そして、時を少しだけ巻き戻す。





   ▼  ▼  ▼





 最も大切な言葉とは、何か。
 それは決して特別ではなく、固有の意味すら持たない。

 夢と微睡みの霧の向こうから、少女/少女が落ちてくる。一帯は無音であり、杖/侍従より降りる彼女らの足が起こす大気の振動が辺りに小さく響き渡った。目の前には世界塔の白い威容が立ち、その巨大な門は既に開かれ、あたかも少女らを歓待しているようにも思えた。
 すばる/キーアは、小さく息を吐く。周囲には誰もいない、真実たった一人きりだと二人は思った。意を決し、扉の中へと押し入る。そこに迷いの色はなかった。

「……」

 酷く寂しい場所だった。
 そこは広く、高く、そして冷たかった。大理石の床や壁面は綺麗なものではあったけど、およそ暖かみというものを感じさせない。吹き抜けの天井はどこまでも続いているかのようで、上を見上げても先の見えない暗闇しかそこにはなかった。
 ホールの左右には大人数人がかりでなければ囲えないほど巨大な柱が、見渡す限り無数に続いていた。それは巡礼の列のように、物言わずただじっと誰かを待っているようにも思えた。

 すばる/キーアは、その先に何があるかを知っていた。
 そして一人/一人は声をかける。
 投げかけたのはどこまでも普通の問い。世界中にありふれていて、常に人々や言葉と共にある。そういう類のものだ。
 だが、あるいは、世界を滅ぼす言葉にもなる。
 すなわち。















「あなたの名前は何ですか?」















「くひ、は、はははっ、あはっははははははは! ひゃは、けひゃはははははあはははははは!」


 いつからそこにいたのか。
 あるいは最初からずっといたのか。
 彼女は口を弦月に歪めて答える。

「……今さらそれを問うのか」

 朱い瞳の少女は、すばる/キーアと一対一で対峙し、そして二人のどちらをも同時に観測していた。
 此処は塔、世界の最果て。あらゆる可能性が折り重なる「重ね合わせ」の地。

「もう何もかもが手遅れで、何もかもが叶えられたこの都市で。今さら、そんなことを聞くのか」

 その言葉は愚弄であり、その響きは嘲笑であった。彼女は眼前のすばる/キーアに対して、一切の情と呼ばれるものを持ち合わせてはいなかった。

「西方の魔女、囁く者、世界の破壊者、幽霊、根源の無貌存在、裁定者のマスター。
 けれどもし、最も本質的かつ無意味な名でボクを呼ぶならば───」

 順列に明かりが灯るように、周囲一帯を光が照らしていく。
 すばる/キーアは、思わず目を細め……



「ボクの名前はディー・エンジー・ストラトミットスという」


 ───少女の影が映し出される。
 そう、少女だ。すばる、キーア、アイよりも少しだけ年上に見える、おそらくは14歳程度の少女の姿がそこにはある。
 色素の薄い髪、肌、瞳。どこかの学園の制服を身に纏い、薄っすらとした笑みを湛える顔は未だ幼さを隠せていない。

 ならば、この少女こそが世界の敵か。
 すばるを、キーアを、アイを。東郷美森結城友奈を、藤井蓮を、丈槍由紀を、古手梨花を、みなとを、イリヤスフィールを、辰宮百合香を弄んだ。我らの仇敵であるというのか。
 倒すべき、最後の敵なのか。

「実のところ、その問いに正確に答えることはできないんだ。
 そもそもキミたち、どうしてボクを倒そうなんて発想に至ったのかな?」

 何が面白いのか、くすくすと笑いながら魔女は、ディーは答える。

「キミたちがどうして復活したのか、廃神として付与された人格をどうして未だに維持できているのか。キミたちは分からないことだらけだ。
 だからね、答えるのは正直難しいんだよ。ボクを倒そうなんてまるで無意味なことをしようとしているキミたちにとって、ボクが敵と定義されるかどうかなんてことはさ」

 魔女は手を振るう。いくつもの幻影が、幻想が、光が現れ、何かの光景を映し出す。
 それはこの聖杯戦争で散っていった者たちの記憶であり、魂であり、願いであり、苦痛であった。それら全てを掌中に収め、魔女はただ笑っている。

「ああ、この聖杯戦争を始めた理由? 簡単なことだよ、黄錦龍の完全顕現のためさ。
 一度目の聖杯戦争で降誕した聖杯だけじゃリソースが足りなくってね、虚空の果てから呼び出した《彼》を衛星軌道上までしか引っ張ってくることができなかったんだ。
 だから彼は今も月で眠りについてるし、それを起こしてやる必要があったんだ。
 ……"願い"を呼び水にしてさ」

 ふと、魔女の語気が強まった。
 今までの軽薄なそれではない。譲りがたい、耐えがたい何かに直面したかのような、そんな変化。
 許せないものを目の前にした時、当たり前の人間の怒り。

「願いなんてなんでもいい。金が欲しいでも元の場所に帰りたいでも、誰か生き返らせたいでも誰か殺したいでも、世界を救うでも滅ぼすでも何でもいい!
 完成した聖杯に願いを告げさえすれば、それに呼応して"アレ"が顕象されるはずだったのに!」

 魔女は両手を広げ、唇を歪める。
 それはどこまでも狂気に満ち、止まることのできないディー・エンジー・ストラトミットスだった成れの果て。
 たった一人の少年と共に在るために全てを捨てた狂神。
 歪み捩じれた意思の波濤を前に、すばるは、キーアは、思わず後ずさる。

「ボクは資格がないから黄金螺旋階段を昇りきることができないからさ。わざわざキミたちを"造る"必要があったんだ。
 今こうしてとんだ邪魔が入ったけどね、でも何度だってやり直せばいいのさ。なにせ時間は無限にあるんだ。
 キミたちを消し去って、ボクは三度目の聖杯戦争を開くことにするよ」

「……させると、思ってるんですか」

 すばるが答えた。その右手は前へと伸ばされ、重なるように鋼の右手が顕現を始めている。

「わたしは……わたしとみなとくんは、あなたを止めるためにここまで来ました。
 もう二度と悲劇は起こさせない。哀しみも、涙も、犠牲も、誰一人出させはしない」

「ボクを殺したとして滅びた世界は何も変わらないのだとしても?」

「それでも、あたしはあなたを止めるの」

 キーアが答えた。
 既に彼女の傍に侍る蒼銀の騎士は黄金剣の輝きを露わにし、その切っ先を魔女へと向けている。

「起きた悲劇は覆せない。失った命は戻らない。そんなのは当たり前で、誰もが分かっていること。
 あなたを止めたところで壊れてしまった世界は元に戻らないかもしれないけど、あなたが未だ新たな悲劇を生もうとしているなら」

「……わたし、この街で色んな人と出会ったよ。見ず知らずのわたしを助けてくれたおばさんがいた。学校で明るく笑ってるゆきちゃんと会った。
 アーサーさんはすごく格好良くて王子様って感じだったし、蓮さんはちょっとぶっきらぼうだけど優しい人で、もっと話したかったって思う。
 百合香さんは頼りになる人で、わたしもこういうふうになりたいなって思えた。アイちゃんもキーアちゃんもみんな怖くて大変なはずなのに、自分より誰かのことを考えることができて、本当に凄いなって思ったよ。
 東郷さんは誰より優しくて、暖かくて、なんだかお姉ちゃんみたいだなって、そう思った。それになにより、みなとくんと仲直りだってできたんだ」

「梨花は最期に自分の願いを見つけて、あたしを助けてくれた。それは本当に綺麗で尊いこと。あたしはそれに応えなきゃいけないと感じた。
 あなたは"願い"を求めていたけど、でも本当にそれがなんなのか理解できているの? 梨花が願ったこと、取り戻したいと思ったこと、こんな殺し合いに乗ってでも叶えたかった何か。それがどういう意味を持つか、本当に分かっているの?」

「意味がないとあなたは言った。けど、わたしはわたしの選んだ道を信じる。この街で出会った人たちと、その暖かさを信じる」

「梨花の願いを信じる。託されたものをあたしは信じる。例えその先に意味なんかないのだとしても」



「わたし/あたしは、希望を持って前に進む」



「……。
 そうか。不完全とはいえ万仙陣の縛鎖を打ち破ったのは、それのためか」

 魔女は目を伏せる。
 それは、眩いものを見る瞳か。
 それは、尊いものを見る瞳か。
 いいや違う。それは、何より耐えがたいものを前にしての、激情。
 憤怒と侮蔑の色。

「けどね、何か勘違いをしていないかい?
 キミに宿る御伽噺の《奇械》の力、星の聖剣を携える最優の剣士の力、別に侮っているわけじゃないんだ。
 その暴威が、ご都合主義の力が、正しく発揮されたならボクなんてひとたまりもない。そう理解してるんだよ」

 魔女は支配者としての強権を持ってはいるが、物理的な強さに関しては脆弱そのものだ。
 無尽蔵の権能を駆使しようとも、恐らく真正面からの戦いとなれば近接型の英霊ならば瞬時に勝ちを拾うことができるだろう。
 何故なら彼女は少女でしかないから。運動が苦手で、人と争うなんて生まれてこの方一度もしたことがない、鈍くさく不器用な14歳の少女の体でしかないからだ。

「そんな相手を前にして、どうして長々と無意味な話を続けたと思う?
 そりゃボクもキミたちの意味不明な在りかたとかを見たかったってのはあるけどさ」

 アルデバランの右手が、聖剣の輝きが、ディーに迫る。
 魔女はそれに反応できない。基礎的な反射速度があまりにも違い過ぎて、十度は殺された後でなければディーはその動きに気付くことはできないだろう。
 けれど。

「急段顕象、《雲笈七籤・墜落の逆さ磔》」

 どぷん、

 という音と共に、すばるは、キーアは、姿を消した。
 何の予兆もなかった。二人は自身の足元に伸びる影に、まるでそこが突如として水面に変わってしまったかのようにして、水に沈むように消えてしまったのだ。
 黒に呑まれた二人。
 残ったのは僅かに、ディーただひとりだけ。

「ボクの前で希望を謳ったよな。だからお前たちは何も掴むことができない」

 急段とは術者と相手、双方の合意が成立することで初めて効果が発揮される異能。
 勝負の内容をゲームと合意することで命がけの遊戯盤を顕現させる狩摩と同じく、"夢"を見たいと願う人間を実際に夢の世界に引きずり込む万仙陣と同じく。
 雲笈七籤・墜落の逆さ磔。協力強制の条件は「希望を抱く」こと。顕現する能力内容は「無限深の深淵へと墜落する」。
 希望とはすなわち夢想。より良いものを求めるが故の意思であり、裏を返せば目の前の現実は"そうではない"ことを前提とした感情だ。

『お前の抱く都合の良い希望は実在しない。おまえ自身それを認めただろう。だから現実に呑まれて消え失せろ』

 相手は希望とは現実に在らぬものと認め、術者たるディーは希望など実在しないと思考する。その瞬間、両者の間で合意が成立するのだ。
 "現実"はそんなに甘くないのだ、と。

「僅かでも夢見る心が残っていれば、その者は万仙陣を抜け出すことは叶わない。
 金が欲しいアレが欲しい、生きたい死にたくない何かをしたい何かをしたくない。その全てを万仙陣は叶えてしまう。
 ならそれを打ち破る者はさぞや崇高で気高い心を持ってるんだろうね。きっと『希望』なんていう身の程知らずのものを後生大事に抱え込んでさ」

 故にこそ、キーアとすばるは決して勝てない。
 万仙陣を乗り越えてしまったその時点で、ディーとの協力強制は成立してしまっているのだから。

「さあ、残るはたった一人だ。アイ・アスティン、墓守の夢を抱いた哀れな娘よ」





「どっちの願いが強いのか、ここではっきりさせようじゃないか」





【すばる@放課後のプレアデス 魂魄封神】

【キーア@赫炎のインガノック 魂魄封神】





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「結局、お前に全部押し付けちまう形になっちまったな」

 赤い髪の少年。
 知らないはずの人だった。今まで一度も会ったことがない、そう断言できる。
 けれど何故か、見覚えのあるような気がして。
 何故か、謝らなければならないような気もした。

「お前には謝ることが多いんだ。ドッグタグも拾ってもらったしな」

 ドッグタグ。セイバー、蓮に教えてもらったこと。
 旧校舎の地下で拾った銀色の小さな札。
 ああ、なるほどとアイは思う。
 そっくりなのだ。あの場所に埋もれていた、封じられていた誰かと。

「この先は怪物の棲家だ。お前のサーヴァントだって、生きてりゃ絶対行くなって言ってるはずさ。
 命の保証はできない。あいつはこの都市を、お前らを本気で消すつもりだ」

 少年の顔が歪む。やりきれず、何かを為せなかった。そんな顔だ。
 自分もそうだったから、よく分かる。

「お前一人なら俺が逃がしてやれる。それでも、行くのか?」

「ありがとうございます。でも、私は行かなきゃならないんです。
 ……そうですよね、アリスさん」

「───ああ、そうだったな」

 虚を突かれたように、けれど次の瞬間にはほんのわずかに微笑んで、少年は───アリスは答えた。

「なんだ、いい顔しやがって。結局俺がいなくても平気じゃねえか。
 ほんとはさ、行くなって言いたいんだよ。なにせ初恋の相手だったんだぜ?」

「会うのはここが初めてですよ」

「ま、お前にとっては未来の話さ」

「未来、ですか。気の遠くなる話です。今の私には尚更」

「信じられないか?」

「いいえ。私はきっと、そこに行かなければなりませんから」

 アイは言う。断言する。そうしなければならない。
 未来を、希望を、光を、勇気を。信じることこそ、夢を失った彼女に課せられた重圧なのだから。

「後悔はしないな」

「はい」

「諦めないよな」

「勿論」

「立ち止まるなよ」

「ええ」

 ぴん、と何かを弾く音。自分の顔面目掛けて飛んでくるそれをアイは掴む。
 指に取ってまじまじと見つめる。それは一発の、銀の銃弾。
 投げ渡した格好のアリスは、にやりと不敵な笑みを浮かべて。

「なら行け、走れ。
 行ってあいつをひっぱたいてこい」

「ええ。あなたの分まで、きっと」

 そして二人は擦れ違う。
 アリスの横を通り過ぎ、アイは走り出した。
 後ろはもう振り向かない。
 だって希望は託されたのだから。



「……ったく、やっぱ無軌道暴走列車だな、あいつ」

 アイの背中が見えなくなるまで見送って、呆れたように呟き、アリスは後ろに倒れ込んだ。
 大きな水音と共に広がる血飛沫。それは明らかな致死量であり、誰の目から見ても生きていられるものではない。

「そんであの時計野郎、ざまあみやがれ。何が足止めは二秒が限度だ、だよ。10分は粘ってやったぜこんちくしょう」

 アリスの顔は晴れやかだった。
 何も為せなかったなどと、何を馬鹿な。自分はここまでやってやった。
 そう信じることができたなら、どれほど幸せだったことだろう。

「ディー。お前が何を見て何に絶望したのか、正直俺には分かんねえよ」

 気付いた時には、既に彼は《奪われた者》と成り果てていた。
 死者に黄金螺旋階段を昇ることは叶わない。故にこそ、二度目の聖杯戦争が始まって以降"片時も止まることなく"階段を昇りつづけた彼は、しかして頂上に辿りつくことがなかった。
 自分が意識を失っていたあの時、ディーが何を見て、何を選択したのか。それを彼は知らない。
 どうせろくなことじゃないんだと思う。あいつのことだから、何か体よく騙されてたりするんじゃないかとも思う。
 けれど。

「それでも、お前がそこまで真剣に何かを叫んでるなら……きっと本当は、俺が止めてやらなきゃいけなかったんだよな」

 それだけが……
 それだけが、悔いだった。

「悪いな。俺、お前に……」

 続きは、言葉にはできなかった。

 視界が闇に覆われ、意識が急速に消えていく。
 アリスは彼方を見上げ続けた。螺旋の果てを、黄金螺旋の頂上を見上げ続けた。
 見えない目で、見上げ続けた。
最終更新:2020年04月03日 20:57