「───さて」

 男は言った。
 それは、黒衣を纏った男だった。
 影の如き姿であるが、生気を感じさせない枯れ木の如き気配でもある。

 奇妙な人物。
 気配と服装は彼をそう思わせる。

 彼は決して自らの名を口にすることはない。
 見たままを口にせよと戯けて言う。容姿の通りに奇妙な男であった。

 文字通りの影にして水銀。
 それがこの男の今の名だ。

 すなわち、今や男はその名を失っている。
 その身はサーヴァントそのものなるが、しかし聖杯戦争に関与する権利は剥奪された。
 故に、彼は《水銀の影》とだけ呼称される。

 ───もっとも。
 ───彼を呼ぶ者など多くはあるまい。

 例えば、
 漆黒の玉座に座す西方の魔なる少女であるとか。
 階段を昇りつづける救済者たる少年であるとか。

 不用意にその名を呼んではいけない。
 命が惜しければ。
 彼の嘲笑の奥を想像してはいけない。
 命が惜しければ。

 永劫の時を繰り返すというその男は、眼前の何者かへと語りかける。
 既に輝きを失った黄金螺旋の最奥。王の夢の残滓が眠る暗闇の幽閉の間。
 影の如くに佇む彼と、もうひとりの"誰か"がそこにいた。

 軍帽を目深に被り、奥より知性の結晶たるレンズの輝きが見える。
 将兵にも見える若い男は、射抜くような視線だけを水銀の影に投げかけている。

「では、私はここに宣言するだろう」

 ───偉大なる聖戦の開始と。
 ───愚かなる願いの終焉を。

 ───そして、大いなる正午への到達を。

「実存なりしはこの世にただひとつ、黄金たる意思の顕れ」

「すなわち、神なる白色さえ塗り潰すオルゴンの輝き」

「されど、黄金の獣の威光をも凌ぐものが、
 欺瞞と醜悪に堕した都市に降り立つのであろうや」

 男の声には蔑みが含まれている。
 対する何者かは無言。

「成る程」

「そういうこともあるだろうが、そうでないこともあるのだろう」

「では、皆さまどうか彼女の歌劇をご観覧あれ」

「───全ては、ここから始まるのだ」





   ▼  ▼  ▼





 そして異形の都は終局を迎える。
 希望、諦観、妄念、決意、黄金、人の想いが螺旋となって都を包み込む。

 そして今、生き残ったのは僅かに5人。
 一人は変わらぬ希望を抱き、
 一人は救済に夢を壊され、
 一人は己が真実に向き合い、
 一人は騎士の誓いを胸に、
 一人はただ未来だけを見据えている。
 果たして誰がその螺旋を抜け出すのか、あるいは全て等しく振り落とされるのか。

 最も強き者が螺旋を抜け出すとは限らない。
 最も飢えた者が螺旋を抜け出すとは限らない。
 最も気高き者が螺旋を抜け出すとは限らない。
 多くの人は、自分が螺旋に囚われていることにさえ気づかないのだから。

 しかし、気づかずとも螺旋の中を突き進み、如何な困難を前にしても歩みを止めないのであれば、
 果てに少女らを待つものは、ありとあらゆる想いを見下ろす螺旋の玉座に他ならない。
 その玉座こそ、人が生きるに値するものの筈だ。

 これは幕間の物語。
 セピア色に彩られた、現実ならぬ心象の物語。
 悠然と浮かぶ五つの憶録が語る、束の間の真実である。












【鋼鉄の腕】



 ───都市すべての狂気とは。

 聖杯戦争のため都市に誘われた者のすべて。
 マスターもサーヴァントも死したる者も本戦に勝ち残った者も一切の区別なく、
 老人も幼子も常人も魔術師も、皆すべて。
 すべての聖杯戦争参加者には、ある一点において共通したものがある。
 意識の大小は当然あるけれど。
 彼らのすべては、あることを自覚している。
 すべての聖杯戦争参加者が共通して自覚するもの。
 それは、自己の狂気である。
 子供でさえもが幾らかの自覚があるのだ。自分の狂気について。

 誘われたすべての人々が、
 一度はこう思考するのだ。

 ───自分は、自分ではないんじゃないか、と。

 誰もがそれを口にしない。
 周囲の誰にも、闘争を生き抜くパートナーにさえ。
 口を閉ざして話さない。多くの場合はそのまま忘れてしまう。
 気にしなければいいだけの話。益体もない、あり得ない仮定の話など。

 だが。
 それを明確に意識してしまった時。

 人は───










【星渡りの少女】



「わたしは、自分が恵まれているんだと自覚している」

「鈍くさくて、口下手で、体育も勉強もできなくて。自分に自信なんて持てない」

「そんなわたしが生き残ってこれたのは、周りにいたみんなのおかげだ」

「東郷さん。素敵で綺麗な、まるでお姉ちゃんみたいだった人。
 最後の最期までわたしを守ってくれて。二回目もそうしてくれたって、友奈さんに聞いたよ」

「友奈さん。何かを間違えてしまった、けどそれでも諦めなかった人。
 あなたの勇気をわたしは忘れません。きっと、あなたは本当の勇者だったんだって、そう信じてる」

「おばさん。わたしを店に住まわせてくれたあなた。
 ありがとう、そしてごめんなさい。結局わたしは、恩返しどころかあなたを助けることもできずに……」

「セイバーさん。アイちゃんを守って死んでしまったあなた。
 ぶっきらぼうだったけど、あなたがずっとアイちゃんを案じていたことは、何となく分かりました。それでもわたしたちのことも助けてくれて、ありがとう」

キーアちゃん、アイちゃん。わたしと同じ、巻き込まれてしまった女の子。
 キーアちゃんみたいに、わたしもお淑やかで芯の強い子でありたかった。
 アイちゃんみたいに、わたしも確かな夢を持って、それを諦めない子でありたかった」

みなとくん。もう会えないと思っていたあなた。
 死んでしまって、お別れをして、それでもわたしの傍にいてくれた。
 本当にありがとう。こんなに情けないわたしで、ごめんなさい。
 今まできちんと言ったことがなかったけど、あなたのことが大好きです」

「他にもいっぱい、いっぱい。
 騎士さんにゆきちゃんに金ぴかさんに赤い目の女の子に、他にもわたしの知らない場所で戦っていた誰かだって」

「みんながいなかったら、きっとわたしはとっくに死んでいた」

「ありがとう」

「……ごめんなさい」










【赫眼の少女】



「自分が"そういうもの"であることを、あたしは自覚している」

「視界の端で踊る道化師。あたしたちをこうした根源。
 そこから逃れることは、決してできないはずなのだから」

「こうしてあたしが外の世界にいること。
 本当は、それ自体があり得ないこと」

「それでもいいと、思っていた」

「あの人に伝えたいという願いは、きっと元のあたしが叶えてくれる」

「そして、もう一つの願いは……」

「あたしは、青空を見たかった」

「それは絶対に叶わないと思っていたから。
 この街にやってきて、それが叶って」

「だから、それでもいいと、あたしは思っていた」

「そのはずなのに……」

「……ああ。
 ……視界の端で誰かが笑っている」

「その時が来たのだと、叫んで……
 時計のような、影のような、誰かが嗤う」

「あたしたちをこうした誰か。
 グリム=グリムではないはずなのに、すべての人たちの耳元で囁く影」

「綺麗だけど恐ろしい赤い瞳で……嗤い続ける」

「そして、告げるの。
 すべての人々に」

「……あらゆる願いを」

「……あきらめてしまえ、と」









【騎士王】



「多くの戦いがあった。多くの死を見た。
 この都市に、僕達以外で生き残っている者はいないだろう」

「……あくまで、僕の"直感"を信じるならばの話だけど」

「皮肉なことだ。
 かつてはあれだけ求め焦れた聖杯が、今や手を伸ばせば届きそうなところまで来てしまった」

「最早僕には聖杯に託す願いはなく、キーアと無辜の幼子を帰すことができればそれでいいと思っていた」

「……そのために出してしまった犠牲は、数限りがない」

「この都市に暮らす人々を、僕は守ることができなかった」

「リソースが残るならばあるいは、と、そう考えることもあったけれど」

「聖杯が叶えられる願いは条理の内に限られる。あれはあくまで過程を無視するだけのものであり、決して不可能なことを実現できるわけではない」

「死者の蘇生は叶わない。そしてきっと、仮にできたとしても、それはやってはいけないことなのだろう」

「……亡国の救済を願った僕に言える義理はないが」

「それでも、今、僕は僕にできることを成し遂げよう」

「アーチャー。英雄王、ギルガメッシュ

「主を失った彼に、最早戦う力はない───などと思うことはない」

「今や僕達の間に戦う理由はない、などと気を抜くことも許されない」

「彼は紛うことなき強敵であるし、そして何より」

「事と次第によっては、彼は僕達全員を殺しに来るだろう」

「直感ではなく確信と共に、僕はそう断言することができる」

「願わくば、例えこの身潰えようとも。
 幼き少女らの歩む道を、切り拓かれんことを」










【墓守だった少女】



「……分からないんです」

「分かんない、んですよ……
 もうぜんぜん、何もかも、分かんなく、なっちゃったんです」

「ちょっと前までは、分からなくても出来ていたことが、できなくなっちゃったんです。
 私だけに見えていた夢が、無くなっちゃったんです……」

「私にはもう何も見えません。
 私の胸にあった炎が……あの丘で誓った瞬間から、確かに燃えていたはずの火が、最初から無かったみたいに見えないんです」

「……ねえ、セイバーさん。
 あなたは、私に、何を望んでいたんですか?」

「もう何も見えない。聞こえない。
 あなたの声を、私はどうあったって聞くことができないから」

「だからせめて、あなたには怒っていて欲しい」

「最後にあなたを救わなかった、私を恨んでいて欲しい」

「こんなに酷いことをした私を、裏切った私を、あなたに嘘を吐いて振り回した、それどころかとても許されないことをした娘だと、そう思っていてほしい」

「ずっと忘れないでいて欲しい」

「そして、あなたはきっと許してくれるだろうと確信してこんなことを言っているひどい私を、それでも許して欲しい」

「……ねえ、セイバーさん」

「こんなことを思ってしまう自分が、自分でもよく分かんないんです」

「失敗、してしまったからでしょうか」

「今更、あなたを助けたいなんて願ったからでしょうか」

「でもですね、セイバーさん。最初から間違っていれば良かったんだって、理屈の上で理解することはできるんです」

「でも、だとしたら……」

「今まで私がやってきた全ては、夢のために行ってきた全ては、
 ぜんぶぜんぶ、無駄なことだったんでしょうか」

「そこに意味は、なかったんでしょうか」

「……それさえ、今の私には分からないんです」










【英雄王】



「……はッ」

「生意気にも、我が心理領域に足を踏み入れるか」

「夢見の亜種か。随分と酔狂なものだ」

「失せろよ新鋭。貴様、仮にも《英雄》の属性を背負って立つならば相応の礼儀を心得よ」

「……だが、そうだな。ただ一つだけ答えてやるとすれば」

「そう急くこともあるまいて。貴様の出番はすぐそこだ」

「なあ、第二の盧生とやら」










END





   ▼  ▼  ▼





 我が愛しき英雄たちよ。

 たとえ桃源の理想郷があなたたちを惑わそうとも。

 たとえ悪しき神が顕れようとも。
 尊きものは
 決して消えぬ。

 あなたたちのうちのひとりでも構わない。
 世界を、どうか───







「───少女たちよ」

 男は言う。
 光差さぬ場所だった。
 其処は、紛うことなき暗黒によってのみ形作られていた。
 そこは世界の最果て。無謬の白き石榑だけが敷き詰められた永劫不変の地。
 すなわち、万能の願望器が眠る場所。それは未だ中天より地に降り立つことなく、揺籃の夢に微睡んでいる。これこそが彼の都市にて行われる聖杯戦争の中心となる存在であるというが、暗がりの底に立つ男にとっては異なる意味を持っていた。
 決して、是が聖なる杯であるものか。
 人類史に刻まれながらもサーヴァントとして呼び出された英霊たちの血───数多の強大な魂を受けて稼働し、真に尊き唯一の願いを呼び水として奇跡を行使するモノの正体を、既に、男は見抜いていた。悪しき神に啓示を受けたわけでない。それはかつて、彼がやり残した役割の一つであるのだから。

 聖杯。聖なる杯。奇跡を以て遍く人を救い給う万能の願望器。
 皮肉な話だ。目を閉じ眠り続ける仙王を指して、救済の奇跡たる聖杯などと!

 故に、男はやってきた。
 彼は今や、自らの立場を変えはしない。在りし日の残影に過ぎぬと理解しているからこそ、遺された唯一を違えることはない。
 自分が何をすべきか、何を奉ずるべきか、男は明確に自己の依って立つべき場所を規定していた。

「数多の英霊が失われ、数多の涙が流された」

 聖杯の名を冠する獣の脈動を前にしながら、男は───厳密には廃神として形作られたる身である、かつて黄昏の守護者であった残骸は、静かに瞑目する。
 多くが是の糧として捧げられた。
 そして、今、聖杯ならざる地獄の大釜は最期に祈られる願いを以て地上に降り立とうとしている。

「墓守であった少女よ。お前を守り抜いた刹那ならざる我が身は死した」

 藤井蓮がこの光景を見たならば、すぐさまにでもその宝具の神秘を露わにしただろう。
 だが、既に彼はいない。
 残された少女は残骸の墓の上で咽び泣くのみ。最早、何の力もありはしない。

「《勇者》となった少女よ。お前の掲げた勇気は、果たして何かに届き得たのか」

 世界を救った勇者たちであれば、やはり、全てを捨ててでも偽りの聖杯に立ち向かっただろう。
 だが、既に彼女らも死した。
 主人たる星渡りの少女は可能性存在たるエンブリオを宿してはいるものの、真実は遥か遠く。

「赫眼宿す第四の《奪われた者》よ。お前の願いは未だ果たされない」

 尊き願いを持つはずの彼女ですら、既に黄金瞳の少女を覚えてはいまい。
 彼女は消え失せた。そしてその従僕であった赤薔薇王も同じく。彼らもまた、既にこの世にはいない。
 遺された少女はただ一人、漆黒の茨に苛まれてその身を削るのみ。

 英雄たちは死した。
 残されたのは少女の涙ばかり。
 最早、この異形なる都市は呪わしくも恐ろしき運命を待つばかり。

「……未だ」

 ───世界を救わんとする真なりし英雄、未だ。

 ───此処へは至らず。

 ───ただ、世界を喰らう獣の脈動が暗黒を揺らすばかり。

「けれど」

 暗黒の底で、男は顔を上げる。

 鮮血に濡れたが如き朱き視線は、黒色に染め上げられた空間に消えゆくばかりだが。その果てには、多くの人々が営みを続ける世界の姿があった。
 太陽の代わりに、月の代わりに、黒だけが占める中天に浮かぶ青き真円の世界。
 今や痴れた陶酔の煙に包まれてはいるが、それでも青き清浄の世界は面影を残している。

 其処にはいるのだろうか。
 未だ、絶望の果てたる此処に至らずとも?

「彼は、彼女たちは、往くのだろう」

 ───いるのだ。
 いると信じている。
 第六天に非ざる世界ならば、奉ずべき輝きも、きっと。

 男は言う。何らかの願いを込めて。
 朱き髪と朱き眼を暗がりに浮かばせ、漆黒の肌を湛える男は、遥か遠き月面の地上にて。

「邪悪のすべてを振りほどき、尊き願いを携えて、きっと、この最果ての地へ」

 男は言う。ひとつの思いを込めて。

「───世界を、救うために」
最終更新:2019年07月17日 23:23