かくてアイは世界を救い、
そして世界はアイを救った。
▼ ▼ ▼
「ふぅ……」
一息ついて、少女の姿をした影は手にしたショベルを放り、傍らの木陰に座り込んだ。まるで生きているかのように、真っ白な息を吐く。
こうしてショベルを握るのは、久しぶりのことだった。
墓守であることを捨てた彼女は、二度と手に取ることはないと思っていたけれど。
それでもよく考えてみたら、"彼"をそうするのは自分しかいないのだから、これは当たり前のことだったのだろう。
それでも、この体に重労働は荷が重いと、そう思った。最早疲れなど感じない体ではあるけれど、節々が不穏な軋みをあげていて。
ああこれは限界が近いのだなと否応なく感じさせた。
ずっと付き合ってきた自分の体だ。誰よりも自分がそのことを分かってやれる。
「なんというか、アリスさんも酷いですよね。最期にこんなことを、私に頼むんですから」
少女のような老女の影、あるいは枯れきった少女の影か。
影は、アイは黙った。他に言葉が出てこなかったからだ。
その言葉は、半分が本当で半分が嘘だった。酷いと思ってるし、それ以上にそうしたかったとも思っている。それをするのは、自分しかいないのだとも思う。
あべこべだった。やりたいしやりたくない。離れたくないのに、そうしなきゃいけないと感じている。
結局のところ、この感情に答えなどないのだろう。
そのどれもがアイの本当の気持ちだった。彼の本当の気持ちだった。
だから、これはその結果の一つでしかないのだ。
茫洋と座り込んだアイの目の前には、真っ白な丘が広がっていた。
山の上にあって、全てが見渡せる場所だった。
けれど今や色彩豊かな情景など何処にもない、そこはまるで墓場にするために生まれたような土地だった。
元は肥沃であっただろう丘は荒れ果て、化石のような切株が雪下ろしの風に鳴いている。
丸裸になった斜面に生き物の姿はなく、死者は雪の下に埋もれて息さえしない。
懐かしくも、寂しい光景だった。48の墓がそこにはあって、今はもう一つ、新しい墓標がそこに立っていた。
木片を繋ぎ合わせたものに有り合わせの墓石を足した、簡素な墓標。墓を作ること自体久しぶりすぎて、こんなのしか作れなかった。
当の本人は、ただの目印にそんな気を遣う必要なんてないと言っていたけれど。やはり、せめて見栄えを良くしたいという気持ちはあった。
「本当に酷いです。私には散々生き返れとか、一緒にいてくれとか言ってたくせに。いざ自分がそうなったらこうですもの。潔すぎます」
乾いた木切れが擦れるような笑いを浮かべて、でもすぐに元に戻った。沈黙の時間だけが、刻々と過ぎて行った。
ただひたすらに、切ないだけの時間だった。悲しいような惑うような、眠いような痛いような、愛しいような、つらいような……
飄々とした木枯らしが頬を撫でる。乾いた音は空しく響き、辺りに寂しさだけをもたらす。
死者は死なない。人は死んでも終わらない。そんなこの世の不文律は、世界を滅ぼす魔弾となった男でさえも例外ではなかった。
彼は死者の生を善しとすることはなかった。生き返るつもりも、彼にはなかった。
彼は奇跡を望まなかった。幾度も繰り返される生と死に慣れればそれは普通のことになってしまうと、生と死を同じものにはしたくないと。
そう彼は言って、笑顔で自身の終わりを告げた。
それは奇しくも、かつてアイがアリスに語った言葉そのままだった。
二人を分かつ"いつか"は、こんなにも簡単に訪れた。
「でも、別にいいです。私もすぐ、そちらに行きますから。ええ、逃がすつもりなんてありませんとも」
変わらぬ少女の顔に、しかし老いきった死の気配を漂わせて。
アイ・アスティンという老女は、悪戯っぽい笑みを、小さく小さく浮かべた。
全てを終えるのにこの地を選んだのは、やはりここがアイにとって始まりの場所だったからだ。
ここにはみんなが眠っていた。キズナ・アスティン、ハナ・アスティン、ヨーキにアンナにユート、ヨアンナ、ユキ、アベル、キヨン、カイン……
全てはここから始まった。
だから、最期もここで迎えたいと、アイはそう思ったのだ。
人生が閉じるその瞬間、最も思い出深い風景の中に身を置きたいというささやかな願い。
アリスを付き合せてしまったのは、まあ別にいいだろう。自分に看取らせた代金だと思えばいいのだ。精々あっちでネタにしてからかってやる。
「……ふふ。そう考えたら、なんだか楽しみになってきましたね」
雲の切れ間から差し込む夕日の中で、彼女はそっと目を閉じた。
その時が、何故か漠然とした確信となって去来するその瞬間が訪れる時を、心穏やかに待つために。
……何も。
何も、見えなくなった。
閉じた視界に映るのは一面の闇だけで、耳に聞こえるのは風と雪の音だけ。時折響く落雪だけが、黒の世界に一抹のコントラストを成していた。
どさ、どさ。耳に届く。
ずさ、ずさ。音が聞こえる。
凪の水面のように穏やかな静寂の中で、アイはとりとめなく、これまでを思い返していた。
あれから、色々なことがあった。
世界が救われて、世界に救われて。世界を救う男と世界を救う女神の対峙の果てに、自分の体は死者のそれとなって。
それから、本当に色々なことがあった。
アイは、アリスとたった二人で世界を旅した。見知らぬ光景、聞き覚えのない言葉、知りもしなかった人々の声。そうして二人は地平線から水平線まで隅から隅まで旅をして、荒野を奔り続けた。
世界は最早満杯だ。あの世も既に行き詰った。けれど人々はそれでも懸命に今日を生き、溢れんばかりの活力で明日を謳歌していた。
そしてそれはアイとアリスも同じく。死に絶えた世界の死ぬように生きる二人は、それでも笑顔と共に生きた。
春には二人でそよぐ風と満開の花を見つめ。
夏には涼やかな湖畔で透き通るような鏡の水面を眺め。
秋には紅が満ちる山岳をゆっくりと歩き。
冬には二人より添い過ごした。
十年、二十年と時を重ね。移りゆく季節に心を偲ばせた。時にはユリーやスカーたちと連絡を取り、セリカの成長を共に喜んだ。ディーは相変わらず素直じゃなくて、意地悪なちょっかいをかけてくることもあったけど。みんなみんな、笑顔を浮かべていた。
ウッラとキリコも相変わらずで、オルタスの街をより良いものにしていこうと頑張っていた。それはかつてアイが夢見た、天国に一番近い光景だった。
ライオンさんにも何度か会った。死者になった自分にはファッションとしてじゃなく礼儀として仮面が必要だったので、色々見繕ってもらったりした。アリスとライオンさんはやけに気が合ったようで、アイに対する小言とかで散々盛り上がっていたことを柱の影から見ていたアイは知っている。覚えていやがれ。
ターニャとは結局、あの後再会することはなかった。生者の世界、黒面の向こう側に行ったターニャは、死してこちらの世界に渡ってくるはずではある。けど、アイと再会することはなかった。今はどこにいるのだろう。もしかしたら、まだ生きているのかもしれない。そうだったらいいなって思う。
ルンが移り住んだ海底都市や、ヴォルラスとハーディの定住する村にも行った。冬眠に入ったギーギーとも、一度だけ会うことができた。
思い返せば思い返すほどに、末期の僅かな時間ではキリがないほどの思い出がそこにはあった。
思索を巡らせ、思い出に浸り、ひとりの時間をアイは楽しく過ごした。
だからだろうか。
このあたりで、ようやく。
アイは何かがおかしいと気付いた。
顔を上げる。瞼を開く、その瞬間に。
「───久しぶりだな、アイ」
───声が。
声が、聞こえた。
雪の落ちる音はいつの間にか足音へと変じていて、それはアイのすぐ傍まで近寄っていた。
声、まだ若い男の。
ああ、それは。
それは、なんて懐かしい───
「あ───」
───信じられないものを、見た。
頭にかかっていたもやが、一瞬で消し飛んだ。
目の前のそれに勢いよく手を伸ばしかけ、すぐにその手を引っ込めた。こわごわと指先で触れ、何度も躊躇ってからそっと手のひらを当てる。
それを、アイの目の前に立つ男は苦笑の響きで見守っていた。
瞼を開け、困惑と郷愁に揺れる瞳の奥が、深紅の光を煌めかせたと見えた一瞬。
アイは、男が誰であるのかを思い出していた。
封じられていた記憶の扉が開き、そこから流れ込んでくるのは、怒涛の奔流。
突如として訪れた驚愕と懐古の感情に、老いた少女の瞳に消え入りかけた命の炎が再び輝く。
そして男は、蘇った記憶と寸分違わぬ綺麗な声で───
「60年ぶり、になるのか」
「……62年ぶりですよ、セイバーさん」
62年───その時間を隔てて。
変わらぬ姿の男と、枯れ木のように朽ちゆく少女は見つめ合った。
たった二人。
この、雪の降る丘の上で。
▼ ▼ ▼
「なんと言いますか、あなたは本当に何も変わらないんですね」
「お前に言われたくはないぞ、アイ。見てくれどころかその性格まで全然変わってねえじゃねえか」
「こっちこそ、あなたに言われたくありませんよ」
語る二人の姿は、あの日のままだった。
幻想の彼と、生きているように死んでいるアイの体。死者の肉体は育つことなく、ただ朽ちるのみでその原型を保っていた。
変わってなどいなかった。
何も、何一つとして。
桃の香りが揺蕩うあの街で出会ってから、ずっと、ずっと。
「不思議なこともあったものですね……今まですっかり忘れてたのに、あなたに会ったら全部思い出しちゃいました」
「そこはそれ、俺のお手並み拝見ってな。これでも一応は神格だったんだ、これくらい何てことないさ」
「それ、全然似合ってませんよ、セイバーさん」
「だな。言ってて自分で嫌になってくる」
一瞬にして去来する、忘却に埋葬されていた朱の記憶。
それはあまりに濃密に、老女の心をかき乱した。
「それで、俺が来た理由なんだけどな」
「ええ、分かってます。私のため、ですね」
男の言葉に、アイは一人満足げな頷きを返した。
潤んだ瞳が、年相応の少女を思わせて無邪気に微笑む。
「あなたがこうして私の元を訪れた理由。それは、私の人生がどうなったかを知るため」
「……」
「……ふふ。ちょっとだけ、身贔屓が過ぎる予想でしたか?」
「いや、その通りだよ」
黒い影を前にした独り語り、そんな風情のアイに、男は苦笑したような響きを返す。
ずっと心残りだったこと。自分がいなくなった後、果たして彼女はどのような生を歩んだのか。
呪いのような夢を抱いて、果ての無い願いを抱いて。世界を救う化け物として在らんと祈った少女が、どう生きたのか。
……人として生きることは叶ったのかを、彼は知りたかったのだ。
「だから、聞かせてくれないか。お前がどう生きたのかを」
「ええ、喜んで」
そしてアイは語り出した。
これまでの日々を、想いを、「諦めるまで諦めない」と語った夢の結末を、夢の中で喋り続けた。
誰と出会い、誰と別れ、何を思い、何を為し、何を手に入れ失ったかを。
名も無き丘で、アイは一つの夢を持った。
死者の国で、アイは反証と何より強い生きる意志を見た。
閉ざされた学園で、アイは幾人もの友人と夢の確たる形を得た。
世界に至る塔の果てで、アイは遍く夢の形を確かめた。
そして、最果ての封印都市で。
アイは何よりも、言葉にできないほどに大切な人と出会った。
抱いてしまった夢を捨て、人として共に歩みたいと願うほどに大切な人と。
同じ歩幅で、同じ方向に、相反する願いを抱いたまま。
いつかが二人を分かつまで、共に歩んだ人(アリス)と。
アイの辿った、生のすべて。
セイバーはまるで父か兄のように聞いてくれた。感想の一言すら返さず。
全てを聞き終えて、彼はただ「頑張ったんだな」とだけ、言ってくれた。
まるでシャボン玉でも吐いているような気分だった。
喋る度に、話す度に、命の残り香が泡となって舞い上がる。
夢色の泡は夕陽の光の中で七色に輝いていた。
「普通だな」
セイバーはアイの人生をそう評した。
「そう、ですかね」
なんだか照れた。その言葉は、彼にしてみれば最上級の褒め言葉だと分かったから。
「ああ、普通だよ。本当に頑張ったんだな、お前」
だってほら、彼がちょっと笑っているのが、目に見えなくても分かるくらいなんだもの。
なんだか私もおかしくなって、ほんの少し笑みが零れた。
普通なのだ、アイが送ってきた人生は。
誰しもが夢を持ち、誰しもが現実に折り合いをつけ、諦め、挑戦し、出会いと別れを繰り返す。
波乱万丈の人生だったけど、言葉にしてみればこんなに当たり前のことばかり。
ああつまり。
アイは確かに、"人"としての生を全うすることができたのだと。
この時ようやく、そのことを認めることが、自分にもできたから。
「……悪かったな」
「え、なんですかいきなり」
「いや、最期を一緒にするのが俺なんかで悪かったなって」
「何を言ってるんですか。別に悪くなんかありませんよ」
「つっても、お前にだって男の一人や二人はいただろ」
「私にだって、って失礼ですね。まあ確かに、アリスさんっていうセイバーさんなんかと比べものにならないくらい素敵な男性がいましたけど」
「私を"埋めて"くれるのはセイバーさんじゃなきゃ、私、嫌ですよ?」
「……」
「だから、別に悪いことなんてないです」
「……お前、恥ずかしいことさらっと言うなよ」
「何むくれた顔で言ってるんですか、本当は嬉しいくせに。やーいセイバーさんのツンデレー」
「どこで覚えたそんな言葉」
そこで二人は、互いに笑った。
花が咲くような微笑ではない。もっぱら悪童がするような、屈託のない笑顔。
にへら、と。おいおいお前馬鹿じゃねーかと。そんな他愛もない雑談に興じる友人同士がするような。
どこまでも似た者同士の二人が交わす、それは末期の世間話。
───ああ、夢だ。
アイは再びそう思う。幻想的な夢の中で、更に夢の泡を吐く。
夢を見ている。永遠の刹那の中で見る夢。
ふっと胸に理解が落ちる。全ては夢物語だったのだ。
起きていても、寝ていても、死者は夢を見続ける。とてもとても綺麗な夢。
だけどどちらも口にしない。何故ならそう約束したから。
世界は留まることなく移り変わっていく。人の想いなどお構いなしに。だけどそれでも、自分たちは変わらずここに在った。
悲しさなんてないから、せめてただ微笑もう。この一瞬を魂に刻み込むために。
刹那に過ぎゆく、この時間を忘れないように。
「……ねえ、セイバーさん」
まどろみの気配。眠りが必要なわけでも眠いわけでもないのに瞼が重くなってくる。きっと安心がそうさせるのだろう。
「なんだよ」
「もう一度、あなたの顔をよく見せてはもらえませんか?」
「……」
あ、照れてる。
セイバーが何を考えているのか手に取るように分かった。最初に少し照れて、次に冗談でも言って逃げようとしてる。
彼の考えてることなんてお見通しなのだ。
「ね、セイバーさん」
でも今はそうしてほしくなかった。アイはどうしても、もう一度彼の顔が見たかった。
あの日の彼を、目にしたかった。
死者の傷んだ瞳では、その輪郭を茫としか捉えることができなかったから。
「……ほら、これならどうだ」
果たして、セイバーはそれに応えてくれた。
目の前には綺麗な彼の顔。くしゃりと頭を撫でる感触が伝わって、鼻の頭がくっつきそうなくらい近くに寄った。
一体自分の何が伝わったというのか、とても素直に聞いてくれた。
胸の奥がふわりと膨らむ。顔が勝手に笑顔になる。
「……こんなんでいいのかよ」
「ふふふ、ありがとうございます。あ、でも出来ればもう少し……」
「なんでだよ、もういいだろ」
「だって、セイバーさんってばぶっきらぼうなんですもん。せっかく綺麗なお顔をしてるんですから、もうちょっと優しい笑顔を浮かべてくれてもいいのに」
「あのな、男に綺麗は禁句なんだよ」
「もう、そんなこと言って」
思えば彼はいつもそうだった。
何が気に入らないのか仏頂面ばかり浮かべて、自分に笑いかけてくれたことなんて数えるほどしかない。
本当に惜しいものだ。
もう少し笑顔が素敵なところを見せてくれていたら、もしかしたら……
いいえ、いいえ。それは言わないでおこう。
全てはもう過ぎ去って、"もしも"なんて入り込む余地などないのだから。
だから今は、このままで。
「なあ、アイ」
「はい、なんでしょう」
「お前、幸せだったか?」
穏やかな声だった。
ふと問いかけるような、何気ない日常の語りかけ。
お互い答えが分かりきった、それはただの確認だった。
「はい」
だから、私は笑顔を返す。とびっきりの笑顔を。
これまで歩んできた人生の全て。その足跡を示すかのように、ほころぶような笑顔で。
「私は、とても、幸せでしたよ」
幸せだった。
命を失くし、夢を失くし、腐り行く肉体に縋って生きてきたのだとしても。
それでも幸せだと胸を張れた。反省はあっても後悔はなかった。
はにかんだ笑みで、胸をはってそう答える。
私は、今まで過ごしてきた人生の全てを、誇るのだ。
だから、どうか。
74年にも及んだ、この人生を。
62年にも及んだ、この想いを。
どうか、彼にも伝わってほしいと願って。
「……そうか」
万感の思いを噛みしめるようにセイバーは呟く。そして、立ち上がる気配がした。
「お前は……世界を救おうとしたお前は、それでも"お前"になることができたんだな」
「ええ。私は私に……"
アイ・アスティン"になれました。そして、そう生きることも」
彼の手が伸ばされるのを、アイは衰えた感覚器官でそれでも確かに感じ取った。
暖かな手のひらが、頭に触れる。乱暴な手つきではない、慈しむような指先が、アイの髪を小さく梳いた。
くすぐったい。まだそう感じられることが、素直に嬉しかった。
閉じた瞳に哀愁はない。穏やかな少女のように笑みながら、同時に全てを終えた老女のように小さな昔日の思い出を抱えていた。
ここに、夢物語は幕を下ろす。
だから、その前に。
「ねえ、レンさん。最期にもう一つだけ、お願いしてもいいですか?」
「……ああ。言ってみろ」
「では、御言葉に甘えて」
その前に。
アイはなんでもない風に、世間話でもするかのように。
最後にぽつりと、ひとつだけ呟いた。
「一緒にいてください。私が消える、その瞬間まで」
セイバーは───蓮は、答えることはなかった。
あとは、お互いに言葉もなかった。
言葉にする必要もなかった。それは、言わずと分かりきったことだったから。
夕陽に浮かぶ影のように、蓮はアイの前に立ち続けた。
それが、どうしようもなく暖かだと、アイは思った。
言葉はない。
ただ、慈しむ指先で、アイの頬を一度だけ撫でる。
そして、その身に宿った大きな大きな"力"を、ほんの少しだけ指先に籠めた。
眩い光が乱舞することはなかった。
大地を割るような轟音が響くこともなかった。
それは単に、電灯の火が落ちるように。
ただ、それだけのことだった。
それきりだった。アイは何も言わなかった。蓮にも言葉はなかった。
全てを見届けた彼は、静かに踵を返し、赤く染まる光の中へと分け入るように立ち去った。
遠ざかっていく足音。
小さくなっていく鼓動。
光となって消えていく姿。
共に脳裏に思い描く光景は、過ぎ去りし日の夕陽に染まっていた。
───ありがとう。
それは、果たしてどちらが言ったのだろうか。
やがて、夜の帳が名も無き丘を包み込んだ時。
神さまの青年は既に消え去り。
ひとつの世界となった少女は、眠るように胸の鼓動を止めていた。
▼ ▼ ▼
神様は月曜に世界を作った。
神様は火曜に整頓と渾沌を極めた。
神様は水曜に細々とした数値をいじった。
神様は木曜に時間が流れるのを許した。
神様は金曜にこの世を隅々まで見た。
神様は土曜に休んだ。
そして、神様は日曜に世界を捨てた。
それでも神話を愛する人は、地に落とされて天を思った。
斯く在れかしと望まれて、「そんなものになりたくなかった」と涙を流す神を見て。
いつしか夢となった自分を捨て去り、ただ人たらんと地に足つけて歩き出す。
いずれ、人と神は袂を分かつだろう。
生と死とを切り離し、夢と人とを引き離し、世界は月曜を跨ぐだろう。
天球の果ては未だ遠く、栄光の日が訪れることはないけれど。
七曜を巡った最果ての場所で。
神さまは世界を救ったのだ。
世界が眠りについた、日曜の日に。
神さまはもう、どこにもいない。
最終更新:2020年05月17日 19:31