場所に、打ち捨てられた道化の仮面があった。
 死を連想させる白い仮面。それは笑みの形を張り付けて。

 聞き届ける者など、もういないというのに。
 どこからか声を響かせて───



「哀れ西方の魔女。死と断絶の明日に絶望し、永遠の今日を求め、かの神に祈ってしまった」

「それでは何も救われないというのに。恋はなんて残酷なのかしら」

「しかし大きな違和感。神はもう死んでいる」

「これはすべて計画通り。神の死んだ日曜の日に、彼は近づいてきた」

「ロード・アヴァン・エジソンという名で、彼に、彼女に」

「干渉してきた」



「     這い寄って

                  きた      」
最終更新:2019年07月31日 22:01