そこは紫影の果て。黄金ならざる影連なりし大広間。
今や少年王も大公爵も姿なく、祈る神さえ失われた涜神の地。
月の瞳たる双眸は無慈悲に夜を睥睨し、少女は一人見えぬ空を見上げる。
『きみはどこへ行く?』
少女は、アイは、ふらふらとおぼつかない足取りで歩み始める。
たった一人で。彼女以外誰もいない世界で。言葉なく。
『物語は終わりを迎えた。
永遠の今日を望みし魔女は偽りの夢へと消え、あらゆる全ては遅きに失した。
都市は今や真なる異形へと姿を変じ、一切の希望など望むべくもない世界で。
きみはどこへ行こうと言うのだね、今さら?』
「少し黙っててください」
言われるまでもない。
希望なんてあるはずがない。あったとしても既に奪われている。
アイ・アスティンは最早表情さえ尽き果てた顔で尚も突き進む。
願いはない。夢はとうに失われた。今は魔女から永遠を奪い去った、世界に受け入れざるべき《世界の敵》。
「私は行きます。いいえ、往かなくてはなりません」
『何処へ?』
「世界の果てです」
『行って何をしようというのだね。意味を持たぬきみが』
『倒すべき敵はなく』
『叶えるべき願いもなく』
『救うべき世界さえ失って』
『父を失い、母を失い、友を失い、夢を失い』
『生まれた意味も、生きる意味も持ち得ないきみが』
『この物語を、どう正すと?』
「何が正しいかなんて知りませんし分かりません。人の数だけ願いがあり、正義があるのと同じです」
全ては無意味。ハッピーエンドは失われた。
不条理だらけの物語。継ぎ接ぎで端々が朽ち果てた物語。
誰かの願いによって始まったその結末は、やはり誰かの自己満足によって終わるのだろう。
アイも、ディーも、誰も彼も。全員が自分の意思を押し通そうと戦ったのが、この聖杯戦争なのだから。
「私は誰も救えませんでした。この手に掴めるのだと思い上がった夢はただの傲慢で、誰もが私の前から消えていった。
死んで、消えて、いなくなった。そして私もまた、そう遠くないうちに消えてしまうでしょう。
ならそこに意味はないと言うんですか? 死ぬから、消えるから、そんなものは無意味だと」
アイの目の前に光が降りる。それは石材が重なるように、明確な質量を以てアイの眼前に積み重なっていく。
光を帯びた黄金の階段。長い、長い、果ての見えない螺旋階段。
紫影の果ての更に先に、未だ続く黄金螺旋階段。
「最後に死んでしまうから、今を生きることに意味はない。
私は決して、そうとは思いません。
私はこれまで、ずっと楽しかったです。つらくて、苦しくて、どうにもならないこともたくさんあったけど。それでも一瞬一瞬が楽しかった。
いつか失われるとしても、その事実が無かったことになるわけじゃありません。
たとえ誰一人覚えていなくても、記録一つ残らなくても。
今この瞬間、確かに私が存在していることに変わりはない。
なら、意味は、それだけで、きっとあるはずです」
誰一人と欠けることのない幸せの物語は、もう失われてしまったけれど。
希望はなく、さりとて諦観もなく。流されるがままに流離っているだけかもしれないけれど。
「それにですね。
何をしても結果が同じなら、その過程はできるだけ楽しいものにしたいじゃないですか」
それでも私は、この右手を伸ばそう。
私を支える何かと共に、必死で前を向いていこう。
……いつかそうして歩いていくのだと、生きた彼に誓いたかった。
「というかあなたは誰なんですか。さっきから人の頭の中でペラペラと」
『私はとうに名を失った者だ。あるいは、ディー・エンジーは私のことをキャスターと呼んでいたが。
その仮初の名が示す通り、私は前回の聖杯戦争において魔術師のクラスとして召喚されたものだよ。既に、意味はないがね』
「はあ。で、そのキャスターさんが何の用ですか」
『なに。舞台を降ろされた影法師からささやかな忠告といったところだ。きみが今向かおうとしている場所について』
相も変わらず脳内で反響する声。声質だけを聞くなら
藤井蓮とそっくりなのに、なんというか粘度が高すぎる、そんな声。
『根源、王冠、ジュデッカ、太極座、至高天、純粋空間、自由の岸辺、涅槃。
魂の生まれ、還る渦。事象の中心、宇宙の核。古今様々な名で呼ばれたそこは、すなわち世界の果てたる究極の門だ。
およそ尋常なる人間が行き着くことも、概念を理解することさえ不可能な極点』
「なんか色々と大仰な名前ばかりありますね」
『然り。そしてきみはそこへ辿り着くことができない』
アイは押し黙る。足を止めることなく、ただ無言。
『むしろ何故辿りつけると思っていた?
大公爵、
アリス・カラー、カルシェール降り立つ世界に遺された最後の人類。その全てすら黄金螺旋の果てに行き着くこと能わず、《美しいもの》を見ることは叶わなかった。
ならば、何故、きみ如きが?』
「だから意味なんかないとでも?」
『違うとも。私はきみの意思を尊重しよう。何故なら、そう。有体に言えば感動したのだよ。この胸の高鳴りさえ嘘ではない。
ならばこそ、きみにその資格がないことだけが酷く残念だ。きみは階段を昇りきることができない。それは変えることのできない純然たる事実なのだから』
「……」
『二度目の聖杯戦争において、黄金螺旋階段を昇りきれる参加者は都合2人だけ。
すばる、
衛宮士郎。当初においてはこの2人だけが階段を昇る資格を得ていた。あるいは聖杯戦争を通じての躍進を以て資格を得た者もいたが、きみはそのどちらでもない』
「……」
『きみは過程をこそ重視すると言っていたが、このままではきみは永遠の過程へと突入する。
それはきみとて本意ではあるまい? 無論私とてそうだとも』
故に、と彼は告げる。
『これより八層試練を開始する』
そして───
アイの目の前に二冊の本が顕れる。赤と緑、本は勝手にめくれあがり、バラバラとページが進められる。
それは不思議と、リュートのような金属の軋む音をアイに届ける。
やがて本はとあるページを指して止まると、影の如き声は高々と「宣言」するのだ。
『それは運命の奔流に生まれ落ちた一人の"人間"の物語。
時計が如き不撓の歩みを刻みし足持ちて、この星海総てを踏み拉かんとした者の、
均衡を、双翼を、幻装を、円環を。悉く凌駕せし世界調律の輝き。
大地を満たす総ての答えに与えられた、無数に訪れる明日の一つ。
現世界へ語る超越の物語、パーソナル・アタラクシア』
アイの眼前に新たな光が降り立つ。
それは黄金の階段と同じように、何かの形を成していって。
『水銀の王の名において。来たれ誰が影、境界記録帯。
汝が腕は我が腕。汝が罪、あらゆる総ては我が罪』
はじめに肉体が形作られる。
人の腕、足、胴体、そして頭部。その均整は彫刻にも似て、その眼差しは薄く開く微かなアルカイック・スマイル。
肉体に相応しい武具、防具、鋼が顕象し、総身を覆っていく。
鋼の彼。その右手は刃の如く切り裂いて、その左手は王の巨腕と打ち砕く。
秘めたる熱情は太陽の如く万象を溶かし、あらゆる総てを光の如く引き裂いて。
『その名、《熱力学の悪魔(デビル・オブ・マクスウェル)》。
新しきもの、大自在の境地を知るもの、生まれながらに菩提樹の悟りに達せし人類のイデア、調律者、万象の王。
世界のメモリーに記された、紛れもない《無敵》のひとり。
今や彼こそが世界そのもの。
彼が"人"であり続ける限り、何者もその存在を脅かすことはできない』
歯車が軋む。
時計の針が進む。
運命の車輪が回り始める。
膨大な光が濁流となって周囲全てを押し流していく。
アイの見る世界が日が落ちるように変わっていく。
『八層試練、それはきみにとって最大の難関。きみ自身が不可能と定義するもの。では───』
『神の不在を証明せよ』
そこは秋の実りに満ちた黄昏の世界。
黄金の午後が訪れた、止まった時間の終末譚。
現在時刻を記録せよ。
それこそが彼の意思。時こそ我が無間の領土なれば。
Q.例題です。いいえ、これは御伽噺です。
もはや何を語るまでもありません。ただ一つの切なる願いを除いては。
この世界を救ってください。生命の営みを諦めないでください。
「言われるまでもありません。あまりにも、今さらな話なのですから」
右手を伸ばす。ただ、前へ。
無為でもいい。それでも構わない。
今さら人から与えられる意味など求めない。
止まってしまった明日がそこにあるならば。
永遠の今日に対して、アイは、何度でも手を伸ばそう。
「苦しいから願った。悲しいから求めた。生きてて欲しかったから縋った。ただのエゴの塊だった。
こんな夢で誰かが、救えるはずがないのだと分かっていても。
それでも私は、誰かを救える神さまになりたかった───失われたその夢の残骸を以て」
瞳、前を見据えて。
「私は、あなたを乗り越えます」
【会場:永劫隔絶楽土・無間神無月】
【八層試練───神さまのいない日曜日】
最終更新:2020年06月17日 17:20