そこは暗がりだ。静寂と無言の祈りだけが充ちた、黒い影に包まれた塔の果てだ。
 誰もが知りながら、誰も知り得ない。漆黒と暗雲に閉ざされた、世界の果てだ。
 黄金螺旋階段ではあり得ない影の連なり。蠱毒の坩堝の最果てだ。
 今は王の玉座だけが在り、少年王も大公爵も姿を消して久しく、そこはオルゴンに届かぬ者が行き着く地獄の様相だ。

 ならば、そこにいる"彼女"は、最早人でも、まして神や悪魔ですらない。



『あるじ。我が仮初のあるじ。時が来た、御言葉を賜りたい』



 声が響いている。機械仕掛けの声が。無限に広がるかの如き黒い闇の中に、全てを覆い尽くす虚構の無の中に。



「────────────」



 闇に閉ざされた広間、最奥の玉座に腰掛ける者がひとり。盲目に、白痴に狂ったままに。もはや都市の渾沌そのものと化した魔女は、従うことのない従者に目線を合わせることもなく、微睡むように。



「ボクは───」



 その瞳に映るのは愛憎か、それとも悔恨か。
 人であった過去に縋るように、けれど、魔女となった現在を受け入れるかのように。
 叫ぶ。



「───祝福せよ、祝福せよ! 嗚呼、素晴らしきかな!
 ボクの望んだその時だ。都市は生まれ変わるだろう、我が昔日の願いを叶えるため!」



 それは魔女だ。それは人ではなく、神でも悪魔でもなく、しかして都市に降り立つ渾沌そのものである。




『くすくすくす。愚かな愚かな《西方の魔女》』

『くすくすくす。オスティアの死者は彼ひとりなのに』

『くすくすくす。声こそがすべて、言葉は偽らないのに』



 玉座に坐す魔女の周囲を、玉座に侍る時計仕掛けの従者の周囲を、三人の娘たちが踊る。
 チクタク、チクタク。時計の針のように正確に、鉄錆の香りを持つ機械の女たちが踊る。



「ボクの時計は動かない! アリス・カラー、きみの時間は動かない!
 初めからそんなものは存在しないのだから!
 ───故にこそ、すべてボクの糧となり!
 ───矮小なる身を知り!
 ───永遠の何たるかを知るがいい!」



 ───それが、この物語の始まり。
 ───終わりのプロローグにして、始まりのエピローグ。
 ───既に終わった物語。

 ───どこにでもいるありふれた少女の、ありふれた恋の終わり。



「くっ、ハハハハハハハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」



 その全てを嘲笑って。
 ディー・エンジ―・ストラトミットスは笑い続けて───



「───すべて。そう、すべて」



 その、割れんばかりの哀絶を湛えた瞳───



「すべては、ただ。我が愛しき理想郷(アリス)のために」



 赫い瞳を、揺らしながら───











 ───そして。

 そして。
 赫く変わり果てた月を中心に、都市の空は歪み果てていくのか。

 その日、鎌倉の街に住まう全ての人々は見た。
 各々の生活の、各々の時間を過ごす彼らは、皆一様に空を見上げていた。

 暗き清浄の空に浮かぶはずの星々が消えた。
 真の夜に於いて美しさ湛えるはずの白光は、
 すべて、消え失せる。

 白光が消える。
 その時が来た瞬間に、忽然と。

 けれど暗闇とは呼べないだろう。
 星々と太陽とが姿を隠していたとしても、
 空には、血の赤朱を湛える赫い月がある。
 先刻までは銀の光を放っていたそれは、今や歪み、鮮血の赤だけを湛えて。



 そして気付く───違う、あれは月じゃない。



 ───さあ、時が来た。
 約束された時か。誰が、誰に対して、どんな約束をした?

 ───誰も。
 誰もいない。約束した者はいない。
 だからその時は訪れる。

 それは願いを叶えるものか。
 狂気なりし雷電王が存在すればどう言うか。
 けれど、既に、雷鳴纏う白き男は消えた。

 その時。それを知る者はただひとり。
 西方の魔女と成り果てた少女ではなく、
 世界を救えなかった骸の少年でもなく、
 かたちを保ってそれを知る者はただひとり。
 けれど、彼は、その時、暗き渾沌の中心に座して。

 止める者はいない。
 嘆き続ける少女の想いだけが残る。

 ───その時。
 ───都市鎌倉は震えた。

 ───歪む、歪む、歪み果てる───
 ───都市の空が変わっていく───
 ───星も、太陽も消え果てて───
 ───睨め見下ろすは赫の月か───

 月が───いいや、"赫き虚空の三眼"が見下ろす都市は、今まさに。
 歪んでいく。無数の視線に晒されて、無数の恐怖に晒されて。

 夢の坩堝へと落ちていく。誰も止められる者はいないから。
 止められる者はただひとり。
 黄金螺旋階段の麓で崩れる魔弾の少年ただひとり。
 黄金螺旋階段を昇ること叶わぬ救済者ただひとり。
 ならば、止める者はいないのでしょう。
 だからこそ空は歪み果てて。

 都市に在る全ての人々がそれを見る。
 都市に在る全ての双眸がそれを見る。
 空、覆う新たなものを。

 空は暗がり全てに覆われてしまう。
 新たなる、虚空の眼球によって。
 空に浮かぶ太陰さえ瞳に過ぎぬ"それ"と比しては、鎌倉の都市でさえ石榑にもならないのだ。

 瞳。微睡み慈しむ者。
 終焉の恐怖。
 終焉の嘆き。
 それは、物語の終わりを告げてしまう。
 あらゆる想いを呑みこんで。
 あらゆる願いを呑みこんで。
 ああ、星を包む慈愛の主となって人々を呑んで。
 かつて異郷の御伽噺に残された、
 空覆いつくし、竜さえも食らう巨人が如く。
 空埋め尽くし、命すべて食らう黒色が如く。

 暗黒の空がそこには在って、
 ああ、太陽の代わり、月の代わりに。
 浮かぶものは───












『救われてくれお前たち。俺はお前の幸せを、いつ如何なる時も願っている』












 ───それは、時を遡った"かつて"の話。

 ───一度目の聖杯戦争が終わりを迎えた頃。アイの、キーアの、すばるの聖杯戦争がはじまりを告げるよりも前。

 ───少女の愛が砕け散った時の話である。





   ▼  ▼  ▼






 これで、何もかも終わったはずだった。

 そのはずなのに。










「───さて」


 男は言った。
 それは、黒衣を纏った男だった。
 影の如き姿であるが、生気を感じさせない枯れ木の如き気配でもある。

 奇妙な人物。
 気配と服装は彼をそう思わせる。

 彼は決して自らの名を口にすることはない。
 見たままを口にせよと戯けて言う。容姿の通りに奇妙な男であった。

 偉大にして光輝なる三位一体。
 それがこの男の今の名だ。

 すなわち、男の名は《メルクリウス》
 カールエルンスト・クラフト、あるいはヘルメス・トリスメギストスと人は呼ぶ。

 ───もっとも。
 ───彼を呼ぶ者など多くはあるまい。

 例えば、
 至高天に坐す墓の王たる黄金獣であるとか。
 既に何かを諦めて涙を流す少女であるとか。
 世界塔の果てで嗤い続ける無貌であるとか。

 不用意にその名を呼んではいけない。
 命が惜しければ。
 彼の嘲笑の奥を想像してはいけない。
 命が惜しければ。

 永劫の時を繰り返すというその男は、眼前の何者かへと語りかける。
 既に輝きを失った黄金螺旋の最奥。王の夢の残滓が眠る暗闇の幽閉の間。
 影の如くに佇む彼と、もうひとりの"誰か"がそこにいた。


「さて、愛すべき者たちよ」


 ───嘘だ。彼は誰をも愛していない。
 ───嘘だ。彼は心の何たるかさえ知らない。
 ───彼の両眼に映るのは黄金と黄昏のみ。
 ───彼は、影なる面の下に顔すら持たないのだ。


「至高なりしはこの世にただひとつ、永遠を形とする揺籃の夢なりし阿片窟」

「すなわち。漆黒のシャルノス」

「そうと嘯く我が仮初の主ではあるが。しかしかの王が立ち去りし伽藍の玉座は、
 第四のあり得ざる盧生すら無き異形都市に願いの果てを齎すのであろうや」


 男の声には蔑みが含まれている。
 対する何者かは無言。


「喝采すべきことに、お前たちの回転悲劇は此処に終わりを迎えるだろう」

「《英雄王》はかの地に斃れ、《勇者》はその手の光を失い、《審判者》は現身を手放し。
 《赤薔薇王》は何をも掴むことなく、《刹那ならざる諧謔》さえその姿を消した」

「愚かな魔女の願いは意味を持たず」

「世界の救済者足り得なかった少年は《美しいもの》に至ること能わず」

「哀れなる少女たちは真実を見ることなく」

「清廉なる《騎士王》は既に月の王が狂気の中」


 男の声には嘲りが含まれている。
 対する何者かは無言。


「さあ、皆さまどうか喝采を」

「けれど私はこう叫ぶだろう」



「───滑稽かな! 滑稽かな!」





   ▼  ▼  ▼







 ───暖かい。温かい。
 それはまるで、家族皆で布団に包まるような。
 それはまるで、両親に祝福され産湯に浸かるような。そんな、幸福な感情を想起させる。

 ───暖かい。温かい。
 それはまるで、在りし日の残照のようで。
 胸を擦る優しさがある。胸を苛む痛みがある。

 だから。



『すばる』



 影。鋼。わたしの背後に佇む、白い手のあなた。
 人。星。わたしを助けてくれた、黒い魔法使い。



『おやすみ。そして』



 そして───



『目覚める時間だ』






 ………。

 ……。

 …。







 ぱちり、と瞼を開いた。寝起きに特有の倦怠感はない。ただ、暖かい幸せの残滓が胸にある。

「……そんなの、嘘だよ」

 嘘だ。その幸せは、幸福感は、きっと与えられた偽物でしかない。幸せのカタチをしているだけの何かに過ぎない。
 だって、それが本当に"幸せ"なのだとしたら。

 世界は何故、ここまで異様に歪み果てているというのか。

「桃色の、煙……」

 ───世界は、桃の香に埋め尽くされていた。
 視界の一面が、全く同じ色で覆われていた。流動する桃の煙、あまりに濃すぎて数m先さえ見通せない。
 まるで、生き物の体内に入ったかのようだ。ピンクはすばるも好くところだが、しかしこれは果実と純粋性の色ではなく、臓腑と欲望の色だ。甘く重いむせ返るような煙が充満し、呼吸するのも苦しいほどだった。

 これが、世界の本当の姿だ。
 ついさっき切り替わったのではない。世界は最初からこの姿をしていたのだ。
 ただ、すばるたちが気付かなかっただけ。気付かないようにされていただけ。
 あるいは───
 この世界の片隅で、今までずっと夢を見ていたのかもしれない。

「それでも、わたしにはまだ、やれることが残っている」

 遠くを見据える。
 一寸先も見通せぬ霧の中にあって、しかし、どうしてか"それ"は克明に浮かび上がった。

 遥か彼方、地平の向こうにそびえる摩天楼。
 遠く月にまで届きそうなほどに高い、世界の果ての塔。

 ───世界塔。

 それが、朱に染まった空を綺麗に真っ二つにするかのように、一直線に伸びている。

 すばるは何も理解できていない。
 理解できるだけの頭脳も経験もなく、心の強さもなく、二転三転する状況についていくことさえできずにいるのが現状だ。
 けれど、それでも分かることがある。
 理由はわからない。何があるのか、誰がいるのか。なぜ、そう自分が思うのかも。
 それでも、たったひとつだけ。

「桃源の向こう、紫影の果て」

「あそこに。わたしは、ううん、わたしたちは、行かなきゃいけない」

 ───そして少女は一歩を踏み出す。

 ───想い残した人々の影に触れながら。我知らず、涙を流しながら。






『退廃夢想都市鎌倉/第三層エリコ/午前零時』

【すばる@放課後のプレアデス】
[令呪] 三画
[状態] 差し伸べた手は届かず、
    喪った愛は痛みを呼ぶけれど、
    砕け散った輝きを拾い上げ、
    痴れた祝福が星剣を形作る。
    雛鳥は卵を割って詩編を紡ぎ、
    赫黒に染まりしは比類なき悪なる右手。
    共に歩むは輝かりし可能性の嬰児、
    奇械アルデバラン。
    プレアデスの星々はイリジアを砕いて《空》を目指す。
[思考・状況]
基本行動方針:青空を目指す。
1:諦めない。
[備考]
※ドライブシャフトによる変身衣装が黒に変化しました。
※奇械アルデバランを顕現、以て42体目のエンブリオと為す。
機能は以下の通り。
衝撃死の権能:《忌まわしき暗き空》
遍く物質を発振させる電撃の槍を放つ。
《物理無効》
あらゆる物理的干渉を無効化する。
《守護》
あらゆる干渉より宿主を守る。
心の声、あるいは拡大変容
詳細不明。ただし、奇械は人の心によって成長するとされている。
?????
詳細不明。
最終更新:2019年08月17日 17:55