こんなことがあった。
 それはまだ、二度目の聖杯戦争が続いていた頃のこと。

 喫茶店の中を、小さな蠅が「くわん」と舞っていた。
 蠅は喫茶店の店員の頭を通り、客の鼻歌を突っ切り、誰もいないテーブルを旋回してディーのところへやってきた。
 ディーは意識だけを鎌倉の街に送ることができた。他人の夢を覗き込むような感覚だった。聖杯戦争の行く末が云々ってのもあったけど、単純に暇つぶしってのもあった。
 そんなディーの目の前で、蠅は窓ガラスにぶつかり始めた。

「……馬鹿な蠅」

 微睡みの中で、ディーは蠅に囁いたりした。

「そこにはガラスがあるのに……キミには破れないものなのに……」

 しかし蠅はそんな言葉など気にもせず、聞こえもせず、ぶつかり続ける。

「それでもキミは諦めないんだね。どんな犠牲を払っても」

 何度目かの突撃の後に、蠅はころりと転げ落ちた。その右目は今の衝撃でか、はたまた以前からそうなのか、少し凹んで黒く澱み、羽根は歪んで、左の後ろ足が根本からぽっきりと折れ曲がっていた。
 そんな姿になっても、蠅は止まろうとしなかった。
 ディーはそんな蠅に、囁いたりする。

「多分キミは……自分でも、止まれないんだよね」

 蠅は答えを返さない。ただ無言でぶつかり続ける。

「たとえそれが不可能事でも、ただ、傷つくだけだとして。止まることなんてできないんだよね……」

 ディーは傷ついた蠅が哀れで、可哀相だった。

「だったらせめて……」

 ゆっくりと右手を上げて力を込める。弓のように引き絞って、鞭のように振り下ろす。
 パシリ、と幻の音が響いて、蠅は為す術なく右手とガラスの間に挟まれた。
 けどそんなことに意味はなくて。
 蠅はディーの掌を突っ切って、またなんでもないことのように飛び立った。

「……でもボクには、トドメを刺してあげることもできない、か」

 ディーはひらひらと蠅を追った。傷ついた蠅と幽玄の手は何度も触れ合い、しかし一度も触れることなく、踊るように宙を舞った。
 しかしそれもつかの間。
 蠅はまた、ふっと手を離れて、ガラスの向こうに狙いを定めた。ディーは物憂げに、蠅がそちらに行かないよう掌で壁を作った。
 だがやはり蠅は、そんなものすり抜けて、また窓に頭から───

 ぶつからなかった。

 その時一陣の風が吹き、蠅はふわりとそれに抱かれて店の外へと出ていった。
 ディーは呆然と窓を見る。蠅を捉えて逃がさなかった窓ガラスは解き放たれて、街の風を呼びこんでいた。

「ふむ。元気そうで何よりです」

 そう言って少女は、店の前で呼んでいる青年に応えると、さっさと小走りで去っていった。
 ディーはそれを、ずっとずっと見つめていた。
 ただぼうっと。

 それは聖杯戦争が始まって七日目のこと。本戦が開始する前日のことだった。





 ただ、それだけのことなのだ。
 いつかこうなると、分かっていたことなのだ。
 ディー・エンジーにアリス・カラーは理解できない。
 どれだけ近づいても、一緒にいることなんてできない。
 本当に、ただ、それだけの話だったのだ。
最終更新:2020年04月07日 21:53