かつての記憶。
 それは、アイが幼かった頃の記憶。
 ある日、村と麓までを繋ぐ道に大きな木が倒れてきたことがあった。
 幸いけが人はいなかったのだけど。一本しかなかった道は完全に塞がれてしまって。
 歩くだけなら脇に逸れればいいのだけど。荷車や馬車は当然立ち往生。みんなほとほと困ってしまった。
 切るのも運ぶのも難しいって話で、みんなでうんうん悩んで、最後には燃やすことに決まった。
 生木を燃やすのは大変で、道を開くのは結局三日後になってしまった。
 それを見て、幼かった頃のアイは思ったのだ。
 ───私がたくさん火を出せたら、みんな困ることはなかったのに、と。


 ───そのアイは、見るも凄まじいまでの業火を身に纏っていた。
 手を振るうごとに極彩色の炎が流れ、ただ歩くだけで足元の地面が沸騰した。
 熱量に空間は歪み、陽炎の如くにアイの姿が揺れ動く。
 これこそが死だ。死、炎熱の恐怖。
 アイの操る炎は、かつて幼き彼女が望んだその通りに動き、眼前に立つ《鋼鉄の悪魔》へと殺到した。
 速い。目では追えない。生身も体では避けられまい。
 もしも炎を避けたとしても、拡散する致死の熱量が必ず殺す。
 文字通りの必殺。鋼鉄さえも鎔かす、アイの望んだ『渇望』の炎。それが微笑み浮かべる何者かに迫り───

 そして、消えた。
 蝋燭の火が掻き消されるように。炎は、熱量は、何の轟音も破壊もなく、あっさりと消え去ってしまった。
 焔のアイは、それを砕け散る総身と脳髄で自覚した。





 かつての記憶。
 それは、アイが幼かった頃の記憶。
 ある日、村で土砂崩れが起きた。
 直撃はしなかったし巻き込まれた人もいなかったのだけど。家畜や備蓄への被害は甚大で、後片付けも凄く大変だったことを覚えている。
 土砂はとにかく多くて、村中の人が総出で作業してもまるで減る様子を見せなかった。
 それを見て、幼かった頃のアイは思ったのだ。
 ───私の手がこれ全部を掬えるくらい大きかったら、みんな困ることはなかったのに、と。



 ───そのアイは、ただひたすらに大きかった。
 山を越え、空を越え、ついには星すら握りつぶせるほどの体躯まで、アイは変容した。
 指先が触れるだけで空が揺れ、圧し潰される大気の層は文字通りに大地を砕いた。
 これこそが死だ。死、星を滅ぼす巨大質量。
 巨いなる者と成り果てたアイの拳は、かつて幼き彼女が望んだ通りに動き、地に立つ《鋼鉄の悪魔》へと振り下ろされた。
 速い。目では追えない。生身も体では避けられまい。
 もしも拳を避けたとしても、星ごとを打ち砕かれて生物の生存できる余地はなくなる。
 文字通りの必殺。鋼鉄さえも粉砕する、アイが望んだ『渇望』の一撃。それが微笑み浮かべる何者かに迫り───

 そして、消えた。
 巨大な質量が、彼に近づくにつれバラバラと崩壊し、やがては灰となるように崩れて消えた。
 後には何も、破壊や痕跡すらも残らず、あれほど巨大であったはずのアイはばらけて散って。
 巨大なアイは、それを消滅する総身と脳髄で自覚した。





 様々なアイがいた。
 それは皆すべて、かつてアイ自身が望んだ何かを基点として分岐した、無数の可能性としてのアイだった。

 風を操るアイがいた。
 冷気を操るアイがいた。
 光の体を持つアイがいた。
 物質を発振させ、崩壊させるアイがいた。
 空間を支配し、あらゆる事象を屈服させるアイがいた。

 アイ自身が理解できるものもあった。
 アイ自身が覚えているものもあった。
 そして同時に、アイでは理解できない、知覚すらできない遥か高次のものまでもが、そこにはあった。

 巨大なアイがいた。
 小人のアイがいた。
 二つの心臓を持つ、三面六臂の勇壮たる鬼神が如き者がいた。
 人型ですらない、鋼鉄の体を持つ、獣の形をした、形すらないアイがいた。
 液体の、気体の、幽体の、電離体のアイがいた。
 真に墓守として完成に至ったアイがいた。神となったアイがいた。魔道に堕ちたアイがいた。
 可能性が無限に収束する中で、あり得たかもしれないアイが、そしてあり得なかったはずのアイが、文字通りに無限の数ほど存在した。

 無双の武人と至ったアイが、神速の宝剣を投げ穿つ。
 森羅万象を制御する術に至ったアイが、絶大なる破壊光を射出する。
 機械兵器に乗り込むアイの無数の弾丸は、壁のように全視界を覆う。
 あるいは墓守として世界を救う夢を叶えた幼きアイが、その命の全てを懸けて埋葬の刃で斬りかかる。

 《彼》はただそれらを見つめる。

 起こる事象は酷く簡単だった。何も起こらないのだ。
 眩い光が乱舞することなく、
 大地が逆巻き割れることもなく、
 空が乱れ終末の火が墜ちることもなく、
 ただ電灯の火が切れるように、ぷっつりと。
 無数にいたアイたちは、もう、どこにも残っていない。



 それをアイは、ただひとりの"アイ・アスティン"は、じっと見つめていた。
 ただ、じっと。微睡みの内に見る夢のように、アイはそれを見つめた。
 無敗の強さがあれば、長き時の研鑚があれば、人の版図を越えた規模の概念さえあれば。
 あるいは、悠久なる時代の流れこそが。そのどれでもない精神の輝きが起こす奇跡であれば、きっと。
 この試練を、《熱力学の悪魔》を超えられるのだと、そう信じて。

 無数のアイがいた。その全てが無力だった。
 虚しく潰えていった無数のアイは、その全てが今ここにいるただひとりのアイ・アスティンよりも強く、賢く、万能の存在であった。
 にも関わらず、無限数の試みはたった一つの回答しか弾き出すことができない。
 アイ・アスティンでは、この試練を乗り越えることは、不可能なのだと。

『かつて四人目の盧生が八層試練に敗れ、アカシャの海に溺れ果てたことがあった。それが一つの世界を歪ませ、歪みが時代の特異点を形作った』

 どこかで影が嗤っていた。
 どこまでも続く可能性の海の中で、影が嗤っている。

『かつて、という表現は本来ここでは相応しくない。時とは因果の一次元的な定義に過ぎない。
 この言葉は過去であり、現在であり、未来であり、同時にその全てに平行して存在し、あるいは何物でもなく存在すらしていない。
 その上で私はきみに語りかけている』

 アイには何の力もない。
 ただ八層試練と黄金螺旋が生み出す"重ね合わせ"の状態を知覚することにより、在り得たかもしれないものを可能性の渦として観測しているに過ぎない。

『きみは実に多くの可能性を目にしたね。
 今ここに立つきみが、"もしこういう力を持っていたら"という可能性だ。
 そしてそれらを用い、かの鋼鉄の悪魔と相対する。その結果も既に知っているはずだ』

 知っている。
 百億の試みが為され、千億の結果が流れた。
 全ては同じだった。あらゆる行いは無意味、アイには何の意味もない。

『違うとも。八層の試練において"絶対に不可能"なことだけは課されることはない。
 何故だか分かるかね? アラヤとは人の意思の総体、きみはその一部。
 アラヤが課す試練とはきみ自身の裡より湧き出でたものに他ならない』

 それはかつての言葉。
 影が語った、アイが聞いた、不可能と断ぜられる試練の名。

『人が観測する全能とは、人自身の想像力という限界を持つ型に嵌められることで全能性を失い、概念的万能性にまで貶められる。
 そう、人は人が理解できるものしか知覚できない。それはきみ、アイ・アスティンもまた同じことだ。
 きみ自身が定義した"不可能"が、まさかあらゆる因果と可能性ですら打破できぬ不可能という概念そのものであると?』

 さあ、どうなのだろう。
 アイの頭では理解できない。言葉の切れ端すら咀嚼できるかどうか。
 けれど、思い出す。
 言葉。この戦いが始まる前、アイにかけられた言葉を。
 すなわち、神の不在を証明せよ。

『きみに起因する試練において、不可能という定義もまた、きみ自身が定義したものに他ならない。
 ならば思い出すといい。そこに在る矛盾を、きみが自覚すべき歪みを。
 何が、きみ自身の神を殺すのかということを』

 ───俺は。

 アイは静かに瞼を閉じた。
 まるで生まれて初めてそうするかのように、瞼の裏で瞳を舐めて、世界を締め出して自分に潜った。

 ───俺は、結構さ。

 浮かぶものがある。
 もう失ってしまったもの。もう会えないもの。
 アイが、二度と、触れられないもの。

 ───俺は、結構さ。■■のこと……

 アイの中で、何かが弾けた。





「俺は割と嫌いじゃないな、神様ってやつ」
「……神様否定の権化みたいな人がそれを言うなんて。セイバーさん、さては変なものでも食べましたね?」
「お前じゃねえんだからするわけないだろンなこと」

 あー、と彼は少し考えるそぶりを見せて。

「まあ、実際にいた連中も一概に悪い奴ばかりじゃなかったってのもあるけどさ。
 アイ、お前そもそも神さまって何のこと言ってると思う?」
「立派なお髭で天罰ぶっ放してくるお爺ちゃんですかね」
「お前のアホさ加減は置いとくとしてだ」

 何を失礼なーと喚くアイを後目に彼は続ける。

「人間って案外弱くてもろいからさ、"神様"がいなきゃやってらんないんだよ。
 ある人間は米を神と呼んだ。
 ある人間は空疎な観念を神と呼んだ。
 ある人間は学歴や見識、金や女を神と呼んだ」

 言う彼の目は真剣そのものだった。アイはそれを覚えている。

「きっと神さまって奴も、"神"がなきゃ生きていけないんだろうさ」
「その理屈だと、さしづめ私の神さまは夢になるんでしょうか」
「そうなんじゃねえの。相変わらずなことにな」

 彼は、何故だか寂しそうな顔をしていた。普段は年上ぶっている癖に、そんな顔をすると二つも三つも幼く見えた。
 アイは目を閉じた。隣に座る彼の肩に頭を預けて。そうしていると、頬を撫でる風や木々の隙間から差し込む日の光や、彼の体温が間近に感じられるような気がした。

「それでは、セイバーさんにとっての神さまとは何なんですか?」
「……ま、そこはおいおいな」
「ちょ、ズルいですよセイバーさん! あなたって人は──────」

 アイは子供のように彼に手を伸ばして、きゃいきゃいと何かをはしゃぐようにして。
 ───彼は、笑っていた。





「結局のところ、私は弱いままだったんです」

 アイは歩き出す。ゆっくりと、しかし一歩一歩を踏みしめて。

「私は私の中の神さまを捨てることができなかった。
 夢破れても、口ではどれだけ決意を言葉にしても。人は一日じゃ何も変わらないから。私も、変わることができないから」

 ある日何かの転機が訪れて、何かを決意した人がいたとしよう。
 それまでの自分を悔い改めて、もっとよりよく前を目指そうという意思に目覚めること。それ自体は何も文句を言われるべきではない、とても立派なことだ。
 しかしだからと言って、その瞬間に立派な人間に生まれ変われるのかというとそうではない。
 人生とは小さな積み重ねの連続だ。生まれてから今日に至るまで、積み重ねた足跡は当人にとっては何より大きく、そして重いもの。
 例えそれがどれだけ卑小で間違っているものだとしても、人は一朝一夕では変われない。自分の過去を捨て去ることは、できない。

「私は誰かの神さまになりたかった。誰かにとっての救いそのもの。そうしたものに、私はなりたかったんです。
 救いたい"誰か"なんて、本当は誰なのか分からないなんてことすら知らないまま」

 アイは鋼鉄の彼へと近づく。3m、2mと距離が縮まっていく。
 そして、目の前まで近づいた。炎も、冷気も、光も、巨大な拳も何もかもが触れることなく崩れ去っていった死域。
 そこに踏み込んで、しかしアイは何の痛痒も感じることはない。
 鋼鉄の彼はただ、暖かな慈愛の笑みでアイを見つめるだけだった。

「私は、私です。墓守のハナ・アスティンと人間のキヅナ・アスティンから生まれた、ただのアイ・アスティン。
 神さまになんかなれない、ちっぽけな私しか、ここにはいない」

 人は誰しも、生きる上で神を求めている。
 それはあるいは愛であったり、夢であったり、欲望であったり、物質的な何かだったりする。
 けれど、その所在を現実にあらぬ幻想に求めたところで意味はない。
 人は現実に生きている。良いこともあれば悪いこともあるし、満たされない夢を抱えて飢えてさえいる。
 だけど、それこそが人なのだ。
 叶わぬ夢を叶えるために幻想へと手を伸ばし、遂には人ではない何かに堕ちることはない。けれど、叶わぬ夢を諦め捨て去る必要だってない。

「私はこれからも、現実で足掻いては嘆き続けます。葛藤と煩悶に揺れ動き、"こんなはずじゃなかった"と涙を流すでしょう。
 それでも私は、私として生きていたい」

 苦しいと嘆く夢なき日常を、出来る限り愛してみよう。
 受け入れがたい現実を、受け入れるために足掻いてみよう。
 理想とはかけ離れた見栄えの悪い自分自身を、それでも肯定しよう。
 少しずつでも、今この瞬間から始めていくために。

「だから……あなたの助けはもういりません。神さま、私を見守ってくれたあなた。
 私は私の道を往きます。現実に翻弄されながら、取捨選択を積み重ねてきた、私の……
 苦痛と、失敗と、後悔の道を!」

 そうして───

 そうして《熱力学の悪魔》は……いいや、《秋月凌駕》と呼ばれたひとりの人間は、私の前から姿を消した。
 そのことが可能性の渦と共に私の中に流れ込んできた。それは、ひどく簡単なことだった。

《世へ在るがままに平穏なる調停を(パーソナル・アタラクシア)》

 それはすなわち「事象の安定化」、更に言えば「人間にとって穏やかなる状態」という明確な定義に集中させた調律の力。
 未来の人類が生きるべき世界の基準点を示す、彼が辿り着いた人類という存在への解答そのもの。
 人類が存続するに最も適した環境へ、万象を調律する。暴風はそよ風に、業火は焚火に。それは数多の可能性世界を観測することによって割り出された世界が続く上での最適値。

 彼が存在する限り、何者も星と人理の均衡を崩壊させることはできない。

「だからあなたは……私が"人間"としてあなたの前に立てるまで、ずっと見守ってくれていたんですね」

 数多の可能性と数多の試み。アイが何度も失敗して、つまづいて、起き上がって。何度も何度もやり直す様を、彼はずっと見守ってくれていた。
 たったひとつの正解、アイがあらゆる幻想を捨て去り、ただひとりの人として立ち上がれるその時まで。

 乗り越える必要なんてなかった。人の身に余る超常の力などという愚想なんていらなかった。
 ただ、今の自分自身を受け止めてやるだけで良かったのだ。

『然り。そして道は開かれる』

 声が告げる。周囲の景色は急速に巻き戻り、アイの眼前には果て無く続く黄金螺旋階段が戻っていた。
 しかし今までとは違う。今まではとても果てに辿りつける気がしなかった。階段は永遠に続くのではないかと。
 けれど今は。果てが見える。辿りつけるのだという確信がそこにはある。

『資格はここに。今やきみを阻むものは何もない。
 行くがいい、明日へ。そこに待つものの意味も知らぬまま』

「言われるまでもありません」

 アイは言う。断言する。前を向き、一歩を踏み出す。
 そして強く、強く、右手を前へ───










『ようこそ』

『アイ・アスティン』

『罪深き世界が終わる』

『私の遊戯が終わる』

 ───ようこそ、と。
 アイを呼ぶ声がする。ディーとは違う、囁く影とも違う、誰かの声が。
 罪深い者よ、幻よ消えてなくなれ、と。

 何が───
 何が、罪か。
 何が、許されざるものか。

 それは、ここの果てに在る者が決める。
 それは、ここの高みに坐す者が決める。
 それは、退廃都市世界の主が決める。

 時計の音を響かせて。
 秒針の音を響かせて。
 決定する。選別する。見つめ、選び、そして嗤うのか。

 崩れ去るものを決める。
 消え果るものを決める。
 それは、いと高きところに在るものが。

 その一柱の名を知る者はいない。
 いるとすれば、紫影の果ての玉座にいた魔女だけ。黄金螺旋の彼方に突き落とされた魔弾だけ。
 しかし彼らはもういない。アイは、彼の名を知らない。
 だから、ただ一柱の主は嗤う。

 チクタク。チク・タク。
 チクタク。チク・タク。
 それは、主を讃える白きものの声。
 この黄金螺旋の果てで。
 呪われた世界塔の果てで。

 残酷な神が───
 嗤うのか───


 ───奇妙な場所。螺旋階段の果て。
 ───それは、私には祭壇に見えた。神さまのための場所に。


 遥か高みの玉座にて。
 今も、君臨するものは語る。
 今も、君臨するものは囁く。
 嗤い続ける月の瞳そのものの双眸で。
 チクタクと、音を響かせて。

 邪悪なるものは嗤う。
 神聖なるものは嗤う。
 すべて、戯れに過ぎぬと嘯いて。

 すべて、愚かなものたちのすべて。
 すべて、罪深きものたちのすべて。
 その掌の上に見つめながら。
 都市のすべてを、夢界のすべてを、遠く、この高みより見下ろして。

「誰……?」

 そして、アイは見る。
 都市の最果てを。世界の果てを。
 すべてを嘲笑し嗤う誰か。月がそのまま人になったかのような。

 玉座の黒い神。
 そう、呼ぶ者もいる。
 黒い神。この世ならざるもの。空を覆い尽くしたもの。
 黒い神。その名、隠された名をアイは知らない。
 窮極の中心たる虚空の死者にして、祭王。輝く黄金を導くもの。
 黒い神。高みそのもの。

 残酷な神は告げる。都市世界、消えゆくそれを目にして。
 残酷な神は囁く。都市世界、偽りの幻を目にしながら。

『ここが、すべての元凶だ』

『この玉座こそが、都市世界すべての始まりの果てだ』

『この玉座こそが、都市世界すべての終わりの果てだ』

『ようこそ、此処へ。勇敢なアイ・アスティン』

 黒い神───

 それは黒い色をしていた。
 それは白い色、纏っていても。
 冷やかにそれは告げる。
 けれど、どこかに笑みを混ぜて。
 冷やかにそれは囁く。
 けれど、どこかに蔑みを混ぜて。

 螺旋階段を昇りきり、視線、強く叩きつけるアイへ。

 ただひとりの少女へ。
 機械のように、冷酷に微笑んで。
 機械のように、正確に微笑んで。

 造り物の、鉄の仮面であるかのようにして。

『ご苦労様、アイ・アスティン』

『とても楽しかったよ』

『きみも、きみに付き従った彼も、ここでは楽しんでもらえたかな?』

『すべては私の戯れに過ぎないが、そう。キャロルくんが言うところの点在と偏在と非在で例えるならば』

『アイ。きみは点在を通過して』

『きみは同時に、非在でもある』

『神ならぬ身には、やはり偏在などできようはずもない』

『私と偏在を交わすことは、やはりきみたちには不可能だ』

アリス・カラーの言葉は偽りか? ああ、そうだ。そうだとも』

『実に興味深い結果だ。実験は成功したと言っていいだろう』

『人間は儚く、
 人間は脆く、
 人間は、やはり非在を扱い切ることはない』

「何、言ってるんですか……」

 誰、そして何?
 あなたは誰で、そして何を言っているの。
 私に分かる言葉がない。何を、言っているのか。

 そして分かる───ああ、この人は。玉座にいる黒い人は。
 私に話していないのだ。きっと、ひとりごとなのだ。

『神は永遠だ』

『偏在を続けるものだ』

 神は声のみで苦笑していた。
 それは、自嘲の笑みではあったが。
 苦笑の気配を声に混ぜ、僅かに、表情を変えながら。

『無論この私は、人間たちの奉ずる神ではない』

『だが、そう呼ばれもする。
 人間、人間、脆弱なる者共よ』

『私は神を名乗りはしないが、
 しかし、ここの創造主ではある』

 悠然と歩みを進める、こちらを見下ろす神。
 神は告げる。再度、アイに告げる。
 神なる言葉によって、アイが何者であるのか。

『きみは影だ。アイ・アスティンの影を、仮初の形としただけのもの』

『サーヴァントと同じようなもの。あれは、過去を生きた英雄の経験の影だったが』

『きみは、アイ・アスティンの感情の影だ。そう、この都市世界とまさしく同じ』

『ここは私の箱庭だよ。そしてきみは、きみたちは、私の遊具に過ぎない』

 黒い神の遊具。
 黒い神の箱庭。
 すべて、すべて、あらゆるもの。
 世界にあったものすべて。アイも、藤井蓮も、ディー・エンジーもアリス・カラーも、出会ったものすべて。
 すべては───

『都市世界。夢に沈む人々。
 想い、メモリー。
 すべて、すべては私の戯れだ』

『箱庭。遊具。
 私は願いを叶える都市を再現してみせた』

『だが……』

『もう飽きた。だから消してしまおうと思ってね』

 分からない。
 何を言っているのか。
 あなたが作ったのか、この世界を。
 ディーの願いに応えて。やり直しをと願う彼女に応えて。
 ───どうして?

『無意味なことだ。アイ・アスティン、それを知って何になる?』

『すべては無価値。無意味。無形。
 存在さえしない。ただの、私の戯れだ』

『アイ。きみも同じだ。私のソナーニルで踊る仔猫に過ぎない』

『けれど』

『とても、とても、楽しかったよ』

『きみの寂しさ。
 きみの楽しさ。
 きみの歓びたるもの』

『きみの悲しみ。
 きみの怒り。
 きみの後悔たるもの』

『そして、きみの愛さえも』

『あらゆるものに、意味などありはしないのに』

「意味……」

 何を、いまさら。
 何度も何度も言われてきたことを、いまさら。

『いい目だ』

『しかし、それさえ意味はない』

『ここに来ても、何もない』

『私が、虚空が、きみたちを見つめているだけだ』

『人間よ』

『滑稽なるものども』

『さあ、アイ。世界の終わりと共に消えるがいい』

 ぐらり、と。
 アイは平衡感覚を失った。どころか、意識さえもが虚ろになっていく。
 なに、これは。
 これは、私が。
 消える……?

『苦悶するきみの物語に触れて、私は嬉しい。とても満足している』

『私はアリス・カラーの偏在を否定したが、だが同時に、酷く退屈もしていた』

『ただ消し去るだけではつまらないと、そう思っていたのだよ』

『だからアイ。きみが来てくれてとても嬉しい』

『さあ、アイ・アスティンに還るがいい』

『変わることなき厳然たる現実、喪失のもたらす絶望へと還るがいい』

 神は嗤う。
 どこまでも、人を認識することなき彼岸の知覚によって、嗤う。

『ここが、聖杯戦争の終わりだよ』














「黙って聞いてりゃ上から目線の屁理屈をぐちぐちとぉ……」

 すべてを───
 高みより見下ろす者を、掴んで。引きずり降ろして。
 アイは叫んだ。こんなところで終わってたまるかと。

「知ったもんですか、そんなことーーーーーっ!!!」

 私のいるところまで、落ちてきやがれと。
最終更新:2020年04月21日 18:17