頭上の天空には夜気を増した漆黒の気配のみが湛えられている。厳かな銀光に照らされた雲が朧に揺らめき、その輪郭を闇へと溶かしていた。
それらが見下ろす地上、あらゆる全てから取り残された不毛の大地を包むのは、開戦以来何も変わらない廃せる気配ただひとつ。
セイバーは───騎士王
アーサー・ペンドラゴンは無謬の地に仁王立ち、そんな空を見上げながら、静かに目を閉じていた。
ただ、無言。極限まで研ぎ澄ませた感覚が周囲を克明に伝えてくる。
月光に照らし出される蒼銀の騎士。清廉なるは鎧の秀麗さや見目の麗しさなどではなく、その総身より放たれたる一振りの剣が如き顕れである。
『答えを見出したか』
唐突に頭に飛び込んできた魔力による念話を、アーサーは驚くことなく受け止めた。
「……全て、最初から見ていたのか」
アーチャーとは弓兵、すなわち射手のクラス。特に優れたる使い手ならば千里眼、あるいは鷹の目といった遠方視認のスキルが顕現するが、しかし常態としてアーチャーのクラスとはそうした技能に秀でている。
英雄王
ギルガメッシュ。誉れ高き英雄たちの王。世界の全てを背負う人類種の代表者。
ああ、ならば。最初からこちらの全てを見通していたとしても、何ら不思議はあるまい。
その上で、彼は生存者に手を出さなかった。アーサーたちの動向を手に取るように察知しながら、曇天の果てでただ何もせずにいた。
「私を待っていたのか」
念話の向こうの沈黙は、すなわち肯定だった。
ギルガメッシュは、強い。
単純な性能の話ではなく、心と信念こそが彼を最強足らしめているのだ。英雄とは人の想いを受けて立つ者であり、その王とはすなわち人界の全てを背負うに値する偉業を課せられている。
人類の裁定者にして代表者。人の想いを掲げる者。ならばこそ、彼は孤高にして絶対の強さを体現しているのであり、その威光を前にしては脆弱な想いの数々など微塵と消え去る他にない。
"負けるつもりで敵に挑む戦士など殺す価値すらない"。アーサーが確固たる理由と意思とで戦いを選択し、自らの死を礎とした他者の救済ではなく勝利をこそ望む「敵」となる時を、彼はただ待っていた。
見定めるために。
全身全霊の境地の果てに、アーサーと少女たちの、そして彼自身の"強さ"を見定め、最後に残るべき者を選定する。
それこそがこの聖杯戦争でギルガメッシュが定めた、虚像として現界した己に課した存在意義の全てであればこそ。
「不本意ではあるが、確かにお前の言う通りだったのだろう。私は人類史に落ちた影、かつて乱世を生きたアーサー・ペンドラゴンの現身でしかない。最早この身に命はなく、最早この身に願いはなく、ならばこそ遺された騎士の道に従い無辜の少女らを生かして帰す。ただそれのみを願っていた。そのためならば、所詮は偽物でしかない我が身を犠牲にしても構わないとさえ」
自己犠牲による礎。敵と相打つことによる他者の救済。
それ自体は決して非難されるべきではない、見ようによっては正しく騎士の道に通じる美しい死に様ではあるのだろう。
だが、それはあくまで死に様であり、生き様ではない。
自身の死を前提とした戦いなどただの逃げでしかない。時にはそれが最適解ともなろうが、少なくとも今は違う。
ここでアーサーが死ねば、残された三人の少女たちが聖杯に至る道は閉ざされる。
サーヴァントを失った元マスターだけで大聖杯に行き着けるとは断言できない以上、アーサーの死はすなわち彼女たちの死。自己犠牲の精神など、そもそも前提からして間違っているのだ。
故にこそ。
「しかし今は違う。私は、負けない。我が背には守るべき人がおり、想いがあり、失われた朋友たちとの誓いがあり。そして何より私自身の願いがある」
ギルガメッシュは、無言。
構わない。こちらの意思を伝えられるならそれでいい。全身に緊張が充ちる。これこそまさしく最後の戦いであり、そして相対するは正しく全英霊の中でも最強の一角たる黄金の英雄王。
覚悟を決め、アーサーは宣言する。
「私は私自身の意思に基づき、この身が持つ全ての武力を以て、お前を討滅する」
その時、
アーサーとギルガメッシュを隔てていた大気の壁が、念話を媒介していた魔力的なラインが、一斉に爆轟した。
『戦闘に値する』
声。
何憚ることなき凄まじい強度。感覚器がショートし物理的な衝撃までをも伴った意思の波濤が、アーサーの脳髄に叩き込まれた。一言で十分だった。冷水が一瞬で沸騰するような熱量の膨張。大気が打ち震える圧の中で、アーサーは正真正銘最強の英霊の本気を見た。
「決着を付けよう」
剣の柄に手がかけられる。一息で抜き放たれたる刀身は清らかな烈風の流れを纏い、風すらもが死に果てた世界を嵐の如くに揺らした。
「我が誓いはアーチャー・英雄王ギルガメッシュの撃破。マスターたちとの約束は私自身の生還。
今この時より、我が身はただ一振りの剣と化し、少女らの道を阻む悪鬼の悉くを撃ち払うだろう」
言葉と同時、アーサーの全身に魔力が充ちていく。それは全てが戦闘のための身体効率の最適化作業であり、彼という一個の肉体を真に最優の剣士として生まれ変わらせる淡い燐光でもあった。
剣を携える。腰を落とし、地に足を踏み込む。
極限まで高まった魔力の波濤が光となり、その双眸が青く輝く。
そして、アーサーがギルガメッシュを見た。彼方にて待つ、最強最後の敵の姿を。
「───かつてのサーヴァント階梯第一位、セイバー!
───真名アーサー・ペンドラゴン!
聖剣を以て、今、私はお前と対峙する!」
『───彼方のサーヴァント階梯第三位、アーチャー。
───真名ギルガメッシュ。
貴様が手にした聖剣で以て、いざ、世界に蔓延る悪意の悉くを払ってみせるがいい』
戦闘動作の開始は、奇しくも同時だった。
静止状態から一瞬にして最高速へと至る。その身を一陣の颶風に変えた騎士王の疾走が銀の閃光となり、それを阻むように放たれる無数の金の光条が、夜闇を一直線に切り裂いた。
▼ ▼ ▼
戦闘は、彼方に煌めく互いの閃光を認識した瞬間に幕を開けた。
天を覆う無数の黄金光、放たれたるは宝具級の武具の一斉掃射。ゲート・オブ・バビロンが及ぼす絶対の即死圏は、ギルガメッシュを中心とした球状にざっと半径500m。顕現させる武装や適応させる宝具効果を鑑みれば最大射程など想像もつかないが、少なくともそれより狭いということは絶対ない。
光条の投擲速度は音など遥か超越し、文字通りの光の如くに飛来した。均等に均された死の大地を悉く粉砕し、膨大な粉塵を発生させる。金の残像が流星のように大地に墜ち、鼓膜を震わす爆音轟く中から一陣の銀光が一直線に駆け抜ける。
それは疾走する騎士王の姿だ。破壊と粉塵と爆轟が占める世界の中を、しかし一切の傷を負わないままに駆ける。巻き起こる衝撃波が大地を削り、土煙を切り裂き、バビロンの宝具群さえも弾き返し、月光を反射して光るそれらの只中を蒼銀の影が突き抜けた。
速い。圧倒的なまでの速度。それはかつてこの地で斃れたシュライバーには及ばずとも、彼にはなかった堅牢さをも備えて。風の加護を纏い迫る破壊を打ち払う騎士王の疾走は、最早等身大の嵐と形容できた。
数百mの相対距離が、コンマ秒以下でゼロと化す。
初手、正面会敵。
黄金と蒼の視線が、至近距離でかち合う。
アーサーは何も言わずに仕掛けた。疾走の速度もそのままに振るわれる聖剣の一閃。それはかつて元素魔剣の真名解放たる真エーテル光さえも切り裂いた一撃であり、およそ受け得る盾などありえない斬撃だった。一直線に首を狙い澄ました剣閃は、超越の速度を以て襲い掛かる。
瞬間、ギルガメッシュの手許より黄金の剣閃が翻った。
嘘のような斬撃の逢瀬。いつの間にか英雄王の手に握られていた黄金双剣が、聖剣の行く手を阻んでいた。尋常の膂力、尋常の技量で受けられる一撃ではなかったはずだ。アーサーは間違いなく最高峰の剣士であり、そして今まさに振るわれたのは間違いなく最高の一撃だった。赤騎士でさえこうも完璧に阻めるかどうか、単純な技量でこれを凌げるサーヴァントは赤薔薇王か黒騎士を除いて他にはおるまい。つまりこれは、英雄王の持つ剣腕が彼らにさえ匹敵するものだという証明であり。
「ふッ……!」
そんなことは最初から分かっていた。
如何に弱り、如何に消沈しようとも騎士王の間合いに滑り込み一撃を加えたその手腕、断じて弱兵のそれではない。あの時点で既に、アーサーはギルガメッシュの力量を見抜いていた。
故に油断はしないし驚愕もしない。ただ厳然たる事実と受け止め、更なる連撃を叩き込むのみ。
英雄王の総身がある座標を、情け容赦のない次撃が滑る。半円を描く切断面が空気を斬って真空を作り、絞るような音と共に薄い蒸気が散った。半瞬前に回避行動に移ったはずの英雄王の頬を切り裂いた聖剣が、飛び散る血さえも熱量で蒸発させた音だ。振り抜かれた聖剣の軌跡は、その向こうの大地までをも一直線に切り裂き、轟音と共におよそ数十mにも及ぶ巨大な亀裂を刻み込んだ。
「魔力放出、剣身加速───風の鉄槌よ!」
アーサーは即座に反転。未だ回避行動に在るギルガメッシュの側方に向けて、最大加速を果たした斬撃を叩き込む。魔力によるジェット噴射はおよそ尋常の身体構造には不能の、真に必殺の斬撃を放つことができる。
大気が割れる。空間が断割される。世界ごとを切り裂く究極の一閃。それを、ギルガメッシュは何もかも読んでいた。
両者を隔てるように墜落した壁は白銀の盾。アーサーが振るった剣の運動座標に寸分違わず合わせ、超高密度の幻想装甲がその場に現出する。大岩が弾けるかの如き重低音が木霊し、超加速された剣閃は運動エネルギーの全てを受け止められ、静止する。
直後、大盾を回り込むように左右から黄金の軌跡がアーサーを挟撃した。
咄嗟に後方へ飛び退った騎士王の残像を、盾ごと切り裂くは英雄王の一閃である。流体金属であるかのように形を変える幻想装甲は騎士王の一撃を受け止め、逆に英雄王の一撃を透過したのだ。空気に真一文字の真空を発生させながら、凄まじい轟音と共に振り抜かれる双剣。踏み込まれる震脚が大地を揺らし、未だ中空に在る騎士王へと迫る第二撃。
攻守が入れ替わる。被照準。
───ッ
竜巻のように渦をまく黄金光が、その全てに必殺の威力を乗せて騎士王を狙った。アーサーは魔力の一切を惜しむことなく風の戒めを解放、死にもの狂いの抵抗で以てバビロンの掃射を耐え、更に襲い来る双剣の軌跡を受け止める。防御に腰を落とすアーサーの背後では、巻き込まれた大地が地平線までをも爆砕され、雲まで届くかのような巨大な粉塵を巻き上げていた。
アーサーの勝機は剣を用いた近接戦以外になく、しかしその土俵ですらギルガメッシュは騎士王に匹敵する剣腕を見せていた。更にはバビロンによる援護射撃に面制圧。仮にその他宝具の行使までをも可能としていたなら、きっとその時点でアーサーは一切の勝機を失っていただろう。
最優先事項は彼に必殺を撃たせないこと。次に距離を離さないこと。敗北は許されず、勝たねばならないアーサーは、勝つために一手のミスも犯してはならなかった。
鍔競る刃の向こうから、蒼の輝きを湛えた視線を対敵に向ける。
その瞳に、諦めの意思は見えなかった。
───何故君は戦うのか。
そう尋ねたアーサーに、彼は何の臆面もなく即答した。
「アイと、俺自身のためだ」
それはある種、予想のできた回答だった。
藤井蓮はエゴイストだ。混沌というアライメントはまさしく秩序性からの隔たりを意味し、彼の優先順位は極めて個人的かつ狭量な代物ではあった。
「世界のためとか、そういうことが言えたら格好良かったんだろうけどな」
しかし、それは利己のみを追求しているのとは違う。
彼は彼の大切なもののために戦っていたに過ぎない。それは自分と何ら変わりなく、誰にも否定できない真実でもあるのだろう。
「俺は弱いし、そんな器じゃない。英雄なんてガラじゃないのも分かってる。それでも俺は、俺のできる範囲で最善を尽くしたい」
その結果が先の解答なのだと、言葉にするまでもなく彼は語っていた。
「だから、悪いな。俺はアンタみたいに正しく戦えない。自分達のためにしか戦えない俺は、きっとどこかで自分の命を軽く見る」
「……それでは、君のマスターが悲しむ」
「そうしてくれるなら可愛いもんだけどな」
彼は苦笑も露わに、しかし次瞬には真剣な顔つきで。
「万が一の時は、あいつのことを頼む。アンタならきっと、世界のついでにあいつも助けてやれるだろうしさ」
……きっと、その時には既に答えは決まっていたのだろう。
彼が辿る結末。そして自分の中の結論も。
託された希望はこの手の中にある。遍く絶望を越えられる。他のどの宝具にも、どの力にもできない、アーサー自身の手だ。
何物も障害物にはならず、一時の目晦ましにしかならなかった。
轟音。
鍔競り合いで弾き飛ばされたアーサーは、黒く染まった死の大地をソニックウェーブで削りながら再度の接近を試みていた。刃を押し込んでの近接戦で、しかし有効打は一撃足りとて与えることはできず、今や騎士王はすぐ背後に迫る無数の宝具群を必死の思いで振りきろうとしている。
地を舐めるほどの前斜体勢で疾走する。駆ける先の地点が狙撃され、大量の粉塵と瓦礫が舞い、螺旋と切り裂かれる衝撃によって接地点としての機能を喪失した。
押し込む斬撃は回避されるか受け止められ、かつて屹立していたビル群を諸共に粉砕できたであろう風の鉄槌さえも同様の末路を辿った。対人宝具にも相当する聖剣の黄金刀身すら容易く受け止めた様はまさしく絶望そのもので、しかしその域の力が無ければ聖杯戦争をこの局面まで生き残ることはできないのだという証左なのだろう。散弾とばら撒かれる黄金の軌跡はまさしく驟雨が如く、天より地を舐めつくさんばかりの勢いで降り注ぎ、常軌を逸した破壊の嵐を此処に具現していた。
「ぐうッ!」
一条の閃光が斜めに走り、アーサーの装甲を斬る。浅手だ。回避には成功した。だがダメージは着実にアーサーの身を蝕んでいた。
ギルガメッシュの刃は一つ交錯する毎に鋭さを増していった。疾走するアーサーに、圧倒的な戦意と確実な死を纏う黄金王の剣戟が迫る。バビロンの一斉射は開戦当初の優に十倍の密度と圧力を有し、今や魔力放出の余波だけで吹き散らせる脆弱さなど微塵も見られなかった。
やはりというべきか、間合いを離した中・遠距離戦においてアーサーが勝ち得る可能性はまるで存在しない。
元々が剣しか知らない身であることもそうだが、対敵たるギルガメッシュは明らかに地を駆ける獲物の狩り方を熟知していた。追い込み、弱らせ、確実に仕留める。バビロンによる死の制空圏はまさしく絶対そのもので、しかしそれを抜けさえすれば勝てるのかと言えばそうではない。先程のアーサー然り、バビロンを突破しても尚、そこに待ち受けているのは熟達の技量を併せ持った最高峰の戦士の姿。ギルガメッシュは圧倒的な物量から高見の見物を決め込む無能では断じてなく、その本質はアーサーに匹敵あるいは上回る域の純粋な戦士なのだ。
聖剣すらも受け止める剣腕は、恐らくマキナ卿を正面から相手取ってもひけを取らないレベルだろう。つまりはアーサーとほぼ同等。既にこの段階で、戦闘を左右する諸要素として騎士王は敗北を喫している。
だが、それで実際の勝敗が決定されるほど、戦いというのは単純でもなければ甘くもない。
「剣身加速、風の加護よ!」
自身に命じるかのような声と共に、総身に疾風を纏わせての超加速。アーサーは慣性の法則さえ捻じ伏せて鋭角へと疾走軌道を強引に修正、速度はそのままにバビロンの掃射を遥か後方に置き去り、前方より迫る弾幕の悉くをその剣で以て打ち払った。
刃と刃の交錯が、虚空に無数の火花を咲かせる。
迎撃の成功、故に生まれる複数の選択肢。この一瞬だけ逃げるも撃つも撹乱するも思いのままであり、しかしアーサーは迷わない。
選択はただ一つ。一心不乱の接近のみ。
元よりこの身は剣しか能がなく、ならば刃の届く間合いに入らなければそもそも敵を倒すことすらできやしない。故に躊躇も迷いも一切不要、ただ駆けただ斬るのみ。
瞬時に加速する肉体。疾走に掻き消える姿。遥か頭上より迫るは視界全てを覆い尽くさんばかりの剣の波状であり、されどこの速度ならば着弾より先に掻い潜ることが叶うだろう。
「おおおおおォォォォォォォォっ!!」
咆哮が喉より迸る。見渡す大地の全てに突き立つ黄金の光条を潜り抜け、いざ対敵の下へと踏み込まんとした。
その刹那。
ずん、と全く予想外の角度から、何かが突き刺さる。胴体左側面、背面に近い脇腹。何故、バビロンの掃射は悉く視界に収め、斬り伏せたはずなのに。
宝剣宝刀よりもずっと細く短い、それは矢だ。
理解した瞬間、見誤っていたことに気付く。アーサーは確かにバビロンの無数の弾道を見据えていたが、逆に言えばそれだけだ。近接するその一瞬だけ、視界と注意はギルガメッシュより離れてしまった。
優れたる戦士の彼が、今まで剣しか使わなかったからといって"それだけ"であるなどと誰が言ったか。
それはこの都市に生きる誰もが初めて認識した事実であったに違いない。
圧倒的にして絶対の物量は遍く敵を粉砕し、この世の神秘の悉くを行使する彼は、ただそれだけで敵の全てを退けてきた。
彼から純粋な剣の技量を引き出したのさえ、アーサーが初めてであった。
故に誰もが想像さえしなかった。
ギルガメッシュは、弓の技さえ達人であるということを。
その一瞬、アーサーの虚を突く最適のタイミングで、バビロンを凌ぐ騎士王でさえ反応の叶わない超精密の射撃を行ったなどと。
「づぁッ……!」
度し難い隙だった。
肉体的な損傷よりも、精神面に生まれた一瞬の思考停滞こそが致命だった。100分の1秒にさえ遠く及ばない僅かな隙は、しかし熟達同士の戦闘において最悪の空白と化す。
両者の相対距離は既に十メートルを切っていた。慣性に従って流れるアーサーの肉体。その先より飛来するは黄金の重弾幕。
死ぬ、と思った。
思った瞬間、風の魔力を暴走させた。今までのような指向性を持たせたものではない、自爆同然の乱反射。衝撃に全身を軋ませ、中空に投げ出された姿勢を崩してスピンしながらアーサーは致命の一撃より逃れる。
それはまさしく、寸毫の差だった。
アーサーが離れたその刹那、地に突き立った刀山剣樹は悉くを砕き、貫いた。
音よりも早く衝撃となって浸透するその感触に、焦燥が穴だらけとなって思考の底へ落ちていく。あと一瞬だけ行動が遅れていたなら、アーサーの身は紙より容易く切り裂かれていただろうことは想像に難くない。
そして安堵する暇もなく、その時既に、ギルガメッシュが間合いに飛び込んできた。
心底より戦慄する。バビロンは布石、狙撃も布石、追撃も布石。ただひとえに、体勢を崩したアーサーを射程に入れるために。そしてこの距離、手にした刃の届く超至近距離において、超越の技量を有した英雄王が黄金の剣筋を閃かせる。
「その首を落とす」
一閃、二閃、四閃、八に十六に三十二に六十四に百二十八。一秒もなく展開された全ての斬撃は一つ一つに必殺の威力を乗せる。
速すぎる。
その身はシュライバーのような加速の加護を持たず、アーサーのような魔力放出すら叶わず、しかしならばこの速度は一体何であるというのか。
まさしく多重次元に屈折してるかの如き黄金の嵐に晒される。最早自分の身に何が起きているのかさえ判別がつかなかった。懸命に剣を掲げ、致命となる部位への攻撃だけは何とか回避するので精一杯だ。風の魔力を再度暴発させ、逃げた。吹き飛んで逃げた。
それさえ、死までのリミットを僅かに引き延ばすだけだと理解していた。
無音の斬撃が、天より降り注ぐ黄金の驟雨が、終わりであるとばかりに放たれる。
交錯に光が閃き、それに何手も遅れて、轟音が衝撃波と共に大気に轟いた。
アーサーは覚えている。
いつかマスターやアイ、
すばるらと共に行動していた時、傍らで立つ藤井蓮の言葉を。
それは「速さ」の話だ。かつて彼が持っていたという創造の渇望であり、勝負を決める最重要要素でもあり、古の武術による知識でもあった。
───まず一刻を八十四に分割する。
分割したうちの一つを、分と呼ぶ。これは人間の呼吸一度分に等しい。
分の八分の一を、秒と呼ぶ。
秒の十分の一は絲。
絲の十分の一は忽。
忽の十分の一は毫。
そして毫の十分の一に領域を、雲耀という。雷光を意味する言葉だ。勝負は全て、この雲耀の域で決まる。神経を研ぎ澄ませ、全ての機を見逃すな。
「その点、実際に時間を分割して加速してた昔の俺は、割と反則だったんだろうけどさ」
苦笑う彼の顔が、今は遠い。
恐らく、ギルガメッシュとはそうした視点を持つ英雄なのだろう。
遍く世を見つめ、遍く人を見つめ、故にこそ何者も見逃さない。射手たるアーチャーの本領であり、その基本形。
彼に打ち勝つためには、自分もその領域に達しなければならない。
「魔力充填、最大加速……!」
魔力放出、最大出力。
まず第一の関門、その雲耀へと至る。
過剰な魔力を流し込むは敵手でも聖剣でもなく己自身であった。痛覚も嫌悪感も何もかもを押し込め、過負荷で崩壊する内部にも一切頓着しない。あらゆるリスクは厭わない。ただこの一戦に全てを賭けられるならそれでいい。
全神経が荒れ狂う。感覚が殺人的なほどに暴走する。自壊に至るまでの無謀な刺激。全知覚が電流の如く暴走し、そしてアーサーは「そこ」に至った。
無数の刃がアーサーに襲い掛かる。
既に、見えていた。
───絶対に、生きて帰ってください。
キーアはあの時そう言った。令呪なきその言葉は、アーサーにとって何の強制力も持ち合わせていない。命令でも何でもない、ただの言葉だ。
だが、言葉でもいいのだ。それが理由になるなら。
魂を振り絞り、騎士王は叫んだ。
「いざ───英雄、断つべし!」
疑似神経加速。
肉体動作のみならず、知覚領域にさえ適用させた魔力の大暴走。
赤騎士との戦いで行使したものとは比べものにならない、安全性を度外視した故の一時的なオーバーフロー。
主観時間が無限のように引き伸ばされる。一瞬が永遠のように感じられる。
時が灼熱する。
永遠の刹那の中、アーサーは一切を置き去ってギルガメッシュへと翔けた。
ほぼゼロの時間差で放たれた三百二十七閃の斬撃及び五百八十三撃の掃射のうち三百五十五が牽制で百九十三が罠で残り全てが必殺の本命でありそのうち七十五閃と七十六閃の間に隙間が【稼働率低下、効率上昇を急げ】抜けた先のもう一閃を紙一重で潜り更に距離を詰め【加速しろ】思考が灼熱し脳が沸騰する感触を覚えるが最早構うことなく【限界は既に超えた】刃の嵐の抜け道を奇妙にゆっくりした知覚で見切り【鎧は砕け鮮血が舞う】酷使した片眼が限界域の充血と共に破裂し【視界不良、しかし直感で補えば問題なし】体中の全ての細胞が燃えて燃え尽きる感覚【筋線維断裂】それでもいい【内臓損傷】届け【骨格破損】届け届け届け【片腕は最早使い物にならず】まだだ【もう何も見えない】一撃でいい【聞こえない】血煙が刃のような筋を引いて【体が動かない】無数の傷を受け尚も自身が止まることを許さず【耐久不可能】空と地が逆転【再照準】ただ雷光のように突き進め【魔力再充填】闇を塗り固めた色の【神経断裂】眼前にて待ち構える男の気配【危険領域超過】視えた【最早生存の余地はなし】刃と刃の狭間【危険】刻まれた時と時の間に【危険】英雄王の姿が【逃げろ】撃【死ぬぞ】「ぅうううううおおぉぉおおおおお【いいや、いいや】ぉおおおおぉおぉぉぉおおおお【最早逃げ場などなく】おぉぉおぉおおおぁあああぁぁあああああああ【此処こそが死地であれば】ああああああああああ【最後まで戦い抜くのみ】ああああああああああああああああああああああああああッ!!」
そして、接敵。
技ではなかった。
異能でも、宝具の力でもなかった。
それは、どこまでも愚直なただ一振りの剣であり、純粋な破壊そのものであった。
アーサーは全推進力をその背と柄握る右手にかけ、旋回する一陣の颶風となってギルガメッシュへと押し迫った。
ただ一度きり、渾身の一太刀さえ浴びせられるならそれでいいという、捨て身にして己そのものを刃と化す一撃。
形振りなど構っていられない。ただ速さと強さだけを追求した獣の刃。
だがそれさえ、ギルガメッシュは一枚も二枚も上手を行った。
彼は周囲を舞うバビロンの全てを放棄し、己もまたただ一振りの刃と見立てて一閃を放つ。
真っ向迎撃。両腕に握られた双剣はその柄を結合させ、それ自体が巨大な剣となってアーサーを迎え撃つ。
技なき獣と堕したアーサーを前に、挑むは技の極致たる一撃だった。それは速く、巧く、何より圧倒的なまでの強さで以て振るわれる斬撃。アーサーのようなまがい物ではない、真実の雲耀の一太刀。
避けられず、耐えきれない。必殺にして完璧なタイミングで為されたその攻撃を前に、防御も何もかも捨て去った我が身は一切の抵抗を許されない。
だが、それでいい。それを待っていたのだから。
ギルガメッシュの剣がアーサーの身に滑るその刹那、聖剣の刀身を包む黄金の光がその激しさを増した。
耳を劈く轟音が大気を揺らし、目を焼く強烈な閃光が夜闇を真昼のように照らした。
光が収束する時。ギルガメッシュを守るあらゆる防御が切り裂かれていた。
過重星光。
アーサーが暴走させていたのは己が身だけではない。極限まで集束された光の一閃は結界も鎧も何もかもを砕き、黄金剣すらその軌道を弾いた上で真っ直ぐに振り下ろされる。
永遠のように遠かったギルガメッシュの制空圏、半径およそ500m。その全てを踏破して、今こそアーサーはあらゆる足掻きを結実させる。
一撃でいい。
刃の嵐を潜り抜け、渾身の一撃を放たせ、防御も何もかもを剥ぎ取り、こちらの全身全霊を叩き込む。
これだけが勝利への道だった。ここまでしなければ、眼前の英雄王は倒せなかった。
しかし、同時にアーサーも耐えきれるはずもなかった。
目から光が失せる。
知覚がエラーめいてショートする。
目の前がブラックアウトし、全ての力がその一瞬で失われ、死の予感が全身を絡め取る。
それでも止まらない。
死ぬための戦いではない。
使命でも憎悪でも本能でもない。
ただ、勝ちたい。それだけが全てとなり、意思が最後の熱量を発した。
そして今、ただひとりの騎士が英雄王を切り裂いた。
振り抜かれた黄金騎士剣が、同じく黄金の男を斜めに裂く。
勢いを殺せないままに転がっていくアーサーを後ろに、ギルガメッシュはただ、凄まじい噴血を迸らせて。
明らかな致命傷。決着が此処に成る。
全ての力を出し切ったアーサーは、最早機能を失った目の代わりに、直感で以てそれを感じた。
最後の勝者が、ここに決まる。
「───舐めるな、たかが"致命傷"だ!」
ああ、だが、だが。
笑みを浮かべる英雄王、未だ斃れず。
致命傷のはずだ。その身は肩口から脇腹下までを切り裂かれて、ともすれば骨格内臓ごとを断ち切られているはずなのに。
「だが、その啖呵は良し。今のお前はまさしく、我が相対した中でも屈指の英霊に相違ない」
望外のものを得たと言わんばかりの英雄王は、傲岸のままに破顔し天高く跳躍する。
そして足場となるものもないままに、翼持たぬはずの彼は遥か高みの虚空へと着地し。
「故に、心して受け取るが良い!」
そして此処に、再度の絶望が姿を現した。
それは、弓、なのだろうか。
柄の部分が連結した黄金の双剣。かつては大剣として使用された"それ"が、今は一つの大弓として。
魔力線たる弦が形作られる。同じく黄金に輝く矢が番えられ、引き絞られる一矢が確かにアーサーを照準する。
次瞬、風切る黄金矢がアーサーの頭蓋を狙い放たれた。その一矢自体は僅かに首を傾けることで辛うじて回避に成功するも、しかし肌に突き刺さる脅威の気配は微塵も減じてはいない。彼の弓撃の本命はこれではない。
───ならば真に放たれるべきは一体何だ。
───それは"矢"だ。英雄王の手にはなく、しかし確かに其処に在るもの。
天を見よ。空の彼方を見よ。今こそ此処に顕現する、それは巨大なる天の裁きそのものである。
───終末剣エンキ。
それは剣であり、弓矢であり、そして水を呼ぶ錨でもある。
漆黒の天蓋に見えるものがある。それは衛星軌道上より耀く巨大発光体であり、地を滅ぼす神威の流星であり、文字通りの星の一矢でもあった。
七条の光が一点に収束していくのが地上からでも分かる。膨大な圧力が今にも降り注がんとし、巨大な質量に最早空は耐えられない。
「滅びの火は満ちた、来たれナピュシュテムの大波よ!
其は一切の不浄と罪業を濯ぐ波濤なれば、退廃の地たる異形都市の終末にこそ相応しい!」
あるいは、相応しいのは二人の決着にこそか。
暴風と吹き荒れる咒波嵐の中、高らかに哄笑するギルガメッシュの狂想が語るのは、溢れ出んばかりの諧謔の念だった。
終末剣エンキはノアの大洪水の原典たる大海嘯を発生させる規格外宝具だが、代償にと言うべきか様々な制約が施されている。
内の一つが発動時間であり、エンキは起動から一日を経るごとに破壊力を増し、七日を迎えたその瞬間に最大の力、すなわち神代の大破壊そのものを発現させることが叶う。
今まさに放たれようとしている一撃はまさしくエンキの最大起動であり、それはつまり"彼がこの時の到来を予め予測していた"という事実に他ならない。
彼は最初から全てを見通していた。
決着の時、その舞台、自らが相対すべきは何者であるというのか。
そして今この時この瞬間を以て、彼の見た未来は現実のものとなる。
「いざ、下らぬ因果に終焉を!」
───────────────!
───恒星が如き衝撃と光を伴った大爆発が、遥か頭上にて炸裂する。
───朱き魔力の紋様が奔り、見上げる空の悉くが罅割れていく。
大空にて凝縮し渦を巻く膨大な魔力群。天を覆う神威の嵐。
見上げる双眸が光を喪う。力の抜けた手から剣が滑り落ちる。
刃の届く距離ではない。届かせる力もない。
既に死に体となった騎士王に、抗える力は残されていない。
───伸ばした手は、届かない。
「セイバーさん!」
───それが、たった一人の手であったなら。
「すば、る……」
アーサーの目の前に立つ者が在る。
それは懸命に右手を伸ばして、同じく伸ばされる鋼の右手と共に。
迫りくる大波の余波の悉くを受け止めて、アーサーに届かせまいと踏みとどまる少女の姿。
「ぐ、ぅあ、ぁぁあああ……!」
その光景を前に、腱も骨格も損壊した膝が崩れようとして───
「大丈夫です、あなたは私が支えます」
その足を、小さな誰かが力強く支えた。
「……アイ、君は」
「正直、自分が何をすればいいのか、今もよく分かってません。やりたいことさえ、私の中から消えてしまって」
それでも、とアイは断言する。
「それでも、セイバーさんが生きていたなら。きっと同じことをしたんだと思います。
私はそう信じます。ですから───」
「だから、あたしたちはあなたに願うの」
アイの言葉を引き継ぐように、横から歩み出てくる者がひとり。
見なくても分かる。その声、その言葉、力強い意思の輝き。
「これはあたしだけの言葉じゃない。アイとすばると、そしてきっと、他にも大勢いた誰かの総意。これを願ったのがあたしたちだけじゃないと、きっとそうなのだと信じるから」
掲げられるものがある。それは赤い輝きを宿し、暖かな魔力の感触を湛えて。
そして、紡がれる言葉がひとつ。
「令呪を以てあなたにお願いします。セイバー」
誰もが、アーサーを見ていた。
余波を受け止めるすばるも。
足を支えるアイも。
そしてキーアも。
誰もが、意思と願いをその目に託して。
「どうか、世界を救ってください」
眩い光が、アーサーの視界を埋め尽くして───
───さあ、手を伸ばせ。
剣を握り返した瞬間、視界が開けた。
恐怖は消え、迷いは失せ、代わりに己の為すべきことが脳裏を満たす。
「ああ、ようやく目が覚めたよ」
英雄王が何をしようとするかが分かる。
双剣を繋ぎ合わせた大弓の照準は確かにこちらを向いている。
顕現するは人類史が為したる偉業の極致。今なお神威高き創造維持神の大権能。
かつて世界を滅ぼした大海嘯ナピュシュティムの大波。嵐よりも尚荒ぶる全地上の終末機構。その手に番えられた金色の鏃が呼び覚ます、断空にして呼び水の力。
これこそが死だ。決して抗えぬ死の運命の具現。あらゆる者は絶望と諦観の中に落とされる。何者も、そこから逃れることはできない。
「真名解放───聖剣よ、光を束ねろ……!」
なるほど。この力、常理に生きる者では抗えまい。
その波濤を前にしては、如何なる神威も叡智も薄紙と成り果てるだろう。
だが、しかし。
「十三拘束解放───円卓議決開始!」
曰く、星の聖剣はただひとりの英雄のみが使用を決めるに非ず。
星の外敵を両断せしめる聖剣。世界を救うために振るわれるべき最強の剣は、個人が手にする武装としてはあまりに強力すぎるが故に、かの古き国の騎士王とその配下たる十二の騎士たちは厳格な法を聖剣そのものに定め、施したという。
それこそ、聖剣の真なる刀身を覆い隠す第二の鞘。十三拘束。
複数の誇りと使命を成し遂げられるであろう事態でのみ、聖剣は解放される。
完全解放に必要な議決数は七つ。
騎士王と十二の騎士たちが地上より消え去っても、この拘束は永遠に働く。
当代の聖剣使いがその解放を望めば、自動的に、円卓議決が開始されるのである。
《是は、勇者なる者と共する戦いである》───ガレス承認
《是は、誉れ高き戦いである》───ガウェイン承認
《是は、生きるための戦いである》───ケイ承認
《是は、己より強大な者との戦いである》───ベディヴィエール承認
《是は、人道に背かぬ戦いである》───ガヘリス承認
《是は、真実のための戦いである》───アグラヴェイン承認
《是は、精霊との戦いではない》───ランスロット承認
《是は、私欲なき戦いである》───ギャラハッド承認
決して、剣を手にした所有者ではなく。
聖剣に込められた英雄たちの魂の欠片がすべてを裁定する。
故に彼は単騎にあらず。ひとりきりの孤独な王では断じてなく。
此処に在るは人々の、そして遍く抗い戦ってきた英雄たちの総意として立つ者なれば。
「是は───」
故に、これこそ理外の力。
道理も条理も飛び越えた、耀く世界の希望。
「───世界を救う戦いである!」
───アーサー、承認。
聖剣の重みを、右腕に。
願いの重みを、左腕に。
どちらも等しく尊いものであると、刹那、アーサーは信じながら剣を振りかぶる。
遍く波濤が空より墜ちてくるのが見える。しかし、遅い。
「約束された───勝利の剣ァァァァアアアアアアアアアアアアっ!!」
聖剣九拘束解放!
完全なる真名の解放、それは光となって放たれる。絶大な威力を秘めた対城宝具、黄金の斬撃として。
視界の全てが白光に包まれる。音も感覚も遠ざかり、ただ一色の光だけに満ちた世界が目の前に広がる。
それはアーサーの限界点を示していた。この聖杯戦争で不完全のものを含めて真名を解放したのは三度目。一度目は
『幸福』に、二度目は《赤騎士》に。二度に渡る解放は五体満足な状態であったが、しかし今回はどうか。強靭な英霊の肉体を以てしても、両腕で剣を構え、両脚で大地を踏みしめずに扱うのは至難の業だろう。
解放の反動に耐えきらねば、斬撃を放つよりも先にアーサーの体が砕け散る。
ああ、見ろ。蒼と白銀の鎧に亀裂が奔る。霊核の割れる音がする。
「……!」
ならば、此処までか。
運命の騎士は世界を覆う暗海を払えず、屈し、聖剣の威に殺されて終わるのか。
違う。そうではない。そんな幕引きであるものか!
「去れ、いと旧き神代の裁定者よ!
その手に何も奪わせない、例え御身が《王》であろうと!
我が名は騎士王アーサー・ペンドラゴン、救世たる聖剣の担い手なれば!
此処に誉れ高き円卓の騎士達、その総意を代行する!」
不具の身でも十分だ。
何故なら我が身は単騎にあらず。
これだけの祈り、これだけの願いを共にして、誰も見ることはないが奇跡は成る。
落とした硝子玉にも似て縦に割れたアーサーの眼球が、最早何をも映さないのだとしても。
それでも、眼前の奇跡は光となって具現する。
「かの魂の黄金に誓って───我は世界を救う者なり!」
───世界は救われる。
───その身に致命の傷を負おうとも、運命の騎士は誓いを果たし、聖剣を振るう。
この世全ての悪を斃し、
この世全ての欲に抗い、
この世全ての明日を切り拓くために。
───黄金の刀身から。
───眩き星の光が、今こそ放たれて。
世界を満たしていく。
夜闇の全て、埋め尽くしていく。
数秒の後、闇も波も何もかもが消え失せて。
黄金の光に呑まれて。全てが消え去っていく。
◆
そして世界は輝きを取り戻す。
渾沌の坩堝はもう、何処にもない。
◆
「───ああ」
光が、溢れていた。
空前の宝具たる終末剣の波濤すらも貫いて、ただ、ただ、光が。
それは世界の全てを覆うかのように。空間の隅々にまで行き渡り充ち溢れて、留まることなく何もかもを呑みこんでいく。
破壊をもたらす絶対の魔力ではあった。
それが証拠として大海嘯は悉くが蒸発し、空間は砕け、あらゆる全てが崩壊していく。
けれど灼熱ではなかった。
英雄王ギルガメッシュは其を"耀き"とのみ捉えた。
神の白色さえ塗り潰す、黄金の輝きと。
「それでいい。此処に全ての条件は出揃った」
曰く。
この虚構世界を打ち崩すには三つの条件が必要である。
第一に、表層テクスチャである異形都市を縫いつける楔、空想樹たる『幸福』の討滅。
第二に、夢界と現世を繋ぎ朔たる現世界に介入を可能とする《盧生》への協力要請。
第三に、楔を外されたことによる崩壊を進行させ、その間隙を突いて虚構世界そのものを破壊すること。
第一条件は既に騎士王と諧謔神が成し遂げた。
第二条件は赤薔薇王がその命を対価に提言した。
そして、第三条件は今まさに───
「かつて、我はこの輝きを目にした。
是なるものと同じくして眩きものを、是なるものと同じくして尊きものを。
第六の獣を打ち倒せしもの、其は紛うことなき星の光なる」
赤薔薇王と第一盧生の戦いで、既に界は傷つき、揺らいでいる。
ならば世界崩壊の逸話を持つ終末剣と、それすらをも凌駕する星の聖剣を相放てばどうなるか。
語るまでもない。今まさに目の前で起きていることが全てであり、すなわち彼らはやり遂げたのだ。
全ては今、この時のために。
「故に、当世においては貴様らこそが───この我に代わり世界を救う者なのだ」
彼方を見よ。
耀ける希望をこそ、時に人は奇跡と呼ぶ。
そして、何もかもが消え去って。
世界は静寂を取り戻していき───
▼ ▼ ▼
『領域支配を解除します』
『永劫休眠状態からの浮上を確認』
『■■への負荷はあるはずもなく』
『何故なら最初から、人は現実を認識していない』
『これより先は、あなたたちの時間』
『他の誰でもない、あなたたちだけの時間』
「……そして、世界は目を覚ます」
▼ ▼ ▼
そして───
そして、誰もが空を見上げていた。
終末の波濤を退け、星の光たる黄金が放たれた空。双方が消え失せ、故に射線上の全てが消え去った、まっさらな空。
何もかもがなくなって、けれどそれでも浮かぶものがひとつ。
「月……」
それは月。
見上げた全員の視線の先には、ぎんと凍るような満月が少女たちを見下ろしている。
ただそれだけ。本当にそれだけなのに、何故か全身の毛孔が開く。呼吸が止まり心臓が止まり、総ての音が消えていく。
「なんだ……?」
アーサーたちは勝利した───実感として分かるのに、しかし喜ぶ気には全くなれない。
後に残ったのは月光照らす夜空が一つ。本当にただそれだけなのに。
悪寒が止まらない。自分たちは何かとんでもないことを仕出かしてしまったのではないかと、そんな理屈ではない恐怖が全身を満たしていく。
「……新月」
呟いたのは誰だったか。
そしてその一言で、理解できるものがあった。
暦の上において、今日は新月───つまり月のない夜だったはず。
けれど、だとしたら。
今まさに夜天に浮かぶこの"満月"は。
今まで自分たちが戦い、駆けてきた都市に浮かんでいたあの月は、なんだというのか。
そして気付いた───違う、あれは月じゃない。
あれは───
『太極より両義に別れ、四象に広がれ万仙の陣───終段顕象』
月が歪む。
月が煽動する。
まるで巨大な眼球が"ぐるり"と動くかのように、"ぬらり"とした光沢を伴って。
文字通りに、月がこちらを見下ろして。
『四凶渾沌───鴻鈞道人』
そして現実が罅割れた。
格が違う。次元が違う。この地に喚ばれた英霊たち一人一人が身に宿し、些細な異常を起こす程度の宝具などとは比較にならない。極大の異能がそこにある。
それは形を持ったひとつの宇宙───主たる者の人間賛歌を以て他の既存法則を塗り潰す覇道の理であり、万象をすら凌駕する第六法の具現そのもの。
世界が歪む。森羅の法が叫喚しながら捻じ曲げられ、紙屑同然に崩れていく。魂ごと握りつぶされるような凄まじい咒波嵐に、鳥肌どころでない怖気が走った。
妖麗夢幻と顕現する大異常の源泉は、文字通り鎌倉を覆い尽くし見下ろしている何某か───天に浮かぶ太陰すらアレにとっては瞳に過ぎず、その巨大さに比べればこの都市すら石榑の域にも届かないのだ。
天を揺るがしながら紡がれる神咒の羅列は、言語として認識できない別位相からの妖言だった。仮に宇宙が意思を持つならば、それを一生物が解することなど不可能なのだろう。
意味は分からず、理解もできず……しかし何故か、そこに込められた想いだけは感じ取れた。
底抜けの悦楽。狂わんばかりの哄笑。そして───
『救ってやろう、お前たちすべて。
ああ俺は、皆が幸せになればいいと願っている』
遍く人よ救われてくれという、曇りなき愛情と慈しみに他ならなかった。
【ギルガメッシュ@Fate/prototype 消滅】
【アーサー・ペンドラゴン@Fate/prototype 思念崩壊】
【キーア@赫炎のインガノック 思念崩壊】
【すばる@放課後のプレアデス 思念崩壊】
【夢界領域崩壊 世界滅亡】
【第二次聖杯戦争 破綻・聖杯顕現ならず】
【Fate/Fanzine Circle-聖杯戦争封神陣- 強制終了】
「あはははははははははははははははははははははは!」
───聞こえるか。空の果てより響く、この音が。
───聞こえるか。地の奥底にて呻く、この音が。
響き───
それは終焉を知らせる鐘の音だった。
原初の調べに近しい音だ。歓喜の響きだ。
時の終わりを告げる音だ。裁定の響きだ。
───すなわち。
───それは。
「とうとう何も為し得なかったか!
はははははははははは! どこぞの莫迦共が!」
「───最期の《願い》すら無駄にして」
「く、ふふふふふふ」
この世ならざる音響をもたらす鐘の音の中にあって。
暗闇の玉座に座す魔女は高らかに哂い続ける。
そこに含まれるのは歓喜か、哀絶か、それとも憎悪か。
余人には窺い知ることすらできず、あるいは魔女自身すら知ることなく。
「じゃあ、次の盤面を始めようか」
夢界領域収束
夢界領域拡大
夢界領域変容
規定数の挑戦を確認
規定数の願いを確認
お前たちは失敗した
潰える願いが我が身を成す
成長条件を達成
ナコトの幻燈は紡がれる
───されど
───真なる《願い》の顕現、叶わず
「構わないさ」
「なにせ、時間だけは腐るほどあるんだ」
「それこそ、永遠に」
哄笑と共に左手が蠢くけれど。
決して、その手は伸ばされない。
───彼女の左手は。
───蠢くだけで。
「だが俺は否定する」
欺瞞なる世界の再誕を。
虚構なる少女の敗北を。
愚かなる願いの終焉を。
「失ったものは戻らない。死んだ人間は生き返らない。
お前のやっていることは、結局何をどう突き詰めようと、単なる子供の我儘でしかない」
黄金なりし螺旋の階段を昇りつづける少年は、吐き捨てるように高みへ呟く。
その声は魔女に届いているのだろうか。
届いてなどいまい。届かなかったからこそ、この茶番は今まで続いているのだから。
「俺は諦めない。そして、あいつらも、きっと」
少年は既に世界の異変に気が付いている。
止まっている。世界の何もかもが停止しているのだ。
それでも、例え止まった世界の中でも、彼の意志は変わらず。
全ての過ちにケリをつける。ただそれだけを目指して昇りつづけるのだ。
「───俺は諦めない。俺の世界を救うまでは」
決意と共に右手が蠢くけれど。
決して、その手を伸ばすことは許されない。
───彼の右手は。
───蠢くだけで。
どちらも、世界を救う者にあたわず。
◆
※現時刻において世界の時間が止まっています。全ては次なる舞台の再誕まで。
※愛なんて、どこにもありません。
◆
「はい終わり。茶番も飽きたけぇ、そろそろ話ィ先に進めようでよ」
「えっ?」
ぱちり、と目を覚ます。
いつの間にか眠っていた少女は、ただひとり体を起こす。
いいや、ひとりではない。
目の前にはニヤニヤと笑う男の姿。それは確かに見覚えのある顔で、しかし何故彼がここにいるのか分からない。
それは───
「キャスター……ダン、カルマ」
「正解。いやぁよう覚えとったのぅジャリん子。厳密にゃぁ俺とアレとでは違うんじゃが、まあどうでもええことじゃ。
やれんたいぎぃ役掴まされおったが、如何せん大将に比べりゃいくらかマシじゃけぇ。消えるよりか儲けモン思って大人しゅう俺の話を聞いてけや」
男の胡乱な言葉に困惑し、周囲を見渡す。そこは幾本もの柱が乱立した、まるで碁盤の目のように建築された和の邸宅。
西享の、それも極東の極限られた様式故に、それが何であるのかを少女が理解することはなかったが、どこか趣ある屋敷なのだと感じた。
「一切合財のネタバラシじゃ。ここは《世界の外側》じゃけぇ、あの街の中じゃできんかったこともやり放題っちゅう寸法よ」
そして、その中央で不遜に立つ男を前に。
少女は───キーアはただひとり、心の裡で何某かの覚悟を決めるのだった。
【キーア@赫炎のインガノック 思念再構築】
【第二次聖杯戦争 空費時間突入】
最終更新:2019年08月18日 13:23