───そして、手を伸ばしたのはアイだけではない。



 再度、境目が叩き割られる音が反響して。
 白磁の大地に降り立つ影が三つ。
 漆黒の天蓋に尚映える黒檀の影として、あるいは夜闇に奔る一陣の雷光たる輝きとして。
 しかしそれは闇に在らず、光に在らず、確かな人型でアイの隣に並び立つ。
 見紛うはずもない。先に敗れ、希望に落とされたはずの者たち。キーアすばる、そして清廉なりし騎士王の姿!

「これが第四盧生の顕象したる神格、鴻鈞道人の御姿か。
 我らが呼び出されし聖杯戦争の果てに降り立つ奇跡、"聖杯"の真なる姿か。
 偽りの奇跡で人を惑わし、蠱毒の末に縁とした希望を夢へと落とす。卑劣な理だ」

「そんな、どうして……」

「アリスと名乗った男の人が助けてくれたわ。
 "俺はディーを助けに行くから、お前たちはアイのとこに行け"って!」

 アイの当惑に、アーサーに抱きかかえられたキーアが答える。
 騎士王は既にシャドウサーヴァントではなく、その輪郭も意思も輝きも確かなものとして、己が倒すべき敵を見据えていた。

「わたしたちは黒の中に落とされたけど、でも別に死んだわけじゃなかったんだ。
 何もできなかったし動けなかったけど、体は傷一つないし……
 それに、ちゃんと見てたよ」

「ありがとう、アイ。貴方が諦めなかったから、あたしたちはこうして外に出ることができた」

 すばるとキーアは爛漫に笑って応える。
 アイはその言葉に何も言えなくなって、裾を掴みつま先に視線を落とした。

「そんな、私は何も……」

「礼は素直に受け取っておけ。資格や器がどうだのと、もう気にしないって言ったのはお前だろ?」

 アイの頭に手を置いて、優しく髪を撫ぜ蓮が言う。彼はそのまま横に視線をやり、アーサーと向き合った。

「騎士王、アンタは今どれだけやれる?」

「聖杯の大本たるアレが顕象したおかげか、霊基構造はサーヴァントとしての最高値まで強化されている。
 宝具も問題なく使用可能だ。けど、それだけかな。僕にアレを傷つけることはできそうにない」

「いや、それなら十分だ」

 シャドウサーヴァント───残留霊基たる影にまで貶められたアーサーが、信仰の結晶たる宝具も健在に再臨された。
 それはつまり、聖杯戦争にて散らされた魂までもが寄り添い、この場にいるという何よりの証。

 蓮はそれだけを告げて、改めて倒すべきものへと向き直る。それは他の皆も同じだった。
 混沌に酔い痴れる虚空が見える。空を覆うものが、此処に真なる顕現を果たそうとしていた。


『人皆七竅有りて、以って視聴食息す。此れ独り有ること無し』


 それには目も耳も鼻も口も存在せず、故に唯我の何たるかも不明なまま。
 常に己の尾を咥え、飽き果てることなく回り続け、空を見ながら痴れた笑いを垂れ流す。


『太極より両儀に別れ、四象に広がれ万仙の陣───終段・顕象』


 そしてそれに触れた者は、同じく七穴を塞がれた盲目白痴の理へと絶頂しながら落ちていくのだ。
 人類の知性では理解しきれない、同調すれば狂気どころか体構造の変容を招き、異次元の仕様へと組み替えられる他になし。
 人の集合無意識(アラヤ)から呼び出されたものでありながら、人の生み出した神格ではありえない。それすなわち、降誕者(フォーリナー)の具現。


『四凶渾沌───鴻・鈞・道・人ィィン』


 ここに顕象された汚怪なる神の姿は、幾億もの触手で編みこまれた翼と獣毛の塊だった。そうとしか形容ができない。
 異界の法則として存在しているかのように、蠢き蠕動する巨躯の威容は今この時も変幻し続け、薄桃色の煙を纏い虚空の中心に揺蕩いながら微睡んでいた。
 鴻鈞道人───その名はかつて黄錦龍に冠されていた呼び名であり、神話においては最上位の神仙すら意のままにする丹の持ち主であったとされる。
 それはまさしく、中原を阿片に沈めた彼にとって相応しい威名ではあろう。しかしそれは、正式な教えの中に存在を認められていない。
 あくまでも、中華道教の頂点に立つのは元始天尊、霊宝天尊、道徳天尊の三清のみ。それを上回る鴻鈞などという仙道は後世の物語で誕生した架空の神格に過ぎない。
 つまり幻、夢の産物だ。本来そこにあり得ざるもの。今のアイたちと全く同じ。



「これが最後の戦いだ」

 誰ともなく、皆が皆に語りかけていた。
 人理に落とされたゴーストなる騎士王、現身ならぬ触覚としてここに在る藤井蓮
 そして、今を生きる三人の少女たち。
 神ならぬ身で神と相対するには、あまりに脆弱な5人の魂。

「私達は無意味にこの世界に生まれ落ち、無価値なままに戦い続けた。
 そうすることしかできなかった。賢しげなフリをしても、私はちっぽけな小娘でしかなかったから」

 伸ばした手は届かない。一人ではあまりにも遠かった。
 マスターとサーヴァント、二人になっても駄目だった。
 けれど、今は───

「"願い"はあまりに綺麗で、遠すぎて。命の答えなんて大層なもの、持ってるはずもなかった。
 それでもですね、確かなものはあったんです」

「わたしたちは"生きたい"と願う。死にたくないと今日に留まって、永遠に膝を抱えて座り込むんじゃなく。
 生きたいと、そう胸を張って。一世紀にも満たない生涯に後に続く想いを託して生きていく。長い歴史を紡ぐ、一筋の流星のように」

 すばる。
 差し伸べた手は届かず、
 喪った愛は痛みを呼ぶけれど、
 砕け散った輝きを拾い上げ、
 痴れた祝福が星剣を形作る。
 雛鳥は卵を割って詩編を紡ぎ、
 赫黒に染まりしは比類なき悪なる右手。
 共に歩むは輝かりし可能性の嬰児、
 奇械アルデバラン。
 プレアデスの星々はイリジアを砕いて《空》を目指す。

「何も分からなくても、手探りで歩んでいく。だから優しいだけの夢はもうお終い。
 夢はいつか覚めてしまうけれど、物語は幸せになるためにあるのだから」

 キーア。
 骸の体は願いと赫き瞳で保たれ、
 奪われた可能性を取り戻し、
 胸に抱くは在りし日の遠い約束。
 手に取りしは絶望たるを拒絶する魔剣、
 巨いなりし黒の剣能。
 視界の端の道化師は既になく、
 そして少女は右手を前へと伸ばす。

「私達にあるのはたったそれだけ。
 煩雑で無軌道な想いと、
 お茶と砂糖菓子とぬいぐるみと、
 めんどくさい御本と言動と、
 たった数日の記憶と経験。
 ちっぽけでありふれた、どこかで聞いたことのあるような言葉だけ」

 アイ・アスティン
 幾億の怨嗟と嘆きに塗れ、
 この手は真っ赤に染まってしまったけれど、
 捨て去った想いを今一度拾い上げ、
 神を目指した墓守は人へと回帰する。
 雛鳥は未だ殻を破ることはなく、
 けれど抱くは父母の描きし夢想の理。
 故に彼女は人でなしの超人にはあらず。
 此処に立ち上がりしは───ただありのままに生きる、アイ・アスティンという一人の人間。

「たったそれだけを胸に抱いて、私達は時計の針を進めます!
 午前零時から時を進め、私達は大いなる正午を求める!
 転んでも、躓いても、泥だらけになっても!
 100万本の剣に刺し貫かれる最果てのイマを超えて、卵の殻を打ち破る!」

 死と断絶に塗れた明日へと沈むべき魂が、今この瞬間に産声を上げる。
 遂には皆等しく目を焼かんばかりの輝きを放ち、
 抜き穿たれるは、世界を救うべき勇者の剣!

「十三拘束解放(シール・サーティーン)───円卓議決開始(デシジョン・スタート)!」

 《是は、勇者なる者と共する戦いである》───ガレス承認
 《是は、心善き者との戦いではない》───トリスタン承認
 《是は、誉れ高き戦いである》───ガウェイン承認
 《是は、生きるための戦いである》───ケイ承認
 《是は、己より強大な者との戦いである》───ベディヴィエール承認
 《是は、人道に背かぬ戦いである》───ガヘリス承認
 《是は、真実のための戦いである》───アグラヴェイン承認
 《是は、邪悪との戦いである》───モードレッド承認
 《是は、精霊との戦いではない》───ランスロット承認
 《是は、私欲なき戦いである》───ギャラハッド承認

 次々と拘束が解かれ、その度に纏う光をより強大なものとしていく。
 それは救世たる星の聖剣。閉ざされた世界を断割し、少女たちが生きるべき世界を切り拓く希望の光。
 アーサーは思考する。思えば、そう。最期のために積み重ねた今生であった。
 およそ現世においては異物でしかない、失われた神秘と聖蹟をも兼ね備えた自分が、この世界に現界したその意味。
 そして今、その時は来たのだ。
 これだけの祈り、これだけの願いを共にして。麗しき乙女を生かすために振るわれる剣が誉れなきものだと誰が謗るものか。
 騎士の本懐は此処にある。故に。

「是は、世界を救う戦いである!」

 ───この言を否定できる者など、果たしてどこにいようか。

 眩き流星と化した極光は、鴻鈞より溢れ出る無数のタタリを、闇を、化生を、悉く討滅せしめる。
 実体なき妄念の産物でしかないお前たちよ、現実に生きる少女に触れることあたわず。
 空を貫く光条よ、世界の殻を破る雛鳥の嘴たれ。

みなとくん!」
『ああ、一緒に』

 それでも尚撃ち漏らす数多のタタリを、空を舞うすばるが撃ち落とす。
 その背には鋼鉄の影、傍らには愛する少年の姿。纏いし光は幻想を貫く紫電となれ。

「《奇械》アルデバラン、モード:《失楽園(パラダイス・ロスト)》よりクタニド実行!
 白き衣を纏う者、来たれエリシアの統率者───《忌まわしき暗き空》よ、憎悪の空に尚笑う我らの叫びを此処に!」

 伸ばされる手は落ちるのではなく、打ち据えるのではなく。
 這い上がるように、絶望から、諦念から、失意から、地の底から。
 今まさに生まれ落ちる命であるように、ただ真っ直ぐに上へと伸び上がる。

「さあ───行くぞ、アイ!」
「はい!」

 そして、二つの影が勢いよく躍り出る。
 聖剣の光を架け橋に、奇械の光を道しるべに、藤井蓮とアイ・アスティンはただ真っ直ぐに駆け抜ける。
 虚空の先へ、夢に酔い痴れる渾沌へ。
 列車のように、如何なる障害をも跳ね除けて。
 少女たちが歌い、叫ぶその通りに。
 昨日を抱き、今日を噛みしめ、明日を信じて進んでいく。

「微睡みの揺り籠で尚も嗤うか第四盧生!
 視界の端で踊る道化師を気取り尚も夢に誘うか、滑稽なりし黄錦龍!
 お前が望む幸福をいくら俺達に押し付けようと、その願いは叶わない!
 救済を騙る哀れな者よ、お前の"悪"は人たる者が引き剥がす!
 残念だったな、現実さえも知らない愚かな童よ!」

 そして微睡み痴れる渾沌の中心へとたどり着く。
 それは誰も触れられない、何者も介在できない錦龍だけの夢の裡。
 蓮であっても───覇道の神格であろうとも、決して干渉できない絶対の揺り籠。
 不可侵のそれを前にして、けれど蓮は笑う。
 どこまでも明るく、真っ直ぐに。傍らの少女の明日を信じて。

「名前を呼んでくれって言ったよな。心配するな、覚えているぜ」

 曰く───
 封神榜演義において封神台とは、死した者の魂を輪廻の輪から外し、保管しておく塔であるという。
 アーサーと同じように、魂は此処にある。ならばこそ、蓮が"それ"を振るうことにも矛盾はなかった。
 そう、"彼"は───

「来い、ミハエル!」

 ───彼は本来刹那にこそ、己が終焉を託したのだから。

 硝子の閾が叩き割られる。
 世界の境目が破壊される。
 絶対であるはずの、"自分"しかいない黄錦龍の世界が、外界に晒される。
 天蓋の罅割れる光景の中で、アイは武骨な男が苦笑する様を見たような気がした。

「さあ行け、アイ。ここからはお前の時間だ」
「……ええ。ありがとうございます、皆さん」

 それだけを言って、アイはゆっくりと歩き出す。
 蓮の手から離れ、今や何の加護もない第四盧生の元へと。

 ───アイ・アスティンがやってきたことに意味はない。

 それは唐突で。
 何の脈絡もなく。
 何の意味もない。

「初めまして……ですね、錦龍さん」

 しかし。
 しかし、それでも。

『悲しいなぁ』

 黄錦龍はアイを前に───その結末を許容することができなかった。
 何故か、どうしてか───お前がそう思うならそうだろうと、万仙陣を回すことができなかった。
 欠けているもの、いや異物があって、歯車がよどみなく回転しない。
 そんな己の瑕疵に気付かず、彼はどこまでも真摯に切実に……

『救われてくれよ。我が父のように、母のように。
 少女よ……』

 その存在を意識した時に、異物は更に拡大する。まるで投射された影絵のように、何処かで今も坐している女性の輪郭をなぞりながら、彼を覆い尽くす霧が薄く、薄く、点を穿つように晴れていき……

『お前は、幸せになるべきだ』

 伸ばされた錦龍の腕が、距離を無視してアイに触れたその瞬間、全てが終わっていたのだ。



 ───この嘘の世界で。

 アイ・アスティンがやってきたことに意味はある。
 ゆっくりと、そして駆け足で。
 確かに歩んだ道がある。
 ささやかな、けれど決して消えない意味がある。
 例え夢幻であろうとも、そこに感じた想いは現実に他ならない。
 だから───

 伸ばした手はきっと、あの青空に届くだろう。


「ええ、私もそのつもりですよ」


 ぱしん、と乾いた音が鳴った。
 アイの手のひらは振り抜かれて、錦龍の頬を力強く、されど確かな慈しみを持って張っていた。

 錦龍は、何か信じられないことが起きたかのように、その茫洋とした双眸を困惑の色で満たして。

「これが、痛みです」

 黄錦龍が真に無敵である理由は、外界を認識しないから。
 世界には己しかなく、ならばこそ他者という存在は概念すら理解しない。そんな彼の世界観において、存在しない他者からの干渉など意味を成すわけもなく。
 なら、何故彼は他者の救済などをお題目に掲げてしまったのか。
 総ての陥穽はそこにある。

 ならばこそ、この世界で唯一、アイ・アスティンだけが彼の絶対性を崩すことが叶う。
 同じ"世界を救う夢"を見て、現実に在らぬ"己だけの愚想"に縋ったアイならば。
 黄錦龍に対して唯一人、"強制協力"をかけることができる。

「これが痛みです。人が生きる上で絶対に避けては通れない、誰もが当たり前に経験する感覚です。
 気持ち悪いですか? 受け入れがたいですか? ええ全くその通り。私だって、誰が好きでこんなものを味わいたいもんかって、そう思います」

 血を吐くような、自分で臓腑を締め上げるような声だった。
 アイは言う。この痛みは、決して生涯無くなることはないだろう。
 折に触れ泣くだろうし、何度も後悔するに違いない。格好良いことをいくら言っても、所詮自分はその程度だ。ぶれて揺らいで、迷い続ける。
 だからせめて、この痛みを誇りに変えたいとアイは願う。永遠になくならない苦しさは、それもまた真であることに違いはないのだから。

「だから……あなたも生きてください。
 当たり前のことを知って、当たり前の人間として」

 そして強制協力は成立する。
 錦龍は手を伸ばした───お前は救われてくれと。
 アイは応えた───そう願うならこちらに降りてこいと。

 他者の存在を否定しながら他者へ手を伸ばした矛盾の徒は、かくして桃園の殻を破られる。

 痛みを知らぬ無敵の盧生から、痛みを知った只人へと堕ちたる者。
 その背後より、アイは三人の誰かが降りてくるのを見た。
 一人は、眼鏡をかけた精悍な顔つきの青年。
 一人は、金糸の髪を広げる鉄の笑みを浮かべた女性。
 一人は、どこかで見たことがあるような、喝采を掲げる喜悦満面の男性。

 アイは手を伸ばすけれど、視界は真っ白に薄れていき───

 総てが、光で埋め尽くされた。
最終更新:2020年05月05日 14:25