『《魔弾》の力が消える』
『ならば、終わりを始めよう』
『我が手を阻む最後の世界救済者が砕けた』
『すなわち』
『シャルノスの理に抗う者は、既にただ一人となったのだから』
『───ああ』
『おめでとう』
『きみに、きみたちに』
『心からの祝福を』
▼ ▼ ▼
───私は。
───私は、私の世界を歩いていく。
───階段、昇って。
階段。どこまでも果てしなく続く螺旋階段。
それは周囲を紫影に覆われて、足元は乱れない漆黒の様相。
アイは昇る。無言で昇る。涙を拭い、どれだけ足が悲鳴をあげようとも。
「私には、まだ、やるべきことが残っていますから」
答える誰かはいない。
もう、消えてしまったから。
それでも呟く。
会話としてではなく、自分への確認として。
帰ってくる声はない。
言葉も、視線も何もかも。
隣にいてくれたはずの、もしくは影となってずっと一緒にいてくれた彼。もう、いない。
消えてしまった。アイの目の前で、アイの腕の中で。
消えてしまったから。
この、虚無と化す世界と同じに。
この、紫影と化す夢界と同じに。
アイは歩く。
アイは昇る。
紫影の塔、螺旋階段の果てへ。
夢と消えていく世界で、ひとり。
擦り切れていく世界で、ひとり。
最早、何もかもが手遅れなここで。
幾人もの顔を思い出しながら。
幾つもの感情を、胸に抱いて。
唇、噛んで。
彼の瞳を、思い浮かべながら。
視線、真っ直ぐに見上げて。
最果てをにらんで。
空の果て、階段の向こうを。
虚無の中をただ一人、アイは歩く。
関節が軋んでも。
足の感覚が、とうに無くなっても。
何度躓いても。
何度転んでも。
転げて、虚無に落ちかけても。
何度でもよじ登る。
何度でも、何度でも。
何度でも───
……どれくらい。
どれくらい、時間が経っただろうか。
何度も転んで、諦めかけて。
時間の感覚がなくなるくらい、昇りつづけて。
ようやく───
───ようやく、見えてきた。
───私の、私達の目指した場所。
───紫影の塔の、てっぺん。
───視界はまだ、霞んでいるけれど。
───それでも見える。目指すべき先が。
「……もう、すぐ……」
囁いて───
そして───
そして、進むアイの眼前で、渦巻く螺旋階段の向こうから現れる。
誰もいないはずなのに、もう誰もが消えてしまったはずなのに。
機械の女が、アイの前に顕れる。
それは確かに女であったが、
アイと同じ女ではなかった。
それは、酷く、鉄の臭いがした。
階段の裏側から、女が来る。
階段の裏側から、女が姿を現して。
逆さまになっているのに、不思議と、落ちることもせずに。
くるりと、アイの目の前に降り立って。
その女はアイに告げる。
人間め、忘却の奴隷よと嗤いながら。
人間め、悪質な装置だと嗤いながら。
空間さえ捻じ曲げて。
神の見ている場所ならどこへでも。
『……こんなところまで』
『諦めなさいな。
お止めなさいな。
愚かな子、ひとりぼっちのアイ』
『そんなに傷ついて。
そんなに転んで、怪我をして』
『痛いでしょう?
なら、もう終わりにすればいいのに』
「嫌、です」
『なら、終わらせてあげる』
その身に纏ったものを、女は見せる。
その身に纏うフィルムと回転盤。
そこには映るだろう、メモリーが。
そこには蘇るだろう、メモリーが。
耐えきれない現実と共に、
耐えきれない過去と共に、
見せる。見せつける。目を逸らせない。
ただ、見つめて───
『メモリーはここに。
あらゆるメモリーはここに』
『だって人間には無理でしょう?
メモリーをしまっておく場所なんて、どこにもないでしょう?』
『頭の中にしまっておいても、すぐに歪んで、捩じれて、劣化する』
『さあさ、覗いてごらんなさいな。
何が見える? あなた、何を見たい?』
問いかける声は残酷に。
問いかける声は冷酷に。
アイの願いを女は叶えるだろう。
残酷に、冷酷に、無慈悲に。
たとえば───出会った人々との過去であるとか。
たとえば───別れた家族達との過去であるとか。
刻み付けて取り込んで、両目に焼き付けて取り込んで。
そして、人間を消してしまう。
けれど───
「うるさい!」
言葉、声。
アイの言葉は否定に満ちて。
過去を───
嘲笑う誘惑を───
跳ね除け、女の姿は幻と消え去って。
そして───
そして。
再び、アイの前に、罅割れた壁の隙間から訪れる。
一人目の女は消え去って、別の女がアイの前に顕れる。
それは確かに女であったが、
それは前の機械の女によく似ていた。
それは、酷く、鉄の臭いがした。
壁の隙間から、女が来る。
壁の虚無から、女が姿を顕して。
その女は告げるのだ。
人間め、恐怖の生贄よと嗤いながら。
人間め、悪質な装置だと嗤いながら。
空間さえ捻じ曲げて。
神の眺める場所ならどこにでも。
『───可哀相』
『あなた、ひとりだなんて。
そんなのひどい。可哀相だわ』
『ひとりなのがいけないの?
ねぇ、ねぇ。アイ。アイ?』
『痛い思いまでして。
悲しくて辛い思いまでして』
『そんなになってどうするの?
あなた、どこへ、いきたいの?』
『明るくしましょうよ。
ねぇ、もっともっと明るく!』
「……うるさい」
『暗い顔して!』
その身に灯るものを、女は見せる。
その身に灯る白熱電球。
それは照らすだろう。
恐怖を、長い長い影としながら。
それは呼び起こすだろう。
恐怖を、メモリーに繋ぎながら。
耐えきれない現実と共に、
耐えきれない過去と共に、
刻み付ける、影を際限なく伸ばして。
何の力もないアイでは、光は、避けられない───
ただ、浴びて───
『あなたの道も照らしてあげる!
真っ白に、全部見えなくなるくらい!』
『あはははは!
何するの、ねえ何をするつもりなの?
あなた一人なのに! ひとりっきりで何をするの?』
『照らしてあげてもひとりきり!
明るくしてもひとりきり!』
『明るくなりなさい。
暗いのも怖いのも全部忘れ去って!
もっと、もっと、明るく、忘れてしまえ!』
「……退いてください。
私は、あなたなんか、知りません」
言葉。声。
アイの言葉は否定に満ちて。
明かりを───
恐怖の導きを───
払いのけて。
そして。
三度、アイの前で螺旋階段のすぐ真上から訪れる。
誰もいないはずなのに。機械の女が、アイの前に顕れる。
それは確かに女だったが、
それはこれまでの女とよく似ていた。
それは、酷く、鉄の臭いがした。
階段の真上から、女が来る。
階段の真上から、その女が顕れて。
ふわり、と。
アイの目の前に降り立って。
その女はアイに告げる。
人間め、孤独の動物よと嗤いながら。
人間め、悪質な装置だと嗤いながら。
空間さえ捻じ曲げて。
神の認識する場所ならどこにでも。
『止まりなさい』
『これより先は神の座。
これより先は人間の領域ではないの』
『残念だけれど。
ここで、終わりにしませんこと?』
『あなたはよくやった。
そう、彼も言っていたでしょう?』
『あなたの大好きな彼。
あなたに付き添った彼。
不快な彼。水銀の影によく似て』
『そう言われたのだから。
あなた、もう諦めてよくてよ?』
「……やめてください」
『残念だわ』
その身に備わるものを、女は動かす。
その身に備わる蓄音機、発声装置。
そこには響くだろう、メモリーが。
そこには蘇るだろう、メモリーが。
姿を映すことはなく、
ただ、声、言葉のみを響かせて。
耐えきれない現実と共に、
耐えきれない過去と共に、
聞かせる。聞かせて、決して逃がさない。
『さあ、聞こえるかしら』
『あなたの愛しい人の声。
あなたの愛しい家族の声。
そうよ、あなたは聞いてしまうの』
『キヅナ・アスティン。
ハナ・アスティン。
あなたの大切な人の声』
『悦びなさい、アイ。
あなたのために聞かせてあげますわ』
『ずっと聞いていればよいの。
ね、ずっと。ずっと。ずっと』
『あなた自身のメモリーが消え去るまで。
ずっと、ずっと』
『過去に縋りついてもよろしくてよ?
ほうら、聞こえる───』
優美な声は残酷に。
優美な声は冷酷に。
アイの望みを女は叶えるだろう。
残酷に、冷酷に、無慈悲に。
すり減らして取り込んで、
両耳に擦り込んで取り込んで、
そして、人間を消してしまう。
「……なんで、笑っているんですか」
顔が、ないのに。
女は笑っているのだと分かる。
嘲笑っているのだ。アイを、皆を、すべてを。
『声こそ、言葉こそメモリー。
言葉あるものは我がしもべ。踊るがいい、まがいものたち』
「そんなに、私の邪魔をして。
私の、何が怖いんですか。どうして止めるの」
『恐れ……?』
『恐れなど!
恐れなど、私にあるはずもない!』
『私は恐れている。恐れている……?
いいえ、そんなことあるはずがないわ!』
『私は言葉を操るのだから!
人間などに、恐れるはずもない!』
『あなた如きが!
我らが神の御前に立とうなど!』
『どうせすぐ死ぬ生き物の癖に!
いいえ、あなたは生きてさえいない!』
『アイ・アスティン! 紛い物の《廃神》!
たったひとつ歩き始めた御伽噺!』
『あなただけは許さない!
はやく、消えてしまいなさい!』
「私は止まりません。
そうセイバーさんに、アリスさんに言いました」
「私は"私"をやり遂げます。
だから邪魔をしないでください。顔のない人、私を嗤う人」
『認めない!
果てに何があるかも分からぬ人間が、残像程度が!』
「ええ、そうです。私は誰かの影なんです。
でもあなたは知らないんですね。私は誰かの影ですけど……」
アイは、笑った。
「エゴイスト、なんですよ」
『───ッ!』
「私は影。私は夢。私は人の集合無意識から凝り固まった廃神の一柱。
アイ・アスティンという今も確かに生きる誰かから零れ落ちた、まがいものの命。
でも、それでも、私はまだここにいます。だから……」
言葉。声。
アイの声は静かに響いて。
「だから、私は!
果てへ行くまで! 辿り着くまで!
───この、"私"です!」
▼ ▼ ▼
「アイ」
「キミはやっぱり諦めないんだね」
「だから、ボクは」
「キミを……」
▼ ▼ ▼
───ようこそ、と。
アイを呼ぶ声がする。
アイの知らない、誰かの声。
それは確かに聞き覚えのない声だったけれど。
それは確かに、アリスと同じく何故か耳によく馴染んだ。
アリスは言っていた。自分たちが出会うのは未来の話だと。
未来。気の遠い話だ。未来のない偽物のアイには特にそう思える。
けど、それが真実なら。いつか自分がアリスと出会う運命ならば。
「こんにちは。アイ」
目の前で静かに微笑むこの少女も、
あるいは、アイが本来未来で出会うべき誰かなのだろうか。
紫影の階段、その最後の一段を昇りきった時だった。
影に覆われた大広間。踊り場ですらないその広大な空間に、少女がひとり立っているのをアイは見た。
アイよりも少しだけ年上だろうか。
朱い瞳。紫の髪。どこかの学校の制服を身に纏って、薄っすらと微笑みを浮かべている。
そこに、悪意と呼べる感情は見えなかった。
鉄の女たちと違って、それは嘲笑ではなく単なる微笑みだった。
友人を迎えるような笑顔だった。
少女は笑う。ゆったりと、力を抜いて、自然体で。
全ての元凶であるはずなのに。悲劇、惨劇、死と苦痛。それら全てをもたらした根源であるはずなのに。
まるで、どこにでもいる普通の少女であるかのように。
「ようこそ、歓迎するよ。
アイ・アスティン、ボクのただひとりの友達。
初めまして。ボクの名前は……」
少女の、ディーの言葉を遮るようにアイが答える。
「そうですよね、ディーさん」
「? ……ああそっか、キミも下を通ってきたんだもんね。なら垣間見えてもおかしくないか」
世界塔は重ね合わせの場所。可能性も時間も、ここでは通常の意味を為さない。
すばるや
キーアと対峙していた時の光景を、アイも見ていたのか。
「ならボクの目的とか、この世界の絡繰りとか、そういうのもキミはもう知っているわけだ。
困ったなぁ。そこらへんを取っ掛かりにして色々話そうと思ってたんだけど」
「大丈夫ですよ。聞きたいことはたくさんありますから」
例えば、そう。
「何故、あなたは私に敵意を持っていないんですか?」
まず最初に気になったのはそれだ。
ディーは
すばると
キーアに激しい敵意を向けていた。憎悪、と言ってもいいかもしれない。それはこの聖杯戦争を企てた黒幕として、己の意に反したイレギュラーを認められないという観点からも当然だとは思っていたけど。
なら、何故アイにその激情を向けていないのか。
「さっきも言っただろう?
キミはボクのたったひとりの友達なんだよ。未来の、とか、オスティアの人以外で、って枕詞は付くけどね」
「また未来の話ですか。世界を救うと決めた私は、どうも波乱万丈な人生を送るようで」
「全くだよ。キミの破天荒さは出会ったこっちが驚いたくらいだ。ま、ボクのそれもあくまで垣間見た記録であって、経験ではないんだけどさ」
くすくすとディーは笑う。その姿だけを見れば、本当に、単なる14歳の少女にしか見えなかった。
「キミとユリーとスカー、あとキミはまだ知らないだろうけどセリカって赤ん坊も一緒でね。学園の放送室乗っ取って演説ぶち上げたり、一緒にクソ長い塔を昇ったり、キャンプしたり誕生会したり、ゴーラ学園の時なんかユリーがロケットランチャー持ち出してきてさ。いやぁ、あれは笑ったなぁ。アリスも一緒に爆笑してたっけ」
「……随分と」
「うん?」
「随分と、普通にお話するんですね」
「もっと悪どくて人を人とも思わない悪者だと思ってた?」
「はい、正直言うとそう思ってました」
悪くて、
強くて、
おぞましくて、
なんかこう、自分の目的のためならお前なんか死んでしまえー、みたいなのを想像してた。
「だって世界を終わらせようとする人なんですよ?
殺し合いを開いて、みんなを巻き込んで、たくさんの悲劇を生み出した。そりゃとんでもない悪人を想像します。
でもあなたは……」
「そんなふうには見えない? もし本心からそう言ってくれるなら、結構嬉しいかも」
アイの声は震えていた。低く、涙も混じっていたかもしれない。
対するディーは、どこまでも平常であるように、事もなげに。
「ディーさん。あなたの願いはなんですか」
「もう言ったはずだよアイ。ボクの願いは世界を滅ぼすことだ」
「そうではありません。何のために、世界を滅ぼすかです」
「……」
「復讐ではありません。あなたに憎悪の色は見えない。
破滅ではありません。あなたに狂気の影は見えない。
再誕ではありません。あなたに希望の光は見えない。
なら、あなたは、何のために世界を滅ぼすのですか」
────────────────────────。
Q.人の願いとは?
────────────────────────。
「キミはもう、アリスと会ってるんだったよね」
はぐらかすように言ったディーは、アイへと向き直る。
「おさらいをしようか、アイ。
第四盧生『
黄錦龍』が掲げる人類愛は救済、遍く人の理想の体現だ。
万仙陣は各々が求める救いの形を夢の中で叶えるけれど、現実はと言えば黄の眷属と成り果てて触手の異形に創り変えられる。
そのことについての是非はひとまず置いておくよ。これは事実の確認だからね。
彼は本当の意味で全人類を救済するが、同時に全人類を滅ぼす悪性でもある。ここまではいいかい?」
ピン、とディーはコインを弾く。
何時の間に持ち出したのだろう。コインはくるくると宙を舞い、ディーの掌に収まった。
けれど、彼女はその結果を見ない。
裏表を確認せず、ただ無意味にコイントスを繰り返す。
「そして、あなたはそれを呼び出そうとした」
「厳密には呼び出そうとしてる最中だけどね。
でもまあキミの言う通り、世界を滅ぼすだけだったら他にいくらでも手段はあるよ。乱暴な言い方をしてしまえば、大量の核爆弾でもぶっ放してやればそれで済む話だしね。
実のところ、ボクも万仙陣じゃなく本当はシャルノスが良かったんだ。でも100年も前に黒の王は玉座を去っていたからさ。今でも残滓程度の力は揮えるけど、それじゃボクの願いは叶わない」
つまり、ディーはわざわざ万仙陣を選んで世界を滅ぼそうとした。
目的はあくまで万仙陣によってもたらされる何かであり、世界の滅亡は副次的なものに過ぎない。
「本当に、どこまでもキミの言う通りだよ。
復讐なんてする気もない。ボクは誰も恨んでないから。破滅のつもりもない。ボクに自殺願望なんかないから。
世界を滅ぼし新たな世界を、なんて心底どうでもいい。ボクが願いを遂げたあとの世界なんてもう知らない。猿がタイプライターに打ち込む不確定要素に任せて勝手に流れていけばいいんだ」
コイントスは終わらない。
何の目的もなく、ディーはそれを続ける。
「話が長くなっちゃったね。だからもう結論だけを言おうか。
ボクの願いは"アリス"とずっと一緒にいる。ただそれだけだよ」
「それだけの、ために」
「そう、それだけのためにボクは世界を滅ぼすんだ。
人の認識によって生み出されたオスティアの世界、そこで出会ったボクとアリスはあの世界でしか生きられない。
世界よ停滞せよ! 人を永遠の鳥籠に捕えたまえ!」
「そん、なの」
そんなもの───
「意味が分かりません! あなたがアリスさんとずっと一緒にいたいという願いと、だから世界を滅ぼすという結論と、そのために万仙陣が必要だということが、まるで繋がりません!
私をからかっているのですか、それとも似合わない狂人の真似事でも……!」
「ボクは誰よりも正気だよ。それは彼、アリスが一番よく知っているはずさ」
ディーは笑う。嘲笑でも張り付けた笑みでもなく、ただただ笑う。
「ボクはアリスとずっと一緒にいたかった。それだけなら、万仙陣どころか聖杯だって必要ない。彼がどんなに叶わない夢を追いかけていようと、ボクは傍にいられるならそれで良かったんだ。
でも駄目なんだよ。アリスの願いが故郷オスティアという閉鎖空間の破壊であり、ボクがそこに囚われている以上は決して叶わない」
何故なら、とディーは続ける。
「アリスはまだ生きてるけど、ボクはもう死んでいるんだから」
そう、締め括った。
◆
「あれは、ね。文化祭の前日のことだったんだ。あの日ボクらは準備に追われて、全員参加で居残りをしてたんだ。ホントみんなギリギリまで動き出さないんだから、まったくしょうがない奴らだよ。当日は大混乱。やれ機材が足りない、看板の字間違えた、領収書貰ってこなかった、こらーお前ら放課後の活動申請出してないだろって先生に怒られたり。こうなりゃ徹夜で作業するぞって散々に盛り上がってさ。ボクは調理場作りで大変だった。ガス管配置してバーナー用意して、食材の手配にてんてこ舞いだった。アリスもその頃はブザービーターのせいで凹んでたけど、その時はそんな暇もないみたいで結構笑ってた。あれ見た時ボク、嬉しかったなぁ……だから、よそ見してたんだよね、ボク。悪いのは、全部ボク」
「……」
「内装がさ、結構凝ってて、ボクたち電装まで取り替えて中を宮殿風にしてたのね。その時ボクはカーテンを外す作業をしてたの。机の上に椅子を重ねて、ちょっと不安定だったけど、でも問題なかったから続けてた。二枚目も、三枚目もきちんと外せた。だけど四枚目でね」
「ディーさん……」
「四枚目だけ、窓が開いてたの。でもボク、それに気付かなくてさ。アホなことに窓に寄りかかって外そうとしたの。ホントアホだよね。それまでの窓が全部閉まってたから、そこもそうだと思い込んでた。びっくりしたよ、もう一段あると思ってた階段がなかった感じに似てるかな? 最初何が起きたか分からなかった。多分ボクきょとんとしてたと思うよ。だってアリスもそうだったもの。ああ、そうだ、あの時はアリスと一緒に作業してたんだ。悪いことしたなぁ……ボクはそこから先を覚えてないけど、アリスはばっちり見ちゃったろうしなぁ。かわいそうなことしちゃった」
「ディーさん!」
アイは叫んだ。
ディーは、自分が叫ばれるようなことを口走ったなどとは全く考えていない様子できょとんとしていた。たぶん、彼女が落ちたときも、このような表情をしていたのだろう。
「もう、いいですよ……」
「ん? ああ、うん。もういいって言うか、今ので終わりだけど」
ディーは発熱を確認するかのように、紅潮した頬を軽く抑えた。
「えっと、なんだっけ……そうそう、なんで世界を終わらせる必要があるかって奴。ボクが死んだ瞬間にさ、オスティアは一年で時間をループする閉鎖空間になったんだ。で、ボクは不完全な幽霊となった。多分、ボクが死んだとこを見たクラスメイトたちが『やり直したい』って願ってくれた結果だとは思うんだけど、実際はどうか知らない。嬉しいことではあるんだけどね、どうせなら『生き返ってほしい』って願って欲しかったかな。
ねぇアイ、ボクの立場で聖杯戦争を開くとして、一番の邪魔者って誰だと思う?」
「アリスさんです」
「うん正解。アリス邪魔だよねー、彼ってば本体がオスティアに囚われてるから何度死んでも復活してくるしさ。だからボクも無茶できたんだけど。
でもアリスを排除することはできないよ。だって彼、ボクがこんなことした一番大事な理由だし」
それはそうだろう。彼を消してしまえば本末転倒だ。
「それに、アリスには結局何もできないもの……ただ、彼はさ、"ガラスの向こうに行こうとする"でしょ?」
「え?」
最後の台詞は質問の形をしていたが質問ではなかった。ディーは急に独り言でも言っているかのように囁き出した。
「それで、ぼろぼろに、なるでしょ? だから、その時思ったの。ガラスの向こう、オスティアの外の世界を全部失くしちゃえば、流石にアリスも諦めるだろうって」
視線が合う。その時にはもう、ディーは西方の魔女に戻っていた。
「アリスの願いは囚われたオスティアの解放。ループする世界を壊して、中に閉じ込められたクラスメイトたちを外の世界に出してやること。でもさ、外の世界が無くなれば、解放もクソもないよね。
アリスは強い奴だよ。一度目の聖杯戦争でも一回だって負けなかった。どんな分厚い壁があっても絶対諦めなかった。そんな彼がさ、ボクが消えるってくらいで今さら諦めるはずがないだろ?
だからボクはボクとアリス以外の全員に死ねと告げる。世界を滅ぼすこと、そして死んでしまったボクがずっとアリスと一緒にいられること。その両方を叶えるには、万仙陣はうってつけだったんだ」
「そんな……」
衝撃が右脚の小指から頭の先まで走り抜けていった。
「そんな、そんなこと!」
「許されない?」
当然です! と叫びたかった。けれどアイはぐっとこらえ、寸前で抑えた。
「……ありがとアイ。今のキミなら、夢の喪失を知ったキミなら、そう軽々しく『当然だ』なんて言わないと思ってた。嫌だとは感じても、話くらいは聞いてくれると思ってたよ」
だから話したんだ、とディーは笑って言った。
「ボクだって、ね。最初からこんな風だったわけじゃないんだよ。あれは、そう、三番目のアリスの頃だ。オスティアが閉ざされてることを知ったアリスの言うことを信じて、なんとか外に出ようって頑張ってたんだ。あの頃は大変だったけど楽しかったなぁ。みんなで一致団結して、ここから出ようって張り切ってた。あの頃はボクもね、頑張って現実の世界に帰ろうって本気で思ってたよ。自分が死んでることも忘れてたしね」
「……」
「初めて外に出られて、その時からちょっとずつ考えが変わっていったんだ。今でも覚えてるよ。初めて外に出て、いきなりこんな殺し合いに巻き込まれて、『こんなところに戻るの?』って思ったよ」
「……」
「それでも、さ。ボクはまだ頑張れたよ。何よりアリスが諦めてなかったしさ。その頃のボクはまだ頑張れてたんだ。この街が本当の"外の世界"じゃなくても、本当の外の世界がどれだけ荒れ果てていても、そこに帰るのが当たり前だと思ってた。みんなだって解放されたがってると思ってた。だから頑張ったよ。殺されそうになっても、傷つけられても、怖くて死にそうになっても、ずっとずっと頑張ってきたよ。自分が死んでるって、気付くまではさ……」
「……」
「ねえ、アイ。ボクは、悪い子かなぁ」
ディーは、見捨てられたように言った。
「もちろん、さ。ボクは悪い子だよ。自分が消えたくないがためにアリスを縛って、関係ない人全員に早く死ねって押し付ける悪い子だよ。石投げられて首切り落とされて、100万回殺されたって文句言えない。悪い子だよね」
それでも。
「それでも、やっぱり、ボクが、悪いのかなぁ?」
ディーは淡々と、自分が死んだ時の話をするように喋った。
「死を受け入れられない。大切な人と離れたくない。ボクが、悪いのかなぁ……」
幽霊は、魔女は、泣いてはいなかった。泣くことを忘れてしまったかのように、言葉だけを吐いていた。
「……いいえ」
アイは答えた。
「あなたは……ディーさんは、悪くありません」
「はは。嘘ばっかり、慰めはいらないよ」
「本当です。あなたは、悪くありません。ただ、弱かっただけです」
「弱かった?」
「ええ。悪いよりも悪かったことに、弱かった。それだけのことです……」
「……そっか。ボクは悪よりも悪い奴なんだな」
まさしく化け物だ、とディーは言った。
アイは、そんなことを言いたかったわけではないのに。
「長々とこんなことを話したのはさ、ボクはキミに消えてほしくないんだよ。
キミは
アイ・アスティンの殻を持つだけの廃神だけど、でもボクはキミのこと嫌いじゃない。むしろ好きだ。愛してると言ったっていい。
殺したいなんて思うわけない。ボクはキミに、死んでほしくない」
「ディーさん……」
「幸い万仙陣に定員って概念はないからね。キミが望むなら、キミが願う全てが叶う世界に行ってほしい。
ボクたちはもう二度と出会えないけれど……キミが幸せに生き続けてくれるなら、それはきっと救いだろう。
なんならボクと同じように、シャルノスの残滓を使って永遠無辺の……」
「ディーさん、それはできません」
きっぱりと断る。そこには否定の意思だけが込められていた。
「あなたの事情は分かりました。既に死んでしまったあなたが消えたくないということ、アリスさんと一緒にいたいということ、アリスさんの願いが叶えばあなたが消えてしまうということ、だからアリスさんを諦めさせるために世界を滅ぼすということ。すべて」
万仙陣は悦楽の夢、全人類の安楽死装置。そこで苦痛を味わう者は誰もいない。
世界を滅ぼすという目的のために選んだ手段がそれだったのは、あるいはディーに残った最期の人としての心だったのだろうか。
たとえ、その夢に沈め永遠性を獲得するという性質が必要だったからという一点を差し引いたのだとしても。
「その上で私は言います。私は、それを、受け入れられません」
「……そっか」
その言葉こそが決定的だった。
それだけで、全ての道が決定した。
「万仙陣は夢見る者を突き落す。
そこから這い上がってきた者を、ボクの逆十字は希望の反転として突き落とす。
本来ならこの二つだけで間に合うはず、なんだけど……どうやらキミは逆十字には嵌らないらしい」
夢を失い、万仙陣を抜け出した。
夢を失ったからこそ、今や希望すら持たずここまで来た。
本来なら中途で朽ち果てるべき弱者の魂、それがアイだ。何の因果かここまで来てしまった、今この瞬間においては万仙陣も逆十字にも嵌らないジョーカーカード。
笑えないイレギュラーだ。想定外としか言いようがない。けれど。
「だからこそ、キミは物理的に潰すしかないようだ。
『来たれ外なるもの、発狂の時空。アクセス我がシン───モード・A.Z.T.Tより《幻燈結界》を発動』」
空が、震えた。
ここからは何も見えないはずなのに、それでも否応なく感じることができた。空が、世界が、震えていた。
それは絶対の黄金でありながら黄金ならぬ輝き。人の営みとして灯る無数の星々すらも吸奪して余りある、それは真なる「外なるもの」。
紫影の空を覆う何かがあった。それはディーの背後を、上空を、覆うようにして広がる黒い何かだった。絶望の空。ただそれを視認するだけで、アイの脳髄が軋みを上げているのはきっと幻覚の類ではあるまい。
あれは、あれの名は───
「狂える世界機械ナコト・ファンタズマゴリア。世界に在らざるもの、在ってはならぬもの。
その暴威においては《万能王》の巨神すら上回る。この聖杯戦争において呼び出されたあらゆる者はナコトの魔に太刀打つこと叶わない!」
───さあ、時は来た。
空を覆うものが見える。未だ全容の片鱗すら視界に収められぬほど巨大な何かが。
魔術。英霊。宝具。何もかもが意味を為さない。アイの手は決して届かない。
何故なら、これはそう定められているから。
誰が決めた? それは人ではなく。獣でもなく。
ただ一人の何者かが決めたこと。ただ一柱のいと高き者が決めたこと。
時間だ。時が、突然、来てしまった。誰にもそれは止められない。
「キミを殺すのはボクだ」
高みより睥睨し、ディーは嘯く。既にその身は魔女と成り果て、オスティアの少女の姿はどこにもない。
「大切な人を殺したのはボクだった。
友達になれそうな子を殺したのもボクだった。
キミの知る二人、
すばると
キーアを殺したのもボクだ。
敵を殺した、味方を殺した。友達を殺し、一番大事だったアリスすら黄金螺旋の彼方に突き落とした。
それでもアリスとだけは離れたくない。
だから、これでいいんだ」
そして。
巨大なものが、アイに向かって振り下ろされ。
「全てがどうでもいい。
創世はボクがやる、世界に光はボクが与える。
だからキミは、死んで
アイ・アスティンのイドに還れ!」
視界が、闇に───
「いいえ。そうはなりません」
全てが───
全てが、消え去っていた。
空を覆うものも、
巨大な影も、
アイを押し潰さんとした何かも、
全てが、消え去って。
後に残ったのは、アイとディーのただ二人。
「……な、にが」
消えていた。
ディーの持つ力、アイを消さんとしていた力。
全てが。
「っ、ボクの───」
「させません」
何かをしようとするディーの腕を、アイが掴む。
それだけで、ディーは痛みに呻くしかできなかった。墓守と人間では根本的な筋力が違う。それだけで、既にディーの動きは封じられた。
「何を……したんだ、
アイ・アスティン! ボクは根源の現象数式を手に入れた、ボクに為せないこと何も……!」
「私は一つの仮説を立てました」
ディーの言葉を遮って、アイが言う。有無を言わさぬ何かが、そこにはあった。
「聖杯戦争、英霊、鎌倉という街。全ては夢界の産物であり、万仙陣という急段によって形作られた代物。
つまりは夢、そしてあなたの力も源はそこから来ているのだと」
この聖杯戦争の裏側に潜む黒幕が何者だとしても、強大な力には何かしらの絡繰りが存在する。
そして舞台を構成する力、聖杯それ自体が万仙陣であると知ったアイは、一つを想起した。
すなわち、邯鄲法と呼ばれる術法。夢を統べる術。
「邯鄲法は夢を操るもの。急段より上にならなければ基本的な術理は変わりません。
つまり、心の強さが術者の強さとなる」
つまるところ、アイが言いたいのは単純至極の事実に他ならない。
「精神力で、ボクの術式を抑え込んだと……?」
そんな、考えるのも馬鹿らしい理屈。
「ありえない、そんなことがあるものか!
破段の顕現ですら常人は愚か特殊な精神修行を積んだ者ですら耐えきれない負荷がかかる、英霊の具現たるサーヴァントでもなければそんな暴挙は叶わない!
アイ・アスティン、自らの夢すら満足に持てないお前如きが!」
「ええ、その通りです。私だけでは、きっとそんな偉業は成し得ないでしょう」
そう、アイだけならば。
ひとりきりじゃ何もできない、アイだけでは、きっと。
「以前、セイバーさんに聞いたことがあるんです。エイヴィヒカイト……えっと、詳しい説明はいりませんよね? ともかくそれも自分の信仰が揺らいだりすると、高レベルの術でも結構あっさり破壊されちゃうって」
エイヴィヒカイト、ひいては創造位階における力の源流は自らの信仰だ。
渇望、こうあってほしいという願い。すなわち心の力こそが現実の強さとなる。
逆に言えば、そこが揺らげば現実の強さも揺らぐということ。
自らの渇望を信じられないエイヴィヒカイトの使徒は、容易くその理を破壊され既存兵器ですら傷つく脆弱な存在と成り果てるだろう。
「ディーさん。あなたは、本当に自分の願いを信じているんですか?」
致命的な、一言だった。
ディーは信じられないものを聞いたかのように、きょとんとした顔をこちらに向けた。
「なにを、言って」
「私がアリスさんと会っていると知った時、あなたの表情がこれ見よがしに変わったのを見ました。
最初は嫉妬とかかなって思ってたんですけど。でもやっぱり違ったんですね」
強張っていくディーに構わず続ける。
「その時あなたが感じたのは恐怖だった」
「……やめろ」
「アリスさんに何かを知られるとか、そういうのではありませんね。多分ですけど、私を通じてアリスさんの何かを知るのが怖かったんでしょうか」
「やめろ! やめて、お願いだから……」
ディーの目は絶望と恐怖に染まっていた。
アイを殺そうとした魔女とは、思えなかった。
「アリスは知らないはずなんだ。ボクが死んでるってこと……知らないで、あれだけ頑張ってたんだ。
ううん、もしかしたら全部知ってるのかもしれない。ボクが死んでるってことに気付いてて、オスティアを消したらボクも消えるって分かってるのかもしれない。でも、それでもいい。もし本当にそうだとしても、ボクは構わない。ボクが"知らなければ"、それでいい。でも……」
「……」
「でも、もし、それが分かっちゃったら。"お前が消えてでも俺は解放されたい"って、アリスが思ってるの、分かっちゃったら……」
ディーは嗤った。自分を嗤った。
「ボク、結構凄い奴なんだよ。自分のためなら誰だって殺せるし……世界一つだって滅ぼしてみせるよ……そのためだったら、なんだってできるよ。でも……」
「アリスに"いらない"って、言われたら……」
そこから先は、言葉にならなかった。
アイはかける言葉を失って立ち尽くした。ディーは低い位置からそれを見上げ。
「ねえ。じゃあキミはどうするの?」
「どうするって……何がですか?」
「ボクをこれからどうするの、ってことだよ」
ゆらり、とディーの纏う空気が変わった。
「キミはここに決着をつけに来たんでしょ?
なら、ボクを埋めるの。消えたくないって泣くボクを、そのショベルで、埋めるの?」
「そんなわけないでしょう」
「えっ」
「まったく、何を言うかと思えばそんなこと。いいですかディーさん。
人のことを敵だ敵だと言うのは構いませんが───いえ、本当は駄目なんですけど───だからって、相手も自分を敵だと思ってるとは思わないでください。私は何度も言ってきたんですよ、みんなを助けたいんだって」
「え、いや、でもキミの夢は……」
「夢破れましたがそれがなにか? 私の夢と、今目の前で困ってる人を助けるかどうかなんて関係ありませんからね。
そりゃアリスさん……というか、この聖杯戦争のあれこれを片づけたいってのはありますけど、それは別にディーさんの夢を踏み躙るという意味ではありません。そもそも解放されたいと消えたくないって願いは競合しないじゃないですか」
「で、でも、キミたちはきっとボクを許すわけが……」
「ええ、今だって怒ってますし許せない気持ちもあります。でもそれはあなたを助けて、みんなにごめんなさいするまでは保留です。
詭弁だろうがなんだろうが構いません。とにかく、可能性が残されてるうちから勝手に諦めないでください」
そしてアイは手を差し伸べる。
それは何の力もない、何の指針も夢もない、他ならぬアイ自身の手だった。
幽霊を、魔女を、ディーを助けるために差し伸べられた、ただの人間の手だった。
それを見て、ディーは思う。
本当に、それでいいんだろうか。
自分が、今さら取っていいものなんだろうか。
迷って、迷って、逡巡して。
そして───
『今、希望を抱いたな』
「ッ、うぁ、わあ!?」
「ディーさん!?」
突然のことだった。
ディーの足元の影が蠢き、まるでそこが水面に変わったかのように、ディーを呑みこんだのだ。
どぽん、とディーが影に落ちて。
寸でのところで、アイがその手を掴んだ。
「な、なんですかこれ……強い力で、引っ張られて……!」
「アイ……!」
───雲笈七籤・墜落の逆さ磔
それは元々、ディーが有する異能では断じてない。
集合無意識より組み揚げた術式を疑似的に使用していたにすぎず、ならばこそ彼女自身の思想哲学を体現するわけでもなく完全な制御下に置かれていたわけでもない。
それはつまり、ディー自身も効果の対象になり得ることを示す。
希望を抱き、相対した相手が希望を否定する。それさえ成立してしまえば、ディー自身であろうとも無間の闇に墜落する。
ディーは自分が許されるかもしれないという希望を抱いた。
そしてアイは、元々希望など失った形でここまで来た。
そう、アイは既に、本当の意味で、希望などというものを信じることはできなかったのだ。
故に。
「い、いやだ! いやだ! 落ちたくない、落ちたくない!」
「ディーさん! 大丈夫です、私が……!」
「落ちたくない、ひとりは嫌だ!」
嫌だ。一人で落ちるのは嫌だ。たった一人をシャルノスで過ごすのは。
だって、それじゃ───幸せになってしまう。
たった一人なのに、アリスはいないのに、それなのに幸せになってしまう。本当に捧げるべき愛を、失ってしまう。
シャルノスに落ちて、希望の世界を目の前に出されて。きっと、最初のうちは拒絶するだろう。
これは本物じゃない。アリスもみんなも本当はどこにもいない。そう言って、差し伸べられる手を振り払ってしまうのだ。
でも、それも長くは続かない。
きっと、偽物のアリスたちはしつこくボクを追いかけてくるだろう。本気で心配して、本気で向き合ってくれる。そして顔をあちらに向ければ、満面の笑みを浮かべてくれる。
そんなもの、本当はどこにもないのに。
そうしたらボクは、きっとほだされてしまう。
偽物のアリスに、偽物のみんなに、きっと手を伸ばしてしまう。
そうしてずるずると取り込まれて、幸せになって、まあこれはこれでいいのかな、なんて思ってしまう。
本物のアリスに向けるべきものを、全部虚空に向けてしまう。
それはディーが抱いた愛への、殺し合いを開いてまで証明しようとした想いへの、何よりの裏切りだ。
なんだそれは、ふざけるな。
ボクはそんなこと、絶対に認めない。
認めたく、ないのに。
「なんで……どうしてこんなこと……ボクは、ボクはただ……」
ディーは叫んだ。掠れる声しか出ない喉で、それでも尚絶叫した。
「ボクは……幸せになりたかっただけなのに……」
アイの指が離れ、浮遊感と共に視界が闇に包まれた。
それでも叫び続けた。
誰の返事もなかった。
ただ、空疎な永遠だけがそこにはあった。
最終更新:2020年04月07日 21:53