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少女たちよ。歪んでしまった魔女の想い綴られし物語を
優しい手でもって在りし日の夢のつどう地に横たえておくれ
封印された都市に訪れた十五年の中
彼方の地でつみとられた
巡礼たちのしおれた花輪のように
▼ ▼ ▼
───落ちていく。
落ちていく。現実には存在しない、幻想たちが眠る大海を。
アイは揺蕩い、舞い落ちるように、深海が如き深奥へと潜航していく。
ああ、周囲に輝くのは星だろうか。周囲を埋め尽くす虹色の虚無、その只中に漂いアイを取り巻く幾千幾万もの祈り、願い、誓い、夢見る物語。
アイの意識は短い安らぎの中を漂い、不可思議な浮遊感と現実味のない曖昧な多幸感を伴って。
その感覚を、一体何と言おう。
アイは知っていた。それは、夜と共に現れて、朝が来れば忘れてしまうもの。現実の楔から外されて、一時だけ羽ばたくもの。
アイは、夢に墜ちているのだ。
───竜を見た。
永い永い時をかけて誰かを待ち続けるモノ。孤高なりし優しき竜を。
「綺麗な竜……」
アイは言う。
竜は言葉に応えることなく、ただ世界の果てを見つめていた。
───光を見た。
それは黄金に輝く薔薇の魔女。吸い込まれそうな蒼い瞳が覗きこむ。
「綺麗なお姫様……」
アイは言う。
黄金の魔女は驚いたように手を伸ばすけれど、その手を掴むより先に、アイの意識は更なる深みに沈んでいく。
───嘆きを見た。
そこは血涙の湖のようでもあって、宇宙の暗黒のようでもあって、輝きの窮極のような場所でもあった。
その中心で、見覚えのある、けれど決して見たことのない赤い髪の男の人が、暗褐色の肌と血濡れた瞳の顔を向けて。
「いや、ここは駄目だ」
瞬間、微睡みからの波濤がアイの意識を押し流して。
「お前はまだ、ここに来るべきじゃない」
どこまでも深い───
嘆きを湛えた朱い瞳を、私は見た。
混沌に揺蕩う白いキラキラの星たちに触れるたび、ここではないどこかの記憶と光景が、アイの意識に流れ込んでくる。
だからきっと、そう、きっと。これは虚構などではない、現実にあったモノなのだろう。
ここがどこなのか、アイは知らない。
気付いたらここにいた。というよりは、落ちていた。
何があって、自分は今どうなっているのか。
キーアや
すばるはどうなったのか。
それすら分からず、けれどどうすることもできず。
アイはただ、無数に揺蕩う星たちの間を漂いながら、その記憶に触れることしかできなかった。
そして、アイは"それ"を見つけた。
無数の星たちの一つ、渾沌の奥底に沈んだ白い輝き。
そこから、何故か懐かしい気配が感じられて。
「……これ、あの時の」
あの時。
アイが意識を閉ざす、その直前。
騎士王が英雄王を打倒し、月を見上げた時のこと。
あの時自分たちを見下ろした瞳と、そこにあった狂おしいまでの慈しみの情念。
それと同じものが、この星から感じられたから。
───渾沌を見た。
それは名状しがたい暗黒の渦。桃色の煙に包まれた宇宙の中心。
冒涜的な太鼓とフルートの音色に包まれて、神の如き何者かが沸騰する渾沌の中心で眠り蠢いている。
「きっと、これが、聖杯戦争の……」
真実の一端がそこにはある。
そう確信し、アイはそっと手を伸ばす。
今までと同じように、光へと。
包むように、撫でるように、ふわりと触れて。
そして───
『そして無数の星空で彼への傾慕を吐き散らし沸き還る
最愛の這い寄る最愛の無尽蔵の恋慕に他ならぬすなわち愛を
超越した想像もおよばぬ渾沌の阿片窟で下劣な嬌声の
くぐもった狂おしき情愛と芳晴らしきアガペーのか弱い
単調な愛言葉の只中餓えて貪り続けるはあえてその名を
告げた者とておらぬ愛しき我が世界救済者
アリス・カラーと呼ぶならば
アリスフィリアを見逃してはならないそれは想像を超えて
繰り返す世界は我が死を契機としてされど不要とそしられるなら
白の凋落に意味はなく愛しかしゾーエーはなくシューニャは遥か遠く
性的倒錯の脳髄の裏に記述されている大慈大悲を司る我ら
慈しみを奏でる調音ノイズと忌避されし背徳地へと至る少女と
燻られた想ひ出綴る亡霊は我がアリスのみ恋い慕うあるべき物語
願いの果てへ行き着くは41の命と41の願いをくべてされど月に降り立つ
我が救いの奇跡は未だ都市になくぼくはそれだけを求めて
たったひとつだけを求めて永遠が欲しくて欲しくて欲しくて
愛してほしくてそれが叶わぬならせめて二人だけでいようと
殺し合え
盲目の生贄共お前たちにそれ以外の価値はないだってお前たちは
そのためだけに生まれてぼくは愛を得て愛して愛されて愛されて
キラキラお星さまぼくは間違ってない神さまどうかお願いします
ぼくにはアリスしかいないんだ。ぼくにはアリスしかいないん
だ。ぼくにはアリスしかいないんだ。ぼくにはアリスしかいな
いんだ。ぼくにはアリスしかいないんだ。ぼくにはアリスしか
いないんだ。ぼくにはアリスしかいないんだ。ぼくにアリスし
かいないアリスだけを愛しているアリスと愛し合うアリスと愛
し合うアリスと愛し合うアリスと愛し合うアリスとアリスとア
リスと愛し合う愛し愛し愛し愛し愛し愛し愛死愛死愛死愛死愛
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ
ア
イ
死
て アリス 』
「───……ッ!?」
流れ込む凶念に思わず手をひっこめようとして、けれど体が動かない。
いいや、そもそもアイに体なんてなく、だから抵抗なんてできるはずもなくて。
そして次々と流れ込む感情と光景がアイの意識を埋め尽くして。
そして、見える。
月としてアイたちを見下ろしていた、あの瞳の真実が。
◆
彼にとって最古の記憶は、桃色に染まる煙に包まれた光景だった。
香を吸えば愉快痛快。苦痛は剥がれて揮発する。
この楽園は絶対だ。何故なら誰もが閉じている。
因果? 理屈? 人格? 善悪? 知らん知らん、それを決めるのは己だけ。他我の交わらぬ心の中で好きに世界を思い描けばいいと、あらゆる者が酔いに酔い痴れ謡いながら霞の中で踊っていた。
それは万人に分け隔てなく解放された完全無欠の桃源郷。無償かつ永遠に酒池肉林が広がり続ける楽に満ちた仙境は、夢の主を語る上で外せぬ原風景に他ならない。
上海に深く根付いた、中華最大規模の阿片窟。
大戦から派生して生み出された巨大な堕落の桃源郷で、後に第四盧生となる男は幼少の日々を堪能していた。
いつから自分がそこにいたのか、どうしてそんな場所にいたのか、それは彼自身も分からない。
捨てられたのか、自ら進んで入ったのか、もしくはここで産み落とされたのか、あるいは特に意味などないのか。正確な部分は最早誰も覚えていないし、調べようもなかった。何より本人がそれを大した問題だと全く思っていなかった。
母を名乗る人物が一応傍にいたものの、それが本当に血の繋がった身内であるかという点さえ、やはり同時にどうでもいいことだった。何せ煙を吸いさえすれば世界は幸せなのだから疑問に思うことすらない。
彼自身、そして彼の母親すらも重度の阿片中毒者。
当時の中華は騒乱の只中にあり、日々の絶望を紛らわすため阿片に縋る者は大勢いた。その意味で、彼らはありふれた人間であったと言えるのかもしれない。
ともあれ彼は人界から切り離されたこの場で育ち、彼にとっての世界はただひたすらに幸福で満ちたまま宴のように進行していく。
母はいつも幸せそうに笑っている人だった。女手一つで幼児の彼を育てている現実に泣き言など僅かもこぼさず、常に笑顔を崩さない。
阿片窟にいる他の者たちも同様で、皆が皆、例外なく至福の夢に包まれている。
それもそうだろう。何せ互いにコミュニケーションが取れないからこそ彼らは激突しないのだ。
常に焚かれて蔓延している阿片の煙は互いの世界をそれぞれ綺麗に遮断して、二分したままぶつからせない。
実際に他者と直に遭遇しても、決して両者を統一された意識のもとで鉢合わせたりはしなかった。
自己の世界に入り込み完結している。都合のいい一人芝居がそこかしこで繰り広げられている。
よって母もそうだったし、本当のところ彼を息子と正確に認識していたのかさえ分からない。実は娘と、いいや父と、あるいはかつての恋人と思っていたかもしれないが、しかしそれでも構わなかった。
ああ何せ、"人間とはそういうもの"だから。
阿片窟という環境で育った少年にとって他者とは常にそういう反応を返すことが正常なのだと当たり前に認識する。
意志疎通? なんだそれは、概念さえ分からない。
普通より大分遅れて一応言葉も覚えたが、会話の本質は今に至るも掴めていない。そんな状態で健やかに、正常な観点ではとても歪に愛を注がれながら成長していく。
阿片に染まった空気を吸い、阿片が沁みた乳を飲み、阿片に揺蕩う人の中で文字通り夢に包まれ育った。
故に自然と彼も中毒者となったのだが、しかし彼の場合は何故か、生まれつき阿片毒への耐性を身につけていたのが他の者との大きな違いだった。
そしてそれは、通常の免疫なり抵抗力とは少々趣が違う形となって現れた。
酔っているのが常態となっているため永遠に中毒症状が醒めない反面、阿片の毒で衰弱することもない。
要は身体や生命活動に一切の害を受けないまま、精神高揚の恩恵だけを受け取れるという特異体質。そういう意味では、彼は最初から夢の住人だったし、生涯通して素面の状態を経験したことがなく、その意味するところも知らなければ不都合を感じることもなかった。
そうだとも。ここは万事、永遠の幸福が約束された桃源郷。困ることなど何もなく、ならば各々好きにすればいい。
母は稀に彼を間違え、打ち捨てられた人形なり死体なりを優しい笑みで愛玩している。いいことだ。
向かいの男はいつも女へ愛を語り、蛆と蛭の湧いた腐肉へ猛然と股ぐらを突っ込みながら絶頂している。仲睦まじくて素晴らしい。
隣の老婆は毎日欠かさず、神仙の桃と名付けた馬糞を飽きもせず独り占めしながら貪り食らっている。満足するまで食べるがいいさ。
不老長寿の小便売りは大繁盛で、通りに座る大将軍は蠅を相手に明日の軍議を説いている。酸で水浴びする女は永遠の美の探求に忙しく、子供は姉の内臓調理に炎で父を洗いながら犬の頭蓋を鍋にしつつ、至高の演奏を披露するは僵屍の群れを前にして、導師が平和を守っているため老人は両目を蠱毒に捧げたのだ。なんて感動的なのだろう。
あなたの、君の、お前の、きっとたぶん、活躍と勇気と幸運で世界は救われたのだ。
素晴らしい。今日も世は泰平である。
何もおかしいことはない。ここには笑顔が溢れていた。
中でもとりわけ、母の愛情に対しては感謝の一言しかないだろうと彼は考えていた。
休みなく錯誤している事実を除けば、彼女はまさしく親として一点の曇りもない愛情を彼に注いでくれたのだ。
そこを疑う気持ちは微塵もない。白痴とは見方を変えれば聖性の顕れでもあるのだから。
優しい親と、幸せそうな周囲の人々。彼から見て、この世界は紛れもなく完璧だった。
そんな日々が、ある日突然終わりを迎えた。
誰かが火を用いたのか、それとも外部から持ち込まれたのか。阿片窟全域を包む火災が前触れもなく発生。
結果として、彼以外の全員がそこで焼け死ぬことになる。皆幸せそうに、例外なく夢見心地で。
いつもと同じ一人芝居を続けながら、誰しも笑顔で、動く火柱と化したのだ。
彼一人が生き残ったのは母親に抱きしめられていたがためであったが、それは炎から守ってくれたという意味での母性では当然ない。
別にただ、いつも通りに、彼女は阿片にやられた頭で彼を慈しんでいた、その結果である。
命を捨てても我が子のためにか、いつものように我が子のためにか、理由としてはどちらであっても結果は同じこと。
ならば論ずることなど無粋だろう。母が真に彼を愛していた点は間違いなく真実だと言っていい。
そしてその後、ともあれ一人生き残った彼は、今までと全く異なる別種の価値観が横行する世界で生きていくことになる。
燃え落ちた阿片窟を取り仕切っていた青幇、いわゆる中華のマフィアであり、そこの頭目である黄金栄という男がわざわざ彼を引き取り育てたのだ。
しかし言わずもがな、そこに母のような愛情は全くない。
どの界隈でも験を担ぐのはよくあることだが、危険の伴う生業に手を染めている人間はとりわけその傾向が強かった。
兵士が戦場でジンクスを気にするように、黄金栄もまた彼なりの理由で少年を引き取った。
すなわち、大火事から無傷で生き延びた彼は奇跡的な星を持っていると解釈し、その加護を自身の統べる青幇にもたらそうと思ったからこそ、手許に置いたのだ。
伝統的な中華思想において、生まれ持った宿星を重要視し、その恩恵を得ようという発想はさして珍しくない。
つまりは彼の保護者となった男は親としての愛情を全くと言っていいほど持ち合わせておらず、ただ我欲のために行動するという、端的に言って屑と呼ぶに相応しい存在だったことは確かな事実なのだろう。
死んだ母とは大違い───彼がそうした認識を正確に持つことはなかったが、この新しい父親が母とは違う属性の持ち主であることは感覚的に理解していた。
何故なら、母が自分に与えてくれた環境は素晴らしい桃源郷だったが。
父が与えた環境は、まさしくそれとは正反対のものだったのだから。
期せず阿片窟を出た折に、彼は"正しい外界"とやらを初めて目にすることになったが、しかしこれは一体どうしたものなのだ?
皆が皆、常に何事か激し、あるいは涙を振りまいて互いに触れ合って交わっている。この理解しがたい行動はなんなのだ?
激することを「怒り」、嘆きを「悲しみ」、そうした感情を以て交わることを「争い」であると彼が学んだのは更に先のことであったが、しかし初見の段階からして彼は感覚的にそれらの行いに疑問を持った。
何故この者らは、このような不毛な行いに終始しているのだろう。
金銭や尊厳、理由は多々あれど共通しているのは一つきり。他者にわざわざ自分の理屈をねじ込んで、必死に手間暇かけながら、実際に血まで流しつつ思考を統一しようとしているその理屈がまず分からない。
「こいつら人間ではないのか?」
何故他者に承認を求める。
何故自分の中の真実だけで善しとしない。
何故わざわざ他人がどう考えているのかを知りたがり、知って自分を曝け出し、言葉を交わらせた挙句に傷つき傷つけ合うのだろう。
それはまるで、せっかく作り上げた芸術品二つを、諸共にぶつけて壊してしまうかのような所業。彼が生きた価値観、その美しさに比べるとあまりに異質で哀れな有り様だった。
阿片窟の人々のように、世界を自分の形に閉じてしまえばみんな幸せになれるだろうに。それこそが人間だろうに。
結局みんな、見たいものしか見ようとしないのに。自分の中の真実しか信じていないし大切などと感じていないのに。
分かり合う? 仁義? 絆? なんだ、お前たちにはそれが必要なのか? 何故閉じないのかまるで分からない。本当はみんなそうして生きたいはずなのに。
際限なく彼の中で噴出する疑問の嵐。そんな懊悩に囚われながら幇会の一員として育った彼は、やがて阿片に関する驚異的な才覚を発揮して青幇を掌握していくことになる。
その過程で、育ての父である黄金栄も流れるように阿片中毒者へ落とすのだった。
それを見て、彼は満足そうに笑う。これでいい。ようやくこの怒ってばかりだった可哀相な父を、母のような笑顔にできた。
だから、ああ、そうだ。次は"みんな"を救ってやらねば。
彼は迷わない。これが世界のあるべき姿であると信じているから。
この美しさ、この完成された夢を掛け値なしに愛している。
幸福に包まれた環境で育まれた優しさが、衆生の悩みを取り除かんと今も切に訴えている。
お前たちは盲目だ。等しく何も見ていない。
他者も、世界も、夢も、現も、いつも真実とはお前たちそれぞれの中にしかないのだろう? 見たいものしか見ないのだろう?
愛い、愛い、実にすばらしい。
その桃源郷こそ絶対だ。その否定こそ幸福だ。お前たちが気持ちよく嵌れるなら己は何も望まない。此処に夢を描いてくれ。
「お前がそう思うのならお前の中ではそうなのだから。
誰に憚ることがある。さあ、奏でろ。痴れた音色を聴かせてくれ。人間賛歌を謳うがいい」
◆
「……」
映像の途絶と共に弾き出されて、アイは言葉なく微睡みの淵に浮かんでいた。
これは、なんだ?
語られたことの意味は分かる。しかしそれがここで語られる意味が分からない。
この人物、曰く"彼"が特異な精神と出自を持ち合わせていることは理解した。しかし、それでも彼はあくまでただの人間でしかない。
アイたちを見下ろした、巨大な月の瞳持つ神の如き者であるとは、とても……
それに一番最初、あの時に流れ込んできた思念に至ってはその正体すら分からない。
得体の知れない不安感が、アイの胸を締め付ける。今まで夢見心地に白んでいた思考が、急にはっきりと形を持つようになってきた。
理屈ではない。しかし感覚的な部分で、何か大きな不安が鎌首をもたげる。
まるで致命的な見落としがあるかのように、胸を苛んで止まらない。
自分は今まで懸命に抗ってきた。戦い、歩み、ここまで来た。そのつもりだ。
しかし、進んでいるように見えてその実"全く進んでいなかった"かのような。
そんな言い知れない焦燥感が、心を支配して。
瞬間───
世界が、ひっくり返った。
急に全身に現実感が戻った。ぐるりと景色が回転し、今まで見えていた虹色の虚無と星々が捻じ曲がるかのように遠のいていく。
心臓はまだ早鐘のように鳴っていたが、それは全てが過ぎ去った後のことだった。震えも鼓動も、すぐに収まる。
アイはその感覚を知っていた。その現実離れした異常な感覚は、アイにとって酷く遠く、そして同時にとても馴染んだものだった。
それは、つい先ほどまでと全く同じに。
アイは息をつく。その感覚を味わったものが、同じくそうするように。
そう、それは───
それは、夢の目覚め。
最終更新:2019年07月20日 16:32